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2024-01-26 30:14

#413 (週末版) 「仏教思考」は現代人の悩みにどう答えるか(松波龍源さん編①)

週末版ではゲストを招いて、脱力系ながらも本質をついた商売論・人生論を展開。NewsPicksではこのPodcastを元にした記事も配信しますので、ぜひそちらもご覧ください。

■NewsPicks掲載記事:

https://newspicks.com/news/9386290

■ゲスト:

松波 龍源(実験寺院寳幢寺 僧院長)

■MC:

亀山 敬司(DMM.com 会長)

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#かめっち #かめっちの部屋

00:02
はい、どうもDMMの亀山です。亀っちの部屋ラジオ始まります。
サブMCの高橋です。今週もよろしくお願いいたします。
本日のゲストを呼びします、実験人員報道陣の松波龍源さんです。よろしくお願いします。
はい、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
簡単に、龍源さんのご経歴を私から紹介させていただきます。
龍源さんは、1978年生まれ、大阪外国語大学外国語学部大学院の博士全期課程をご修了後、
ミャンマーの仏教議営を研究。そのうちに、研究よりも実践に心を惹かれて出家されます。
現代社会に意味を発揮する仏教を志し、京都に実験陣を設立され、
現在は学生や研究者、企業家、医師など様々な方々と、
現代社会に仏教を実装するための実証実験に取り組まれています。
というわけで、今日は龍源さんにお越しいただきました。
はい、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
企業家の方々もたくさん訪れる寺院ということで、
今日は神山さんともすごくお話が合うんじゃないかと思って、場をセッティングしております。
どうですか、企業家の煩悩の塊みたいなやつがいっぱいやってくるみたいな。
そうですね、割と社会企業の分野の方が多いので、
皆さん結構真摯に考えている人が多いなというイメージですけど。
そうかそうか、そういうので言うと、確かにそういったところに色々師をこいにいくっていう人間は、
そうですね、やっぱり今、僕も含めて煩悩だらけなんで、
そういった中でちょっとこれじゃいけないのかな、ちょっと違うかなと思う人が、
多分この番組を一緒に見ると思うんで、
多分日頃、わざわざ多選で出てくるよりも、もっとちょっとダメなやつがいっぱい来ますんで。
大事です。
なんで、今日は教えをこうということで、
りょうげんさんのところにはビジネスマンとかいると思うんですけど、
色々悟りたいとか、ちょっと苦悩があるとか、そういった人たちが結構集まってくるんですね。
そうですね、苦悩があるっていうよりは、考え方の根本みたいなものを持たないと、
この先ちょっと不安定になるよねっていう問題意識の人が多いかなっていう印象ですね。
なるほど、その時に皆さんが聞いて、これはもう自分が変わりましたみたいな、
そういった話をここでしてもらえると嬉しいんですけど。
30分番組、日本ではちょっと無理かなと思うんですけど。
無理ですよね。
大体結構皆さん5時間ぐらいおられたりするので。
例えばですね、一番ものの考え方、世界観の人になる空っていうね、
みんな一切皆空とかね、四季即是空なんて日本人だったら聞いたことあると思うんですけど、
そういうものの考え方って、実際具体的にどうなのかとかっていう話とかですね。
あと、今の近現代の社会を作ってる西洋的な、いったらキリスト教的な世界観と仏教の世界観ってどこが違うのかとかですね。
03:07
新しい資本主義とか、新しい民主主義とか、新しい社会、世界みたいなのを考えるときに、
思考のフレームワークになるようなものっていうのを議論しようっていう方が多いかなと思いますし、
そこはやっぱり仏教って一定の役割を果たすよねっていうのはやってて思うところですね。
なるほど。よく西洋と東洋とって言うと、西洋のいかにも神ありきみたいな、
そういうのと東洋は違うみたいな話があると思うんですけど、
その点をちょっと聞かせてもらえたら。
そうですね。根本的に一番根源のところって、
世界に実在っていうのを見るか、実在っていうのを否定するかっていうところでも、
究極違ってくると思うんですよね。
今おっしゃったように、西洋っていうのは神様がまずいるんですよね、実在してると。
神のような何かが実在してて、そこからすべてが発生してくるんで、
その発生したすべてっていうのも実在だよねっていうふうに考えると、
どうしても優位仏論的になっていくんですよね。
物事とか価値っていうのは定量的っていうんですかね、客観的に、
誰が見ても同じ数値として見えるよねっていう考え方になってくるし、
そこに定量的に評価できない心とかですね、感覚とか感情っていうのは、
それはあなたの問題なので置いといて、年収何本なの?みたいな話になっていくと思うんですよね。
それに対して仏教って非実在論なんですね。
すべてのものは関係性っていうものと、関係性に認識がかかるっていうことで、
一人一人が意味とか価値とかを勝手に決めてるっていうのの集合体なので、
みんなに共通して絶対これはこうだよねとかっていうもんってないよねっていうのが仏教の考え方なので、
そっちに考えを持っていくと、じゃあそのものよりも、
感じてる人の心、その人の在り方っていうのが重要ですよねっていう話になってくるので、
そのあたりが本当に極端に違うですよね。
今の僕たちの少なくとも日本の社会って前者ですよね。
すごく実は優位仏論的で、マルクス主義と言ってもいいのかもしれないですね。
資本っていうのが大事で、お金とか資産、資本っていうのが人の幸せとか、
力っていうものを担保してるし、資本があるのがハッピーで、ないのがアンハッピーだみたいな考え方になっちゃう。
それを前提に社会って構成されてるので、いい部分ももちろんめちゃくちゃあるんだけど、
それだけでちょっと今苦しくなってるんじゃないかなっていう考え方の人が多いっていうことなんでしょうかね。
特にビジネスでそういう前線に立ってたら、どうしてもそういう候補を求めたりしてあるっていうので、
でも本当に私も含めてみんなそんなばっかりです。
06:03
でも実際問題は、どうですかね。
求めていく中、実際みんなそれだけじゃ違うなっていうのは、やっぱりどっか思ってるから話聞きにくくし、
ある意味ちょっと迷いがあるとか思うんですけど。
その中でどうですかね。
よく仏教の中では修行とかっていうのがあるじゃないですか。
でもその修行っていうのって山こもったり、念仏唱えたりとか、
そういったもの以外にもあるものなんですから。
すごい毒っぽい言い方で申し訳ないですけどね。
本当に僕は一つの僕の立場でしか物が言えないので、
仏教全体がそう考えてるっていうことではないという前提で皆さん聞いていただきたいんですけど、
僕個人としては自分の体験上、修行って最終的に修行をしなくなるためにするのかなっていう気がしてて。
山登りによく例えられるんですよね。
お行とか悟りに向かうっていうのは山を登るようなもんだってよく言われるけど、
結構僕好きな表現があって、山に登って何かの体験をして山頂に至って、
今まで見たこともない景色を見るっていうのは素晴らしいと。
山に入ったまま降りてこなくなった人って遭難者って言うんだよねっていう話があって、
ずっと修行してる人って遭難者なんですよね、多分。
そういうことじゃなくて、ごく普通の人間としての生活の中で、
何か自分が得た知恵とかが生きてくるっていう状態にならないと、
ひたすら筋トレばっかりしてて、趣味だったらそれでいいんだけど、
意味がないんじゃないかなっていうところになるので、
山にこもって行をするとか、ひたすら何万回の念仏とか唱えるとか、
寒いお堂で何時間も座り続けるっていうことはやったらいいんだけど、
そんなことだけじゃなくてっていうのが僕、仏教の本質だと思うんですよね。
なので日常生活、その人の生き方そのものっていうのが、
クオリティオブライフが向上していくっていう話だと思うんですけど、
それって別に皆さんのイメージにあるお行っていうようなことをしなくったって全然あり得るし、
本当に仏教ってそういう意味で思考のフレームワークの交換みたいな話だと思うので、
そのためにちょっとハードな滝に打たれたりすると早いっていうのがあるかもしれないですけど、
そんなふうに僕は思ってるんですよね。
なるほど。
昔僕なんかもちょっと悩んだというか考えた時があったときに、
結局日本の中で俗世というんですかね、
中にいるとそういうのって見えないじゃないですか。
結局一人で旅でもしようかとかって言ったりとかして、
時々その時は哲学者みたいになったりいろいろ考えたりするんですけど、
戻ったらまた元に戻ったりとかしてるわけなんですけどね。
09:02
でも時々そういうのは日常を過ごしながら時々そういったことを考えてみるっていうのが修行と思ってもいいんですか?
まさにおっしゃる通りだと思います。
日常生活で僕らいろんなことに遭遇してるはずなんですよね。
本当に友達とバカ話してるときも悟りの欠片みたいなものっていうのはあるはずで、
それを拾えるための準備を自分の中に持っておくっていうことが、
僕らの文脈だと仏教の修行をしてるっていうことで、
滝に打たれたり山にこもることではなくて、
滝に打たれたら山にこもってもその心の準備みたいなのができてなかったら、
俺すげーことしたぜみたいな。
鼻が高くなって終わるみたいなことになる。
そういう人結構いっぱいいるから。
そうじゃなくてですね、心がけを持っておくって、
そこは何かを拾おうとする気持ちを持っているっていうのが何よりも大事かなって思うんですよね。
僕何人かの仏教を導いてくださった先生いるんですけど、
チベットの方の先生でおっしゃったらすごいショッキングだったんですけど、
悟りの体験するなんて簡単なんだ。
誰にだってできると。
しょっちゅうできると。
ただそこにとどまるのが難しいから、
とどまることができるためにたくさん悟りの体験をしなきゃいけないから、
そのつもりでいきなさいって言われたんですよね。
それ結構重たい言葉だったなと思って、
そういうもんかなって思ってます。
悟りって言うとすごく難しく考えてしまうんですけど、
例えば日頃いろんなこと日長やってるじゃないですか。
欲にまみれたりとかいった日長があった中で、
それは時々ちょっと離れて俯瞰で見てみるとか、
自分自身を客観的に見てみるっていうことは悟りに近いと思うのもありなんですか?
まさにそうだと思います。
最近メタ認知っていう言葉が流行ってきてると思いますけど、
以前別のポッドキャストでですね、
悟りってつまり一言で言うと何ですかっていう無茶な質問をされたことがあって、
無理やり答えたのはメタ認知のスケールの拡大と縮小を自由にできる人っていうのは、
我ながらまあまあいい線いったんじゃないかなと思ってましてですね。
パッと俯瞰視点にもなれるし、
といってパッと目の前のことだけ、ものすごいちっちゃいスパンにも、
そこが大事であれば集中することもできるしっていうのは、
本当にこだわりなく自由にできる人っていうのは、
執着が捨てられたっていう意味で正しいのかなっていう気はしています。
じゃあ道路の中で、
でも結構、達人の人だったら、
例えば雑草とか買ってるときでも悟り開けたりするんでしょうけど、
うちのじいちゃんが田舎でやってたら、
なんか普通に生きてるんですけど悟りっぽく買ったんですよ。
いますよね、そういう方。
僕はやっぱりその辺の中で、日常の中で雑草がいっぱい来るから、
面白いことも含めて。
ついでにテレビ見たりゲームしたりとか、
12:02
友達話したりとかしてしまうんで、
どうしても、じゃあそんな悟りみたいに近づいてみたいなと思うと、
結局日常から離れないと無理だなと。
俗人がなんかちょっと、それこそ先に撃たれたりとか、
一人こもったりとかしないと、なかなか振り返れないというか、
そんな気はしたんですけど、
そういった中でいうと、
りゅうげんさんとか行く人たちも、
そこの場で言えばちょっと日食は離れるじゃないですか。
そこではちょっと日頃考えてることを整理したりとか、
自分がどうだったみたいなことを考えるみたいな感じの価値はあるんですか?
そうだと思います。わざわざ、うち京都なので、
経営者の方、東京の方多いですから、
東京からですね、新幹線なり飛行機なり乗ってきていただいてですね、
多分1日2日時間とっていただいて、
4時間5時間お話してて、環境全く違うので、
日常と1回きり話すって結構有効な、
テクニック的な話ですけど有効ですよねとは思います。
で、瞑想のね、ご指導とかもするので、
うちのお堂で瞑想してもらったりすると、
ちょっと気分も変わるでしょうし、
本来僕お寺ってそういう場所なのかなって思うんですよね。
なので僕ら今実験寺院で名乗ってますけど、
日本のお寺さんたち、一生懸命やっておられる方、
たくさんおられますけど、
日本社会の構造的にですね、
この寺院とか僧侶っていうのが、
本来の意味、何をもって本来とするか難しいですけど、
本来の意味みたいなのを発揮しにくい構造になってるんで、
ちょっとどうやったらいいのかなっていうことを考えてみようっていうのが、
実験寺院プロジェクトなんですよね。
だからうちみたいなことをやってる、できるお寺は、
実際あると思うんですけど、
もっと増えたらいいのになっていうのは思ってます。
環境を変えるっていうのは本当に有効な手段だと思うので。
要はだから悟りのビギナーは、
ある意味環境を変えた中で、
ちょっといろいろ考えたりとか、
達人になってくると、
例えばトイレ行ったら2,3分でも悟ったりとか、
いきなりできたりとかするのかもしれないけど、
俗人はなかなかそういかないですよね。
そうですね。だから本当によく聞く話で、
陰道一人旅して人生観変わって、
ちょっと何かつきものが落ちたみたいな。
プチ体験ですよね。
日常の人間関係とか、自分の生活環境を離れて、
お寺でやったりとか、
ちょっと違うところに行って、心と向き合ってみるとか、
整理してみるとか、壁打ちしてみるっていうのはすごく有効だと思います。
じゃあそういった人たちが、
ゆんげんさんのところに訪ねてみたら、
合宿みたいになるんですか?
そうですね。
お寺って言っても、
僕お寺の出身じゃなくて、
いわゆる寺っていうのは持ってないので、
京都の西陣折りの工場の跡地をお借りして、
お寺っていうことに無理矢理してですね、
やってるので、
泊まっていただくリソースがないんですね。
だから人によっては近くのホテルに泊まられる人もいらっしゃいますし、
15:03
そういう感じになりますね。
普通の方に比べると、
ロジカルというか、
カタカナもいっぱい入ってくるし、
みんなわかりやすい感じですね。
そうですね。僕出家したのは31歳とかだったと思うので、
それまでみなさんと同じ普通の社会に、
ちょっと変なことしてますけど、
普通の社会に生きてた人間なので。
その中でどうですか。
たとえというなら、仏教といえば、
修行無常とか、
あと自我とか悟りとかいろいろあるじゃないですか。
いろんなことも定義にも全部わかりきってはいないんですけど、
例えば、
今の中で言うと、
俺が俺がっていうのはとにかく多いと思うんですけど、
最近の中で言うと。
その中でまたアイリスも起きるし、いろんなことが出てくるし、
ツイッターでは喧嘩始まるし、みたいな。
西洋とかも修行同士で争ったりとかいろいろあるじゃないですか。
仏教というのはちょっと分かりたい。
そことはちょっと違う感覚っていう。
昔どうですかね。
昔も西洋のほうも、そもそも一心じゃなかった時代もありましたよね。
そうだと思います。ギリシャの時代とかはたくさん神様おられたと思いますし。
途中からワンと一心だってなったんですか?
もともとは仏教はそんな一心教っぽい考え方じゃないですね。
全く真逆だと思います。
西洋のほうは、僕は哲学史の専門家ではないんですけど、
ギリシャのイキリスト教が起こる前ですよね。
ギリシャ神話の神様たちがいっぱいいて、
ゼウスとかっていう神様があちこちの女の人に手を出しまくるみたいな話ありますけど、
そういう時代でも、アリストテレスとかプラトンっていうような人は、
やっぱり何かの実論を見てるんですね。
これ考え方の癖なんだと思います。もともと。
なんか絶対的なものがあって、その絶対的なものからいろんなものが発生してきてるから、
この世界っていうのは、あるものはあるみたいな考え方。
だから科学が発展していくんでしょうね。
見てるものの法則みたいなのが絶対あるってことなんで、
それを解明できたら、いろんなものが解明できるぞっていうので、
18:00
科学が発展していくと思うんですけど、
それの前提でいくとですね、
私っていうものは私としてあって、
あなたっていうのはあなたとしてあって、
社会っていうのも自分と対比するものとして社会っていうものがあって、
気に入る気に入らないっていう話になるんですよね。
そうすると徹底的に気に入らなかったらもうやってしまいみたいな話になっちゃうと思うんですけど、
仏教って本当に関係っていうことしか考えないんですよね。
絶対的に何かもともとあるんじゃなくて、
全てのものは因果関係と相対関係で認識されるだけであって、
認識してる私の認識力もその因果関係とか相対関係によって成り立ってるよねっていう考え方をするから、
嫌だったらそこの関係性から離れればいいし、
好きだったら近づけばいいしみたいな考え方をしますよね。
だからもう仏教においては本当にね、
一切皆食うっていうのはそういう話ですけど、
食うっていうのは何もないっていうんじゃなくて、
全てが関係性で流動的だっていう意味なので、
そうすると何もお前気に入らんからやってやるって言わなくたっていいよねっていう考え方になるので、
もう私を特定するためには私じゃないものがなかったら無理だっていうこと言うんでね、
そうするとその気に入らない相手さえも、
その相手が気に入らない自分っていうのが構成要素になってるから、
自分の一部だみたいな考え方をする。
その上でじゃあみんながハッピーになったらいいよねっていうのが仏教の考え方なので、
争いにくいですよね。争わないとまでは言えないと思いますけど、
争いにくい世界観の土台があるなっていうふうに思うので、
そのあたりから考えるとめちゃくちゃ面白いですね。
僕たちすごい最近、日本人として心根の部分はどっちかというと仏教的なはずなのに、
西洋的なもので上書きされつつあるんだろうなっていうのは感じるところがあるので、
興味深いなと思うところですね。
なるほど。それって他者との関係の問題ですけど、
例えば自分がいるじゃないですか。今の話だと他の人がいて、
その中でこの人がいるから自分もそこにいるみたいなそんな発想っていうか、
例えば我思うより我ありでしたっけ?
はい。デカールトですね。
それは自分が思ったらっていうのが一つですけど、
今の話だと他のものと反射してというか、
他のものと比較したら自分。
他人じゃなかったら自分?そんな感じですが。
私っていうのは、私以外のすべてのものではないものが私っていう考え方をするんですね。
層としてしか定義できないじゃないかっていうことを仏教は考えるんですよね。
私っていうのが独立であるんだったら、
私ではないものがなくなった世界でも私っていうのは認知されなきゃいけないんだけど、
それ無理だよねってなるんですよね。
一滴の水って周りが空気だから一滴が成立するけど、
桶に入った水とか川の中に一滴が入ったらもうその一滴なくなるよねっていう考え方だから、
21:04
私っていう個体を特定するためにはそうじゃないものが絶対必要なのでっていう考え方になるんですよね。
私があるから私はあるんだっていうのは、
あまりにも仏教的に考えると視野が狭いというか、
周りっていうのを見てないからそうなるよねっていう話になってくるんだと思います。
MOOVなんかもここでしゃべってたら、いろんな人たちが聞いてくれたり読んでくれたりするんですけど、
これは周りの人たちがチヤフヤしてくれてるから僕がなんとなくいい気になってここにいるみたいな。
逆に言うとそれが攻撃する人だったりすることもあると思うんですけど、
でもそれ自体は攻撃されてたとしても攻撃されてるって自分が思ってる。
ん?ちょっと分かんなくなってきた。
なんとなくは雰囲気は分かってると思うんですけど、ちょっと言葉で表すの難しいですね。
つまり大きい水の中の一滴は一滴じゃないでしょ。
はい。
で、周りの空気が一滴だっていうことで、
じゃあ周りの状況って自分は同じもんだけど変化していくっていうことかな?
そうですね。私には私自身の因果関係っていうのがあって、一瞬一瞬変化していくと。
私に関わっている私の周りの私がいのものっていうのも、それぞれの因果関係で一瞬一瞬変化をしていくと。
お互いに相互作用しながら変化していく、私と私がいのもの。
特に他の人っていうふうに限定してもいいかもしれないですけど、
他の人がお互いにどういう認識をするかし合うかっていうのも、私の因果関係、周りの人の因果関係、
その二人が関係するっていうことによってまた生まれてくる因果関係っていうので変化をしていく。
最終的に一人一人がその一人一人自分自身に対してどういう認知があるんだっていうのを確定するのは自分のことでしかない。
攻撃されて嫌だなって思うのも、その因果関係の結果そういう現象が起きて、そこに嫌だなって思いが発生してもいいし、
同じ因果関係で同じことを攻撃されるっていうことが起きても、
これで何か僕は新しいことに気づけたからありがたかったなって思うのもこっちの認識になって、
その嫌だなって思う認識、良かったなって思う認識っていうのも自分の中の因果関係によってそれまた変化していくし、
不可否なところもあるわけですよね。ものすごい物事に怯える心っていうのを何十年と作ってきた因果関係がある人は、
やっぱり攻撃されるとワーってなるでしょうし、ものすごくポジティブな心っていうのを何十年作ってきた因果関係がある人は、
これ何か自分はまた新しいことを気づけるわって思うだろうし、
僕が自分が行った反応とか判断っていうのがまた他者との関係の上での次の因果関係の起点になって物事が進んでいくので、
24:06
そう考えた時にまさに絶対性っていうのは見出せないよねっていうことになるので、
その中で相対的に他の人たちとどう関係しながら、関係を避けながら、関係を求めながら生きていくのかっていうのはやっぱり最終的には自分自身になるんだけど、
確固たる私みたいなものもそういう意味でやっぱりないんで、
そのあたりっていうのは本当に自分自身バランスを取り入れながら、
自分は半分、自分以外のすべて半分っていうところで考えて生きていかなきゃいけないよねというのが仏教的な考え方だと理解しています。
今の話というと、まずは自分も周りも含めてどんどん変化していく。
どんどん瞬間瞬間だから、今しゃべってるのも次の瞬間変わってるっていうのがまず一つ。
今の中で、例えばSNSで攻撃されたとしましょうか。
さっきの話で言うと、腹立つこと嫌がったと思うのは苦悩ですかね、怒りというのがあったとしますよね。
結局でもそれ自身はさっきの因果関係って話だと、
それ自身言われたのは自分の発言がこうだったからこういうふうに言われたんだよねとかっていうふうに
ちょっと俯瞰でみたら、それに気付いたからなんかこう
馬鹿にされたけど、それもちょっとありがとうと思えるみたいな。
変換をするとちょっと怒りが減っていくみたいな、そんな感じどうでしょう。
そうです。実際に仏教のティップス的な使い方としてはまさにそれが求められることだと思っていて、
相手の立場にも立ってみたらいいんですよね。
僕がうっかり完全に無意識に言葉遣いの癖としてある表現をしたと、
それに対して誰かがやたら怒ってSNSで絡みついてくるとかなわないなって思うんだけど、
よく考えてみたら、僕の無意識の悪意なんて何もないんだけど、
その言葉遣いっていうのがその人の心、その人の因果関係の中では、
彼なり彼女なりに反応するものを持っていたっていうことなので、
そういうこともあるのかと思って、この人は苦しいんだろうなとか、悲しいんだろうなとか、
怖いんだろうなっていうことに思いを致すことができると、
もうちょっと表現に気をつけたほうがいいのかなと、無造作に物言わないほうがいいかなとか、
成長にもなるわけですし、
自分の中に実は無意識に潜んでいた悪意とかですね、
見下す態度みたいなのに気づくチャンスととってもいいわけだし、
どうしてもわけわからなかったら変わった人もおりまんなっていう感じで流すしかないってなると思うんですけど、
それ本当に因果関係と相対関係っていう意味で、
すべての人と平等だっていうことだと思うので、
27:01
過剰に自分を責める必要もないでしょうし、
過剰に相手に対して切り返すっていうこともいらないと思う。
そういったことになると、比較的揉めごととか争いごとにガチハマりしていくっていうことは、
避けやすくなってくるのかなと思います。
確かに。
ちょうどこの間の台談のときに、僕結構ダメ口してバイバイやってたんですよ。
そしたら書き込みの中に、言葉遣いもこいつは知らないんだとか書かれてたんですよね。
でもそこでわけやってたつもりなんで、
喋ってる間怒ってないんですけど、
周りの見た人が失礼な上から目線であれみたいなことを言われたんですよね。
でもそういうふうに捉えられるケースもあるかなと思って、
今回ちょっと丁寧にやってみようみたいな感じで丁寧にしてみてるんですね。
まさに変化しましたね。
変化してるんですよ。
その方のおかげで。
時間関係が。
昨日までの話と今日は違いますみたいな。
そういうことだったんですね。
明日元に戻るかもしれないんだけど。
本当に本当に。
そうやって僕たちって社会作ってるし生きてるよねっていうのは事実だと思いますけどね。
そうですね。
喋ってる間僕ら言葉砕けてきちゃったじゃないですか。
だからもうすでに変化してるから。
一秒一秒ね。
向き合ってる相手で自分変わりますよね。
以前文人っていう考え方ねちょっといろいろ流行ったりしてましたけど、
本当に家庭人としてのある人と部長さんとしてのある人と違いますもんね。
それで当然なんじゃないかなと思います。
その中で、でも変わってること言い出して一貫性がないとか思わなくていいんですよね。
まさに物事に一貫性がないといけないと思ってるのが西洋的なんだと思います。
それってインド映画とか見たら僕結構感じるなと思って。
インド映画ってすごい脈絡なかったりするじゃないですか。
ものすごく重要っぽいシーンが何の伏線でもなく回収されずにそのまま終わるみたいなことが手皿にあるし、
季節感とか統一感がなかったりするし、
そこが気になっちゃうのってすごく有物論的っていうか、ある意味信教的なところからスタートするものの考え方によるんだろうなと思います。
だから人間って矛盾するもんだと思うし、
守備一貫して全く同じスタンスしか取らないって結構嫌な人ですよね、おそらく。
でも信仰の厚い人っていうのは結構頑固な人が多いじゃないですか。
神はこうおっしゃってますとかっていう。
でも一方で西洋の中でまたそれを否定する哲学も出てきたりしますよ、途中からね。
じゃあ前半はここらへんで、次回はちょっとそのへんのことに行きたいと思いますので、また次回よろしくお願いします。
30:04
はい、よろしくお願いします。ありがとうございました。
お願いします。
30:14

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