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2021-05-11 21:53

「暇と退屈の倫理学」第2回:自由は風邪をひく

浪費は消費より良い。意味や言葉に転換しない、難しすぎる善の研究、退屈と自由の関係性。

みき(@miki_apreciar)  
のぞみ(@CobeAssocie

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書籍紹介(Amazonより)

「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」 明るく潑剌と、人生の冒険に乗りだすための勇気を!新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。

  • 序章 「好きなこと」とは何か?
  • 第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
  • 第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
  • 第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?
  • 第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
  • 第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
  • 第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
  • 第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
  • 付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて

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00:11
いやー、そうなんだよ。結構、序盤に出てくる、暇と退屈の類型みたいな話。
暇があって退屈してるみたいなことっていうのは、わかりやすいじゃないですか。
気晴らしが必要だとか、日常的な不幸にもろもろ頭を悩ませるみたいなことで、暇がなくて退屈してないは、これも多分わかりやすい。
仕事でいっぱいいっぱいだとかね。
ですよね。いっぱいいっぱいやるで、みたいなことだと思うんですけど。
Mikiさんが言う、なんとなく退屈だっていうのは、どういうことなんですかね。
何かをしてないのにできてないっていう感情や気分っていうのが、すごい良いなと思ってて。
退屈…もしかしたら、私の解釈が違うのかもしれないけど、
例えば最近だと、ふと退屈だなって思ったのは、
一昨日くらいにアカデミー賞発表されて、ミナリっていう映画がアカデミー賞を取ったじゃないですか。
で、私ね、映画見て、友達とかと見に行ってたんですけど、
ミナリってすごい家族をテーマにした映画で、
あらすじとしては、韓国からアメリカの田舎に、すごい借金背負って移住してきた貧しい家庭があって、
そこで土地とか買って、農場で一山当てるぞって言ってんだけど、全然うまくいきませんと。
で、子供も3人くらいいて大変だから、
おばあちゃんを韓国から呼び寄せて、一緒に暮らしていきますというのがあって、
これネタバレしてもいいですか?
私は全然いいんですけど、あれですね、ネタバレアラートじゃん。
大変な人はちょっとあれですね。
ネタバレダメな人はあまりいないですけど。
いろいろおばあちゃんと一緒に生活支えていくんですけど、
最終的におばあちゃんが脳卒中とかになっちゃって、
体とかも不自由になった中で家にいる中で、
家事を手伝おうと思ってゴミを燃やしてる時に、
結果として家が全部燃えちゃって、
農業もうまくいき始めてて、
農作物とかもあったんだけど、それも全部やめちゃって、
よし、これから作った野菜とか売るぞみたいな時に、
もう全部お茶になっちゃった。
なんだけど、結局一緒に生きていく、
おばあちゃんなんているだけでいいんだから一緒に生きていきましょうみたいな話にまとまるし、
おばあちゃんが家とちょっと離れるところ川沿いに作ってた水菜、
それが韓国語でミナリって言うんですけど、
水菜は綺麗に育てたから、これから水菜を売って生きていこうみたいな感じで、
03:00
家族の繋がりとかを描いた話なんですけど、
私はそれを見た時に、
おばあちゃんのおかげで家族の絆が強まったみたいなメッセージだと思うし、
家族とは何かってことが物語の核だし、
って思うんですけど、
おばあちゃんが燃やして、おばあちゃんが作ったミナリで、
結果としてよくなかった、プラマイゼロじゃんみたいな、
なんて言うんですかね。
そういうふうにどうしても思っちゃって、
そういう時に、
こんなせっかくいい映画を見ても明らかに後悔してると思ってて、
後悔しかできない自分って、
こんな映画見なくてもよかったんじゃないのかみたいな、
この映画をすごい見てるのに、
何もできてなかったって感覚で、
すごい退屈な感じがして、
なんだろうみたいな、
って思いました。
こんなこと言うとあれかもしれないですけど、
みんきちゃん、行きづらくないですか?大丈夫ですか?
脳がバグってて、
なんでも資本主義的な価値観しか取られないっていうバグが私にあるんですけど、
疲れてるのかなと思って。
そうかもしれない。
疲れてるかもしれない。
こういう時、明らかに退屈しなくていい条件が揃ってるのに、
なぜか虚しくなってしまうみたいな。
本能からずれるかもしれないですけど、
アカデミー賞ってそういうのが賞を取るんですね。
どういうことですか?
みきさんの紹介を聞くと、
アカデミー賞の受賞作品みたいなものって、
深淵なテーマというか、
サムシングニューがガンと突き詰められるみたいなものかなと思いつつ、
みきさんがおっしゃってる環境というか条件というか物事というかって、
20年前とかで普通に作品でありそうな気がしていて、
そういうのを取るんだなみたいなことを聞きながら思って。
あるんでしょうね、描き方の妙というか。
映像がすごく美しくて、役者がとにかくとにかく素晴らしいっていうのはあると思う。
あとはこの時代に超貧困を描くとか、そういうのが受けてるのかもしれないですけど。
いずれにしてもみきさんは完全に疲れてますね。
そうかもしれない。
だらっと見たらいいのに。
そういう形で何事にも物足りなさを感じてしまうみたいな時に退屈だなって。
何かをやってるのに永遠に退屈みたいな感覚があるなんて。
みたいに感じる時があるという。
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なんとなく退屈だっていうのはそういう感覚がフッとした時に起こるわけですよ。
そういうことかなって思います。
前回もありましたけど、なんとなく退屈だっていう感覚があんまりない。
前回話をした後にも冷静に一日一日振り返ってみたんですけど、
なんとなく退屈だなみたいな感覚がないのか、
あるいは生まれた瞬間にそれを消し去る能力がすごい私は高いのか、
全然思い出せないんだよな。
してない方がいいと思うので、いいことじゃないですか。
退屈を感じてなかったりしようと消し去ってるんですよ。
暇はすごい好きなんですよね。
野上さんだって暇な時に退屈をしないスキルが超高いじゃないですか。
天井のしみみって楽しいみたいな感じだったじゃないですか。
そうですね。天井の模様を数えてるだけで超楽しいっていう。
妄想力。
一つ一つのことにちゃんと自分の感情を再生できるっていうか、
そういうスキルだと思います。
一方で鈍感なんだろうなと思っていて、
映画とかを見た時にそこに埋め込まれた真剣なメッセージを受け取るのがめちゃめちゃ苦手だと思うんですよ。
例えば同じようにミナの絵を私が見たとして、
結局ゼロじゃんみたいなことをあんま思わずに、
いやなんか家燃えちゃうって大変だなみたいな。
すげーアホみたいな感想を持って終わる気がしていて、
なんかそれちょっと退屈しようはないよねみたいな。
あんまり考えないから、
いや燃やさないほうがいいな、よしとじまりにとじまりに行って、
こう日の後チェックしっかりやろうみたいな。
4歳児でもわかりますみたいな学びを得て帰る風に自分はなりそうだなっていう。
退屈する人っていうのは多分すごいなっていう。
これもなんか4歳児みたいな感想になっちゃいましたけど。
本の中にもう一回書いておくと、
いいなというかそうなんだろうかと思ったのは、
退屈するってことに対するハイデガーお兄ちゃんのコメントとして、
私たちはもうみんな退屈すると。
なんでかっていうと自由だからだと。
自由ってのは肉体的にも精神的にもいずれの意味もあると思うんですけど、
なんでもできるからそれが故に退屈すると。
こんな風にいろんな風に考えていいし、
09:00
いろんな風に自分のために活かしていいし、
いろんな風に自分の生活とか反映ができる、
そういう自由があるから退屈するんだと。
退屈するってことは逆に言うと退屈しているってことは自由であるってことを意味していて、
じゃあ退屈から抜けたためには何をするかっていうと、
自由であるその瞬間から何か決断をしましょうっていうのが
ハイデガーお兄ちゃんの一つの示唆というかメッセージ。
この調査の国文さんはそういうことなのか?
みたいなことが書いてた気がするんですけど、
自由と退屈のゴロゴロみたいなのはそうかと思うところもあり、
ミキさんは自由っていうことですね。
そう、それはそう。自由ではある。
間違いなく自由。
間違いなく自由ではある。感じている。めちゃくちゃ感じている。
自分の自由さを感じているだろうな。
それはそうなんですよ。
これは難しいですね。
自由を手放すと退屈もなくなるっていうことなのかもしれない。
だから何でこんなもの足りないんだろうっていうのは自分の中で問いでもあります。
だから見たらかなり恵まれている方なのに、
でも個人的な問題、実感としてはめちゃくちゃ物足りないというか。
確かにそれはそうかもね。
でも暇と退屈っていうフレームは結構しくいくっていうか、
退屈してるんだなって思いました。
そうね。
さっきのミキさんが面白いなって言っていた浪費性を消費するなっていうのが
暇と退屈っていうことに関するある種の倫理学的な意味でのメッセージとか結論だったと思うんですよ。
そうですね。
ミキさんが言っていた浪費性を消費するなっていうところをどんなふうに考えると
ミキさんなりにはしっくりきてたんですか?
本でも浪費っていうのは物を物として受け取ることというか、上限があるもので
消費ってなると物を買ったとしても、例えばバッグを買ったとしても
それは人に見せるためとか、人に褒められるためだったかという
褒められたいという欲望を買ったとかになるし
意味とか関連を消費するっていうことが消費で、終わりがないのが消費ですよとなったときに
私的には浪費っていうのは自分をちゃんと人生の主人公として捉えて
これは私にとってはこういう意味があって必要だから買ったけど別になくてもいいし
あったほうがリッチだから買ったみたいな
そういう意味付けとか感情を分かった上で物を所有するとか持つとかってことが浪費なのかなと思いました。
一般的なイメージとしては浪費っていうのと消費ってことがあったときに
浪費の方が悪そうじゃないですか。
12:02
悪いですよね。
多分いろんな記事を見てたりすると無駄な消費イコール浪費みたいな
私もその印象でした。
そういうタグが付けられてると思うんですけど
この本の中だと浪費の方がポジティブですよね。
消費するっていうことと浪費するっていうことのある種の区別って
消費ってある種終わりのないこと
浪費って使い切っちゃうみたいな感じのことが一つあった気がしていて
そういう意味ではグルグルやらずに使い切っちゃいみたいなことなのかしらみたいなのは見てて思って
浪費性を消費するなっていうのはすごくガリガリっと来るなみたいな
思いながら見てましたね。
マネーツリーのブログの中でも消費、投資、浪費、空費っていう空費は空の金とか
浪費の定義は必要以上の贅沢や無駄な出費
空費っていうのは空費って書いてるのは自分を見つめ直したり心のゆとりにつながる消費みたいな
そっち?いい方?
いい方?てっきり風職決算的な買ってないのに出費したことにすることみたいなことかと思った
監修長的な意味では空の使い方です
そうそうかと思った
この本の意味合いっていうか考え方で言うと空費って書いてる自分を見つめ直したり心のゆとりにつながる消費みたいなのが
ここでいう浪費みたいなことに近いのかもしれない
それがどんなのかなと思ったんですよね。わかんなくて
例えば消費でも最近は単純にたくさん所有したり認められたりだけじゃなくて
例えば寄付とか投与金の使い方はどっち?
寄付ね?寄付ね?
サステナブルな製品だから多少高かったけどそっちよかったとか
そういう時の消費って何?って思ったんですよね
それは意味とか観念を使うって意味ではそれは消費なんでしょうね
ですよね。ってなった時に
結局自己満のためにやってたら空費って言われるものは全部消費なんじゃないかと思ったり
なるほどね
三木さんが言うところの意味とか観念もそういうのはあるもん
食事とかでも我々は食べ物じゃなくて情報を食べてるみたいな人もいるじゃないか
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それに近いことなのかな
確かにそういう側面もありますね
だから浪費ってめっちゃ難しいなって思ったんですよね
ちゃんと無駄だってわかってるけど
この物があった方がいいって理解して物として受け取るっていうこと
すごい難しいと思います
全てが意味に変わりがちだな私はって
たまたまこの1週間私の最近の楽しい時間である
1日1NHKドキュメンタリーっていう時間
今週100分で名著シリーズっていうのがあって
ちょっと手伸ばさないというか読むのが大変みたいなシリーズ
サークルの先輩がアニメ作ってるんですよね
めちゃめちゃいいシリーズだなと思っていて
自分があまり読解力がないので
そういう本さえも代わりに読んでくれるとてもありがたい
西田貴太郎の禅の研究をやってたんですよ
一回何かの本屋さんで手に取った瞬間に
開いて2秒で閉じて無理だってなったんですけど
全然難しかった
固い
このドキュメンタリーを見てると
書いた順番が1章から書いてなくて
1章の中にもギュギュッと煮詰まったものが入ってるから
読みづらいですみたいな話があって
やっぱりそうかと思ったんですけど
何かというと西田貴太郎の作曲家の中の
コアの部分には純粋経験というものがあると
懐かしい 昔習った記憶
西田さんはやってるんだと思うんですよ
よく分かんない経済学みたいな
謎学をやった人間ではないものを
西田さんはやってるんだと思って
純粋経験というものを考えた時に
人間というのは言葉にした時に何かを捨ててるっていう話をしていて
どうしても人間って考えたりコミュニケーションする時には
言葉に転換せざるを得ないんだけど
その奥底には純粋経験があるはずだと
みたいな話があって
その中でパーソナリティの井上ひかるさんが言ってたのが
最近車椅子ラグビーを見に行ったと
見に行った時にぶつかるガーンって音があるじゃないですか
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それを見た時にすごい色んなことが分かったっていうんですよ
分かったというか感じたって言うんですね
感じたことは何?って言って
言えばいくらでも言語にできるじゃないですか
ぶつかるすごい音があって迫力があってみたいになるんだけど
その時って何かしらに捨ててしまってると
純粋経験を言語に変換する時に何かを捨ててしまってるっていうのがあると思うんで
これは消費と浪費にも言えるんじゃないかと
言えるんじゃないかと思っていて
例えば寄付をするっていうことを
意味とか関連に転換することもできるじゃないですか
このためにやってるんです
エシカルなんとかなんですとか
私の中ではフェアトレードというのはすごく大事なことで
変換しちゃうと失われるものがある気がするんですよ
原理的には浪費っぽくしていいんだけど
言葉に変換しないと意味が実感できないとか
そういうふうになっちゃうと
消費なのかなみたいなことを今思ってたんですよね
例えば単純にしてた満足っていう人もいればして
それを写真に撮ってブログにして読んでもらって
じゃないと自分の中の退屈感が消えないとか
それは消費ですね
そこまでいくと消費感が強いなって感じがするじゃないですか
フェアトレードをやっている自分っていうことは
関連的に消費しないと退屈から抜け出せないとか
そういうふうになると消費っぽくて
行為そのものってどっちでもあり得るのかなみたいなことを
確かに
確かにな
でも一度意味に変換しちゃった消費だと思った人が
それを浪費に戻すのってめっちゃむずそうですね
むずいんでしょうね
むずいんでしょうね
かつ意味とか関連としてやっているほうが
多分言語には落としやすいじゃないですか
だから我々が観測するものの中には多分消費が多いっていう
多いんだな
浪費の人ってもう自分の中で閉じちゃうんじゃないですか
確かに確かに
受け取って意味とか関連で別に変換しないんで
そうなると世の中に見えるものの多くは消費になるっていうのは
そうだわ
みいきさんもイコールじゃね?とか思わずに
映画館から去っていたらもしかしたら浪費で
浪費だったかもしれない
そうそうそう
でも勝手に思っちゃうからしょうがないですよね
なんかすごいこじらせてるんですよね
パッて思ったのがそれで
21:01
いや絶対それ誤解だろ
明らかにそういうメッセージじゃなかったのその映画
もう資本主義的な関連ですぐ置き換えてもうみたいな
そこまでセットで思って
自分に起こるとこまでワンセット
そうワンセット
もう難しいなあ
みいきは多分難しいよ
いやこじらせてるんですよね
自由をこじらせてる
確かに自由をこじらせると退屈になる
みいきさんの自由が風邪をひくっていうやつだって
そうね
次のみいきさんの記事のテーマに
私の風邪をひいてしまった自由っていう
そうです
21:53

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