竹鶴政孝の人生から学ぶウイスキー作りの信念
ウイスキーを醸造するにあたりまして、その醸造技師が、自分の技術に一つの信念を持ち、必ず自分が良いウイスキーを作ると自覚していなければなりません。
本格ウイスキーなど、全憎い虫だ!
全憎い虫?
大丈夫。私が働くから。
竹鶴くん、許してくれ。
社長!
ジャパニーズウイスキー 竹鶴政孝の100年 第2話
この番組では、ジャパニーズウイスキー作りに生きた竹鶴政孝の人生を中心に、ジャパニーズウイスキーのこれまでとこれからを語ります。
彼の人生には、業界を超えた日本人のものづくりのマインドが詰まっています。
世界で一番有名な日本人と称賛される葛飾北斎は、自分の浮世絵が100年後にロンドンの美術館で熱狂的に鑑賞されていることを想像していたでしょうか?
ハリウッドの映画監督から愛される黒澤明は、自分の作品が映画の教科書として世界中で見られる未来を想像していたでしょうか?
ジャパニーズウイスキーの父といわれる竹鶴政孝は、100年先の未来を見据えてウイスキー作りに励んでいた節があります。
それは、称賛や名誉という個人的な感情のためではありません。
熟成という時間を経て製品化されるウイスキー作りには、技術者として冷静に未来を見据える目が必要だったのです。
ジャパニーズウイスキー竹鶴政孝の100年。
第2話のテーマは、ジャパニーズウイスキーはなぜ世界に愛される日本商品となったのか。
ウイスキーを醸造するにあたりまして、醸造技師が自分の技術に一つの信念を持ち、必ず自分は良いウイスキーを作ると自覚していなければなりません。
ここに竹鶴政孝が記した大学ノートがあります。
丹心スコットランドに渡り、各上流所での学びを貴重面な筆地で書き留めた、通称竹鶴ノート。
もともとスコットランド留学を命じた節通師蔵への報告書として書かれた竹鶴ノートは、時を経てジャパニーズウイスキーの教科書と呼ばれています。
このノートにはウイスキー作りの技術者としての竹鶴政孝の教授が詰まっています。
ウイスキーの製造工程は複雑で繊細です。
ウイスキーの製造工程とブレンダーの役割
上流方法、熟成年数、樽の違い、貯蔵される環境、ブレンド方法、それらの組み合わせによって味も風味も無数に存在します。
高度な技術が求められるウイスキー技師、ブレンダーは日本のものづくりに携わる技術者の代表ともいえます。
ウイスキー会社の命は原種です。
様々な種類の原種を作るためにブレンダーという仕事があります。
言い換えると、ブレンダーはこのウイスキー会社の命綱を握る人物だといえます。
ここで佐藤はじめさんにご登場いただきましょう。
最難関のウイスキーの資格、マスターオブウイスキーの資格を持つウイスキーのプロフェッショナルです。
ウイスキーの原種というのは、いろんなタイプの原種があればあるほどそのブレンドの幅が広がりますので、
そのブレンドの幅が広がれば広がるほどいろんな味わいのものができる。
いろんなタイプの原種を作り分け、持っているということは良いことです。
例えば発酵の時間の長さを変えてみるとか、熟成させる樽をいろいろ変えてみるとか、
使う酵母も変えてみるとか、
もともとの原料の爆弾にどれだけのピートをかけるかというスモーキーな香りの度合いですが、
まったくピートをかけないノンピートみたいなものもあれば、スモーキーなヘビーピートというのもありますし、
そういうものをいろいろと組み合わせていって、いろんなタイプの原種を作らないといけないですね。
ウイスキーの味わいが製品によって異なることは皆様もご存知のところでしょう。
乱性的で力強く飲み応えのあるハイランドモルト。
柔らかく優しい喉越しのローランドモルト。
そしてそれらを中和するカフェグレーン。
こういった味の特徴を絶妙なバランスで調合するのがブレンダーの仕事です。
ブレンダーはまさしくいろんなウイスキーの原種があります。
それをブレンドして、一つ一つの楽器をオーケストラにしていくという仕事です。
異なる音を奏でる楽器を組み合わせて、オーケストラとして一つのメロディを奏でるのがブレンダーという仕事なんですね。
それからブレンダーというのは僕は非常に難しいと思うんですけど、
ブレンドとミックスというのは全く別物で、
ただいろんなものを混ぜればいいというものではなくて、
30種類を組み合わせて、それが単純に30になっただけじゃ全然ダメなんですね。
30種類組み合わせたものが1000くらいのものにならないとダメなわけで、
ブレンドというのはやっぱり訓練が必要だと僕はずっと思うんですね。
一滴加えるだけでガーッと変わっちゃう。
そのぐらい微妙なもので、本当に0.何ミリの世界で味って変わってくるらしいので。
世界で評価されているジャパニーズウイスキー。
その評価のポイントは繊細さにあります。
そしてこのジャパニーズウイスキーの繊細さは、
これまでの歴代のブレンダーが一つ一つ積み上げてきたブレンディング技術そのものだと言えるでしょう。
竹鶴政孝とジャパニーズウイスキーの評価
ウイスキーを醸造するにあたりまして、
その醸造技師が自分の技術に一つの信念を持ち、
必ず自分は良いウイスキーを作ると自覚していなければなりません。
もちろんこの信念を得るまでには多年の研究と経験と努力等を要するということは申すまでもないことであります。
技術者としての竹鶴正隆を物語るもう一つのエピソードがあります。
それは佐藤氏が発掘した幻のエベツ計画書です。
昭和2年、1927年に、
正隆が北海道エベツ市に蒸留場を作る計画を立てていたことが明らかになったのです。
佐藤氏はウイスキーアンバサダーという役職を得て、
日課の歴史を調べる中でこの計画の存在を知りました。
しかし何のために?
正隆の心情を裏付けるような資料はなかなか見つかりません。
資料はないんだったら、自分でできる限り調べてみようかなと思って、
実際にエベツに行ったり、道立図書館に行ったり、
実際にエベツの駅前をぐるぐるぐるぐる歩いて回って、
古そうなお寺とか、昭和の初めに開業した旅館が駅前にあるんですけど、
そこに行って、そこのおかみさんに
この辺でウイスキー工場を作る計画ってご存じないですかねって聞いたりね。
そのように足で稼いだ情報をもとに、
佐藤氏はエベツ計画書を論文にまとめ、
マスターオブウイスキーの一次試験に提出しました。
この論文によって佐藤氏は、
日本で10人目のマスターオブウイスキーの資格試験に合格したのです。
竹鶴正隆がジャパニーズウイスキー作りに取り組み始めてから、
100年近くが経とうとしています。
今、ジャパニーズウイスキーは、
本場スコットランド人も唸る世界標準の味となりました。
無色透明の原酒が熟成を重ねて琥珀色の美酒になる過程は、
幸運の志を抱いた青年の夢物語とも重なります。
ウイスキーはゼニ食い虫だ!
物質圏に投げられたその言葉が、
マサタカの心を締め付けました。
大正9年、1920年の年末、
スコットランドから2年ぶりに帰国したマサタカは、
大阪、手塚山でリタと共に新婚生活を送りながら、
自分を取り巻く社会が、
あまりにも大きく変わっていることに驚きました。
マサタカは、スコットランドで得た知見を竹鶴ノートにまとめ、
本格ウイスキー作りの計画書、
雪津酒造の重役に提出しました。
しかし、雪津酒造は第一次大戦後の不景気の煽りを受け、
その経営は悪化の一途をたどっていたのです。
本格モルトウイスキー製造計画書…。
本格ウイスキーは、爆瓦を仕込んでから製品が出来上がるまで、
数年から、場合によっては数十年かかるというではないか。
今の我が社に、こんな事業に取り組む体力はない!
私は、本物のウイスキーを作るために、
二年間も用工させていただいたのです!
製造に数年かかり、
しかも出来上がってみなければ、物になるかどうかわからない。
それは事業ではなく、堂楽ではないのか。
本格ウイスキーなど、ぜに食い虫だ!
ぜに食い虫?
正高の計画を、摂津酒造の重役全員が反対しました。
すぐ製品化出来るイミテーションウイスキーで十分じゃないのか。
それなら、私でなくても出来る!
安倍社長!
竹鶴君、許してくれ。
社長!
正高は、心の銘ずるままに摂津酒造を退職していました。
自分を信じて、
遥々スコットランドからやって来た美しい李太がいるにも関わらず、
無職となったのです。
それでも、
大丈夫!私が働くから!
と、李太は明るく笑いました。
手塚山の新居、正高28歳。
李太は、英語教師の他に、ピアノや英語の個人レッスンをして働きました。
正高は、中学の科学教師になりました。
正高が、その人生の中で唯一、ウイスキー作りから離れた時期です。
ちなみに、李太に仕事を紹介してくれたのは、摂津酒造社長、安倍騎兵士だったようです。
摂津酒造を退社してもなお、安倍氏は、正高という人物を信じ、目をかけていたようです。
数ヶ月の浪人生活を経て、正高は、鳥居新二郎が経営するコトブキ屋、後のサントリーに転職しました。
1923年、大正12年6月のことでした。
コトブキ屋で本格的なウイスキーを作るために、スコットランド人を盗用しようと考えていた鳥居新二郎氏が、
人から紹介されて、正高の来歴を知り、ヘッドハンティングしたのです。
鳥居さん、ウイスキー工場の立地は、空気がきれいであること、近くに川があること、
寒暖の差が大きく、夏でも高温になりにくいところが必須条件です。
そして、ウイスキーの製品化には、最低10年はかかることをご承知おきください。
コトブキ屋時代のジャパニーズウイスキー作り
経営者として、ビジネス拠点に近いところに工場を構えたいという鳥居氏の考えと、品質の責任者であるブレンダーとして、
ウイスキー作りの理想郷を追い求めていた正高の考えには、ずれがありました。
結局、サントリーの拠点である大阪にもほど近い場所として選ばれたのが、京都と大阪の県境にある山崎でした。
山崎上流所、正高、30歳
1924年、山崎で本格ウイスキーの醸造が始まり、正高はブレンダーとして、初代工場長として、この地でジャパニーズウイスキー作りに本腰を入れて取り組むようになります。
正高の報酬は、10年契約で年報4,000円。
今からおよそ100年前、大正末期の大卒サラリーマンの年報は600円程度でしたから、正高がいかに破格の報酬だったのかがわかります。
見方を変えると、ことぶき屋がどれだけジャパニーズウイスキーに期待をかけていたのかがわかります。
正高は当時、日本では誰も見たことのない上流所作りに本走しました。
工場ができた後は、働き手の確保にも本走します。
ふるさとの広島から日本酒作りのプロ、東二を呼んで、ポットスチルなど英語の機械の名前を教えるところから指導しました。
正高は、男山八万宮から山崎工場を見下ろしました。
10年契約でことぶき屋と契約した正高は、まだ
ウイスキーは税に食い虫だ!
という言葉は忘れていませんでした。
そして、山崎工場が本稼働を始めてから間もない昭和2年、1927年に正高は北海道江別市に上流所を作る計画を立てました。
それはなぜでしょう。
なんであの時期に江別というところに工場計画がここに決めたって書いてあって、
さらにそれってものすごく細かく計画書を書いてるんですよ。
まだそのときって、1927年はことぶき屋さんに入って4年目ですし、
山崎の工場が創業を開始して3年たったないぐらいのときなんですよね。
で、なんでこの時期なのかなというのがすごく疑問で、
これはもっとずっと後でしたら、最初から10年間は働いてくれっていうことでことぶき屋さんに入ってますんで、
それがもう10年に近づいた頃に書かれたんだったら、
これはもういずれ独立するときのために色々書いたんだろうと思うんですけど、
まだ7年もあるときに、そういうのを何の目的で書いたのかっていうことがすごく疑問で、
それを何とか解明したいなと思って調べたんですけど資料はない。
その謎を解く鍵は、ことぶき屋で初めて出来上がったウイスキーの原酒の品質にありました。
原酒の詩人 正隆 三十一歳
どうですか?
うん。君、飲んでみたまえ。
これは…
コトブキ屋との考えの相違と工場選定
難しいものなんだな。ウイスキー作りというのは。
原因はわかっております。ウイスキーはフードが作るんです。
やはりもう少し管理値じゃないと無理なんだ。
何を今さら。
君ならせめてもう一度スコットランドに行かせてくれませんか。
君は何を言ってるのかね。
ことぶき屋さんで最初にウイスキーを作り始めたときの出来上がった原酒っていうのはどうだったかっていうと、
これは色々な本に書かれてるんですけども、必ずしも評価が高くない。
評価が高くないというか評価が低いんですよ。
それで、本人もですね、自分でそのレポートを竹鶴ノートに報告書レポートを出してますけども、
自分のノートを見ても分からないことが多くて試行錯誤の連続だったってご自分でも言ってるぐらいなんで、
おそらく勉強して帰ってきて作り始めたはいいけども、なかなか
後でそのレポートを読み直してもあれこれどうだったんだろうとかなかなか分かんないことが多いし、さらに
実際出来上がったものもあれちょっと違うなっていうような感じだったんじゃないかと思うんですよね。
翌年もう1回行ってるんですよ。
山崎春光してから翌年25年の6月から12月までもう1回スコットランドに行ってるんですよ。
で、それって何しに行ったのかっていうことなんですけども、
おそらくそれは間違いなくなかなかうまくできないからもう1回勉強しに行ってるんだと思うんですね。
そんな海の苦しみの中で、正隆がたどり着いた一つの結論が、
ウィスキーはフードが作るという考え方でした。
いろいろと原因をつぶしてた中で、違うのはもうこれは機構だけだと。
それだったらば、やっぱりスコットランドにいた機構の北海道に工場を作れば、
必ず絶対スコットランドと同じような現象ができるはずだというふうに考えて、
で、鳥井新次郎さんに北海道に工場をもう一つ作りましょうということで、
そういうふうになったんじゃないかなと思うんですね。
しかし、その計画が実行に移されることはありませんでした。
横浜ビール工場、早高、34歳。
ウィスキーが仕込みから売り上げにつながるまでに時間がかかるという事実は、
ことぶき屋にとっても同じことでした。
地形と機構がスコットランドに似ている北の大地でウィスキー工場を作りたいというのは、
技術者の願いを退け、輸送費がかさむ遠隔地ではなく、
本社にも程近い山崎を動かなかったことぶき屋の判断は、
正気を逃さぬ非常に理にかなったものでした。
移転計画と挫折
早高がどこまでも道を追い求めるブレンダーであるように、
鳥井氏は天生のマーケッターだったのです。
ことぶき屋は、北海道にあることぶき屋で、
神奈川県、横浜のビール工場を買収することを選びました。
正高は山崎の工場長であると同時に、
横浜のビール工場の責任者も兼ねるようになりました。
昭和4年、1929年、
山崎蒸留所初のウィスキー、サントリーウィスキーが発売されました。
しかし、多くの人が期待を寄せた日本初の国産ウィスキーは、
売れませんでした。
失敗に終わったのです。
やはりウィスキーは、ただの金食い虫なのか。
しかしこの挫折が、正高を新しい道へ導き始めたのです。
昭和9年、1934年、
コトブキヤとの10年契約が満了した正高は、
スコットランドを思わせる、北海道で起業することを決めました。
ただし、内陸のエベツではなく、海沿いの町、ヨイチでした。
その年、正高は40歳になろうとしていました。
正高は、当時日本では誰も見たことのないウィスキー蒸留所づくりに奔走し、
その後、いよいよ自分の考えるジャパニーズウィスキーづくりに取り掛かります。
ここからは、日本初の国産ウィスキーが発売されました。
日本初の国産ウィスキーは、
いよいよ自分の考えるジャパニーズウィスキーづくりに取り掛かります。
ここからは、再び竹鶴正高のお孫さん、竹鶴幸太郎さんにお話を伺いましょう。
まず、鳥居慎二郎氏が率いるコトブキヤ、後のサントリー時代の正高について、どのようにお考えですか。
鳥居氏は、京都と大阪の県境にある山崎に蒸留所を建て、
その間、正高は北海道恵別への移転計画書を提案したということなのですが、この違いはどこから来るのでしょうか。
要するに、コトブキヤ・サントリーさんにいた頃は、鳥居さんが雇い主で、うちの祖父は一義士でしたので、
ウイスキーの製造は任せられたけど、売ることは鳥居さんが考えていたわけですよね。
鳥居さんは、証券が近い、それから工場もすぐ見に来てくれるという利便を取ったと思うんですよね。
僕からすると、それが正しいですね。理屈からするとね。経営者としては、判断としては、それは正しいと思います。
ビジネスとしてのウイスキー作りを押し進めた鳥居氏に対して、正高は全く別の視点からウイスキー作りに取り組んでいたようです。
正高は、自分で修行してきたそのものを伝えようとしたんだと思うんですよね。
やっぱりスコットランドというところでウイスキーが作られて、なんでそうなるかというのは、そこで作られたからだというのが一つの理由だったと思うんですよ。
だから、限りなくスコットランドに近いということを彼は説明したわけですよね。もしかしたらカラフトでも良かったのかもしれませんが、北海道になったと。
高太郎氏は北海道与一で生まれました。
与一は首都西空港から車で2時間、尺丹半島の入り口にある海沿いの街、コトブキ屋を退社した正高が、大日本果汁、後の日華ウイスキー株式会社を立ち上げた場所です。
ウイスキー作りに最適なフードを探し求めた正高は、北海道にその理想郷を見出しました。
コトブキ屋時代のエベツへの工場移転計画を経て、独立にあたり、エベツより西へ移動した海沿いの町与一へ、その拠点を定めたのです。
正高とリタにとって、与一は思い出の地、スコットランドのフードと重なりました。
コトに尺丹ブルーとも称えられる、瑠璃色の雄大な海からの風が入るところに魅了されたといいます。
北の大地で、いよいよ自分のジャパニーズウイスキー作りに取り掛かることになった正高は、どのような逆風が吹いても、正高のウイスキー作りに対する心情が揺らぐことはありませんでした。
高太郎氏は、当時正高が好きだった歌を覚えていました。
それは、雪の降る町よ。
息吹と共に込み上げてくる、雪の降る町よ。
誰にもわからぬ、我が心。
この虚しさを、いつの日か祈らん。
新しき、光り降る鐘の音。
遠くまで来てしまって、ただ雪が降ってるみたいな内容なんですね。
私はこれ、自分が体験したことだけど、小学校の頃とか、やっぱり雪の中を歩くわけですよ。
そうすると胸ぐらいまで積もるんですよね。
しんしんと、夜とか静かに雪が降って、恋で行くって言ってたんですけれど、除雪もされてないですね。
だから、正高と李太が、そういうところに移って、しんしんと積もる雪の中で、遠くまで来てしまったと。
李太の心象風景
この道もこの道っていう歌が出てくるからよくわかるんですよね。
それは、情景と詩の内容が彼らの心にぴったりはまったと思いますね。
あの内容を見たときにそう思いました。
大企業から独立した当初の正高と、李太の心象風景を言い表しているかのような雪の降る街を。
そしてもう一つ、高太郎氏が生まれる前の出来事で、どうしても伝えておきたい話があります。
第二次世界大戦中、与一で過ごした李太は、外国人であるということで、敵国の女性として言われなき差別を受けました。
外出すらはばかられました。
正高と李太、二人は小高れんに恵まれませんでした。
かつて、ことぶき屋に勤めていた頃、鳥居真次郎氏の長男である吉太郎氏を息子のように可愛がっていました。
吉太郎氏と一緒に欧米を旅行したり、ウイスキー作りの後継者を育てるという名目で、一時は同居もしていました。
しかし、吉太郎氏は不幸にも要説しました。まだ三十代の若さでした。
その後、正高と李太は女の子を養子に向かいます。
正高と李太、二人の名前から一文字ずつ取って、リマと名付けました。
正高と李太の愛情を一心に受けたリマは、与一で何不自由なく育てられます。
しかし、軍国主義の中で母が言われなき差別を受けるのを見たリマは、自分の存在に違和感を持ち始めます。
自分は日本人なのにどうして母親は外国人なの?
いつしかリマは母を避けるようになっていました。
同じ頃、老井の竹志が正高・李太夫妻の養子となるため、広島からやってきました。
リマの成長と苦悩
後の江太郎氏のお父様です。
昭和18年とか19年にうちの父が幼稚園組みをしたんですね。
学生でしたけどね。
結局、北大に入って醸造学というか応用科学を習った。
父が完全に家に入るようになったわけですよね。
竹志としては、ここに孤立した李太夫妻を見たところですよね。
心を痛めつけられた。
竹志さんはすごく優しい人だったので、
お母さんとどこか外に行きましょうよって言ったらしいんですよね。
こんな自分を外に連れてって、あなたは大丈夫なのかと言ったということらしいんですけれど、
白人の女性を田舎で連れ歩くというのは、なかなか勇気が要ることなんですよね、本人も。
だから、そういうことで海辺に連れて行って、写真撮ったりいろいろしたものが残っています。
男子として生涯をかけたウイスキー作りが、最終的に花開いた正高の人生はハッピーエンドであり、
後世の人間から見れば間違いなく成功者であり、
ウイスキー作りの開拓者と言えます。
しかし、どの業界であっても、その道を切り開いたパイオニアは孤独だと言われます。
どのような成功者であっても、むしろ開拓者であるからこそ、
実際に生きている時は、先の見えない道の雪を踏みしめて、一歩一歩歩むように生きているのかもしれません。
ご案内役は私、早見健太郎でした。
出演
竹鶴雅隆、坂本雄馬
竹鶴梨太、北条真央
安倍喜平、田辺雅樹
雪津首相、中役、木川秀樹
ことぶき屋、中役、大東秀文
タイトルコール、平塚蓮
ナレーション、萩原和羽
スペシャルサンクス、朝日ビール株式会社
佐藤はじめ、脚本、斎藤智子
演出、岡田康司
選曲、甲賀、松佐子
プロデューサー、富山正明
制作、株式会社ピトパ
制作組織、監修、竹鶴光太郎