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2023-09-19 07:18

イタラジ#14 埴谷雄高の話(革命家は一匹狼である、狂えるゾシマ)

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今回、埴谷雄高について、二つの観点から、お話ししました。

サマリー

埴谷雄高のテーゼである「革命家は一匹狼である」という考えについて、彼らは考察しています。

埴谷雄高の革命家は一匹狼であるテーゼの解釈
イタラジ、今回は、埴谷雄高の革命家は一匹狼というテーゼについて考えていきたいと思います。
このテーゼは、ある種の埴谷雄高の文学世界の読み解く上でヒントになると思います。
まず、一匹狼なら、社会的なモラルから逸脱しているということが言えると思います。
ですから、モラルを自分で想定しなければいけません。
しかし、それによって、この世には、社会やキリストが説くヤバい真理、乗っ引きならないように思える説理があることに気づいてしまいます。
社会のモラルに反するにしても、このモラルとその宇宙レベルのモラルを使用するのは、おそらく非常に苦しい無理筋な心配なわけではあります。
一匹狼や一匹狼と大宇宙を接続する、そういう無双から司令の構想は始まったのではありませんか。
それはある意味で救済には違いありませんが、衛生科学や衛生宗教、衛生哲学に至す危険がたっぷりあります。
その思考の淀みにはまってしまったら、容易に戻れないというのがそれらの共通点だと思います。
そして、そこで私の妄想としましては、本当と事と真理の接続というのは、一旦なされたら絶対に戻れないということではございませんか。
それは悟りというのも究極的にはそうでしょう。絶対に戻っては来ません。
ですからそれは、言うなれば身書きは限りなく死に近いわけで、二度と帰らぬ旅に出るということで、しかもそれが精神上の冒険でありますから、
それはまさしく、自然の旅に出る霊、精神なんではないか。仮に戻ってくるにしても、もう単なる一匹狼、単なる一作者、単なる大宇宙ではないわけです。
これも妄想ですけれども、そういうファニアの言葉を借りつつ表現すれば、究極の文学、究極のインチキのようなものは、妄想を超えて、それが存在としての充実を持つ、または存在を最高の充実にするように語りかけるのではございませんか。
少なくとも文学は、魂のガソリンスタンドのようなものです。発火によって危険なエネルギーを精神に注入いたします。
それは爆発力を持っているわけです。ですから、死霊は次元爆弾という言葉も出てきます。まさにそう、死花火のようなものでございます。
我々は花火のように永遠になることを試みております。つまり現実的には、一瞬で気合を失わせますが、記憶としては魂に残り続ける。
一匹狼とは社会的なモラルから逸脱した存在であり、上述のテーゼの解釈によって具体的な思考が浮かび上がってくる
それをひっくり返せば、観念としては妄想とみなされ、すぐに忘れ去られるようなことを人類全部が注目して必死に残そうとすれば、確実に現実の様相は永久に一変するでございましょう。しかしそれは誰もが狂気だと恐れていることでしょう。
そうそう、国家と革命を反転して、革命と国家という論文を物想とした心意気に、ハニアの特質が現れていると思います。まず、主眼を逆に反転させます。また、革命、つまり動きが絶えざる状態であって、国家固定されたものは一時の状態であると、そういうふうに考えるということです。
私は、ハニアは反ユープロピア的な文脈から読むことができるのではないかと思っております。つまり、理想境の感性はない。絶えず動き回る人玉こそこの世の形態となるべきであり、すなわち存在イコール意識、そこにたどり着くのがまずそのものの始めだと。
もちろんその前に、世の中のあるコロナ問題があるわけでございますが、いわゆるGC等審査の課題というやつでしょうか。しかし、そういった問題を解決するためにハニアを書いていたというより、その次の、そのもっと次の段階を見越して書いているのではありませんか。理礼を渡す相手がだいぶ先にいるのかもしれません。
長々と言ってしまいましたが、付け加えますと、我々はハニアを読んで何がわかるか、少なくとも未来の目ではありませんが、我々はいわゆるパスカルの中間者なのではないか。まだまだやることあるのではないかというユニークな元気の元をもらえますし、我々を例えるなら、いまではお釈迦様の手の上では回っている猿なのではないか。
さらに言えば、それでもお釈迦様に一杯食わせようとする不尊さをもって、いろいろ試行したり試行したり試行したりしていくんだというかなりラジカルな、丁寧なか猛然なかわからない危ない趣旨を埋めつけられるところに、現在進行形でハニアを読む旨味が、しっかり噛むほどにじりじり出てくるのではないかということがあります。
また、カラマワザフの兄弟との比較もしてみましょう。
肯定的解決がなければ、規制的解決も決してあり得ないという、カラマワザフの兄弟の人物、ゾシマ長老の言葉は、最も印象的な言葉の一つであります。
長老ゾシマのこの定義をあえてひっくり返し、「否定がまず徹底された後、肯定が姿を現す。」と引き込んだ、いわば狂えるゾシマというようなものこそ、ハニア映画であり、その書、司令の駆動エンジンたる自動率の不快であって、その目的点である巨体を荒らしめるある力なのでありましょう。
司令において否定の力は貫徹されます。その予定された結末部では、釈迦とジャイナ卿の競争、タイユーの深淵の対話が描かれようとしていました。その対話において、タイユーは釈迦の論をことごと否定し去り、否定に否定を重ねて挙げく、自らも砂のように崩れ消えてしまいます。
大否定者は、博してその否定者自身をまた否定します。ハニアは、否定者には根拠がなく、自ら崩れ去るタイユーは、まさにその無根拠を体現しているといった自己解説を述べております。司令において、狂えるゾシマの提示は何をもたらすのでしょうか。
ここに、肉体的な父殺しのモチーフが顕在化せず、重要人物それぞれの大新聞館周りの巨大な独角が濃く垂れこまれる霧の帳のごとく、作品の総体を覆っております。
一見微笑ましい層は、黒川とコウモリの山間部屋での交流や、あの姉妹の存在、なおより土田夫人が霧漏りするどこかしらの愉快な会話劇、こうした指摘場面も、けれどもどこかこのようにならぬ、有言霊妙な愛すべき冷やさかさをもって演じられております。
狂えるゾシマ、根本的な駆動力の逆回転によって、知例は無二の黒い宇宙を文学空間にとろまわる、文字通りの宇宙空間に初めて投げ入れた人類文化、存在愛化の書であると私は考えております。
というわけで、アニメの動画について、いくつかの観点からお話をしました。
ご聞きいただきありがとうございました。
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