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2021-10-10 19:01

Playback:リスクを恐れず飛び込むこと │ 髙田賢三さん(KENZO創始者)(#1:2018年1月)

*この対談は2018年1月に行われたものです。

▼本パートのインタビュー映像
https://youtu.be/-2Q3J-NsElk

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【髙田賢三さんへのインタビュー一覧】
Talk.1|リスクを恐れず飛び込むこと
(10/17公開)Talk.2|世間に見えない成功の裏側
(10/24公開)Talk.3|「環境」は人をつくる?
(10/31公開)Talk.4|これからの時代を生きる人へ

夢を「かなえられる人」「生き続けられる人」は何が違うのか? 世界的なファッションブランドを創った髙田賢三さんの79年の半生を振り返りながら、その秘密に迫った(2018年1月パリで対談)。

『夢の回想録 高田賢三自伝』 https://amzn.to/3ADJMmo

【プロフィール】たかだ・けんぞう/ファッションデザイナー。1939年兵庫県姫路市生まれ。神戸市外国語大学入学後(中退)、58年、文化服装学院へ。60年に新人デザイナーの登竜門「装苑賞」受賞。卒業後、三愛勤務などを経て65年に渡仏。70年、パリで初出店(「ジャングル・ジャップ」)、初コレクション発表。84年フランス芸術文化勲章シュバリエ位受勲。98年フランス芸術文化勲章コマンドール位受勲。99年紫綬褒章受章。同年、自身が立ち上げたブランド「KENZO」を退く。以後、パリを拠点にファッションにとどまらない創作活動を続ける。2016年フランス政府から名誉軍団国家勲章レジオン・ドヌール(シュバリエ位)受勲

■目次
アトリエへのこだわり
髙田賢三自伝『夢の回想録』
自伝を書くきっかけ
リスクを恐れず飛び込むこと
「髙田賢三」の決断法

▼10/29(金)「月末LIVE」開催
[URLは後日確定、お楽しみに♪]
Q&A、フリートークスペシャルをお届けします

▼番組への感想・早川洋平への質問募集中です。
(いただいた質問は、毎月月末のYoutube Liveでお答えいたします!)
https://bit.ly/INTERVIEW_QandA

▼「QR CAFE」(毎月開催)
「人生を変える一冊」を見つけに行こう
http://life-upd.com/cafe/qr3.html

▼【聞き手・早川洋平プロフィール】
はやかわ・ようへい/新聞記者等を経て2008年キクタス株式会社設立。羽生結弦、髙田賢三ら各界のトップランナーから市井の人々まで広くインタビュー。近年は欧州を中心に海外取材を本格化するいっぽうで、戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。公共機関・企業・作家などのメディアプロデュースも手がけ、キクタス配信全番組のダウンロード数は毎月約200万回。累計は3億回を数える。『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』『横浜美術館「ラジオ美術館」』などプロデュース多数。 近年はユニクロやP&GなどのCMのインタビュアーとしても活動している。
https://linktr.ee/yoh.haya

▼関連キーワード
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Editor : 中江公大(Kimihiro Nakae)

00:01
──ここはパリのご自宅とアトリエ・ケン。
そうですね、ここはアトリエのハウスです。
──今日はここで撮影させていただいているんですけども、
──このアトリエ自宅、先ほど実はケンさん帰ってくる前に、 結構2時間くらい見学させていただいたんですけど、
ビヨビヨで。
──いつから住まれているんですか?
もう8年、2009年くらい。
──9年目くらい。
アトリエはこの5年くらい。
──そうなんですね。どういう基準で選ばれたんですか?
そうですね、ずっとこのサンジェルランとか、 この辺って昔からずっと住みたいところだったんですよ。
以前はアリアンスフランセルってあるんですけど、 そばで4,5年いたことがあるんですけど、
アリアンスも良かったんで、もし今度移ってくるんだったら、 この辺と狙っていたんですね。
やっぱり都市があるので、 こういうところを探していたのもありました。
──地方一等地ですよね。
場所も便利ですよ。
やっぱりね、サガンとかいろいろあったじゃないですか。
──実際先ほどアトリエとご自宅を拝見して、 ピアノだったり仏像だったり、
──プライベートミュージアムみたいな感じだったんですね。
これはね、いろんな物がごちゃごちゃあるんですけど、 以前はバス通の近くに大きなオフィションがあったんですよ。
それでいろんな需要がありまして、 全部整理したんですよ。
オフィションにかけたりして、 持っている物をほとんど整理しようと思ってやったんです。
それの売れ残りとか…
──極二のこれだけは売らないでみたいなのがあったじゃないですか。
それはありましたけど、 あれは何点かありましたけど、
あとは売れ残りとか新しく集めたものとか、 そういうものでやっていますので。
だから今上の方、住むところを急に慌ててやったものですからね。
家具とかいろんな物がちょっと合わなかったりして、 今改装をしようと思って。
それが最初なんですよ。
──全然そんな感じはしませんよ。
そういう感じはなかったですか?
──いやいや、全部現代アートに置かれているみたいな。
いやいや、一部はサロンとかね、 全部家具買いたりするので。
ピアノは変なところに置いたり。
今は仮なんですよ。
これから今月の終わりぐらいから、 少しずつ細かくなっていくと思うんですけど、
03:09
家具のやりかえり。
それからキッチンとかいろんなことを直そうと思っています。
──ピアノといえば2台?
2台?いやピアノはね、 僕はピアノっていうのはコンプレックスなんでね。
──そうなんですか?
コンプレックスっていうより好きなんですけど、 弾けないんですよ。
──そうなんですか?
僕はね、ピアノはね、小学校1年の時に修正になったんですよ。
で、うちも焼けたし。
で、小学校行っている時に学校にピアノがあったんですよ。
それで先生が弾いてくれたのを見て、 弾きたいなって。
それでピアノのあれを学校で習ったんですよ。
その時にね、うちにピアノがないから、こういう音色なんかに書いて、
それでピアノがあったりしたことがあるんですよ。
そういう思い出があるからね。
なんか一つのね、ヨーロッパに憧れる。
そういうのとか、そういうと同じ感覚でピアノに憧れている。
だから場所のうちに初めてピアノを買って習い始めて、
ここでもピアノを買って習い始めたんですけど、
しょっちゅう僕すぐ飽きるもんね。
やってはまたやる。
で、2台あるっていうのは、
僕はね、ここに移った時点ですぐにモナコにも住んだったんですよ。
モナコ用にピアノを買ったりしたんで、それで今2台あるんです。
じゃあほぼ眠ってる感じですか?
そうですね。
さっきでも聴きましたよ、たまに弾いてるって。
もう一度、もう3回やり直したんですけどね。
だからもう1回やり直す。
ぜひ。
ピアノもね、やっぱり頭のボケとかいいって言うやつなんで。
まだまだです。
今回、一昨年、日経新聞の方で、私の履歴書でしたっけ?
連載ありましたけど、昨年末か。
夢の回想録ということで。
そうですね、去年の12月の。
またあなたに大幅に加筆編集してということで、
この本も改めて配読して、
新聞連載にちょっと加筆したくらいかなと思ったんですけど、
かなり加筆してます。
そうですね。
この日経の新聞の時にいろんなこと、結構話をしてたんだよ。
それを書けない、書け場所もないじゃないですか。
それをここまで見てもらって。
ちょっと大幅に加筆されてて驚いたんですけど、
06:03
この中にもありましたけど、
冒頭でも少しあんまりネタバレしちゃいけないかもしれないですけど、
そうです。
ちょうど2年前に何かの風邪をひいたり、
耳のコマフンが破れたり、歯が抜けたり、
そういうあれがあったんですよね。
ちょっちゅう風邪気味で。
何かおかしい、おかしいって。
いわゆる血液検査をやっても問題なかったんですよ。
体の調子が悪かったんですけど、
それがある日、2月の中頃に、
夕方になるといつもハッピーアワーでシャンパンを飲むのが好きなんですよ。
その時、その日のシャンパンを飲んだんですけど、
全然入らないんですよ。
それでおかしいな、胃が悪いのかなと思って、
友達と夜食事に行って好きなレストランに行って、
いろいろ頼んだんですけど、入らないんですよ。
なんで食欲ないのかなって。
たぶん胃がおかしいのかなって。
夕にすぐに家に帰ってきて、
胃の薬とかいろいろ飲んで、
それで寝たんです。
夜中の2時頃になってから、
本当に胃だけじゃなくて、背中のあたりが痛いんですよ。
本当にこんなに痛いのって初めてで、
本当に転げ前の痛み。
朝早くまで待ってたんですけど、
みんな起こさないからね。
7時頃に電話して、いろいろやってもらったんだけど、
お医者がなかなか来てくれないんですよ。
たぶんお医者も胃の痛み止めをくれたんだよね。
ずっと胃を飲んで、
なんの効かないんですけどね。
夕方まで待ってた。
お医者が来てみたら、
言ってもらった、
お医者の頭が痛くなって、
これ大変だって。
それで車で病院に連れて行って、
急遽お医者になるんですけど、
病院に連れて行って、
水園。
水園って名前あまり知らなかったんですよ。
本当に痛かったんですよ。
すぐにそこにたまたま部屋を取ってくれて、
入院をどうもなくても、
本当に痛かったですね。
09:01
水園ってそこで初めて来たんですけど、
水道がんってのもなかなか難しいですよね。
びっくりして、こんな大きいの動き始めて、
それでその後1ヶ月くらい、
この鼻から1ヶ月ほど抜き短かったですね。
トイレ行ったりするのもこういうのも。
それでそれが1ヶ月続きました。
でもやっぱりきつかったですね。
半年ほど食事をすごく気づけなくて、
油もダメ、いろんなもの制限になって、
酒はもちろんダメです。
でも半年くらい経ってからやっと、
少しずつ物持って帰られるようになったし、
お酒もちょこっと飲めるようになった。
でももう1年半以上、
しょっちゅう検査とかやってるんですけど、
もう大丈夫。
よかったです。
じゃあ今あれですか。
奇跡的です。
結構飛び回ってる感じですか?
この子の自己知的アトリミー、頻度とかどのくらい?
6月くらいから問い始めました。
アルゼンチンに行ったりニューヨークに行ったり、
ドルコに行って、
あと日本にたったまとまって、
ちょうど1年半前に。
その後、いろいろ行きましたね、
ロシアとかドサマーリブ。
本当にもう全然大丈夫でした。
よかったですね。
先ほどもお話しした夢の回想録ありましたけど、
もちろんファッションブランド、
世界的なファッションブランドの建造、
創設者である今のファッションデザイナーの高田健三という
名前はよく知ってたんですけど、
健三さん個人のパーソナルライフというか、
人生そのものってあんまり知らなかったんですね。
それだけにこれもすごく反響が多かったと思うんですけど、
なぜ2年前のタイミングで
こういうことを語ろうみたいに思われたんですか?
たまたまそういう大きな状況をしましたよね。
これでも一つ、人生終わっても新しい人生、
これから新しい、そういうきっかけもあった。
それとやっぱり新聞のこういう連載とか、
そういうので一回、今までいろんなインタビューとかいろいろ
100%言えなかったのが結構あったんですよ。
この1回だから、このさっぱりと全部言っちゃった方がいいのかな。
そういうきっかけが始まって、やっぱり僕のこととか。
12:01
やっぱりそこがきっかけだったってことですね。
やっぱり年、それと年。
今日の健三さんそのメインテーマが、
冒険心ということで定めさせていただいたんですけども、
実はここはアトリエですよね?
先ほど自宅の方に行かせていただいたときに、漢字で夢?
あれ有名などなたか?
僕の弟が修士とかいるので、
それの先生がパリでとても言ったことがあるんです。
その先生が、僕は夢っていうのが好きってことで、
そうなんですね。
健三さんのこの事例の中に夢追い人というキーワードが出てきましたので、
まさに夢だなと思ったんですけど、今回その冒険心というテーマを定めさせていただいたのは、
まさにやっぱり今激動の時代じゃないですか。
日本でもいろんな天変地異もあったりとか、
やっぱりそんな時代環境にあっても夢を生き続けている人もいると思うんですね。
今こういう時代でも。
ただ夢が夢で終わる人と現実に変えられる人の違いは何かって考えたときに、
今回のインタビューの編集部内でもいろいろ話したんですけど、
やっぱりこれだと思ったらリスクを恐れず飛び込むことが一つそうなのかなと思って、
それがいいかいは冒険心なんじゃないかと。
その中で先に出てきたのが、私事例も読ませていただいたので、
健三さんだと思い、勝手に世界のどこでも行きますということで、
今回インタビューお願いさせていただいたんですけど。
これを機会にいろいろ反省してみますとね、
やっぱり僕は高校のあたりから自分のやりたいこととか、
そういうなんとなくボヤッとしながらでも決めてたんだよね。
そういう夢とかそういうものを中学、高校のあたりから持っていたみたいです。
それに向かって本当に突き進んだって感じですね。
その人生ずっと夢追い人ということで。
僕は高校のときに大学行くか就職、そういう感じでしょ。
大学も受験勉強って結構難しい大学もいっぱいあるわけです。
どこから大学を選ぶとか、そういうのが僕のときはすごい大きな問題ですね。
どこに大学行きたい?
ただ僕の場合はいろんなうちの経済的な問題とかいろいろあって、
東京には難しい。大学の東京は難しい。
うちから帰るところにしないといけないんだよね。
15:02
そういうのが神戸だった。
姫路から行けるところは神戸とか村しかないよね。
本当は芸大とか美大とかそういうところに行きたかった。
京都まで行かないじゃないですか、姫路だとね。
それでたまたま僕の姉さんも洋裁学校に行ってて、
ひまわりとかそれゆうてのだしがあるんですけど、
それをよく僕が買いに行ったんですよ。
それを見ながら中原隆一さんの絵がすごい好きで、
そういう風に影響されたと思うんですよね。
中学の終わり頃から中原隆一先生の絵を真似たり、
ノートの一端書き始めましたよ。
そのあたりからなんとなく洋裁学校に姉さんが行ってるからの
ファッション雑誌っていうのもないんですけど、
そういうものを見たり、
なんとなくそういうモードにも惹かれ始めたんですよね。
だから大学を選ぶのに僕が一番最終的に選んだのは、
神戸の外学にも含めたので、神戸の外大。
それともう一つは最終的には夜間に行ったんですよ。
お昼仕事をしてすぐに早いとこせびる間に来たりとか、
そういうことも一つの夢だったんですけどね。
住み込みでしたっけ?
いや、姫路から帰ったんです、最初は。
神戸の外大の夜間に行って、
お昼は神戸の小さな貿易会社に行ったんで、
それがきつかった。
それをなんで選んだのか、
やっぱりそのあたりがよく神戸の貿易会社でお昼仕事をして、
夜の外大に行って家帰ってきつかったですよ。
なんで選んだのかって話ありましたけど、
人生を振り返った時に、ターニングポイントで決断をする時っていうのは、
基本的にお一人でされるんでしょうか、それか誰かに聞くタイプはどっちですか?
これはね、自分で決めました。
大学に入った時は仕事に変え始めました。
たまたま1ヶ月くらいあった時に、
姫路から神戸に行く電車の中で知らせた。
社内広報ですね。
社内広報にね、東京の文化通話組が初めて男子学生を受けたのを見てびっくりしたんですよ。
大学に入る時に、うちのお姉さんの学校の予約を聞いたりしたんですよ。
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関西ですからね。神戸の田中千代さんの学校にいろいろ聞いてみたんですけどね。
男子はダメって言われた。で、全く分からないんです。
で、神戸の学校に行き始めたり仕事を始めたりしたんですけど、たまたまそういう幸福みたいなものがある。
それが一つの一つですね。
その後、文化複数に入って、この本にもありましたけども、冒険というか…
ご視聴ありがとうございました。
19:01

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