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IN OUR LIFEは、Yamada Keisukeによるポッドキャストです。毎回ゲストを迎えて、カルチャーにまつわるXについて話しています。
今日は、実はスペシャルゲストにお越しいただいてまして、小説家の滝口悠生さんと、おなじみたくぼくんとお届けしたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ということで、まさかこんな日が来るとは誰も思ってなかったっていうのが正直な気持ちなんですけど、
上本さんに2回ほど出ていただく中で、何回か上本さんに出ていただいた回を滝口さんに聞いてもらって、
毎回フィードバックをいただく中で、無理を承知で可能であれば出てもらえませんかっていう、無茶振りさせていただいたところを心よく解読いただいて、本日に至るというところでございます。
ちょうど市子さんと往復書館をやっているときに、ポッドキャストに出てその話もしましたよって教えてもらって聞いたんですけど、
ポッドキャストはあんまり聞いたことなかったんですけど、ラジオとかとはまたちょっと違っていいなと思ったし、
お三人の喋ってる様子がすごく良かったので、面白く聞いて、市子さんに聞きながら勝手に思ったこととかを感想を送ったりしてた。
それを市子さんが山野さんたちに伝えてくださって。
本当にありがとうございます。
いいえ、全然出ますよって。
こっから言ったんだっていうのに気がする。
文振りとかにも来てくださったときにお会いしたね。
そういうほぼ雑談みたいなメディアっていうのが実はあんまりないっていうか、それがポッドキャストの魅力だと思ってるんですけど。
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そういうところで小説を書いている方、僕たちは比較的本を読む方でっていうところだと、
もともとは2016年とかぐらいに最初に竹内さんの小説とか読んでて、
そのときのインパクトの話とかはぜひできたらなと思って、今日はよろしくお願いしますって感じです。
なんかこう、言葉の間があったりしばらく黙ってても良さそうなのがいいですよね、ポッドキャスト。
いいのかは知らないんですけど、
ラジオとかトークイベントとかたまに出ても、なんかこう沈黙があるとドキドキしちゃうみたいなのがあるじゃないですか。
聴いてる方もやってる方も。黙っている時間が揺れされる感じがするなと思って。
それそうですよ。上本さんもおっしゃってました。その3人だとちょうどいいというか、一人休憩できるみたいな話をされてましたね。
そうですよね。2人とかだとちゃんと聞きつつ喋ることも考えないといけないから結構忙しいけど、
3人だと落ち着いて話が聞けたりするかもしれないですね。
先日のトークイベントも行かせていただいたんですけど。
そうですね。ありがとうございます。
すごい面白かったんですけど。
2人は2人で、2人の独特の間とかもあって、それぞれ面白いなって思ったりもしましたかね。
僕は今言ったみたいな、沈黙を最近恐れないようにしていて、積極的に黙るようにしてるような向きもあって。
そうなんですよ。黙ってる日本の時間みたいなのをわざと作るようにしてるところもありますね。
自分が慣れようと思って。喋らないでいる時間があってもいいんじゃないかなって。
そんな中でフォトキャスト寝てるの心苦しいんですけど。
いやいや、だから今日も積極的に黙っていこうかなみたいな。
それはちょっと困りますね。
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すごいな。
僕が最初に一番びっくりした話で言うと、
一回目ウェモさんに最初出てもらった時に、最後パートナーの呼び名っていうか、配偶者、妻、奥さんの呼び方の話、どう呼ぶかっていう話を、
僕がちょっとウェモさんのツイートに触発されて、ちょっといろいろ話したと思ってて、それでいろいろな意見聞いたりしたんですけど、
そんな中でやっぱりタゲウスさんの意見が、ちょっとレベルが本当に何段も違いすぎて、
僕がそこに一番びっくりしたっていうのがあって。
具体的にどんなことを言ったかちゃんと正確には覚えてないんですけど。
僕らレベルの選択肢で言うと、
最初僕らは奥さんって呼んでて、その奥さん、奥とは何だっていう、どこからの着荷というか始まりなんですけど、
でも妻かみたいな。
ウェモさんはパートナーと呼んでいると。
なるほど、僕らもパートナーって切り替えて、もしくは妻なのか、そういう風に切り替えていきたいなみたいな話をしてるんですけど、
タゲウスさんから書いてきたときは配偶者がまず一つあったのと、
そもそも奥さんも別に奥とはなってるがみたいな、なんていうかエクスキューズというか、
奥様とかさんがついてる分丁寧になってるとか、
言葉の流度っていうか、
そんなレベルでパートナーというか妻を呼ぶっていうことだけでも、
そんだけのパターンがパワパーンって劣強できることに、
僕らはすごい驚いたし興奮したというか。
もともと考えてた、やっぱり同じように悩ましい問題だなってもともと思っていて、
やっぱり普段からいろいろあれでもないこうでもないって考えてたからっていうのももちろんありますね。
そうなんですね。
どういう呼び方をしても必ずそこに歴史的な政策感がついてくるから、
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一つは、そういうものを払われたというか、そういうものを払拭したような新しい呼び方を使うっていう。
パートナーとかはそうだと思いますけど、使うっていうのと、
もう一つは、奥さんとかっていうのは、シチュエーションとかニュアンスのつけ方次第では、
もしかしたらそこにくっついてくるネガティブな歴史性みたいなものを使う人が、
感じさせなくするっていうことも、言葉っていうのはできることもあると思うので。
日頃からそういう課題認識がありながら、パパパンといろいろご提案というか。
そうですね。たぶんそのときにも言ったと思うんですけど、
やっぱりどういう場面とかどういう形で使うかっていうことにもよる話で、
日本語の場合は敬語が絡んでくるから余計大変というか難しいなと思っていて、
例えばパートナーとかっていう言い方はフラットだから使いやすいんだけど、使いにくい場面もあると思うんですね。
例えば自分より年長の人とか、敬語を使うような相手に対して、
あなたのパートナーは?っていうときにちょっと抵抗が生じるというか。
そうですね。
それはなんでかっていうと、一つはそこにパートナーという語に丁寧語とかの様とかをつけられないからだと思う。
なんですよね、きっと。
なるほど。
相手の、そうですね、だからその自分の。
旦那様とか奥様っていう風に言えば、そこには様っていう形容を付与できる。
そう、できるんだけど、パートナーには様ってつけにくいし、そうするとなんか存在な言い方に響いてしまう。
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だから使いにくいときは、例えば年長者にメールとか手紙を書くときにはちょっと使いにくいところがあって、
そこを絶妙にクリアできるのが伴侶ではないかっていう提案を選択肢の一つとして持っておくと使える場合があります。
伴侶はかなり汎用性が高いというか、私の伴侶はっていう言い方もできるし、
あなたのご伴侶はっていう形容が付けられるし、付けなくても使えるし、男女関係なく使えるし。
男女関係なくというか性差関係なくほぼパートナーとイコールの意味で使えるし、形容も付けられる語なのではっていう話をしたんだった。
あ、当てます。今メール出てきて。そのご伴侶に2人ともノックアウトされた感じでした。
かなり硬いけど、そのぐらいの硬さが必要な場合に結構唯一使える性別差を関係なく使える言葉なんじゃないかなっていう。
僕もそれを使ってる人がいて、なるほどって思って。
この言葉はすごく考えられた言葉使いだなって思って。
たくぼさんはどうですか、今の話聞いて。
僕もあのポッドキャストきっかけで、呼び方を妻やパートナーに変えてみてるんですけど、
おっしゃるように会社とかでやっぱり妻は相手方のことを妻様とかお妻とか言えないし、
あと竹口さんのメールでもう一個僕、妻のペアリングが主人なのではっていうのが、
すごい僕今まで思ったことなくて、対義語は夫なのかなって思ってたんで妻はありかなって自分の中では思ってたんですけど、
主人に抵抗があるんだったらそのペアリングも妻ってちょっと使いにくいなって思って、
一時期パートナー活動をしてて、僕は何とか自分に染み渡らせようと思ってたんですけど、
結局今は割と会社では妻、公演とか知った顔では下の名前で呼ぶんですけど、
唯一やっぱできないのが会社の上司とかの相手のことを呼べないっていう壁に今ぶつかってますね。
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そうですよね。やっぱりなんか継承がね、日本語はすごく絡みついてくるんですよね。
故障だけではなく、いろんな言葉の表現において敬語がすごく重要っていうのが、
日本語の大きな特徴であり、難しいところだなってよく思いますね。
そこにもちろんいろんなニュアンスを普段、意識のうちに込めているんだなっていうことに、
英語圏とか行ってると言ったときにすごく改めて感じましたね。
僕はこれをみんなに聞いてほしくて、ちょっと今日は石塚もらったんですけど。
なんかね、もっと話されるべきですよね。
そうなんですね。
すごい意識的な人もいるけれど、そうでない人もたくさんいるじゃないですか。
そうなんですね。
自分のスタイルを変えることはできるんですけど、
やっぱり人がそうしてるのとか、例えば嫁っていう友達がまあまあいるんですけど、
それに対して、それも上本さんには言っていいから変わらんやろって言われて。
確かに怒られたな。
会話の中でそれを一個一個言っていくと、だいぶ大変だなーって思いながら、
いや本当どうするんだろうって感じがして、はや1年ぐらい経ってますね。
難しいですね。地域性みたいなのももちろんあるし、
当然その人の考えが反映されている場合もあるし。
そうですよね。逆にカジュアルになんていうか、周りの空気、
例えば会社の上司の呼び方とかが嫁って呼んでるとか、
例えば父親が呼んでるのを見たとか、そういうのもあると思うんですけど。
だから自分のところは納得してるんですけど、やっぱり人から聞くときに毎回モヤッとするけど、
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そのままうーんみたいな感じっていうのが悩みですかね。
そうですね。悩ましいというか、話しやすいところからそういう話をたくさんするっていうのはいいんじゃないですかね。
そうですね。近い友人とか。
もちろんもっと積極的にガンガン話したほうがいいですよね。
上司にあなたのパートナーとかどんどん言っていくんですけども、いいと思いますけども。
いやでもそれでいくならご飯料のほうが…
だからそういう選択肢も持っておくといいですよ。いいのかもしれませんよ。
ありがとうございます。
これはせっかくなんでね、ご飯料って。
これは本当に僕らめちゃくちゃびっくりした話だった。
本人からお聞きできてよかったです。
ご飯料はなかなか積極的に使ってみても見る価値ありかもしれない。
見る価値あり。じゃあちょっと来週一発。
パートナーとご飯料の2つを持っておいて使い分けると、かなりの場面に対応できる。
対応っていうのが変ですけど、かなりの場面に置いてカバーできると思ってます。
ありがとうございます。
お礼を言われることでは全然ないんですけど。
本当に言葉について考える時間がめちゃくちゃ少ないんだなってことをすごい思いましたね。
日本語とかに対して。
そういう意味で言うと、本当に言葉を書いて物語にして職業にされてる方ならではの視点っていうのを知れて、
僕らは嬉しかったっていうことを伝えたかったっていうだけなんで。
最近で言うと、それこそこのPodcastのきっかけっていうか、往復書簡がリリースされて。
そうですね。
すごい丁寧に読んでお話していただいてありがとうございます。
一時読者の拙いあれなんですけど、すごい評判というか。
それゆき校長って言ってましたよ、石子さん。
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このPodcastでも話したんですけど、
あんまり読んだことないタイプの本というか、やりとりの速度感とかも今の現代って珍しい感じですし、
内容的にも男性による育児の話っていうところで、
ここの話も今日ちょっとしたかったところで、
前回のPodcastのフィードバックの時にもいただいたかと思うんですけど、
やっぱり男性向け、男性向けって言い方は誰向けとかあんまり言いたくはないんですけど、
育児本っていうのは世の中に今、あまたある中で、
ただ男性向けというか、男の人が子育てするケースの本があるのはあるが…みたいな感じのことを僕も多分すごい思っていて、
タゲウスさんも同じような課題認識っていうか、そういうのを感じてらっしゃるみたいな話を聞いて、
いや本当にそうなんだよなーって思ってるっていうところで、
僕らは特になんていうかな、前も話した、How toとかを知りたいわけじゃないっていうか、
もっとその、育児にまつわる考え方とか、こういうことを見てこう思ったみたいなことを知りたいって思うタイプ。
で、それ結構今回の往復書館はそこをかなり満たされた感じが僕はして、だからすごい稀有な本だと思ってるんですけど。
タゲウスさんもそういう感じで、どういう視点でないなーって思われてるのかなっていう話を聞いたことがあるんですけど。
お二人はあれでしたっけ、お子さんは結構大きいというか、幼児ではない感じでしたっけ。
うちはまだ1歳半で、すごいまだまだ家中って感じなんですけど、育児のまだまだ始まったばかりみたいな感じではあるんですけど。
僕のところがまだ7ヶ月とかなんで、本当に家中中の家中で。
タックボケもあれですよね。下の子は何歳っけ。
下の子は1歳7ヶ月で、上がもうすぐ6歳ですね。
ほとんど同じ。
みんな家中。
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そうですね、同世代。
だからずっとその後というか、日々考えていることでもあるんですけど、
男性の育児の大変さっていう括り方自体が、そんなに適当じゃないのかも。
適切な問題設定じゃないのかもって最近は思っていて。
実感として、男性として育児に関わるとか育児をするっていうことの大変さっていうのは、
男性だからみたいなことっていうのは実務としてはそんなにないっていうか、割とクリアできるなって思ってるんですよね。
もちろん授乳ができないとかそういうのもあるんですけど、
でも大抵のことは、やれるやれないの話で言えばやれることが多い。
どういうところが難しいのかなって考えると、
男性であるっていうことよりも、それは一旦置いといて、
どういう仕事をしているかっていうことももちろんあるんだけど、
育児以外のお仕事。就労ですよね。
就労している。
就労だったり、就労じゃなかったりする。
仕事との兼ね合いがどうかっていうこと。
とにかくそれまでなかった育児という仕事というか任務が仕事に乗っかってくるわけじゃないですか。
その兼ね合いの難しさはまず、それは男女関係なしにあるよねっていうことと、
あともう一つは家事労働。家の仕事にも、
家の中に家事だけでなく、育児に関するいろいろなことが生じてくる。
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それももちろん大変だよねっていうのがあって、
主に2つの仕事との兼ね合い、それから家事との兼ね合いっていうのが、
家で育児に携わる人の人間たちの間で共有される大変さなわけじゃないですか。
それが家の状況によって、どっちがどのぐらい仕事を外でしているのかとか、
外ではしてなくて在宅でしているのかとか、家事をどのように分担しているのかとか、
どの家事をどっちがどうやってるのかみたいな、当然いろいろな個別性があるわけじゃないですか。
育児をしていて大変だなあみたいになる局面っていうのがあるんですけど、
そのときの大変さって、そういうバランスから来てることがほとんどだなって思うふうに至っていて、今。
その大変さを感じているときに、大変だってなるわけじゃないですか。
みんななるわけじゃないですか、きっと。
その大変さを、大変だってなったときに、
その大変さを共有してくれる相手を探したくなるわけですよ。
理解してくれる人とか、理解してくれる声みたいなものを求めるわけですけど、
そのときにやっと自分の属性みたいなものが問題になってきて、
自分が今抱えている大変さっていうのは、どういうところに共感できる先があるのかというか。
そういうときに男性で、男親のほうで、こういうふうな仕事をしていてとか、このぐらい仕事をしていてとか、家事をどのくらいしていてみたいな、
似ている条件の人を探そうとすると、なかなか見つからないっていうのが、
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そういう話なのかなって最近は思ってるんですよね。
男性が育児する、男性の育児本とか、男性が育児することの大変さみたいなのをくくると、
自分はあんまり、そういう本とかは探せばあると思うんですけど、
エッセイみたいなもので。
そうそう。じゃあそういうものが自分にとってフィットする、自分の大変さに答えてくれるかっていうと、そうでもなかったりするのは、
なんでかっていうと、実は男性っていう属性はそんなに……。
どうでもいいっていうことですね。
そこだけではないんじゃないかなと思っていたってますね。
今、至ってるってことですか?
今、至ってますね。
この視点はなかったですね。
再分化すればどこまでも行っちゃうじゃんっていうことでもあるんですけど、
でもそれはやっぱり男性と女性の社会的な精査みたいなものが、
良くも悪くも働いていて、
女性の大変さみたいなものはそこに共有されやすいっていうのがあると思うんですね。
同じ大変さを抱えている人が多いからだと思うんですけども。
社会構造的にそういう長所いないケースが多いってことですね。
仕事を休まないといけないとか、
夫が外に出て、妻が育児を全部やらないといけないみたいな、
そういうシチュエーションが多いから、その声も多くなって、
その大変さを共有することもしやすいってなるんだけど、
でもそうじゃない場合に、男性とじゃないお家もたくさんあって。
そのバランスというか、男性っていうよりかは、
それぞれの仕事と家事と育児みたいな4つかな。
もし女性も仕事していたらその4つがあって、それぞれ…。
うちの場合だと、全然似てる条件のお家が少ないみたいで、
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そこを探すの大変なんですよね。
家事は僕は割とやっていて、
だから家事をやっていて、そこに育児も家の中に生じて、
家事のやり方がこれまでと変わったり、分担の仕方が変わったりすることから来る大変さみたいなのって、
やっぱり女性がそういう声を上げてるものの方が多く見つかるんですよね。
だから、その大変さだけで言えば、僕はそういうものに救いというか、癒しを求める。
一時の、分かる、みたいな。
そういうことあるよね、みたいな。
そうそうそう、見つけられるんですけど、
でもそこの大変さに対してさらにどういう不満とかの言葉があるかというと、
今度は自分ばかりが家事もやって育児もやってっていうふうな感じで、
そのパートナーに対する不満であるとか、あるいはその社会構造に対する不満であるとか、
いうようなことがついてきたりするんだけど、そこになると自分にはフィットしなかったりするわけですよ。
そういう探すのが難しさがあるみたいな。
話がぐだぐだしちゃう。
いやいやいや、ケースバイケースの中で見つけるパターンの少なさみたいな話ですよね。
女性の場合だと多分いろんなパターンが比較的多い中で、
男性版だといく面的な、そういう文脈が多く感じるし、
でもその頑張ってることを別に確認したいわけでもなくてっていうとかそういう感じですよね。
それはすごいわかる感じしますね。
たくぼくんはどうですか。
確かに単純に、男性が書いているっていう母数が少ないっていうのはあると思うんですけど、
確かに似たような境遇の人を探したいっていうのはあって、
たぶん僕とか山田はサラリーマンなんで、
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サラリーマンの人が普段どういった感じで育児に向き合っているのかっていうのはほぼ知ることができない。
ブログとかそういうレベルではあると思うんですけど、
やっぱり本とかでオフィシャルに出版されるものの中で、
サラリーマンやってるという時点でオフィシャルには多分あんまり出ないっていうのが当然なんですけど、
ここをやっぱり知ろうと思っても、
サラリーマンはサラリーマンでなかなか自分に似た境遇の本を探すことっていうのが難しいなっていうのは思いましたね。
僕もどうしても男性が書いてる育児本はっていう性を意識しながら探しちゃうんですけど、
やっぱりなくて、
メソッド、初めての目浴とか、
初めての病院みたいなそういうのが知りたいわけじゃなくて、
淡々とどう向き合ってるんだろうっていうのを読みたいけど、
探し方が下手なのか、ボスが少ないのか、
なかなかいいのないなっていう傲慢な悩みがありますね。
けどただ往復書館でいうと、一方で、やっぱりちょっと話すれちゃうかもしれないですけど、
僕はすごい印象的だったのが、
滝口さんのお子さんが初めて立った時の描写のあったと思うんですけど、
本当に2ページ3ページに渡って立ったという事実が細かく書かれた。
ああいう文章は別に男性女性とか関係なく、
僕はすごい新鮮というか、
普段もバタバタとしながら日常流れていっちゃうんですけど、
ああいうふうに細かく子供のことを見てるんだろうかみたいな、
そういう思いにあれを読んでる時になって、
ああいう日常がただ書かれたものっていうのを読みたいなというのはあったんで、
あの復書館は本当に僕の中ですごい新しかったなと思います。
僕も、たぶんみなさんもきっと見てると思うんですけど、
そういう場面とか、立ったとか立とうとしているみたいなところを見てると思うんですけど、
それをすごいスピードで変化していくじゃないですか、小さい子って。
それをどう書き留めておくかとか記録するかってすごい難しいですよね。
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写真を撮るとかもちろん記録だけど、
ああいう言葉じゃないと残せない感じみたいなのもあるし。
ありますね。
といってね、僕は物書きだから絵で書くことは方法としてわりとスムーズに結びつきますけど、
そんなに普段文章を書いたりしないっていう人にとっては、なかなか文章で書き留めておくっていうことも簡単ではないのかもしれないし。
そうですね。だからこそすごい。
写真とか声とかは今の時代いくらでも残せるので、
たぶん僕もそうですけど、それに逃げるというか、
それである程度自分を満たして、数年後見たとき、ああ懐かしいなってなるんですけど、
やっぱりあの文字であの流度で描写されるっていうのは本当にないという。
僕は物書けないんで、あんな風に書けないし、
だからこそ滝口さんみたいな方が書いて、それを読めるっていうのはなんかすごい幸せなことやなっていう感じですね。
いや本当そう思いましたね。
なんていうか、それ読んだときに、自分がいかに見てないんかっていうことも感じましたね。
そうなんですか。
ああ、こんぐらいのことが起こってるんだっていうことに気づくというか。
写真とか動画だと、そこに記録としては残るんですけど、
なんていうかな、その偉大さっていうか、それすごい大きな話になっちゃいますけど、
なんか生きてるみたいなことを、生きようとしているみたいなことを、
すごいあの文章読んで感じましたね、僕は。
文章の場合は、書いてる側の目とか意識が当然入ってくるから、
なんかこう良くも悪くも、熱みたいなものが生じてしまいますよね。
きっと動画とかよりも。
主観性がすごいんですか。
音とか残すといいと思います。動画とか写真もいいですけど、音声だけとか。
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そしてデータでなく物理的に残しておくと、なんかテープとかに残すとか。
写真もですけど、データだけだとアクセスしにくくなるので。
何十年後かにゴロっと出てくる可能性みたいなものを記録に形を与えておくっていうのは結構大事なことになります。
文章っていうのはそれをやってるようなことだと思います。
メディアに。
形として取り出しておいて。
写真でも音でも、プリントするだけでも結構違うんじゃないかなと思います。
なんか僕が聞いてるラジオの人は、子供用のメールアカウントを作って、
普段の会話とか、子供が急に歌いだしたときにサッとボイスメモを録音して、
それをひたすら子供のメールアカウントに添付して送り付けてるらしいんです。
子供が大きくなったときにそのアカウントを渡して、
そこには自分含めて、数年前とかの自分や兄弟や親の声が入ってるっていう。
逆の立場だとどう感じるのかなって。
アルバムを残しておくみたいなことですよね、きっとね。
そうですね。確かに昔親と自分がどう話していたとか、それを聞いて気になると思うんで。
音は面白いですよ。音の記録はぜひ残すといいっていうか。
意外と子供が喋ってたり泣いてたりする声もそうですけど、その周囲の音も残るじゃないですか。
僕も昔、自分が赤ん坊の頃の鳴き声のテープを聞いたことがあって、
結構大人になって、母親の実家で出てきたみたいな。
それは結構強烈でしたね。
自分の声もだけど、その周りになんとなくいる人たちの声みたいなのがすごい強烈でしたね。
自分はちゃんとある現実の環境にいたんだなみたいなことを思わされて。
育てられてたんだなみたいな。
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ビジュアルがない分、なんか迫るものがあるっていうか。
全然そんな発想なかったですね。音で記録するみたいな。
音の記録はすごい良いと思いますよ。
何の話でしたっけ?
育児本の話でしたけど、育児本の話になってないですけど。
いやいやいや。横道逸れていくスタイルがちょうどいいんで。
それで言うと、最近タクボから話があって、絵本の選び方の話があって、
それをちょっとしてもらえますか。
絵本の選び方。
じゃなくて、タクボさんの課題について。
そうですね、シンプルな質問としては、
物書く方が自分の子さんとかにどういった本を選んでるのかなっていうのは、
もしあれば聞きたいなと思ってて。
僕は上の子がもうすぐ6歳なんで、
いわゆる絵本から、最近児童小ぐらいの文字量のものを読めるようになってるので、
結構、自分から本屋に行ったら自分で取りに行くし、
自分が欲しい本を明確に持ってるんですけど、
なんでかつて絵本で、親の英語でガイディングしてたことがなかなか聞かなくなってきてるので、
選んであげるっていうのは結構難しくなるんですけど、
やっぱり、感受性が豊かな時期に、
ことは悪いですけど、
下手な本を読むと、そこに書かれたちょっとステレオタイプな思想とかを信じてしまうリスクもあって、
もちろん本人の意思を尊重したいという気持ちもありつつ、
本選びはすごい慎重にいきたい、難しいなとか思う時があるので、
そのあたりどういったお考えとかあるのかなというのをざっくり聞きたいなと思ってます。
僕は全然そこはなくてですね。
絵本をたくさんいただいたり買ったりして、たくさんあるし読んだりしてるんですけど、
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僕が買って選んだ本はほとんど数冊しかないと思うんですね。
ほとんどもらったり、あとは妻が買ってきた本ばっかりで。
僕はあんまりこういうのを読ませようとかこういうものを見せようみたいな、本当に無頓着ですね。
だって考えがないですね。あるものを読めばいいし見ればいいみたいに思ってて。
もちろんあまりにもよろしくないものは遠ざけようみたいなことは思いますけど。
ちっちゃいうちに、さっきおっしゃってたような、感受せようみたいなことをあんまり思わないんですよね。
でも全然うちの妻とは考えが違って、妻はわりと熱心に絵本を選んで与えてみたり、
こういうところに連れてってみたいとかって。
上層教育に良さそうな場所に。
上層教育はもうちょっと現実的な教育かもしれないけど、そういうところに連れてってみたいみたいなことを言ったりだったりしていて。
僕はもう本当に近所の散歩とかばっかり。
近所の散歩ばっかりしてますね、子どもと。
もっといろんなところに連れてったりしてくれって言われるんですけど。
でも近所の散歩は全然刺激的じゃないだろうかって思ってしまうので。
僕自身がそんなに小さい頃にすごい絵本たくさん読んだとか読んでもらったみたいな記憶があるわけじゃないっていうのももしかしたらあるのかもしれないですね。
さっき上のお子さんが言ってたみたいに、そのうち勝手に自分で好きなものを読んだり見たりするようになるし。
そうなんですよね。
それでいいんじゃないかとか聞かれたらやればいいかみたいな感じに思ってますね。
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大きくなって。
あとは好きそうなものがあればもちろん、こういうものに興味があるんだなってことをこちらが感じたときには何かサジェスチョンをしてあげようとは思いますけど。
むしろ一緒にわーとか思ってる感じですね。
心ごと一緒に散歩してると見え方変わるじゃないですか。世界一の見え方が。
それだけで随分刺激的だなとかって追体験してるので、
そんなにいろいろやらなくても十分だって思っちゃってるかもしれないです。
早期教育の、教育じゃないですけど、そこまで言わないですけど、卓語のケースとか。
僕はちょうど間ぐらいっていうか、読んだほうがいいんだろうなとは思いつつも、
卓語と話した話で言うと、例えば動物が行ってらっしゃいとか、お帰りなさいとか言うんですよ。
言ってる絵本があって、ゾウなんですけど、行ってらっしゃいっていうのは母と子供で、出かけるのは父。
父のゾウで、お帰りっていうのは逆、男がしか帰ってこないみたいな感じがあって、
確かにこれ見たら卓語が言うところの変な本っていうか、そういうの気になるっていうのも分かるんですけど、
一方でそれも出てきた時に、今は言っても分からないですけど、
どこかでそういうふうに強めのストレートタイプ持ってるなって思ったタイミングで、
いや別にそういうわけじゃないんですよって、サッサとしていけばいいじゃんって思ったりもするし、
社会全体が教えていってくれるのではっていう期待も持ってたりするみたいな、僕はそういう塩梅なんですよね。
だから全然答えとかはないと思っていて、みんなどう考えてるのかなっていうのを聞いてみた。
でも確かにさっき、ゾウさんの家族で性別という役割分担みたいなものが現れるときに、
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そこにあまりにもストレートタイプでエクスキューズが入らないみたいなものは確かに気になったりするところもあるかもしれないですね。
でもそういうのはバランスをどうとるかみたいなことはコントロールできるじゃないですか。
言葉で説明することもできるのかもしれないし、そういうものも与えつつ、そうでないものも用意しておくとか、今はすごく保育園に通ってるんですけど、
保育園に行ったり、子供用のいいテレみたいなプログラムの中でも、昔に比べればいろんなことをケアして番組を作ったりしてるなっていうのを感じることが結構あるので。
差し挟める局面は多いのかなと思いますね。
こういう子供に対して、こういうことなんだよとか、こういうことではないんだよとかっていうことを伝えられる局面は、結構いろいろあるような気がしますね。
海外のアニメとかも、今普通にYouTubeとかでも無料で見れるんですけど、やっぱり新しめのアニメは、ジェンダー感とかが全然アップデートされてるし、お尻探偵っていう本をかなり上の子は今好きなんですけど。
お尻探偵。
ご存知ですかね。
お尻探偵知ってますよ。
知らんな。
細かくは知らないですけど知ってますよ。すごい人気がある。
小学生、もうちょっと下か。このぐらいの子なんですね。
そうですね。昔で言う解決ぞろりぐらいの文字量なんですね。
僕は娘の影響で見るまでは、主人公がお尻で必殺技がおならっていう、かつてのクレヨンしんちゃんみたいにBPO的にどうなんだって勝手に思ってたんですけど。
うるせえな。
でも見ると決してそういうワードが下ネタに使われてるわけでもないし、それを見てお尻とかをならおうともすればいじめぐらいの扱いで子どもたちが発することもないだろうなっていうぐらいの塩梅で、すごく新しいなって見て新鮮な気持ちで見れるんで。
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よっぽど昔からあるなんとか二郎みたいなアニメとかのほうがよっぽど気になることが多くて。
もしお二人もお子さん大きくなったらお尻探偵通るかもしれないですけど、おすすめです。
なんか大人気だっていうのは知ってますね。
またぜひチェックしてください。
イーテレのお母さんと一緒みたいな番組も、
3人キャラクターがいて、1人は性別が固定されてないんですよ。男のトラ。
トラか何かが、チーター。チーターだからトラだから男の子で、カッパが女の子で、もう一人ひょうたん。ひょうたんがいる。
なんかいるな。右端に。
ひょうたんは特に男性とも女性とも決まっていないというか、決められてないみたいな感じの。
関係ないですけど、イーテレすごい見るようになったんですけど。
なんかすごいカッパが出てくるんですけど、あれは何なんですかね。
すごいカッパ率なんですよ。
別のプログラムでずっと続けて見てると、カッパばっかり出てくるんですね。
なんかあるんですかねって思ってますね。
知らなかった。カッパブームなんですかね。
なんなんですかね。
久しぶりなんですかね。
どの番組にもカッパが出てくるなと思いながらいつも見てる。
知らなかった。
花カッパとかですか。
そうそう。花カッパから始まり。
これはカッパ主人公ですよね。
そう、あれはもうモロなんですけど。
お母さんと一緒に出てくるし、
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さらに最近、現在的なSDGsとかを全面に押し出してるプログラムがあって、そこにもカッパが出てくるんですよ。
メインキャラクターみたいので。
なんだろうこのカッパへの偏りはってちょっと思ってるんですけど。
でもジェンダー感でいうと、うさぎは女の子でライオンは男の子みたいな、そういう動物と比べるとカッパはどっちなんだっていうのが。
カッパニュートロシスってこと?
そうそうカッパによってジェンダーフリーなところを伝えてるとかあるかもしれない。
お母さんと一緒のカッパは女の子なんですよね。
それでも僕はちょっと新鮮というか意外というかかもと思っちゃいましたね。
妖怪絵とかのカッパはどちらかというとオスっぽい描かれ方のような思いがしたんですけど。
お酒のCMで木澤くんやったかな?女性の入浴してるカッパだった気がしますけど。
それとはちょっと種類が違いますね。
そういう環境的には僕らが育った時よりかははるかに良くなってるから大丈夫じゃねーっていう感じは持ちますね。
口挟める機会もあるし、周りの人が言うかもしれないしっていうチャンスも多いところだろうしっていう感じですかね。
あとは、僕が話しておきますけど、往復書館でめっちゃなんていうか救われたっていうかそういう言い方あるかわからないですけど。
日々心で唱えてる言葉があって、子供がわりと自我を発揮する、いわゆるちょっと身勝手な行動をするじゃないですか。
その時に本の中で不服言ったりとか泣いたりすることを、個人だと感動しますって書かれていたじゃないですか。
あれはすごい僕の中では革命的に楽になったっていうか。
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離乳食とか今あげてるんですけど、食べさせるのめっちゃ大変で、散らかしたりとか特定の食べ物嫌がったりとかあると思うんですけど。
そういう時すごいストレス溜まるんですけど、そこでなんていうか、これは個人になる第一歩なんだって自分に言い聞かせてなんとか食べさせてる日々が今って、
それもすごいいい言葉だなって僕は思ってるっていう話です。
もちろん大変ですよね。大変でしたね。大変だったけど。
でもやっぱり驚きというか、それまで全然何の主張もしなかった人が、
嫌だって言うとか、こっちがいいとかっていうことの感動は大変な中にもあるなって。
これも文章の方法のいいところで、その場はどんなに大変でもう勘弁してくれよってなってても、
文章はその時に書くわけじゃないから、それは例えば後から振り返って書かれるものなんですよね。
だからもう少しクールダウンして、その場面、局面を捉え直すことができるので。
思い返してみたいなことですね。
あの言い上がり方とか、あの感触みたいなのはどういうことだったのかって、
その時はどこまで思えなくても、後から思い返して言葉にすると、そういうふうに言えるかもしれない。
でもすごい嬉しいというかありがたいですね。そうやって読んでもらって、それが救いになっているので。
そういう観点で見れる余裕が、事故じゃないと出ないっていうのが今わかりましたね。
その直面してる間はもうとにかく大変でっていう感じが。
大変ですよね。
そうやって自分でも振り返る時間を作った方がいいんだなっていうのを今聞いてて思いましたね。
1:06:02
一個一個、あの時なんでこうやったんだろうなみたいな考察っていうか、
考えた方が自分も楽になるし、記録っていうか、こんなことあったなみたいなことにもなるんだろうなって今お話聞いてて思いましたね。
中坊さんも何かありますか。往復書館関連とかで言うとか、子育て系とかで言うとか。
ああ、そうですね。
竹内さんのお子様も、先ほどおっしゃったように、「やだ」とか、「ない」とか言う。
本当に単語レベルとかはお話しされるとこで子供に変な話すように。
「やだ」とかは言いますね。今だから結構言葉が日一日と覚えたりしているところですね。
そうですよね。たくまさんとほぼ同じですもんね。1歳7ヶ月だから。
そうですね。本当に「やだ」って。
「やだ」は言いますね。
牛モロンぶん投げたりしてますね。
「やだ」っていう表現の方が先に出る感じで、
今結構それを嫌なときに手を出したり怒ったりするんじゃなくて、
嫌だって先に言ったらどうだいっていうのを伝えてみてるときですね。
なるほどね。
確かに投げたり泣いたりが先行するので、まだ言葉が後からっていう感じではありますよね。
子供への言葉遣い、ちょっと山田のメモにも書いてくれてることなんですけど、
子供への言葉遣いとかも普段からみんなどういうふうに意識されてるのかなっていうのを聞きたくて、
例えば有名なモンテス創り教育とかであると思うんですけど、
アイフォンとか読むと一番最初に子供は対等な存在であるみたいなことが書かれていて、
これは僕すごい好きで、
一方でよく話せるようになってきた1歳2歳の子に対して、
1:09:01
何々だねーすごいねーとか、
ワンランク目線を下げた形で言葉を発することってあると思うんですけど、
それを自然と、ああいうスタイルで言葉を発することで自然とゆっくり丁寧にしゃべることになるんで、
伝わりやすいっていうのはもちろんそもそもあると思うんですけど、
ワンランク目線を下げるっていうことが、
僕が好きな対等でいたいっていうのと矛盾するというか、
すごいワンランク目線を下げるってのは、大人がワンランク上にいるっていうのを示してるような感じがしちゃってて、
何々してあげようかーっていう言葉が、
すなわち僕とあなたは対等じゃないんですよーって言ってるような感じがどうしても、
自分で言っててもそうだし、他の人のやつを聞いててもそう感じてしまう。
もやもやがすごいあって。
そういうのって思ったりしますか?
いや、わかる。わかりますね。
対等でいたいっていうのは僕もわかります。そう思いますね。
とはいえ、対等というのは心構えとして対等さというのがあるけど、
実際には大人が教えたりしないといけないことももちろんあるし、
子どもが何かができるようになったとか何かができたっていうときに、
それがすごいねっていうのが褒めたりするよりも、
こちらの驚きとして発してあげるというか、
こちらの驚きとかはすごいなーっていう気持ちで言えばいいのかなーって。
えらいねっていうのはつい出ちゃうときあるんですけど、
それはやっぱり言わないように気をつけてますね。
例えば電車とか乗ってて、機嫌よく乗ってたら泣いたりうるさくしたりしないで、
えらいねみたいなことをつい言っちゃったりすることもあるんですけど、
1:12:04
でもそれはなんか良くないなと思って、
えらいねは気をつけてますね。言わないように。
えらいねとすごいねはやっぱり微妙に違うもんですかね。
すごいねも、こちらの気の持ちようかもしれないけど、
えらいねだったら、えらいっていうのは大人の勝手な事情の話であって、
別にそれに合わせて、合わせてくれたからえらいねっていうのはすごい大人の勝手な話で。
そういうときに言うんだったら、静かにしててくれて、助かりました。
ありがたかったです。みたいなことを言えばいい。ニュアンスとしては。
そうですね。結構そういうふうに伝えてますね。
感謝。
そうですね。感謝ですね。
めっちゃいいですね。
すごいねっていうのは、驚きとか関心とか、本当にすごいじゃないですか。
なんかができるようになったりすることって。
すごいねっていうのもやっぱり、目線を下げる。
目線は実際は下がってるのかもしれないですけど、しゃがんで同じ目線になるというか。
例えですけど、立ったまま上から見下ろすのではなく、しゃがんでやるように、結構物理的にもしてますね。
話を聞くときとか。
同じ視点の高さにするっていうのはやってるかもしれないです。
いやー面白い。
僕それは育児っていうよりかは、昔大工書館でも書いたかもしれないですけど、
遊園地でバイトしてて、うちの子供より大きいですけど、1歳2歳から小学生ぐらいまで遊びに来るような。
大きい子はそんなに来ない。小さい子供用の遊園地で働いてたんですけど、バイトしてたんです。
1:15:00
そのほうがいいなと思ってそうしてたんです。
立ったまんまできるんですよ。立ったまんま子供から券をもらって、
渡して。
中に入れて、乗るのを待って動かしてて、ずっと立ったまんまできるんですけど、
その視点の高さの違いみたいなものは大きいなって思って。
しゃがめばいい話で、しゃがんで子供と同じ高さで接してると全然違うっていうか、
楽しいかって言ったんですけど、楽しいなって思ってそうしてたんですけど、
そのほうがいろいろ話がしやすいし、コミュニケーションが豊かになるなと思って。
それが全然違うなって思ったんで、今もわりと保育園で他のこと気をつけて、自然としゃがんで。
あんまり大人としてみたいな感じで付き合ってないところがあるかもしれない。
そんなことないと思いますから。
受動的になる感じかもしれない。
大人として子供に何かを向けるっていうよりは、どうですかーっていう感じで。
なんかありますかーっていう感じで。
ウェルカムな感じにするには、視線を同じ高さにして話聞きますよって感じで言うと、
わりとコミュニケーションのあり方も変わるのかもしれないなって話しながら思った。
いや、しゃがみます。明日から。
たぶんしゃがんだら楽しいと思いますよ。
すごい大事だって思いますね。
物理的に背が高い時点で構図が出来上がってて。
だしね、本当に子供の高さで見るだけで全然違って面白いし、犬とかもでかいですよ。
1:18:04
なるほど。しゃがんでみたら。
虫もよく見えるし。
ありがとうございます。
素直な感情の発露は別にそのままでいいんではって感じですよね。
すごいねーとか、ありがとうとか。
偉いとか、そういう大人の尺度が入ってくる言葉とか考え方があんまり良くない。
ツッコミ?
使い方としては、そんなの知らないでしょ、子供って。
思い直して、偉いとかじゃないかって思うことはあります。
語彙としてはやっぱりあって、自分の中にもきっと言われたり聞いたりしてきたから、つい出ちゃったりすることはあるんですけど、
それは反省したり訂正したりしてますね。
結構訂正もしますね、間違えたりしたり。どのくらい理解しているかわかんないけど、
こちらの問題としてというか、一応。
それはすごいですね。
いやー、やっぱり言葉の型ですね。すごい。
偉いとかではないかって言ったりとか。
偉いとかあったらみんな知らないよね。
俺がありがたかったなっていう話だわっていう。
こう伝えたりするように。
いやー、それおもろいですねそれ。
一歳半の子に訂正してるんですね。
おもろいな。
でも大事だと思います。
絵本とか僕は無頓着って言いましたけど、
適当なことを言わないようにしてるっていうのはあるかもしれないね。
わかるわかんないは。
わかんないからといって適当にするみたいなのは、よくないっていう気がしてしまう。
ちゃんと言葉を考えて言葉を使う。
そして伝えるっていうのはしてますね。
僕とかは自分自身の言葉使いが汚いんで、
すごい心配されてて、すごい不安なんですよ。
1:21:02
汚いって言うと乱暴だったりするってことですか?
そうですね。乱暴な言葉が多いんで。
今からそういう心持ちがいるんだなとか。
まあ別に乱暴でもね、すごく攻撃的だったりせなければ別にいいと思います。
ちょっと気を引き締めていきたいな。まだ7ヶ月なんでちょっとあれですけど。
そんなところですかね。往復書館の周りの話は。
あとちょっと時間許すかありますか。
大丈夫です。
大丈夫ですか。小説の話をちょっと聞いてみるか。
したいなと思ったんですけど。
大丈夫ですよ。
大丈夫ですか。ありがとうございます。
前のポッドキャストの話なんかわかんないですけど、
さっきもおっしゃってたように2016ぐらいにねぞっていう本を2人とも読んで、
確か上評家の豊崎さんがセッション20とかなんかで紹介されて、
それで読んで2人ってめちゃくちゃ盛り上がったのがすごい記憶にあって、
それ変わって今回もめちゃくちゃ緊張したんですけど。
そこから出る作品はちくちく読んできたんですけど。
ねぞと一番最初の本ですけど、それのことですよね。
そうです。人形が横に4体並んでるんです。
これが一番最初ですよね。で、その後死んでないんですか。
いや、ねぞは1冊目で、死んでいない。
ねぞは出たの自体は2014年かな。
すみません。
4年だと思うんですけど。
その後に何冊かあって、死んでいないものは4冊目で。
2016ですか。
そうですそうです。
失礼しました。
いえいえ。
そうです。だから僕ら死んでいないもので芥川賞を受賞されて、
死んでいないものを読む。
その時に読んだ。
そのタイミングですね。
死んでいないものもすごいエポックメイキングというか、
当然芥川賞取ってるんでそうなんですけど、
僕らはそこですごい盛り上がっていろいろ読んだりしてて、
1:24:02
あんまり読んだことないっていうか、見たことない。
別にとっぴな設定とかがあるわけじゃないんですけど、
なんて言えばいいんですかね。
マジックがあるっていうか、なんて言えばいいか。
謎の世界が。
僕らそんなにそこまでめっちゃ小説読みとかではなかったので、その当時。
すごい衝撃を受けたっていうことがあって。
そこからいろいろずっと読んできて、
最近だと絵を当て忘れる過程の途中とかもめちゃくちゃ好きで、
最近その日記っぽいモードになってきてらっしゃると思うんですけど、
その辺のスイッチっていうか、別にスイッチしたわけではないと思うんですけど、
ここ最近は日記ベースっていうか、夏の輝きとかもそうだと思うんですけど、
割と日記にフォーカスした内容が多いなと思ってたんですが、
そういうのは何か、こうしていこうみたいな、天気みたいな。
そんなに意識的に、方向性とかこういう方法で、
決めて始める感じではないんですけど。
日記は昔から読むのも好きだったし、面白いなと思っていたので、
小説を書くっていう上でも、日記っていうテキストのあり方っていうのは面白いなと思ったので、
いろいろなところで使ってたり、
ここにこそ実際に最近は愛媛に行ったときの日記も書いたし、
小説の中に日記の形式を使ったりっていうのもやってるんですけど、
そんなにコンセプトとしてっていうよりかは、もともとあった興味とかが自然と出てきてる感じですね、日記については。
結構混乱するというか、
日記、やがて忘れ家庭の都市とかが一番そうだと思うんですけど、ほぼおそらく事実じゃないですか、事実だったりとか。
長い1日も冒頭はそういうトーンで始まり、途中から小説になったみたいな話があって、
1:27:03
その往復書館でもすごい面白いなと思ったのが、小説に逃がすみたいな話をされたと思うんですけど、
その境目みたいなのをどういうふうに切り分けて、これも切り分けされてないかもしれないですけど、
作者の人はどう考えてるのかなっていうのが知りたかったんですけど。
日記の面白さっていうのは、小説で書けないことが書けるなっていう面白さなんですね。僕が面白いなと思って。
日記ってその日あったことを書きますっていう枠組みがあるから、
それが、ただあっただけでいいっていうか、ただあったことを書き込めるんですよね、日記って。
事実をさーっと。
事実じゃなくてもいいんですけど。
一気に嘘を書いたっていいと思うんですけど、ともかくそれが何なの?みたいなことを書けると思うんですよね。
でも小説ってそういう出来事ってなかなか書けなくて、
全体の中とか流れの中で、意味のあることしかなかなか書けないんですよ。
物語を進めるためみたいなことですか。
そうそうそうそう。
全く意味のないことを書き込むことは簡単なんですけど、
意味のないことを書き込んだことの意味みたいなものがどうしても生じてしまう。
常につきまとうというか。
なんでこんなことが書かれているのかって、書く必要ないじゃないかって話になるんで、
目的とか必要性みたいなことにどうしても絡めとられてしまうんですよね、書かれたことっていうのは。
だけど日記って、
今日歩いてたら泣いてる人がいた。
ただそれだけなんだけど、
それって小説に書くとすごく意味が帯びてきてしまうんですよね。
1:30:02
そういうものから離れて、ただそれだけを書くっていうことが日記ってできる。
それが小説との差異として面白いなっていうのを昔から思ってて。
でもそう言われるとちょっと納得できるっていうか、
特に長い一日とか、物語に奉仕しない何か冗長さみたいなのがあると思うんですけど、
そこがすごい面白かったんですよね。意味のなさっていうか。
あれ最初の2回目ぐらいではまだ日記で、
美術展に行って見た作品の感想とかをただ書いてるんですけど、
それってたぶん小説だったらなかなか書けないんですよね。
そうですね。主人公が感じた感想みたいな。
まだそれも意味出ちゃいます。
長い一日っていう作品も、途中からは小説のモードになったから、
もうそうなったらたぶんそんなに書けなくて、
美術展見に行って、その作品の細かい説明をするっていうのは書けなくて、
序盤だからできた。それをそのまま残したんですけど。
それがすごいなと思ったんですけどね。一冊の中でそれがパッケージされてるっていうか。
普通だったら、それはエッセイ用に撮っておいてみたいなことにしちゃいがちじゃなくて。
やろうと思えば、小説として仕立て直すみたいなことももちろん選択肢の一つではあったんですけど、
まあまあそれよりかは、作品全体としての綺麗に円環が閉じるみたいなことよりは、
始まりがあって、そこからどういう軌道を描いて終わりにいくかみたいな。
軌道があればいいじゃないかって思うから、どの作品に関してもそうなんですけど。
整えるって綺麗に閉じるみたいな完成イメージみたいなものはあんまりないんですよね。
1:33:12
あんまり描き始めるときに全体像がどうのというよりかは、とりあえず描くんじゃないかみたいな感じですか。
そうですね。全体像とかもないし、描いてる途中とか最後まであんまり全体像みたいなことは考えないかもしれないですね。
考えないけど、自然とっていうか、同じものを描き始めて、それを描き継いでいって続いているわけだから、
どうしたって全く最初の方と無関係みたいなふうにはならないわけで。
そうすると、綺麗に閉じたりはしないけど、後から見てみたら、やっぱりなんか最初から最後まで一つの何かではあるなっていう感じになるから不思議だなと思うんですよ。
僕は当然作家の友達とかがいないのでわかんないんですけど、作品作るときにあらかじめ全体像をガチッと決めないっていうのは多いんですかね。そういう方のほうが多いんですかね。
これ結構わかんないんですけど、僕もみんながどうしてるかわかんないんで。決める人もいるし、決めないっていう人もいるし、どっちが多いかはちょっと本当にわかんないんですけど、
いずれにしろ、すごいガチッと決める人でも、結局実際に文章にしていくっていう作業があるわけじゃないですか。
そうそう。設計図的なものがあるにしろないにしろ、文章の形にそれをしていかないといけないわけじゃないですか。調節。
その作業のほうがよっぽど強いというか、そこで設計図があるからといってその通りに書けば文章はもう楽ちんで書けるのである、みたいなもんではないと思うんですよね。
1:36:10
だからあんまり設計図のあるなしってどうなんだろうか、関係あるんだろうかみたいな最近は思いますね。昔は、ある時期までは、ちょっとわかんないですけど、
大阪和志さんっていう人の小説論を読んだのが一つ書き手としては大きな契機だったんですけど、
小笠原さんの影響として一つ、僕だけじゃなくて、日本で書かれる小説の読み方とか見られ方によって小笠原さんが言ったことで大きいのは、
ブロッドとか設計図みたいなものが無くて書くのである、ダンスとか姿勢みたいなものは、ある種の驚きをもって受け止められたところがあったと思うんですね。
だから影響力、それが影響力の大きさでもあると思うんですけど、それまでは小説っていうのは事前にプロットがあって、こういう構造になってるってものがあって書かれるものって思ってたけど、
そうじゃなくて、本当に一行目を書いて、その先どうなっていくかわからない中で書き進められるものなのである、みたいな、そういう小説感っていうか、書くっていうことのあり方があるんですよっていうことを示したのがとても大きかった。
僕にとっても大きかったんですけど。
影響を受けてる人が多そうってことですね。
もうそうだし、世の中的にも大きかったと思うんですけど。
でも、設計図のあるなしってさっき言ったみたいに、設計図がないからといって本当に何もないのかって言ったら、そういうことでもないと思うんですね。
1:39:03
全く何もないってわけじゃなくて、設計図はないけど、その描く人の頭の中とかではやっぱりいろんなものがあって、それを実際に書き進めていく中で、そういうものが出たり入ったりしてくるっていうか、影響してくるっていうことなんじゃないかなと思うので。
設計図はないけど頭の中にはすごいいろんなことがありますっていう人もいれば、
結構本当に何も決まってなくて、見通しゼロですみたいな人ももしかしたらいればかもしれないですよね。
書いていく中で見つけるタイプの人もいるって感じですかね。
結構ガチッと図ができてますとか、進行表みたいなのがありますっていう人もいるかもしれないし、いろいろだと思うんですけど、
みんな共通しているのは、文章を書き進めていくっていう作業はしているはずで、
きっとそこにおいて何かしらの格闘的なことが起こってはいるとは思うんですけどね。
そういう小説の書く側の視点みたいなことはあんまり考えたり読者側とするとしないんで。
こういう話は新鮮ですごい面白いですね。
そんなの知らなくても読めるしね。
楽しめる。まあそうですけどね。
全然話違うんですけど、書く前にインプットみたいなことっていうのは普段から本を読んだりとかっていうのが多いというか、
インプットとアウトプットという感じなのかなっていうのを知ってますけど。
わりと自然に任せてますね。
本的にインプットみたいな、そしてアウトプットみたいな感じではなく、
もちろん何か必要があって調べ物とかそういうことはありますけど、
そうじゃなくてもうちょっとこう…。
1:42:07
自然の中で読みたいのを読んだりとか見たりとか。
そうですね。あとは、わりと本はもちろん大事ですけど、本以外のものであるとか、
あとは本当に、日常生活の家事とか育児とかみたいなことも僕は結構大事だなと感じてます。
どこがどう資金につながってるかっていうのはうまく言えないですけど。
毎日仕事してても、僕はその日やったほうが良さそうな家事を先にやらないとなかなか仕事はできないなとか。
それはインプットなのがちょっと微妙だけど。
でもそういう気持ちになるなっていうインプットってことですね。
私は結構大事だなと思ってますね。
やりながら考えることももちろんあるし、
手を動かすことで頭を動かすみたいな意味ももちろんあるけど、
でもそれだけじゃなくて、家事したり買い物したり、ご飯作ったり食べたりとかっていうことは、どうでもいいとは全然思わないですね。
そういう日常の中もインプットの一つ。
うん、ですね。
でも確かに作品から、めっちゃ生活感じるっていうか、
主人公がほんまにいる人みたいな感じが毎回するんで、
そこが、それこそ日記にシンクロしてるっていうか、ところもあると思うんですけど。
そういうのがすごい好きなところなので、そういうことだなって今納得しました。
どれほどの実体験が小説化されてるのかなっていつも思うぐらい描写がすごく、
それこそお子さん立ったシーンとかもそういうと思うんですけど、
この間ジミヘンドリックス・エクスペリエンスを読んだんですけど、
1:45:02
竹矢部を歩くシーンとかがすごいリアルで、
あれは取材…すいません、すごい細かいシーンだと思うんですけど、
あれは本当その経験なのか、意図的に取材に行ってインプットされたのかとかっていうのが
本当に分かんないぐらいリアリティが迫るという感じがしてて。
取材とかってされるとは思うんですけども、
実体験のどれぐらいのバランスでされるのかなって。
作品にもよるんですけどもちろん。
取材をわざわざするみたいなことは僕は結構やらないくて、ほとんどしないです。
書くための取材みたいなことを、こういうことを書こうって決めてからやることは少ないです。
実体験がどのくらい入ってるかっていうのはなかなか難しいんですけど、説明が。
全然入ってないなんてことはもちろんないんだけど、そのまま書いてますみたいなことも少ないので。
場所はどこかここっていう、自分が行ったことのある場所だったりするけど、
じゃあそこで起こっている出来事は実体験ではないとか。
それはそうだろうみたいな話かもしれないですけど、そういう感じのバランスですね。
全く架空の、全てこの作品は、全て架空で実体験は全くゼロですみたいな。
いうふうに言える作品はないなっていうふうに思うかな。
地味編はちょっと例外で、かなり実体験が多いかもしれないですね。
一人でいろいろいろなとこに行くという。
バイクで東北に行ったっていうのは、実体験で実際に僕が行ったんですよ、重工のとき。
ただそこであったことが、その小説の中と全部同じではないんですけど、事故とかもしてないし。
1:48:02
本当に小説を読んでるんですけど、どこまでが滝口さんなのか。
僕個人は本当にこれ全部滝口さんなのかなって、小説どれを読んでも思ってしまう。
自分でもどこまでが自分かっていうのはよくわかんないですけど、
人物としてはあんまり自分は入ってないかもしれないですね。
作品の中に出てくる人は、僕本人と年とか性別とかが近い人が多いですけど、
なので重ねられやすいってのももちろんわかるんですけど、
そんなに自分のことを描いてるというよりかは、
ちょっとずつ自分じゃない人のことを描いてるという感じが多いと思います。
そうなんですね。
なかなか自分のことを描けないですよ。
長い一日でも、卵焼き器を買うべきではみたいなシーンが。
卵焼き器を買ったほうがいいのにいつも買わないみたいな。
それが生活だ、みたいな。
あれとかって滝口さんが思ったじゃんとか。
僕は思ってますね。
僕が思ったことをそのまま。
心情描写がやっぱり滝口さんに限らず、
もちろん思ったことを描くのが当たり前だと思うんですけど、
本当に僕個人は読んでて、滝口さんが出てくるという感じがしますよね。
長い一日もちょっと特殊な例なのでありますけど、
でもね、じゃあそこで僕が卵焼きの鍋を買ったほうがいいみたいなことを、
あれは作中の滝口さんという人が思ってることなんですけど、
自分が自分で自分の心情を描いてる感じかっていうと、やっぱりちょっと違うんですよね。
でと、作中の滝口さんはちょっと隔たっているところがあって、だから描けてるんですけど、
1:51:01
そうですか滝口さん、そう思うんですねっていう感じ。
距離感が最もある。
えーすごいな、不思議な。
長い一日は最初はエッセイとして描いていたから、もうちょっと近かったんですけど、
それがだんだん離れていった感じですよね。
なるほど。そう言われたらすごい納得する感じはしますね。
納得することでもないのかもしれないですけど、なんだそれは。
独特の、なんていうか、読書感というか。
ついてきてくださってるからですけど、なんだ、どうなってんだこれはって読むのやめる人もいると思うんですけど。
それが一つ興味のトリガーにはなってる気はしますけどね。
そもそもあれじゃないですか、なんていうか、印象変化というか、
そもそも滝口さん著作における特徴って言い方するとあるんですけど、
印象を巧みに変えていくスタイルがある中で、
長い1日は読書感からの印象チェンジみたいな感じ、イメージ。
それは距離のできた滝口さんも含めての印象チェンジだったなって思うと、
過去の作品とかすごい近いニュアンスもあるなっていうのは今聞いてて思いました。
でもそんな発想全然なかったんで。
すぐなんか、僕も滝口と一緒で、「いやこれは多分本人の…」とか考えちゃうタイプなんで。
そういうふうに読むというか、グラデーションを持たせて読む読み方があるんだなって。
でも読んでくださってるってことは、このグラデーションも…。
体感はしてると思うんですけど。
そういうことだと思います。
そこも含めて読んでいるはずなので、ことさらに感想として言語化したりしなくて、
ちゃんとそういうところも含んで読むってことは、そういうところも読んでいるっていうことだと思います。
必要以上にすぐ言語化しようとしてしまう習性があるのかもしれないけど。
それも全然悪いことではないんですけど、それをしなくても、ちゃんとそういうところまで読むときには、
1:54:04
なんとなく感じ取っているとか受け取っているっていうか。
含めて含んでいるってことですね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
おもろい。
そうすると最後らへんですかね。
最近で言うと、水平線っていう新作がちょうど、きょうはおとついですかね。
そうですね、最近。
リリースされてたばっかりで。
出たばっかりです。
ですけど、これは、これでもまだ読めてないですが、帯とか見る限り洋島とかそういうテーマとか入ってて、
さっきの話じゃないですけど、テーマがありそうな雰囲気に思えたんですけど、別にそういう感じでもないですか。
そうですね。これに関しては、取材とか調べ物とかをしたんですよね、これまでのアプリとちょっと違って。
いろいろ初めてやることが多くて。
一つは、完全に明らかな過去、遠い過去の、現実にあった遠い過去の時間と場所のことを書くっていうのを初めてやったので、
そこについていろいろ調べないといけない。
これまでは基本的に同時代の。
時間軸が違うと。
同時代で、近所のことを書いてたので、取材とかは必要なかったんですけど、
今回はいろいろ調べる必要がありましたね。
もう一つは、連載で書いたんですよ、これは。
1日とかも連載ではあったんですけど、もともとエッセイだったり、割と1回の分量もそんなに決まってなかったり。
決まりがなかったってことですか。
いや、少なく決まってたんですけど。
少なく決まったってことですね。今回は多かった。
そうですね。なので結構タフな作業ではあったんですけど。
分量も多いし、時間軸も違うし。
1:57:01
新しくこれまでやってない、やったことない書き方で書くっていうのは。
楽しみですね。
そうですね。完全に新境地ってことですね。
自分としては、何かしら毎回新しい。
自分の中でこれは新しいこと、これまでやってなかったことがあるといいなと思っていて。
それが今回の連載という方法と、時間のことを書くということ。
実はもう一個、同時に未来の時間のことも書くっていうのもやっていて、
連載を始めたときは2019年だったんですけど。
そうなんですね。
そうなんですけど、お話の最初のところは2020年の時間の設定にしたんですよ。
だからちょっと先の未来のことから、
2020年と戦前の伊予島という島のお話っていう大きく二つの舞台があるんですけど、
一つは未来にして、2020年のことから書き始めたんですけど。
そしたらコロナ時代があって、
オリンピックが開催中のところから書き始めたら、
オリンピック中としては延期になってしまって、
全然困ったなっていうことになったりして。
でも、連載ってそういうことかって思いました。
なるほど。
そうですよね。書き下ろしだったら修正したりとか入れたりとかできますもんね。
そこ含めて楽しめるっていう。
オリンピックがだんだん現実に合わせていったりして、
どんどん辻褄が合わなくなっちゃってね。
いや面白そうですね。
でも絶対連載じゃなかったらこんな形にはならなかった作品なので、
連載でやった意味があったなって思いました。
毎回新しいことをやろうっていうことはあるんですね。それを今聞いて。
2:00:05
そうですね。それはありますね。
単純に同じことをやっててもなあっていうふうに思うので、ちょっとでも。
ちょっとでも何か違うことを。
長さとかだけでもいい。
これまでで一番長いものをやってきたんですね。長い1日とかもそうですけども。
長さが長くなればどうしてもこれまでとは違う。
ひねりだしっていうか。
これまで10キロしか走ったことはなかったけど、15キロ走るとなればやっぱり体の使い方とか変わるじゃないですか。
そういうような感じで。長くしとけば自ずと何か新しい何かをやらなきゃいけなくなるだろう。
そういうぐらいのものですけどね。
いや、年を重ねにつれて仕事とかで、やっぱ新しいことに対する抵抗感が出てくる年齢になるようになって今おののいてるんですけど。
そういうのを聞くと、勇気もらえるというか頑張ろうと思う。
生活においては大変ですよね、新しいこととかね。
そうですね。今はなんとなくついてきてるんですけど、10年後とか大変そうだなーみたいな感じがして。
生活においては非常に保守的ですって言われますね。
もっと出かけたりしたらといったら言われますね。
近所の散歩ばっかり。
でも、近所の散歩で言うと、もう一つ話に戻っちゃいますけど、往復書館の秘密というか、
なんていうんでしたっけ、折り返しの。
ガンダレなのかな。
ちょっとロゴの精緻に。
取れないカバーみたいなところですね。
取れないカバーのところをひっくり返すと、そこにエッセイが実際に書いてあるっていう仕組みがあって。
それの滝口さんのエッセイも、めちゃくちゃやばいっていう話。
めちゃくちゃやばい。
めちゃくちゃやばいっていう気持ちになったんです。
ただほとんど散歩してるだけのやつね。
2:03:03
そうなんですけど、近所描写がすごすぎて。
そんなにあれですかね。
近所散歩されて、花とか木とかって山に違うんですよみたいな話じゃないですか、端に言うと。
全くそんなこと考えたことなかったなみたいな話があって。
いやーわかるわ。
それも1回目出たときに山本さんがご好意で送ってくださったんですけど。
フリーペーパー。
そうそうそう。それもめちゃくちゃやばいなって思った。
それがまさかその中についてるとは。
通知らずで。
近所とはいえっていうところもそのときに気づかされたというか。
近所の散歩って定点観測的なことじゃないですか。
そうですよね。
新しいところにどんどん行けば、それは新しいことが毎回見られるけれども、
でも近所って今日と明日で景色は違いますからね。全然。
そうなんですよね。
天気が違えば違うし。
いやーそういう心持ちに慣れてないなってあのエッセイをみんな持ってると思いますけど。
いやーあれすごい参加したエッセイでした。
卓墨くんは他何かありますか。終盤ですか。エンディングというか。
はい、すごいたくさん。
個人的には本当に、育児の話もそうですけど、小説の設計図の話とかわかった。
一応10年以上本を一番の趣味として書いてきた身としては、こんな話聞けたの初めてだったんで感動してます。
ありがとうございます。
そんな大した。
またちょっとしたら、それぞれにきっと考えることが増えたり進んだりすると思うから、また話せるといいですね。話したいなと思います。
ありがとうございます。そう言ってもらうと嬉しい。
小説の話は別にしなくてもどっちでもいいですけど。
育児の話は、本当に総量が増えるといいと思うんですよね。
2:06:02
あー全体の。
いろんな人が話をすればいい。いろんなケースが元を重ねてアクセスしやすくなる。
これも非営利団体なんで、ただできるのでアクセスしやすいというか、そういう体験とか考え方みたいなもので、
本でも読めばいいですし、人からこうやって文とか聞いたりとか、オートキャストで聞いたりとか、そういういろんな竹内さんにとっての総量を我々で少しでも増やしていければ、それはそれで意味のあることなのかなと思います。
そう言ってもらえてこちらとしては大変嬉しいです。ありがとうございます。
小説はもう普通に仕事の話ですよね。すみません、失礼します。
いやいや、そんなことないです。小説の話も全然嬉しいんですけど、育児の話もぜひ。
ぜひこちらこそよろしくお願いします。お願いしますという感じで、長くしまいましたので今日はこの辺で終わりたいと思います。
本当に長い時間たくさんお話いただいて、ありがとうございました。
大丈夫です。ありがとうございます。
僕らは大丈夫なんですかね。またオリを見ておたといさせていただくかもしれません。
ぜひぜひまた。
何回もやるっていうのはいいですよね。
前回を踏まえて話が進むじゃないですか。
こないだ言ってたこれだけどがっていう。
こうなりましたよと。こういうのがあったよと。展開が生まれていく。
ぜひまた読んでください。
本当にありがとうございました。今日はたゆみさんとたこっくんでお送りしました。
本当にありがとうございました。