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2024-09-29 31:32

hima-31 暇人RADIO 居場所とはなにか?(ゲスト株式会社城山代表:加藤隆介さん)その2 〜居場所を見つける方法〜 

ゲスト:株式会社城山 代表 加藤隆介さん

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MACHIKOYA Instagram

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内容:

・地元の電車は想い出の塊

・MACHIKOYAは感情でやりたいからやっている

・響かないケースにもめげずにやっていく

・自分がどんなことをやりたいのかが大事

・国語の答えはいっぱい答えを出せるほうが豊か

・ラブレターで伸びる想像力

・心や体で感じることに目を向ける

・瞬間を大事にすることが直感に従い生きること

・コミュニケーションは誤解が生まれる

・山は後腐れなく自分を開放できる

・自分の居心地がいい場所はやってみないとわからない

・作られた場所ではなく見つける場所が「居場所」

・居場所にハマっていく感覚

・団体行動が苦手


暇人ラジオ(仮)

暇な二人が暇な時に抽象的なことをひたすら語る番組です。

考えを発散させたい方の

一人飲みのお供や散歩のお供にお使い下さい。


第30回、31回、32回、33回は「居場所」について話してみました。「居場所とはなにか?」そんな話をしています。


【パーソナリティ】

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サマリー

このエピソードでは、居場所の重要性とそれを見つける方法について、ゲストの加藤隆介さんが話しています。サードプレイスや教育の役割についても触れながら、感情や人々のつながりに焦点を当てています。居場所の重要性については、心の感情や直感的な表現を通じて語られています。直感的に生きることや居場所を見つける過程が、自然やアートとの関連を通じて深く掘り下げられています。また、加藤さんは自分に合った居場所を見つけるプロセスや、その体験がもたらす心地よさについても語っています。

居場所の意味
この番組は、暇人の二人が日常生活のとある場面を切り取りながら、抽象的な話をし続ける番組です。
散歩のお供にお使いください。今回のテーマは、居場所についてです。居場所とはなにか。
ゲストは、保護フィルム専門商社の株式会社城山代表)加藤隆介さんです。
現在、サードプレイスによる居場所づくりに取り組んでいる話を伺ってみました。
暇人ラジオかっこ借り始まりました。よろしくお願いしまーす。
本当に、電車ってなんかすごい、もちろん古くからの交通インフラだったりして、そこのね、電車も2025年で120周年をもたえるっていう、結構ね古い歴史があるんですね、電車なんだけど。
もともとは、瀬戸で焼いたものを輸出したいからっていうことで、地元の人たちが鉄道していたみたいなところでできた、電車で。
今はもうね、そんな輸送用ではなくて、旅客輸送になっているんですけど、でも電車ってやっぱりこうなんか、そもそも物を乗せたり、人を乗せたり、なんかいろんな人の思いを乗せて繋がったりとか。
なんかやっぱ、そのね、通学での思い出があったりとか、その当時付き合ってた子に会いに行ってた電車とかね、そういうのもなんかね、あったり。
エモいっすね。
するとか、しないとか。
始まりましたよ、リュウスケ節が急に。
そろそろこの辺でぶち込んどかないと。
いや、そうっすね。なんか結構エモいからですね、リュウスケさんはね。
そうですね。感情派ですよね。
感情派ですよね。エモイストなんですよね、エモイスト。
エモイスト。
そうね。たまにおせっかいイストでもありますけど。
いやいや、そこがいいとこなんですよね。まあでもまあ、そもそもマチコヤもおせっかいだからですね。別に誰でも頼まれたわけじゃないから。
壮大な、壮大なおせっかいだからですね、これね。
いやもう、そうっすね。なんでマチコヤ始めたんですかって言ったら、もう僕がおせっかいだからって言った方がいいかもしんない。
いやいや、ああ、本当にそう。
それで一番伝わるかも。
ああ、なるほどってね。だって、そういういろいろするときとかに、利益目的というか、経済目的でするわけじゃないとかするって話、まあいつもするんだけど、
なんでそんなことするんですかとか、どうやってお金稼ぐんですかとか、そういうことだったりとか、言われることがすごく多かったんですけど。
うんうん。
でももう、なんかそれこそ衝動的に、なんかもうした方がいいんじゃないかと思ってしちゃうっていうか、なんかね、いろいろ考えると持続可能性があった方がいいとか考えるけど、もうそもそもそんなんじゃないですよね。
もうなんかあったがいいと思うからもうやるしかねえみたいな。
そうですね。
ああ。
やりたいからやってんだよこっちはみたいな。
うん。
すごいおせっかいですけど、でもまあそれで誰かがなんかためになるならいいかなみたいななんか気持ちになっちゃいますよね、なんかね。
うんうんうんうん。
ただやりたいことやってるだけなんですね、それは。
それそれ。
そうですね。
ですよね、たぶん。
うん。
こうがいいんじゃないかなっていう感じですよね。
なんでやろうとしたんですかとか、何のためにやる、何がこうって聞かれるとやっぱりなんかね、一応、もともらしそうな理由を説明したい。
なんかまあするけど、でもやっぱなんかそれが必要だと思ったりとか、やっぱりやりたいと思ったし必要だと思ってるし、今はね、その必要性みたいなのは届かなかったりするかもしれないけど、きっといつかそれが届くだろうって、なんか勝手におせっかいで誰にも頼まれてないけど思ってるから、そういうことなのかなと思いますよね。
いいっすよね。
いやだからもしかしたらその寺小屋とかも、一番初めはそういう感じだったかもしれないですよね。
確かに。
うん。
いやもう今からお前ら読み書きせんとみたいな、読み書きぐらいできんとちょっと俺が教えてやるわみたいなおっさんみたいなのがいて、いやいやもうそんなしてる暇ないでしょうとか奥さんに怒られながらも、いやいやもう俺すんだからみたいな。
いらないでしょそれ。
そうそうそう、俺すんだからみたいな。
で、なんか周りの人に言ったら、いやじゃあちょっと俺もしようかなってなってるのかもしれないですよね、なんかそうやって考えると。
うん、確かに。
なんかね、それってわかんないですけど、町民だったり、町民の中でもね、江戸の時代は支農交渉みたいな感じであって、農民、職人家とかそういう人たちにとって読み書きソロマンがどれぐらい必要だったかみたいなことって別に、最初は文脈としてない中で、
誰かがこれ必要じゃねっていうのを多分、言わないとわざわざみんなあえてやらないわけで、最初は誰も見向きがしなかったかもしれないけど、なんかやっぱいるんじゃないのみたいなことが少しずつ増えて、
過半数増えた時とかにやっぱりすごい広がりになるっていうか、だからある意味では江戸時代になんかね、ムーブメントが起こってたかもしれないですよね。
そうですよね。幕末とかだったら吉田松陰とかの話とかも見てたりすると、結構そんな感じもあるじゃないですか、なんかあの人めちゃくちゃいろんな人に勉強させてたとかなんかいう話を聞いたけど、
牢獄とかの人にガチでお前どう思うみたいな、こんな世の中どう思うみたいなことを囚人とかに聞いて、すごいバカにしたりせずに、ガチでどう思うよみたいなのをみんなに言い出して、一緒に勉強するぞみたいな感じで勉強とかしだして、
みんながめちゃくちゃ勉強しだすみたいなことが起きるみたいなとか、いろんなところでどこでもなんかそれを起こすらしいんですよ、その話を聞いたり。だからなんかすごいっすよね、だからそういう人がいたから多分起きたんでしょうから、
りゅうすけさんがやってることもちょっとそういう感じに聞こえますよね、ヤッツァーっつって。 いや、なんかそういうふうに言ってもらえたらめちゃめちゃ勇気になるけど、一人でいるとね、なんかそんな高尚なことをやってるような意識とか全然ないし、やっぱね、全然必要さにもちろん響かないケースもあるので、あんまりでもめげずに聞いてくれる人に向かってスピークアウトしていくみたいな。
でも歴史を見ればそういう人もいて、そういう人たちの弟子が結局、新政府作ったりしてるわけじゃないですか。 だから結局そういう流れが間違いじゃないわけでしょう。間違いって言ったらあれですけど、そういう必要性があったんでしょうから。
最初はエゴっていうか、吉田松陰は会ったことないかわかんないけど、別に誰に頼まれてるわけでもなく、牢獄で教え始めて最初は他の囚人の人たちとかも勘弁してくれよみたいな感覚もあったんでしょうけど、でも歴史ってやっぱり振り返って必要だったものとか、後から見て答え合わせ的にそこったものだったからだし、
キャリア教育の重要性
同じようにそういう活動があってでも残らなかったものもきっとたくさんあるんだろうけど、それって残ったから正しいとか正解っていうことだけじゃなくて、残らずともそういうもののいろんなたくさんあるものの中にそういうものがかぐくまれていくことだと思うから、
丸かばつかよりもやっぱりそこに向かっていくプロセスみたいなのはすごい意味のあることなのかなって思ったりしますよね。
僕は少なくともすごい共感してるので、これがさっき言ったみたいにいっぱい広がっていくとめちゃくちゃいいんじゃないかなって思ってますけどね。
結構キャリア的なところにも関わる話ですね。キャリア教育というか。自分の本当のやりたいことを見つけて自分で道開いていくみたいな。
そうですね。なんかキャリア教育もすごく気づかされるのがあったりするんだけど、就職活動とか、新卒の採用を会社でもやってるんですけど、新卒の学生さんとかにね、学地化とか、学生時代に力を入れたこととか、死亡理由だったりとか、
そういうのってすごく学生さんも考えてPRする部分って凄い準備されてるなって思ったりするんだけど、それはそれでPRとしては大事なのかもしれないんだけど、すごく聞かれるのは会社の雰囲気とか、働いてる人とか社風とかやりがいとか、そういうのをすごく聞かれたりすることが多くて、
それの優先順位みたいなことが時代の背景的にもすごく大事にはなってきてるし、それが大事じゃないっていうふうには全然言わないけど、自分がどんなことをやりたいかとか、どんな体験をしてみたいかとか、そういうことの軸で考えることってそんなに多くなかったりするのかなって思って、もちろんそういう学生さんもいると思うし、
夢は何ですかとか、やりたいことは何ですかとか、そういうことをちゃんと言わないといけないみたいなバイアスが結構あるような気がしていて、理由がなくやってみるみたいなこととか、やってみた結果は面白かったりとか、やりがいとかも多分そうだと思うんですけど、やってみないとやりがいなんかわかるわけないっていうね。
本当そうっすよね。 いや本当に、ひまじんラジオこんなにやると思ってないっすもんね。目的意識とか本当ないからですね、こんな大人がいるんだっていうことを子どもたちにもちょっと見せたいですね。
すごい大事な可能性を育んでるひまじんラジオ。 いやそうなんですよ、自分の中ではそうですけどね、目的意識とかばっかりみんな晒されていくからですね。
だからこれもなんかすごい教育が、まあ批判するつもりはないけど、どうしても最短距離で答えのある教育で近代的に仕組みがあるから、まあ今やっぱりその探究学習とかそういうプロセスに注目いくようになったと思うんですけど、
丸×の仕組みで偏差値とかそういうもので、より分けるための勉強とかテストがすごい多いような気がして、ずっと子どもの頃から思ってたんですけど、国語の授業でなんかこの時の主人公の気持ちがみたいな、気持ちが何かっていうのに丸か×かって、それを読んでどう思ったかっていうことに丸か×っていうのはすごい違和感だよなって、今の時代ね。
なんか多様性とか言ってる中で、全然あれを思いっきり矛盾してるじゃんって、今だからね、言葉になるなって思うけど。
そうですね。
みたいな話も聞いたことありました。
いやいや、ほんとそうっすよね。
言ったことある。
ほんとそうっすよね。
違う。
そうじゃない。
作者っていうか、そもそも先生とかテスト作った人の解釈だからですね。
逆にわかんないけど、この時みたいなところに、たくさん出すとかね。こう思ったかもしれないし、こうかもしれないし、いやこうかもしれないみたいなのをたくさん書ける方がすごく豊かだなって思うし、
ずっとなんか思ってたのは結局国語の授業って、好きな子にラブレターを書くとか、ラブレターをもらった場合にこの業館を読むとか、そういうことの方がやっぱりすごく想像力が、古典文学を読んでこの時の気持ちがっていうよりはラブレターの書き方みたいなことの方が、すいませんエモイストを発揮してしまったんですけど。
エモ主ですね、今日もエモ主が。
エモ主。
すごいですね。
生きてますからね、そういう文字っていうか、そういう言葉とかはですね、やっぱりそういう意味ではですね、今を生きてるからですね、すげえ。
だからね、難しいと思うけど、でももうちょっとやっぱり直感的にとかね、生きられたりとか、自分の心の中で起こってることをやっぱり結構デフォルトが隠さなきゃいけなかったとか、あんま感情を見せるなとか、割とやっぱりそういう時代だったとは思うんですけど、そこから今は変わり始めてたり、
直感的に生きる方法
それこそ僕らも共通して石と仰いでいるスラムダンク小理学の辻先生のご機嫌マネージメントをやっぱり掲げていらっしゃるので、なんかその本当にあるがままの心の感情とか、そこにあるものみたいなことをもっと直感的に生きていったりとか、それが難しくてもあるものをやっぱりなんか大事にしていくのはやっていけたらいいなと思ってるんですけど。
そうですね。
直感的に生きていくってどうしたらいいんですかね。
難しいっすよね。
だからなんか、すごく衝動的に感じたままに何かを行動起こすみたいな、それがいいのか悪いのかちょっとわからないですけど、そういうのが近い気がします。
僕その音楽してる時とかそれすごいあって、なんかこうパッと思いついてワーってやっちゃうとか、なんか今こう大きい声出したいからワーって出すみたいなんじゃないけど、そういうなんかこう自分が今感じてるまんまに表現ですかね、表現するみたいなのっていうのが、練習するとなんかそういうのができるようになるような気がするなんかすごく、癖があるというか。
だから前も何か言ったけど、カメラとかするのもそうですけど、瞬間的にこういいと思った時しかシャッター切らないから、いいって思った時に切るっていうのをずっと練習してると、やっぱいいと思ったらすぐこういいって言えるみたいな感覚になったりするわけですよ。
カシャってした時がいいって言ってるみたいなことなんですね。
そういうのが多分練習する。だから結構芸術的なことだったりとか、いわゆるリベラルアーツ的なやつとか、そういう感情とか直感とかを使って表現するようなものを教える勉強というか学問みたいなじゃないですか。
なんかああいうのが今から結構もてはやされてきてるっていうのは、そういうところに注目がいってるのかもしれないですね。ちょっと頭じゃなくて、心とか体で考えるというか感じるというかですね。
断食とかも似てましたけどね、そういう意味では。
似てました?
言ったけど、頭が食べたいと思ってるか、体が食べたいと思ってるかみたいな違いみたいな話で。
食べなくてもいいけど、うまそうとかいうのを思い出してめちゃくちゃどか食いしちゃうみたいなやつは、多分頭が食いたいと思ってるみたいなやつかも。
多分考えじゃないですか、考えのほうでやってるけど、体的には直感的には別に食わんでもいいんじゃないみたいな。今夜中にもうラーメン食ったらやばいんじゃないみたいな体。
もういりませんよって言ってんだけど、バグって食いたくなっちゃうみたいな。なるじゃないですか。
確かにね。バグりますね、確かに。
バグっちゃうじゃないですか、やっぱね。それが悪いことじゃなくてそれも面白いんでしょうけど、直感とか言うと僕はそういう印象がありますけどね。
もちろんなんかあれじゃないですか、自分が好きと思うことというかやりたいことだけで生きていくっていうのはやっぱり結構難しいっていうか、
それはなんかもしかしたら芸能人の世界とかわかんないけど、あれだけ華やかな世界でもきっとそうじゃないところもあるのかなーって思ったり、
だけどなんか結局、常にずっと好きなことだけでっていうのは結構やっぱり難しいかもしれないんだけど、
好きなことをやっている瞬間だったりとか、好きじゃないことをやる時ってなんか割と感情を抑えたりとか、自分の考えを抑えなきゃいけない時とかっていうのがあるかもしれないんですけど、
僕はちょっと宮川さんみたいにそんなにすごくアートのことがいろいろそういうのを持っているわけじゃないかなって思うんですけど、
でもなんか山に、なんかこう山歩きとか山登りとか行く時ってなんかすごく、自分の感覚とか感情のエネルギーとかそのままなんか出してぶつけていけたりする瞬間とかがあって、
なんかそういうどっちかというと、自分でいられる、自分らしくいられる直感的にアウトプットしていける場所だったりとか、その時間みたいなのを大切にしたりとか、
それを量的に追い求めるよりも、その瞬間瞬間をちゃんと大事に扱っていくっていうことが直感的に生きていくっていう中で、
そうするとなんか今までそんなにすごくその自分が得意だったりとかじゃない事柄とかに対しても我慢して受けるだけじゃなくて、
なんか自分の中にあるものを少しずつ出していったりとか、嫌々やるんじゃなくてとかできないかもしれないみたいなことを思いながらやるだけじゃなくて、
自分らしくやってみたらどうなるのかなっていうようななんかちょっと選択肢が見えたり、
そういう訓練って宮川さんの言う瞬間を切り取るじゃないんだけど、ちゃんと自分らしくいられる直感、いられる部分をちゃんと大事に見ていくみたいなのがすごく繋がるかなって思いました。
自然と居場所の探求
そうですよね。なんかやっぱり教育的なのは悪い部分だったのかもしれないですけど、
なんかその平均化したりとかすることで、なんかちょっと違うことを思ってても言えないみたいなやつがずっと続いていくともう言えないが言わないになって思ってもいないとか、
だからもうもはや思わなくなっちゃうとかもありそうですもんね、どんどんひどくなっていくとですね。
りゅうすけさんの町小屋とかっていうのはそういうのを外していくきっかけになりそうだし、でもいつだっけ、山っていうのはすごい面白かったですね。
自然って確かにめちゃくちゃごついっていうか、でかいじゃないですか、もう我々がかなうような相手ではないから、
やっぱり全力でこっちがぶつかっても受け止めてくれそうな感じ、今想像したんですよ、話聞いてて。
だから思いっきりぶつかっていいぜみたいな、来いやーみたいなね。
なんかその感じなんかいいですね、全力でぶつかれるっていうか。
そうっすね、そして相手に恨まれることも嫌われることもなかったり、余計なこと本当考えなくていい感覚ってなんかありますよね、自然って。
それなんか初めてです、その感覚は聞いたような気がする。でもそれすごいいいっすね、めちゃくちゃいい。
なんかわかんないですけど、今自分もひまじんラジオの世界観にいながら、知らない間に言語化されていくっていうプロセスを体験してますけど。
これがひまじんラジオですよ。
そんなこと考えたことない、なるほどね。
ひまじんラジオの価値ね。
ひまじんラジオ感ですね、これがね。
自分で言って自分で気づいていく。
確かに。
やっぱり人ってどうしてもすごい大事なものだし、だけど人ってやっぱりコミュニケーションって思ってることの何パーセントかしか言葉にならないし、
何パーセントかしか言葉にならないのに何パーセントかになった言葉でやっても誤解があったりする中で相手の感情とか自分の感情とか。
やっぱり一番難しいし気を使うべきものかもしれないけど、
例えばものっていうか機械だったり作られたものみたいなものってやっぱり人が扱うから扱い方も逆に分かってて説明書とかあるし、
この用途にこれを使うみたいなのが全然決まってるから便利なんだけどちょっと無機質っていうか答えが分かっちゃってる感があるじゃないですか。
自然ってやっぱ天気とか未知だったり全然思う通りにはいかないんだけど、そういう点で人にもしかしたら似てるかもしれないけど、
でも後腐れないっていうか、安心してチャレンジできたり、安心して何のリスクもない。
確かにリスクないですね。山とかで死ぬとかあるかもしれないけど落ちて死ぬとか、でも確かにそれはすごい心地よいあれですよね。
疲れてますね、りゅうすけさん。コミュニケーションの鬼みたいなイメージがありますけども、コミュニケーションは疲れると思うんですよ、疲れるじゃないですか。
居場所の発見
みんな気が合う人でもないわけだし、いろんな人と付き合って社会があるからっていうのがあったから。
でもいいですね、僕結構カメラを進めたりするんですけど、そういう人たちに山行くとかっていう選択肢が今すごいいいなって思ったりしつつ、
今日すごい居場所とかいうテーマでしたいなってちょっと思ってたんですよね、いわゆるさっき言ったサードプレイスみたいなのもそうだし、
今ちょうど山が出てきたから、山も場所っていうか居場所みたいな感じじゃないですか。僕の知り合いでそれこそ山に見入られて、めちゃくちゃ山に行ってて、山登りしたいために熊本から静岡に引っ越したっていう人がいて。
えーすげー。熊本にもいい山いっぱいあるけどね。
あるある。でもなんかちょっと山の感じが違うんじゃないかな。熊本の山って結構ゆーく登っていく感じだけど、本州の方に行くと結構尖ってるっていうかなんかね。
確かに。
そんなイメージありますけど、登ったことないし全然わかんないですけど、長野とかあの辺はすごいゴツゴツしてるイメージなんかありますね。
宮川さんフリですかもしかして今のは。俺登りたいよみたいな。
そうっすね。あの登りましょう。でもね、あの通風になった後にね、撮影で登りましたけどね山。山ね、めっちゃ良かった。それなんかね、登ったんですけど、あの足大丈夫ですかって言われながらちょっと登ったんですよね撮影で。
で行ったけど、なんかね意外と痛くなくて足が。で、なんでかなと思ったら、なんかほら山って地面がふわふわしてるじゃないですか。ちょっと土だから。で、なんか全然別にきつくないんですよね。痛みがない。やっぱアスファルトの方が痛くて足が。
うーん。
だからなんかやっぱ山ってなんか、なんて言うんですかね。柔らかいというか、まあその硬いとこもあるんでしょうけど、なんか心地よい場所でしたよ。やっぱりなんか山登りがきついってイメージで行ったんだけど、なんか気持ちよかった。森林浴みたいなやつもなんかすごい良かったし。
何なんでしょうねあの感じって。僕も本当に確かにそう思うんですよね。きつさとか、あとねやっぱり登って降りて次の日筋肉痛とかやっぱりあるけど、それ以上にやっぱりあの空気とか、なんかあそこにしかないものがすごいあるなーっていうのはすごい思うんですよね。
なんでしょうね。だからまあさっきのそのほら、なんでそんなことやってるんですかとか、お金になるんですかみたいな話とかと似てるけど、山とか登っても、なんかきついだけみたいな感じですじゃないですか、そのイメージからしたら。
確かに。 何、何、だからほら若い時とかにほら、その子供の時とかにほらおじいさんとかおじいさんとかが山登り行くとか言って、なんでこれ疲れに変わって、すごい疑問でしたけど、今になってようやくこうなんかね、その山ってやっぱ山登りか。素晴らしい。
いや、そうかも。でもなんか、ほらそれってでもね、いくら気持ちよかったりとかって僕がそういうふうに思ったとしても、でも全然そう思わない人だってやっぱりいるわけで。 いや、いるですよ。さっきのほら、子供の頃の自分は思わなかったこと。確かに。
だし、なんかそれが、なんかね、居場所っていう話をなんか聞いてきた時になんかすごい思ったのは、なんかもしかしたらやっぱり居場所って、なんか作るものじゃなくて、やっぱり見つけるものなのかなっていうのがすごいやっぱり思ったというか、サンドプレイス作り屋って言うなよみたいな、あるんですけど。
どういう感覚ですか、それ。見つける。 いや、なんか、ほらだから僕は山が楽しいなと思って行ってるけど、全然そうじゃない人もいるし、でもなんかそれってやってみて、なんか見つけたっていうか、やってみて、あ、面白いって思ったりとか、いろんなところ、そのなんか自分が居心地がいいと思う場所だったり瞬間とかっていうのは、やっぱりなんかやってみなかったら見つかってないっていうか。
居場所の重要性
まあまあそうですね。 そこがわかんないじゃないですか。だから本当はそういう勝手に誰々にとって居心地がいいだろうから、こうであーでって作られた場所が本当に刺さるかどうかって言ったら、それって結構やってみたら違ったもの全然あるだろうし、そもそもやってみたいと思って、そこに行ってみたいと思ってもらえなかったりもするのかなって思ったりして。
ちょっとね、サードプレイス作りやるって言ってて、なんかすごい難しいところあるなって思ったけど、でもなんかそういう意味では体験とか事柄だったりとか、そういうのに触れる場所の中で、なんか自分にとっては何が居心地がいいのかみたいなこととかを一個一個その自分で見つけていく。
そこに来た子供たちが、なんかこっち側がこれが居心地がいい居場所でしょっていうものをどんどんどんって置いていくよりも、小さくてもそういうなんか居心地良さそうなこととかをなんか一個ずつ探して、自分で見つけた居場所だからすごくなんか居心地が良かったり、なんかするのかなって思ったり。
なるほどね。
そっか。
じゃあなんか町小屋はそれを一緒に見つけられる場所だとなんかより良さそうですね。
うん、いい気がする。
そうですね。
なんかすごいひまじんラジオ効果で言語化されてしまった。
今言語化されてしまった。
今ですから、今ここですからここは。
今ここ発見場ですから。
ここ。
そうですね。
そうそう。
でもね、岡田さんとかが居心地が良いと思ってる場所ってなんかどういうとこあるんですか?
居心地が良い場所ですか?
やっぱ好きが重なる人が多い場所ですかね。
好きなものとか好きなこと。
僕多分人生で一番ゲームが好きなんですけど。
ゲームね、はいはいはい。
ゲーム系の人と話してるとめちゃめちゃなんかこんなマニアックなこと話してる自分っていうのに気づくんですけど、その時心地良いですね。
楽しいですね。
この場でもそうですけどね、めっちゃマニアックだと思うんですよ、ひまじんラジオ。
いやまあ意味わかんないですけどね。
意味がわかんない。
確かに確かに。
意味わかんないみたいな話してる。
これが発見するとか見つけていくことの行為のプロセスな気がします。
確かに確かに。
それはあるんですよね。
ひまじんラジオも確かに居場所ずっと続けられてるっていうのは多分居心地の良い場所だから多分続けてるんでしょうからね。
居場所になっちゃいましたね、結果は。
確かに。
自分とか結構あれなんですよ、割と社交的な感じがするかもしれないんだけど結構人見知りだったりするんですよね。
社交的なのが発揮できる時っていうのは結構居場所感があるところにいるときはすごいよくしゃべるみたいなのがあって。
発言するとかしやすい気持ちになってるとかあるんだけど、
それって何なんだろうな、慣れていくっていうか。
初めは学校とかでもそうだけど、クラスが変わって全然なじんでないからあんまりもじもじしちゃうんだけどみたいな。
一時期して慣れてくるとすごい自分の居場所感とか役割みたいなのが生まれて急にしゃべり出すようになるとかっていうのがあって。
そういうのを考えると見つけていくのもあるし、そこに必要とされたピースみたいにはまっていくみたいな形もありそうですよね。
たしかに。
必要とされるっていう感覚があって、自分がそれを提供できるっていう感覚があると、すごい居場所になってる感じがします。
自分のほうもハマるかもって思ったときに、例えば形を変えてみることって全然それって苦痛じゃなかったりできるけど、
全然自分がなりたくない形とかっていうのは嫌だなみたいな感じがあるかもしれないけど、
こういう形でってなったときにハマったら見つけた感みたいなのがある感じですよね。
だから居場所って前も不登校の子とかフリースクールとか最近あるからそういう話も言ってるんだけど、
いろんなところにあるんですよね絶対ね。
見つけてほしいし、あるっていうことを今見つけてなくても思っといてほしいなーみたいなのもありますよね。
僕本当なんか団体行動みたいなのが苦手なんで、苦手っていうかなんかいまいちフィットしきれない自分がいるんですよね。
だから居心地の居場所って結構難しく感じてたんで、居場所みたいなことに関してはちょっと思うとかありますね。
次回に続きます。
31:32

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