はい、どうもDMMの亀山です。亀っちの部屋ラジオ始まります。
サブMCの高橋です。今週もよろしくお願いいたします。
本日のゲストを呼びします、実験人員報道陣の松波龍源さんです。よろしくお願いします。
はい、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
簡単に、龍源さんのご経歴を私から紹介させていただきます。
龍源さんは、1978年生まれ、大阪外国語大学外国語学部大学院の博士全期課程をご修了後、
ミャンマーの仏教議営を研究。そのうちに、研究よりも実践に心を惹かれて出家されます。
現代社会に意味を発揮する仏教を志し、京都に実験陣を設立され、
現在は学生や研究者、企業家、医師など様々な方々と、
現代社会に仏教を実装するための実証実験に取り組まれています。
というわけで、今日は龍源さんにお越しいただきました。
はい、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
企業家の方々もたくさん訪れる寺院ということで、
今日は神山さんともすごくお話が合うんじゃないかと思って、場をセッティングしております。
どうですか、企業家の煩悩の塊みたいなやつがいっぱいやってくるみたいな。
そうですね、割と社会企業の分野の方が多いので、
皆さん結構真摯に考えている人が多いなというイメージですけど。
そうかそうか、そういうので言うと、確かにそういったところに色々師をこいにいくっていう人間は、
そうですね、やっぱり今、僕も含めて煩悩だらけなんで、
そういった中でちょっとこれじゃいけないのかな、ちょっと違うかなと思う人が、
多分この番組を一緒に見ると思うんで、
多分日頃、わざわざ多選で出てくるよりも、もっとちょっとダメなやつがいっぱい来ますんで。
大事です。
なんで、今日は教えをこうということで、
りょうげんさんのところにはビジネスマンとかいると思うんですけど、
色々悟りたいとか、ちょっと苦悩があるとか、そういった人たちが結構集まってくるんですね。
そうですね、苦悩があるっていうよりは、考え方の根本みたいなものを持たないと、
この先ちょっと不安定になるよねっていう問題意識の人が多いかなっていう印象ですね。
なるほど、その時に皆さんが聞いて、これはもう自分が変わりましたみたいな、
そういった話をここでしてもらえると嬉しいんですけど。
30分番組、日本ではちょっと無理かなと思うんですけど。
無理ですよね。
大体結構皆さん5時間ぐらいおられたりするので。
例えばですね、一番ものの考え方、世界観の人になる空っていうね、
みんな一切皆空とかね、四季即是空なんて日本人だったら聞いたことあると思うんですけど、
そういうものの考え方って、実際具体的にどうなのかとかっていう話とかですね。
あと、今の近現代の社会を作ってる西洋的な、いったらキリスト教的な世界観と仏教の世界観ってどこが違うのかとかですね。
新しい資本主義とか、新しい民主主義とか、新しい社会、世界みたいなのを考えるときに、
思考のフレームワークになるようなものっていうのを議論しようっていう方が多いかなと思いますし、
そこはやっぱり仏教って一定の役割を果たすよねっていうのはやってて思うところですね。
なるほど。よく西洋と東洋とって言うと、西洋のいかにも神ありきみたいな、
そういうのと東洋は違うみたいな話があると思うんですけど、
その点をちょっと聞かせてもらえたら。
そうですね。根本的に一番根源のところって、
世界に実在っていうのを見るか、実在っていうのを否定するかっていうところでも、
究極違ってくると思うんですよね。
今おっしゃったように、西洋っていうのは神様がまずいるんですよね、実在してると。
神のような何かが実在してて、そこからすべてが発生してくるんで、
その発生したすべてっていうのも実在だよねっていうふうに考えると、
どうしても優位仏論的になっていくんですよね。
物事とか価値っていうのは定量的っていうんですかね、客観的に、
誰が見ても同じ数値として見えるよねっていう考え方になってくるし、
そこに定量的に評価できない心とかですね、感覚とか感情っていうのは、
それはあなたの問題なので置いといて、年収何本なの?みたいな話になっていくと思うんですよね。
それに対して仏教って非実在論なんですね。
すべてのものは関係性っていうものと、関係性に認識がかかるっていうことで、
一人一人が意味とか価値とかを勝手に決めてるっていうのの集合体なので、
みんなに共通して絶対これはこうだよねとかっていうもんってないよねっていうのが仏教の考え方なので、
そっちに考えを持っていくと、じゃあそのものよりも、
感じてる人の心、その人の在り方っていうのが重要ですよねっていう話になってくるので、
そのあたりが本当に極端に違うですよね。
今の僕たちの少なくとも日本の社会って前者ですよね。
すごく実は優位仏論的で、マルクス主義と言ってもいいのかもしれないですね。
資本っていうのが大事で、お金とか資産、資本っていうのが人の幸せとか、
力っていうものを担保してるし、資本があるのがハッピーで、ないのがアンハッピーだみたいな考え方になっちゃう。
それを前提に社会って構成されてるので、いい部分ももちろんめちゃくちゃあるんだけど、
それだけでちょっと今苦しくなってるんじゃないかなっていう考え方の人が多いっていうことなんでしょうかね。
特にビジネスでそういう前線に立ってたら、どうしてもそういう候補を求めたりしてあるっていうので、
でも本当に私も含めてみんなそんなばっかりです。
でも実際問題は、どうですかね。
求めていく中、実際みんなそれだけじゃ違うなっていうのは、やっぱりどっか思ってるから話聞きにくくし、
ある意味ちょっと迷いがあるとか思うんですけど。
その中でどうですかね。
よく仏教の中では修行とかっていうのがあるじゃないですか。
でもその修行っていうのって山こもったり、念仏唱えたりとか、
そういったもの以外にもあるものなんですから。
すごい毒っぽい言い方で申し訳ないですけどね。
本当に僕は一つの僕の立場でしか物が言えないので、
仏教全体がそう考えてるっていうことではないという前提で皆さん聞いていただきたいんですけど、
僕個人としては自分の体験上、修行って最終的に修行をしなくなるためにするのかなっていう気がしてて。
山登りによく例えられるんですよね。
お行とか悟りに向かうっていうのは山を登るようなもんだってよく言われるけど、
結構僕好きな表現があって、山に登って何かの体験をして山頂に至って、
今まで見たこともない景色を見るっていうのは素晴らしいと。
山に入ったまま降りてこなくなった人って遭難者って言うんだよねっていう話があって、
ずっと修行してる人って遭難者なんですよね、多分。
そういうことじゃなくて、ごく普通の人間としての生活の中で、
何か自分が得た知恵とかが生きてくるっていう状態にならないと、
ひたすら筋トレばっかりしてて、趣味だったらそれでいいんだけど、
意味がないんじゃないかなっていうところになるので、
山にこもって行をするとか、ひたすら何万回の念仏とか唱えるとか、
寒いお堂で何時間も座り続けるっていうことはやったらいいんだけど、
そんなことだけじゃなくてっていうのが僕、仏教の本質だと思うんですよね。
なので日常生活、その人の生き方そのものっていうのが、
クオリティオブライフが向上していくっていう話だと思うんですけど、
それって別に皆さんのイメージにあるお行っていうようなことをしなくったって全然あり得るし、
本当に仏教ってそういう意味で思考のフレームワークの交換みたいな話だと思うので、
そのためにちょっとハードな滝に打たれたりすると早いっていうのがあるかもしれないですけど、
そんなふうに僕は思ってるんですよね。
なるほど。
昔僕なんかもちょっと悩んだというか考えた時があったときに、
結局日本の中で俗世というんですかね、
中にいるとそういうのって見えないじゃないですか。
結局一人で旅でもしようかとかって言ったりとかして、
時々その時は哲学者みたいになったりいろいろ考えたりするんですけど、
戻ったらまた元に戻ったりとかしてるわけなんですけどね。
でも時々そういうのは日常を過ごしながら時々そういったことを考えてみるっていうのが修行と思ってもいいんですか?
まさにおっしゃる通りだと思います。
日常生活で僕らいろんなことに遭遇してるはずなんですよね。
本当に友達とバカ話してるときも悟りの欠片みたいなものっていうのはあるはずで、
それを拾えるための準備を自分の中に持っておくっていうことが、
僕らの文脈だと仏教の修行をしてるっていうことで、
滝に打たれたり山にこもることではなくて、
滝に打たれたら山にこもってもその心の準備みたいなのができてなかったら、
俺すげーことしたぜみたいな。
鼻が高くなって終わるみたいなことになる。
そういう人結構いっぱいいるから。
そうじゃなくてですね、心がけを持っておくって、
そこは何かを拾おうとする気持ちを持っているっていうのが何よりも大事かなって思うんですよね。
僕何人かの仏教を導いてくださった先生いるんですけど、
チベットの方の先生でおっしゃったらすごいショッキングだったんですけど、
悟りの体験するなんて簡単なんだ。
誰にだってできると。
しょっちゅうできると。
ただそこにとどまるのが難しいから、
とどまることができるためにたくさん悟りの体験をしなきゃいけないから、
そのつもりでいきなさいって言われたんですよね。
それ結構重たい言葉だったなと思って、
そういうもんかなって思ってます。
悟りって言うとすごく難しく考えてしまうんですけど、
例えば日頃いろんなこと日長やってるじゃないですか。
欲にまみれたりとかいった日長があった中で、
それは時々ちょっと離れて俯瞰で見てみるとか、
自分自身を客観的に見てみるっていうことは悟りに近いと思うのもありなんですか?
まさにそうだと思います。
最近メタ認知っていう言葉が流行ってきてると思いますけど、
以前別のポッドキャストでですね、
悟りってつまり一言で言うと何ですかっていう無茶な質問をされたことがあって、
無理やり答えたのはメタ認知のスケールの拡大と縮小を自由にできる人っていうのは、
我ながらまあまあいい線いったんじゃないかなと思ってましてですね。
パッと俯瞰視点にもなれるし、
といってパッと目の前のことだけ、ものすごいちっちゃいスパンにも、
そこが大事であれば集中することもできるしっていうのは、
本当にこだわりなく自由にできる人っていうのは、
執着が捨てられたっていう意味で正しいのかなっていう気はしています。
じゃあ道路の中で、
でも結構、達人の人だったら、
例えば雑草とか買ってるときでも悟り開けたりするんでしょうけど、
うちのじいちゃんが田舎でやってたら、
なんか普通に生きてるんですけど悟りっぽく買ったんですよ。
いますよね、そういう方。
僕はやっぱりその辺の中で、日常の中で雑草がいっぱい来るから、
面白いことも含めて。
ついでにテレビ見たりゲームしたりとか、
私っていう個体を特定するためにはそうじゃないものが絶対必要なのでっていう考え方になるんですよね。
私があるから私はあるんだっていうのは、
あまりにも仏教的に考えると視野が狭いというか、
周りっていうのを見てないからそうなるよねっていう話になってくるんだと思います。
MOOVなんかもここでしゃべってたら、いろんな人たちが聞いてくれたり読んでくれたりするんですけど、
これは周りの人たちがチヤフヤしてくれてるから僕がなんとなくいい気になってここにいるみたいな。
逆に言うとそれが攻撃する人だったりすることもあると思うんですけど、
でもそれ自体は攻撃されてたとしても攻撃されてるって自分が思ってる。
ん?ちょっと分かんなくなってきた。
なんとなくは雰囲気は分かってると思うんですけど、ちょっと言葉で表すの難しいですね。
つまり大きい水の中の一滴は一滴じゃないでしょ。
はい。
で、周りの空気が一滴だっていうことで、
じゃあ周りの状況って自分は同じもんだけど変化していくっていうことかな?
そうですね。私には私自身の因果関係っていうのがあって、一瞬一瞬変化していくと。
私に関わっている私の周りの私がいのものっていうのも、それぞれの因果関係で一瞬一瞬変化をしていくと。
お互いに相互作用しながら変化していく、私と私がいのもの。
特に他の人っていうふうに限定してもいいかもしれないですけど、
他の人がお互いにどういう認識をするかし合うかっていうのも、私の因果関係、周りの人の因果関係、
その二人が関係するっていうことによってまた生まれてくる因果関係っていうので変化をしていく。
最終的に一人一人がその一人一人自分自身に対してどういう認知があるんだっていうのを確定するのは自分のことでしかない。
攻撃されて嫌だなって思うのも、その因果関係の結果そういう現象が起きて、そこに嫌だなって思いが発生してもいいし、
同じ因果関係で同じことを攻撃されるっていうことが起きても、
これで何か僕は新しいことに気づけたからありがたかったなって思うのもこっちの認識になって、
その嫌だなって思う認識、良かったなって思う認識っていうのも自分の中の因果関係によってそれまた変化していくし、
不可否なところもあるわけですよね。ものすごい物事に怯える心っていうのを何十年と作ってきた因果関係がある人は、
やっぱり攻撃されるとワーってなるでしょうし、ものすごくポジティブな心っていうのを何十年作ってきた因果関係がある人は、
これ何か自分はまた新しいことを気づけるわって思うだろうし、
僕が自分が行った反応とか判断っていうのがまた他者との関係の上での次の因果関係の起点になって物事が進んでいくので、
そう考えた時にまさに絶対性っていうのは見出せないよねっていうことになるので、
その中で相対的に他の人たちとどう関係しながら、関係を避けながら、関係を求めながら生きていくのかっていうのはやっぱり最終的には自分自身になるんだけど、
確固たる私みたいなものもそういう意味でやっぱりないんで、
そのあたりっていうのは本当に自分自身バランスを取り入れながら、
自分は半分、自分以外のすべて半分っていうところで考えて生きていかなきゃいけないよねというのが仏教的な考え方だと理解しています。
今の話というと、まずは自分も周りも含めてどんどん変化していく。
どんどん瞬間瞬間だから、今しゃべってるのも次の瞬間変わってるっていうのがまず一つ。
今の中で、例えばSNSで攻撃されたとしましょうか。
さっきの話で言うと、腹立つこと嫌がったと思うのは苦悩ですかね、怒りというのがあったとしますよね。
結局でもそれ自身はさっきの因果関係って話だと、
それ自身言われたのは自分の発言がこうだったからこういうふうに言われたんだよねとかっていうふうに
ちょっと俯瞰でみたら、それに気付いたからなんかこう
馬鹿にされたけど、それもちょっとありがとうと思えるみたいな。
変換をするとちょっと怒りが減っていくみたいな、そんな感じどうでしょう。
そうです。実際に仏教のティップス的な使い方としてはまさにそれが求められることだと思っていて、
相手の立場にも立ってみたらいいんですよね。
僕がうっかり完全に無意識に言葉遣いの癖としてある表現をしたと、
それに対して誰かがやたら怒ってSNSで絡みついてくるとかなわないなって思うんだけど、
よく考えてみたら、僕の無意識の悪意なんて何もないんだけど、
その言葉遣いっていうのがその人の心、その人の因果関係の中では、
彼なり彼女なりに反応するものを持っていたっていうことなので、
そういうこともあるのかと思って、この人は苦しいんだろうなとか、悲しいんだろうなとか、
怖いんだろうなっていうことに思いを致すことができると、
もうちょっと表現に気をつけたほうがいいのかなと、無造作に物言わないほうがいいかなとか、
成長にもなるわけですし、
自分の中に実は無意識に潜んでいた悪意とかですね、
見下す態度みたいなのに気づくチャンスととってもいいわけだし、
どうしてもわけわからなかったら変わった人もおりまんなっていう感じで流すしかないってなると思うんですけど、
それ本当に因果関係と相対関係っていう意味で、
すべての人と平等だっていうことだと思うので、