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2024-06-27 15:57

slothはアウラを纏うのか

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フェスティナレンテ、この放送は、
スロースウィーズクリエイターズSWCのコミュニティメンバー、
ワーパパCTO🦥がお送りいたします。
始まりの挨拶を、しらえさんが始めてくださったフェスティナレンテと、
かおりさんがおっしゃっているSWCのコミュニティメンバーというのを、
今回組み合わせてみました。
野間さんが挨拶で、コミュニティメンバーっていうのっていいですね、
っていうふうにおっしゃってたのですけれども、
それめちゃくちゃわかりますね。
物理的に周りにそのメンバーがいなくても、
概念的には何かに属しているという感覚があって、
すごく不思議な感覚になります。
挨拶っていいなというふうに思います。
私がハイパー企業ラジオを紹介するときに、
毎週水曜日はハイパー企業ラジオというふうな
気守文句を勝手につけてるんですけれども、
しらえさんがそれを踏襲してくださっていて、
なんかすごくいいなというふうに思っています。
ナイトでスロスくんに、
毎週水曜日はハイパー企業ラジオっていうふうに
喋らせる動画を作っていて、
それはめちゃくちゃ可愛かったんで、
ぜひ皆さん見ていただければと思います。
今朝の野間さんの放送で、
何気なく語ったことの中から宝物みたいな気づきを持ってきてくれる
トレジャーハンターみたいな人が
SWCの中にたくさんいるっていうふうにおっしゃっていて、
表現がすごすぎるんですけれども、
野間さんのことを表現の言語って勝手に呼んでるんですが、
メタファーが非常にうまいんですよね。
メタファー言語ですね。
この野間さんがおっしゃってたことは本当にそうだなと思っていて、
私の前回の放送のブロック型組織と
石垣型の組織っていうお話をしたときに、
した後にしらえさんとライチさんが
拾ってめちゃくちゃ広げてくれまして、
本当にものすごい気づきをトレジャーハントしてくださっていました。
これは話をちゃんと聞いてくれるっていう
誰もが簡単に発信できる時代なんだけれども、
そこであえてしっかり聞くみたいな
稀有で貴重な能力を皆さんが発揮してくださっているから
起こっている現象だなというふうに思いました。
この流れで私もトレジャーハントに出かけたいという話題がありまして、
これは先日マスコットさんが語ってくださった
AURAという言葉について、
私もお話ししてみたいなというふうに思っています。
ちなみにマスコットさん、本当に毎回素敵な問いを立ててくださっていて、
問いの権限と勝手に呼んでるんですけれども、
その問いの権限マスコットさんがおっしゃっていたAURAについて
思ったことをお話ししたいなと思います。
AURAとはキリシア語やラテン語で
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息や風のそよぎを意味する言葉とされています。
英語ではAURAと呼ぶものですね。
マスコットさんのお話の中では、
家具職人が作る家具が同じ素材を使っているにもかかわらず
AURAをまとっているように見えたと。
同じ手順や同じ素材で物を作っていても
AURAというかオーラという面では
異なる様子を見せるよねというお話をされていました。
そして香里さんがAURAについて続けて語っていらっしゃって、
大自然を見た時に感じる異形の念を感じるみたいなところから
AURAを感じることができるよねというお話とか、
芸術作品にも作り手のエネルギーがこもって
AURAをまとうことがあるよねみたいなことを
おっしゃっていたかなと思います。
そして人によってはその芸術作品にAURAを感じたり
感じなかったりするっていうこともありますよねと。
それはその作品に自分の心が共鳴するかどうかというのが
重要なポイントなのではというふうなお話をされていました。
さらにそこから話を発展させて
AIを作って物作りをする時にも
構想を練ったり結果を選択する際に
人が介在するということから
AIの成果物に対してもAURAをまとう可能性があるでしょう
というふうなことを示唆されていて
非常に面白い興味深いお話でした。
ありがとうございます。
私がAURAについて新たな問いをここで持ちまして
共感によってAURAを感じるのだとしたら
何によってその共感というか共鳴ですね。
共鳴は何によって起こるのかというところが
問いとして持ちましたと。
何かの芸術作品を見て
人によっては不運という程度のものの感じ方をする人だったり
これはめちゃくちゃすごいというふうに感じるものっていうのは
あるかなと思います。
これかなり主観的なものだと思うので
人によってだいぶ違いますよね。
自分はめちゃめちゃ感動するけど他の人はそうではないとか
これエンタメ作品でもめちゃくちゃ多いと思うんですけれども
この人によって差異が出るところのことについて
チャットGPTに聞いてみたんですが
一つの可能性としては歴史的背景
文脈を知っているかどうかというのが
影響がありそうだという話が返ってきましたと。
もうちょっというとその芸術作品の文脈に
どれくらい自分が入り込めるのかとか
知っているかどうかっていうところが
アウラを感じ取れるかどうかというのに
非常に関わってくるのではないかなというふうなお話です。
私はアート作品をそんなに詳しく知っているわけではないので
有名どころの事例になるんですけれども
例えばパブロ・ピカソのゲルニカという有名な絵がありますが
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スペイン内戦における空爆について描いたものですね。
これは当時の戦争というものが
どれくらい悲惨であったかみたいな話だと思うんですが
この戦争という文脈をどれくらい感じ取っているかによって
捉え方がだいぶ変わりますよね。
直近ではパレスチナやウクライナの映像を
見聞きしたりすることがあると思うんですけれども
それによって戦争と自分との距離感が変わった人というのは
多いのではないかなというふうに思っています。
5年くらい前と今とでは
戦争との距離感が変わったことによって
ゲルニカという作品を見た時に感じるものも
だいぶ変わっているのではないかなというふうに思います。
あるいはバンクシーがパレスチナに作品を作り続けておりますが
そのパレスチナにある作品を見た時の感じ方も
おそらく数年前と今とでは
同じ人がその作品を見ても
捉え方が文脈として変わっているはずなので
今そのパレスチナにあるバンクシーの作品を見ても
数年前との感じ方とは変わっているのではないかなというふうに思います。
このように文脈にどれくらい入り込んでいるかということによって
作品からアウラをどのように受け取るかということが
変わるというふうに言えそうです。
一方、文脈と完全にかけ離れているアウラもあるかなというふうに思います。
例えば自然の風景とかは代表的なものだと思うんですけども
文脈とか関係なく体で感じて
すげえって思うと思うんですよね。
めちゃくちゃ青空とか
すごい開けた場所とか星空とか
そういったものから何かしらのエネルギーを感じて
オーラを感じてアウラを感じるみたいなことは
めちゃくちゃ体験があるかなと思います。
芸術作品でも文脈に触れていなくても
感じるものってあると思ってまして
例えば巨大なものっていうのは
謎のアウラを発しているかなというふうに思っています。
岡本太郎さんの作品ってめちゃくちゃでっかいじゃないですか
物理的に。
それを見てみると
文脈を知らなくてもなんかすごいオーラ
アウラを受け取ることができるなというふうに感じています。
フランスのパリのルーブル美術館に
一度行ったことがあるんですけれども
サモトラ家のニケという
首と腕がない羽がある大きな像があるんですけれども
それを一度生で見たんですがめちゃくちゃでかいんですよね。
このニケの像を私はめちゃくちゃ好きなんですけども
その理由はめちゃくちゃでかいからですね。
すごいオーラが出ていました。
あとはミケランジェロが作ったダビデ像も
かなりでかくてですね
これは展示の仕方とかもすごく
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オーラが出るような展示の仕方をしているんだと思うので
感じやすいというのもあると思うんですけれども
文脈を知っている知らないに関係ないレベルのものすごいアウラというのを
でかいものは発しているなというふうに思いました。
このように
アウラには文脈に依存しているものと
文脈に依存しないものがあるなというふうに感じました。
ここで新たな問いとして
ではスロースにアウラがあるとしたら
それは何かということをちょっと考えてみました。
まずそもそもスロースにアウラがあるか
あるかどうかについてちょっと考えてみたいと思います。
アウラには重要なポイントがあって
それは一回性というものです。
1回はカウントの1回ですね。
1回しかないとかの1回に性質のせいで
1回性と言うんですけれども
これはマスコットさんと香里さんが紹介されていた
ヴァルタ・ベンヤミンさんという方が
複製技術時代の芸術作品という書籍の中で
語られていることだそうなんですけれども
作品のオリジナルがここに1つしかないということが重要であると
技術の進化によってコピーという複製が可能になると
アウラが失われてしまうというふうなことをおっしゃっているそうです。
これをもうちょっと詳しくご説明すると
例えばもともと置かれていた場所
アート作品とかがもともと置かれていた場所とか文脈から
そのアート作品が切り離されると
アウラが失われてしまうということでもあると
例えば先ほどバンクシーの例を出しましたけれども
パレスチナにあるバンクシーの作品は
パレスチナという場所に存在することで意味を発揮しているわけですね。
そのバンクシーの作品を切り出して美術館とかに移動してしまうと
その本来持っていたパレスチナにある作品というのが
文脈から切り離されてしまって意味を失うということでもあります。
これによってアウラが失われてしまうわけですね。
デジタルデータも同じような状況に陥るわけで
複製可能になるともともとあった文脈から切り離すというのが
非常に簡単になると
なのでデジタルデータもアウラが失われやすい特性があるといえます。
しかしこの複製可能なことによってアウラが失われるんだが
ブロックチェーン技術によって
オリジナルが担保されるという風になったのが今ですよね。
ここに一つしかないということが重要なのであれば
ブロックチェーン技術によって
一つしかないオリジナルということが担保されることによって
デジタルデータという複製可能なものであっても
アウラが復活をするのではないかという風な仮説が立つなと思いました。
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スロースのNFTについて考えると
オリジナルがブロックチェーンによって担保され
特定の衣装を着ることで何かしらの文脈をまとい
そこにはその衣装に関連した何かしらの意味付けがされて
アウラをまとっていくのではないかという風に考えました。
なのでスロースはアウラを持つと。
文脈という観点でスロースを振り返ってみると
文脈がめちゃくちゃ強い面があるなという風に思っています。
まずテーマとしてのゆっくり急げフェスティナレンテですけれども
これは少なくとも近年のアテンションエコノミーに対するカウンターになってますよね。
感情を刺激するいろいろなアテンションとは一定の距離を置いて
ゆっくり行動すると。
だけれども本当に重要だと思っているものに向き合うときには素早く行動する。
この考え方は近年の社会を踏まえた文脈の上に成り立っているという風に考えると
めちゃくちゃ文脈が強いものがスロースだなという風に言えます。
コラボ衣装もめちゃくちゃ文脈が強いわけで
例えばCNPコラボの衣装とか
私のスロース君が着ている左利きのエレンのコラボ衣装とか
そういったものはその作品自体を知っていることですごく愛着が湧くわけですが
それらを知らないと流行ってるやつだねくらいの理解になってしまいますよね。
スロース本体に関わらず
例えばSWCのコンテンツの読み物も
一つの話だけ読んでめっちゃわかったという風になりづらいもので
読み物を連続して継続して読み続けることで
非常に腹落ちするみたいな
深いレベルのものが提供されていますと
こういったことを考えると
スロースやSWCというのは
かなり文脈が強いコンテンツであり作品だなという風に思いました。
とはいえですね
ハイコンテキストすぎると初見の人が参加しづらいという風になってしまいます。
そこに対しては見た目の可愛さみたいな
文脈がなくても成立するアウラというのを
スロース君は見た目上で持ち合わせているなという風に思います。
特に最近のナイトを使った動画投稿とかは
めちゃくちゃスロース君が動いてて可愛いみたいな形で
アウラが出ていると
これは文脈がなくても感じ取れるアウラを出しているんだなという風にも感じます。
さらにさらになんですが
めちゃくちゃスロース独自のアウラだなという風に思ったのが
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参加者がアウラを作っていけるところだなという風に思っています。
衣装として何を着せるのかという文脈のまとい方と
そのスロース君を動かしてXとかに投稿して見てもらうみたいなのは
スロースのオーナー兼コミュニティメンバーがそれぞれやっていることですよね。
それに対してみんなでいいねとか可愛いねというリアクションをしながら
アウラを強めていく。
このようなアウラをみんなで作って強めていくというのが
スロースでありSWCなんだなという風に思いました。
ということでアウラの話をめちゃくちゃ独自理論で発散させてみましたが
いかがだったでしょうか。
今回のお話は以上です。
ではスロスロスロース
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