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2023-03-03 43:10

090 もし私が愛そのものなら愛されない不安を抱く必要はない!

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私たちは口では「愛など信じない」と言いながら、心の奥底で他の人から愛されることを願っています。それはバラバラ意識の夢を見ているからだと思います。自分が本当は何だったかを思い出せば、愛することと愛されることは完全に等しくなります。番組でお知らせした新しい「Jazzin' Work」のウェブはこちら→ https://goodvibes.work/jazzinwork/

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GOOD BYE MIDNIGHT RAXXAR by KURAZAMUKEIZU
こんばんは。ただいま3月3日金曜日の午前3時59分です。
今日はあれですね、ひな祭りなんですね。
多分私は、今日はひな祭りにまつわることは何もしないと思うんですが、なんとなくこの3と3が並んでめでたいなという感じはしますよね。
今日はちょっと遅くなってるんですが、開始がね、この収録がちょっと前まで、私がいつもお話しているジャジンワークというね、
私が提案する自由で、そして少し気楽でね、それなのにパフォーマンスが最大に発揮できるっていう私が提案する動き方っていうのがありましてね、
これをその1月ぐらいから、なんか思いつきでその6時間みんなで一緒にやりましょうみたいなことをちょくちょくやっていたらですね、
結構その私の想像する以上にたくさんの方がね、この会場とかオンラインに参加していただきましてね、
特にこのオンラインとハイブリッドにしてからですね、あの九州とかね、鳥取とか和歌山とかですね、大阪とか本当にこう遠方の方がものすごくたくさん参加してくださいまして、
シンガポールの方もお一人いらっしゃいましたけどね、なんかすごく手応えを感じましてね、
これをもう少ししっかりした形でね、月に2回ぐらいを開催しながら、いろんな私が他にやってるイベントと絡めていくと面白いってことに気づきましてね、
例えば書き上げ塾とかね、それのなんかこう仕組みを新たにこの3日4日でね、ちょっと考え出していろんな面白いアイデアが浮かんだので、
これをウェブサイトにね、全部その更新というかね、刷新して書き直していたところだったんですよ。
3日ぐらい前からね、4日ぐらい前かな、頭の文章から全部書き直してですね、
というのもちょっと最初はですね、このジャジンワークをその計画を手放すやり方みたいな方向で打ち出していたんだけども、
このまさにね、6時間とか7時間をみんなで一緒にやって、私も気づかされまして、
実はこのジャジンワークのポイントはそこではなくてね、そこは大して実は大事ではなくてね、
もっと重要なポイントというのがあって、これがやっぱりね、そのリアルタイムに報酬を得る。
だからここにそのリアルタイムに報酬を得るために計画がちょっと邪魔をするから横に置いておこうよぐらいの感じかな。
だからちょっと説明とか解説文も大きく大幅に書き直しましてね、まさにこのアップデートしている感じなんですけどね、私の中の。
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これに合わせてそのウェブサイトも刷新して、そしていろんな仕組みをちょっと考えたので、他のイベントとつなげると面白いということが分かって、
そういうことをこの3日間でね、コツコツコツコツ書きながら、そして画像とかも作りながらね、やっていたんですね。
私の読みだと1日半ぐらい前には完成する予定だったんですよ。
まあでもまさにね、この私の予想というのは想像に過ぎませんからね、現実にはそれといつもいつも食い違う。
だから今日あたりはね、もう今晩中には上げたいなあみたいな感じはすごく強かったんですよね。
だからこの収録が後ろに控えているんだけども、もう少しやりたいみたいなね、あとちょっとで終わりなんですよ。
本当にたぶんあと1時間ぐらいかな、ぐらいやれば終わりだったんだけども、さすがに今日それをやるとね、この収録が50を超えてしまうみたいな形なんで、
勇気を持ってですね、ここは一旦中止して、中断して、また明日ね、続きをやろうと。
こういう時に、まさにこれがジャジュン・ワークの作法の一つに入ってるんですけどね、この自分と他の人とこの世界、環境ですかね、
それからこの世界の流れみたいなものかね、それを信頼して動くっていうのがあって、そうしないとこういう時にやっぱり僕らはね、がっかりしますよね。
時間どおり予定どおりに終わらなかった、まだ残っている、早く終わらせたかったのにとか言って、自分を責めたりね、ちょっと失望したりする、何かのせいにしたりもする。
でもこの流れをね、信頼してると、これは逃げではなくてね、私は別にこのウェブサイト、このジャジュン・ワークのウェブサイトを更新するというこのプロセスから一度も逃げてませんから、
これをね、やらないで置いておくみたいなことはしてないので、基本的にはね、取り組んでるわけですよ、本気でね。
それでも終わらないんであれば、これは何か意味があるんだなと、緑の本で書いた、災い転じて福と成すと、そもそも災いではないと思うんだけど、これは福なんだろうなっていうね、この感覚が持てるんですよね。
そして多くの場合、これは楽観的なポジティブスインキングとかではなくてね、本当にやっぱりこの一日空けたところに、例えば僕の中にアイデアが浮かんでくるっていうこともしばしばあるし、他の人から何か面白い情報をもらうとかね、
そしてこの日にちの流れが一日ずれたことによってうまく動き出すみたいなこともね、多々あるんですよ。
だからこういう時は気持ちはね、終わらせたいっていうのはあるんだけども、その意固地にならずに、私の画を通さずにね、自力でやらずに、この全て力、世界と他の人、この周りにね、私の周りにあるものを信頼して、そしてこの流れを信頼して、ここでぎっぱりとやめるっていうのが、私にとっては最善の選択かなという、そんな感じなんですよね。
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で、このジャジンワークがどうなるかについてはちょっと後半でね、詳しくお伝えしようと思うんですが、今日はですね、私のやっているこのGood Vibes Factoryというコミュニティね、これもつい先日、ウェブサイトを大幅に全面リニューアルしたとこなんですけども、最近なんかこういうのがね、私の中でトレンドなのかな、ちょっと自分でやってたサービスを見直して、それを整えながら見せ方を変えていくみたいなことをやってるんだと思うんだけど、
ここで日々の日間のワークアウトを書いてましてね、今日のGood Vibesっていう、ここで一昨日かな、昨日かな、ちょっと忘れたんだけど、愛について書いたんですよね。
そうしたところ、年末に浜田知恵さん、知恵と園の一緒にね、ポッドキャストをやっている浜田知恵さんと一緒に、世界は愛を求めてるっていうね、まさにこの大冗談にテーマを愛と決めてトークライブをやったんですよね。
その時、お越しいただいた関西の方がファクトリーにいらっしゃいまして、この方がすごくいいコメントをつけてくださったんですよね。なかなかこのファクトリーっていうのは何もしないコミュニティなんで、コメントがつくというのがそんなに頻繁には起こらない。
だから私としてはこのつくと嬉しいんですけどもね、いわゆる宝くじみたいなものだと思って、うっすらとした期待もないかな、うっすらと何かあったらいいなぐらいな感じなんですけど、そこに本当に嬉しいコメントがありましてね。
私もやっぱりこのグッドバイブスの中で許すとか愛するっていう話は、実はしにくいなと思ってやってるんですよ。というのも、かつての私がこの言葉を聞いたらね、ものすごい抵抗があったし、特に若い頃なんてね、もうとんでもないよっていう話、そういう話題をしているのでね、
ここに関してはなかなかその抵抗とかね、その受け入れにくさとかね、受け入れがたさみたいなものがあるっていうのはわかってるんですよね。
でもわかっていても、やっぱりこの数あるグッドバイブスの話の中で、ここの許しを通って愛を思い出すっていうのかな、思い出すなんですけどもね、これはちょっと後でどういうことかちゃんとお話しますけども、ここはもうゴールなので欠かせないんですよね。
最初の頃、私は随分ここをね、オブラートに包んでね、セミナーとかね、文章を書いたりしてたんだけど、昨年の夏ぐらいかな、まさにこのポッドキャンパスを始めた頃ですよ。
ここからもう逃げないようにしようと、この話をもうまっすぐ伝えていきたいなという、そういう気持ちがふつふつと湧き上がりまして、
グッドバイブスファクトリーにその話を書いたところね、とてもいいコメントをいただいて、この話いけるじゃんみたいな、なんか俺が一人でビビってるだけで、そうでもなくねって、そう受け入れがたい話ではないのかもしれないなというこの勇気をね、このコメントからいただいたのでね、早速今日はこの話をしようかなと思います。
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まあ要はその愛もね、許すも同じで、まあ要はいろんなところで耳にするわけですよ。私も若い頃はね、えっと授業の道徳みたいなところでね、まあそういうパッケージとして、そういう伝え方として、なんとなくその私はその学生の頃はね、どちらかって言ったらそのアウトローというか、反骨をするような、反骨精神を持った生徒だったのでね、
どうもこういうところにはもう、いちいちいちいちそのケチをつけたくなる。本当はそんなもの、嘘っぱしじゃねえのか、みたいなことを言いたくなるようなね、そういうまあ伝えられ方をした、そんな覚えがある。
例えば愛一つとってもね、えっといろんな言葉に発展していてね、もう恋愛とかね、恋愛と愛は何が違うんだとかね、それから熱愛とかね、愛にこの熱の高さがあるのかみたいなね、まああとは自愛だとか、いろんなこの派生した言葉っていうのが出てきて、さらにこうよくわからないものになってるわけですよね。
で、もう一つこの困ったことにね、この僕らがこの言葉に抵抗を感じる大きな要因として、例えば学校であればね、愛好心とかね、会社であれば愛者精神みたいな形で、このなんつーのかな、ある種の意図的に別の目的に使われることがね、しばしばあったわけですよ。
で、まあこれはなんつーかな、経営者がその自分の一つ立てた方針とかね、その会社の動き、そういうものに一致団結して沿わせようという、そういう目的だと思うんだけどね、そこにこの会社を愛しているっていう、このマインドがあれば無敵だろうという、まあそういう発想なんだけど、これにこういうのに対して、まあ若い頃の私だとかね、反発したくなるわけですよ。
だからまあこの辺の先入観というかね、僕らがその、これを、この言葉をどういうふうに捉え、どういうふうに使ってきたかという、こういう経緯もね、無視できないところ。
だからこそ僕はこれをね、もう少しなんというかな、こういい形で取り戻したいなと思っているわけです。
というのもこのね、たとえばワントレとかをやっていて、許す、愛するって話は、やっぱりよほどこう信頼関係を結ばないとね、そう簡単には、最初の、たとえば初回のね、どうもよろしくお願いします、倉園ですと、じゃあまず許しましょうかみたいなふうにはいかないんですよ。
それなりにこの人、そんな変な話をする人じゃないなとかね、怪しくはないなみたいなことを、その信頼関係を結んだ上で、ようやくこの、じゃあっていうふうにできるような話なんですけどもね。
でもここがね、バシッと伝わった時には、本当に大きなブレイクスルーが起こるんですよ。
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もう本当にそうだったのかみたいなね、場合によってはね、もうなんつーのかな、すっごくすごくこう悩んでいたことがね、一発で解決するとか、どうしてもこの怒りが手放せないみたいなところがね、スッとなくなっていくみたいなことが起こるんですよね。
だから私は、ある種変な言い方ですけどね、これはものすごくパワフルだと思っているんですよ。
だからなんとかして、いい形でお伝えできるように頑張りたいと思うわけです。
そもそも、例えばこの愛という言葉がどんなふうに生まれたかっていうこの経緯をたどってみると、これは想像に過ぎないんですが、おそらく言葉が先に生まれたっていうことはないはずなんですよ。
そうではなくて、最初に私たちのね、この心の中にある感覚というのがあったはずなんですね。
もやもや?もやもやじゃないね。なんかほんわっとした、ほんわ。
よく知恵さんがほっこりって言うんだけど、このほっこりって何?って言うね。
これをなんか伝えたい人に、ちょっと今この私ほっこりしてるんですけど、これは何なんだろう、言葉にしたいって言って、
多分各国でね、世界各国でラブだとかね、アモールとかね、愛みたいなことがつけられたんだと思うんですよ。
だから言葉は多分後からできているはず。
でも僕らは今この愛というものを考えるときにね、多分言葉から最初に定義しようとしてる感じがするんですよね。
そうではないんじゃないかなと。
それよりもそのもともとあったものに愛というラベルがついたわけだから、それはどんな感覚なんだろうということをね、
自分の心に向き合って自分で知るっていうのが僕は一番いい方法だと思うんですよね。
やっぱりこの言葉をボンと机の上に置いてね、愛とは何かって考え始めると、やっぱり僕らはそのある種の真面目さがあってね、
例えばですよ、じゃあ私の中に愛があるのかとかっていうこの問いを立てたときに、
こう理屈で考えていくとね、どうしても極端な例とかを出しがちなんですよね。
例えば他の人のために自分の命を捨てることができるかとかね、自分を犠牲にして他の人を助けることができるかみたいな、
なんでそのケースが出てくるのかもちょっとよくわからないんだけど、
なんかそういうものを超えなければ自分の中にね、自信を持ってこのパーフェクトに私は私の中に確かに愛がありますみたいなふうに答えてはいけないっていうね、
本当にこれは一つの真面目さ、もしくはこれはある種罪悪感に紐づいてるのかもしれないよね。
なんか中途半端なのに私は愛してるとかね、私の中に愛があるというこの感覚に罪悪感を持ってしまうのかもしれない。
いずれにしても、やっぱりここを確かめる方法としてもね、議論をする方法としても、
なんとなくいつも僕はこの極端な例を出しながら、最後にはやっぱり私たちの中には愛と呼べるようなものはないんじゃないかっていうね、
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そういう結論にたどり着く場面というのを何度も何度も目撃してきた感じがしますね。
でも面白いことに、僕らは口では愛なんか信じないよとか言ってもね、
まさに私も若い頃はそう言ってました。愛なんて信じられないよみたいな感じでね。
でもおそらくこれは間違いないと思うんだけど、誰もがですね、心の奥底で他の人から愛されることを願っていると僕は思うんですよ。
これは例えばね、今で言うとこの評価を気にするっていうのがありますよね。
これは何のために?もちろん例えば評価が給料に結び付いているから給料を上げるために評価なんだってそういう話もあると思うんだけど、
僕が耳にするケースというのは必ずしもそういうんじゃないんですよね。
この私のやった仕事が正当に評価されてない。これは頑張ったねって言ってくれないみたいなそういう感じなんですよ。
だからそういうのが積もり積もって給料の査定なんだけどちょっと違う感じがするんですよね。
もっと言えば例えばこのソーシャルメディアとかブログとかYouTubeにこのコンテンツを上げている人、
ソーシャルなんていうのはコンテンツというか皆さんが投稿するんだけども、どうしてもやっぱりいいねの数が気になるじゃないですか。
だからフォロワー数とかも気になるじゃないですか。チャンネル登録数とか。
なんでこれを気にするのかってことなんですよね。こういうのをビジネスに使っているんであれば、
これがまさにさっきの給料じゃないけども売り上げに直結したりしますからね。
当然それはビジネスライクに気にするっていうのはあるんだけども、そうでない方の方が圧倒的に多いはずなんですよ。
このソーシャルとかブログをやってるという方。でもやっぱりいいねが欲しいですよね。
それは僕はおそらく心の奥底で他の人から愛されたいというね、この願いの現れなんじゃないかなと思うわけです。
だからちょっと面白いんですよね。愛は信じないと言いながらもこの愛されることは願っているっていう。
この辺にですね、この愛の謎を解く鍵があるような気がするんですよ。
ここはね、じゃあなぜ私たちは心の底で他の人から愛されることを願うのかっていうね、この問いを立ててみるんですね。
そうすると私が思うに、この僕ら自身をどう捉えるかによって2つの見解に分かれる感じがするんですよ。
ここはね、ちょっとコミってややこしい話なんで、頑張って整理して話してみますね。
まず僕らをその個別に切り離された体っていうふうに見出すとしますね。
これは僕らの当たり前のいつもそのように見出している普通の感覚ね。
私たちは個別に切り離された体なんだ。つまり私は誰ともつながっていない。
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一人で孤立しているっていうこの感じね。
そうするとこの私が愛されたい理由はおそらくだけども、愛されないと集団の中で生きていけないからになるはずなんですよ。
それしか何かメリットがない感じがするんですよね。
私も自分の人生を振り返ってみると、もう大半はですね、この集団の中で生きていくために愛されること、これを目指して頑張ってきたように思うんですよね。
ここにものすごい時間を費やしてきた。
多くの人から愛された証っていうのがね、これが僕はお金、地位、名声じゃないかと思うんですよ。
愛されない人はおそらくお金を稼げないですよね。
そして地位、ある地位につくためには誰かにそこの地位に登らせてもらわなきゃいけない。
なかなか一人ではこの地位というのは手に入れられないんですよね。
その時自分より上にいる人たちね、上の役職にいる人たちに引っ張り上げてもらうっていう。
これはその人たちに愛されたってことですよね。
そして変なやつを上に上げると結構文句が出るので、それなりに文句が言われなかったってことは、上に上げる人たちじゃなくて周りでそれを見ている人たちも納得してくれたんだな、つまり愛されたってことですよね。
そして名声なんてまさに僕は愛の証だと思うんですよ。
多くの人が僕を知っている、まさに愛されてる感じがしますよね。
だから私のその若い頃の最大の関心事っていうのはもう他の人からの評価なんですよ。
この評価が得られればこのお金や地位や名声が手に入ると。
そしてそれはまさに愛された、私が求めていたね、他の人から愛されたいという。
これはね、なかなかその表にこの感覚が出てくる人はそれほど多くないかなと僕は思うんですね。
ストレートに愛されたいみたいな感じで思っている人もいると思うんですが、僕とかはこの言葉は出てこなかったですね。
心の奥底にしまっていたような感じ。
当時はそんなことはしなかったんだけど、今この記憶の中で私はどんな思いを持ってただろうなということを深掘りしていくとね、やっぱりやっぱりこの心の一番下のあたりにこっそりと隠れてるんですね。
愛されたいっていうのがね。
だから僕はそのこれを得るためにね、そしてこれがないとやっぱりこのバラバラに切り離された私たちはね、この集団の中で生きていけない。
愛されない人っていうのが集団の中にいたらやっぱり生きていけない感じがしますよね。
だからまあそこにビビっていたんでしょうね。
そしてその証としてのお金や地位名声を得るために他の人からの評価っていうのが僕の最大の関心だった。
で、もうはっきり言いますけどね、それが得られるならね、多分僕は平気で嘘もついたし、面白いことにこの人からの評価を得るために大切な人を裏切ったりもしましたよね。
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で、じゃあどうなったかっていうと、不思議なことにね、この愛されようとすればするほどこのやり方でね、僕は人を嫌いになっていったんですよ。
そしてここの中にはね、完全にその愛の真逆のね、怒りとか憎しみがずっと渦巻いていた感じがするんですよ。
そこで私はご機嫌な仕事、緑の本に書いたね、ある疑問を持つようになったんですね。
つまり私は自分とね、この世界を大きく見間違えているんではないかってことです。
つまり一つ目の見解、私は他の人から切り離された体であるっていうこの見解です。
これが大きく間違ってたんじゃないかなっていうそんな疑問を抱いたんですね。
でなければ、だってこんなに頑張って人の評価を気にしてね、愛されようとしているのに、やればやるほど人が嫌いになって、怒りと憎しみの方が増えていくっていうのはおかしな結果ですよね。
そこで僕はね、さっきの問いですね。
僕はこの自分とね、世界を見間違えてたんじゃないかっていう。
これどういうことかというとね、もし私がね、他の人から切り離された体だとすると、当然この世界は過酷ですよね。
みんなそれぞれバラバラに生きているわけですからね。
で、それでも愛されたいと願うということは、おそらく私自身のね、この自覚の中で、私の中に愛はないっていう風に感じてるんじゃないかと思うのね。
私の中に愛がないから愛されなくてはいけないっていうこんな感覚なんですよね。
簡単に言うとこの愛というのは他の人というこの外から供給されるものっていう風に多分捉えるしかない。
それがこの切り離された体っていう感覚、そしてその人たちが住んでいる世界。
だからやっぱりさっきね、一番最初にお話ししたように、私の中に愛はあるのかっていうと、いろんな極端な例を出しながらないにたどり着く。
これはまさにないと思ってるんですよ、本当に。
私の中にその自信を持ってこれが愛だって言えるものなんてない。
なぜならば他の人から切り離されてるからなんですよ。
そうすると自分の体が一番なので、ここで自分を犠牲にしてとかね。
こんな例はどうでも本当は関係ないんだけど、この自分が想定する例としてはそれを持ってこざるを得ないですよね。
僕らはバラバラに切り離されたそれぞれの孤立した体だよねと。
この体が自分の生命よりも他の人の生命を重んじるなんてありえないよねと。
だからきっと究極的には僕の中には愛なんかないんだよ。
でもなぜか愛されたいと思うわけよね。
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だとしたら他の人から供給してもらうしかないって考えるわけよ。
でもこれおかしいですよね。
私の中に愛がないのならば他の人の中にもあるはずがないじゃないですか。
これはまた例えるならばね、この一問なしの二人が飲みに行くと。
それでそれぞれが払いは相手がしてくれるだろうなと期待していると。
これと全く同じ感じがするんですよ。
当然だけどこの試みは必ず失敗に終わりますよね。
だって私はバラバラに切り離されたからだ。
自分の体が一番だから他の人を優先するなんてことはない。
つまり私の中に愛はない。
だから外から供給してもらおう、他の人から愛されよう。
でもその人たちも私と同じなんですよ。
だからこの試みはやっぱり大前提が間違ってたんだろうって僕は思ったのね。
つまり私は自分とこの世界を大きく見間違えていたってことです。
そこでようやくこの二つ目の見解っていうのが登場するわけですね。
これがまさに私がグッドバイブスで言っている
私たちは実は形のない愛そのものであるっていう見解です。
この形のない愛そのものである存在だとすれば
なぜその私が愛されたいと思うのか。
これはつまり自分が何であるかを忘れてしまったからって答えにたどり着くわけですよ。
形のない愛そのものである存在だったにもかかわらず
なぜか僕らは個別に切り離された体というふうに自分を見てしまったのね。
だからここが面白いんですよ。
本来私たちは愛そのものとして生まれてきたとしますわね。
でもなんかこの夢を見るよりね。
パッと夢の中に入ってしまって
私はそうではなくて個別に切り離された体なんだっていう夢を見ていたとしたら
どれだけこの私には愛はないと思ったとしても
その夢を見ている主体が愛そのものなんでね。
愛されなくてはならないって感覚がやっぱり起こってくるんですよ。
愛は必要だよねって。
もともと起きている時は形のない愛そのものであったわけだから
それがふっと眠ってしまい
この体がバラバラだって夢を見ている中で
やっぱりその思いは残っているわけですよね。
でも自分が何であるかを忘れてしまっているから
外から供給しなくてはいけないという風に思ってしまった。
でもこの夢の中ではみんながみんな愛を持っていない人たちなんですよ。
だからどれだけ愛されようとしてもそれを得られることはない。
得られることはないから人が嫌いになるんですね。
なんで私を愛してくれないの。
そしてその嫌いになった心の中に
怒りと憎しみが湧き上がってくるっていう
こういう仕組みになっているんじゃないかなっていう風に
私がたどり着いた答えなんですけどもね。
そのように思ったわけです。
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ここで例えば私が水だとしましょう。
私が水だとしたら水を飲みたいとは思わないですよね。
私が水だからね。
まったく同じように
もし私の心が信頼そのものだったとしますね。
心がばっと信頼で埋め尽くされている。
そうするとおそらくだけど誰かから信頼される必要もないんですね。
私の心にばっと信頼がある。
これはやってみるとわかるんだけど
グッドバイブスのメソッドの中に
自分と他の人とこの世界を信頼するっていうのがあって
私はこれをずっとやってるんだけどね。
自分が何か誰かをばっと信頼しますよね。
そうすると心が信頼で満たされるんですね。
その時僕は誰かから信頼されなくてはならない
っていう思いが全くなくなるんですよ。
これがまさに水だったら水を飲みたいと思わない
っていうのと同じ。
それから僕の心が安心そのものだとしますよね。
そうすると当然だけど
安心を得るための努力をしなくて済むんですよ。
これもまさにグッドバイブスのメソッドの中にあるんだけどもね。
つまりAであればAを欲しがる必要はないという公式がここで成り立つんですね。
これが私がその愛の謎を解く最大のポイントだと思ってるところなんですよ。
僕らはもともと愛そのものである存在だったとしますよね。
そうすると僕らは実は愛であるんですね。
愛であれば愛を欲しがる必要はないんですよ。
もしこの私、これ仮説としておきましょう。
私たちは愛そのものである、形のない愛そのものである存在である
個別に切り離された体ではなくてね、そのように見えるんだけども
実際には形のない愛そのものであると。
これが仮説なんだけども正しいとしますわね。
そうすると何ができるかというと
私は愛であるので愛を与えることができるはずなんですよ。
例えば水は他の人に水を与えられますよね。
さっき言ったように心が信頼そのものであれば誰かを簡単に信頼できるんですね。
心が安心そのものなら、これもグッドファミスの苦労美取り組みなんですけどね。
その人がいるだけで周りの人を安心させられるんですよ。
つまりもし私が私の言う通り愛そのものであるならば
私は誰かにその愛を与えることができるんですね。
さっきのもう一つの見解、私たちはバラバラに切り離された体。
それはその存在は自分の体が第一なので
それ以上他の人たちを優先することはない。
だから愛はないのであると。
それが正しいのであれば私はその愛を持っていませんから
与えることはできないはずなんですよ。
ここが大きな分かれ道。
どちらが正解なのか。
私が誰かを愛することができなければ最初の見解が正解なんですよ。
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私が誰かを愛することができたら
私の仮説、私は愛そのものである存在。
こちらが正解だということになるはずなんですよね。
さっきお話ししたように
それでも私は体であって愛なんかないよと思っているとすれば
おそらく本来自分が何であったかというのを忘れていると思うんですね。
これを私は例えて夢を見ていると言っているんだけども
この忘れている私が本来自分が何であったかを思い出すために何をすればいいか
これもさっきの通りですよ。
愛してみればいいんですよ。
もし私が何かを愛することができれば
誰かを愛することができれば
お、愛せるじゃん。
ということは私は愛そのものである可能性はあるよね
っていう風に多分思い出すことができるんじゃないか。
こんな答えにたどり着いたんですね。
面白いことにこれをやると
もう一つこの愛そのものである私たちにとって
愛することと愛されることは完全に等しいっていう
この答えに導かれるわけね。
そもそも愛であれば愛を欲しがる必要はない。
愛そのものですからね。
他の外から供給する必要はないんですよ。
ということはこの愛することによって
自分が愛であるということを思い出せば
もうそれでokなわけだから
つまり愛することと愛されることは
完全に等しいってことになるわけ。
つまり僕らがずっとずっとこの恋を焦がれていた
他の人から愛されること
願い続けてきた他の人から愛されることというのは
これを一生懸命他の人の評価を気にしながらね
私のように大嘘をついたり人を裏切りながらね
どれだけ頑張っても得られないっていうのは当たり前だったんですよ。
そうではなかったんですね。
この一つの唯一の願望ね。
他の人から愛されたいというこの心を満たすためには
簡単だったんですよ。
愛せばよかったんですよ。
そうすると自分が愛そのものであるということに思い出しね
おおっていうふうにここでも完結するんですよね。
そんな面白いそのなんていうのかな
からくりになっているっていうそんな感じです。
こういうお話をそのワークアウトに
日刊のワークアウトに書いたところ
その先ほどのコメントくださった方が
実はこれを私は知恵さんとのイベントで年末お話ししたんですけども
この時まずものすごい衝撃でしたというふうに書いていただいて
息子さんがいらっしゃるらしいですね。
そこにいろいろなお世話をしたり声をかけたり
自分が愛と思っていたものを注いでも
この相手はちっとも反応してくれないと
小さなお子さんなのかな
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なんだろうこれはと
何か報われないというそんなふうに思っていたらしいんですよね。
ここでその私の今日のお話まさにこの文章を読んでいただいてですね
なるほどとこの自分が愛を注いでいる先が
まさに愛そのものだったんですねっていうね
なるほどとこの例えば水に相手が水で
こちらがどんどん水に対して水を注いでね
ほら水だよありがたいありがとうって言ってよ感謝してよってね
それは多分無理ですよね
なるほどとだとしたら
私が注いでる相手が愛そのものであるならば
私も愛そのものだと思えばいいんだっていうね
そこに気づけばここがしっかりと循環していくんですよね
みたいなコメントだったんですよね
そうなんですこの注ぐというところで
実はもう完結してるってことなんですよね
愛を注げたということは
私は愛そのものであるということの証ですからね
でも僕らはここでそのさっき言ったねこの夢を見ている
私は他の人から切り離された
バラバラになっている体なんだ
だから私はあなたのためにいろんなことをしてあげるから
愛してねっていうね
それを返してねってそこで返してもらって
ようやく完結なんだっていう
こういう風に捉えていたんですね
そうではない
愛することと愛されることは
愛そのものである自分にとっては完全に等しいという
この感覚なんだろうと思います
そしてそれをですね
このコメントで見事に言い当ててくださった
この方にはね本当に感謝します
ありがとうございます本当に
でここまで来るとその私たちにね
そのバラバラである夢を見せている要因は
やっぱり面白いことに
このバラバラであるという認識そのものであるということが分かりますよね
バラバラであると思っているから
愛されなくてはいけないと思い
評価されたいと思って頑張る
だけども人はそのようには評価してくれない
そこに怒りを抱き
罪悪感を抱き
人が私のように人が嫌いになっていく
だからますます愛すもんかと思ってしまうってことですね
愛すことをしないで
とにかく愛されることを求めているっていう
そういうものすごく
まさにこの夢の世界ならではのね
矛盾した戦略を取っていたんだっていうことになる
だからこの怒り
罪悪感というところから抜け出すために
許すということを通って
ここにたどり着くしかないっていう
そういう話になっていくんですね
まあでもこれはその一長一短になるほどって
その分かったとしてもね
目の前に人が現れるたびに
たぶんたぶんそのまた元に戻りね
この第一の見解の方に戻り
なんだまたまたダメだったら
愛せないなっていうところを繰り返すんですよね
これは本当に本当に
多分長い長い旅路になると思います
だから繰り返し繰り返し
36:01
こういう話をしながら
じゃあどうすれば愛せるの
それは怒りと罪悪感を手放す
それはどうすればいいのってことを
繰り返していくしかないんでしょうね
まさにこの番組でお話ししていることでもありですね
この私がですね
まだまだ未だにこの取り組みをやり続けていると
その途中であるという
そういう感じですかね
でさっきのね
前半の続きなんですけども
愛の話はここまでです
ジャージンワークこれはね
僕がまずスタンプカードっていうのを思いついたのね
でこれはその長く続けてほしいので
5回参加していただけたら
1枚無料クーポンというのを
差し上げるという
そういうシステムなんですよ
せっかくなんでね
このかっちょいい
このデジタルなんですけどね
画像なんですけども
オンラインでやり取りするんで
スタンプカードを作ったんですよ
これもウェブサイトに上げてありますんでね
これはちょっとこのスタンプの丸が
15個ぐらいかな付いてて
そしてそのスタンプが
ビニールのレコードになってるんですよ
昔のアナログレコードね
これをパツパツパツと置いていくと
5個貯まるとクーポン1枚
そのクーポンも綺麗なのを作りました
これをですね
マイページのような形で参加して
一度でも参加していただいた方に
URLを差し上げてね
そこに手動で
多分やべさえこさんがやってくれるんだけど
やってくれるんだろうと思うんですが
参加していただいた回数をカウントしておいてね
手動でこのシールを貼っていきます
画像の上にね
こういうのが自動化できたらいいんでしょうけどね
まあまあ今の人数であれば手でできると思うんで
これをですね
ジャジュンワークだけじゃなくて
私のやってる他のイベント
例えば今ここのボイストレーニングとか
ありのままを見るデッサン教室とか
基本的に私主催のイベントに参加していただいたら
このジャジュンワークにスタンプが1個付くと
そうするとたまるじゃないですか
したら別にジャジュンワーク1回も来てないんだけど
なんかクーポンもらっちゃったなってなったら
ちょっとこの次行ってみるか
みたいな流れになりますよね
もう一つはこのかきあげ塾
4月からね第8期が始まるんですけど
かきあげ塾の皆さんには
最初からもう6枚分のクーポンを
プレゼントしようと思ってるんですね
そうすると何が起こるかというと
これ1回6時間なんですよ
6×6で36時間なんですね
36時間これを全部執筆タイムに使うと
おそらくだけど本が1冊書けるはずなんですね
これだけでね
まあそのびっちり6時間っていうのはありえないんで
少なくとも3分の2ぐらいは行くはずなんですよ
だからやっぱりかきあげ塾の一つのテーマとして
その書けない時にどうするかっていうのがあってね
よくその書き上げタイムみたいなことを
この講義の中で30分ぐらいやってね
みんなで30分書きましょうみたいな試みはやってたんだけども
39:00
月に30分書いてもやっぱ本は仕上がらない
これをジャジュンワークを使ってね
うまいことくっつけた時に
かきあげ塾とジャジュンワークっていうのは
非常に相性がいいなと思いましてね
だからこういう組み合わせもあり得るんで
いろんなところでとにかく何か
僕のイベントに参加してくれたら
ジャジュンワークスタンプ1個
そして5個貯まると
ジャジュンワーク無料参加券クーポン1枚
というこのね
ビジネス的なシナジーっていうんでしょうけどね
こういう横のつながりをすることによって
なんか僕が今まで
この1年ぐらいから
ラクザシリーズという名前で
このポッドキャストとか始めた頃からの
なんか面白いつながりが
ここでちょっと一つ
身を結びつつあるなっていう
そういう感覚を持っています
だからちょっとね
これどちらかというと
このジャジュンワークというのが
一つの柱というか主体になり
その周りにいろんな取り組みがつながっていて
そしてなんかやるときは
みんなここに集まって
いい感じで実行しましょうよっていうね
そんなステージというか舞台というか場をね
作ることにしましたんで
よかったら3月11日っていうのが
次の回になります
これはちょっとね
会場はまた南大沢なんですよ
この会場もこの3月の次からね
都心今回はね
月次かなんか取ったんじゃないかな
ちょっとまだ正式にはまだわからないんですが
参加しやすいリアル会場を
都心の方ですけどもね
都心というか関東圏の方になってしまうんですが
もっともっと
いらっしゃってくださる方が増えたらね
ジャジュンワーク関西編とかね
私の生まれ故郷の九州編とか
北海道新潟とかね
東北とかそういうのもやってみたいと思いますんでね
ちょっとこれを私は今回力を入れて
これとそして新刊の執筆
これもいいアイデアが浮かんでますんで
この辺りをね
まとめて取り組んでいこうかなと思います
なんでまずは3月11日
ぜひスタンプ1個ゲットしに来てください
それから1月からね
1月まで戻って
1月からこのジャジュンワークと
私のイベントに参加していただいた方にはですね
もうすでにスタンプをお渡しするということにしましたんで
場合によっては
もう溜まっている方もいらっしゃるかもしれません
ボイトレとかだと
5回参加されたこといらっしゃいますからね
そんなことでやっていきたいと思いますんで
よろしくお願いします
それでは今日はですね
愛そのものであれば愛される必要はない
この公式なんですよね
そしておそらく私たちは
愛そのものである形のない存在だったんだと
これを思い出すためには
簡単なんですね
何かを愛せばいい
誰かを愛してみればいい
そして愛せずということは
愛そのものである可能性が高いというそんな結論
だから今日はですね
もう本当にありとあらゆるものを
42:01
全力で愛しながらですね
ぜひやってみてください
どうやって愛すの?
なかなかいい質問だと思うんですが
さっき言いましたよね
もともと愛というのは
僕らの心の中に最初からあったものなんですね
だからこれは緑の本でも書きましたけど
愛について
愛とは何か
どうすれば愛せるか
それは語る必要が多分ないはず
皆さんがそれを知っているはず
そうでなければ
愛そのものである存在ではないですからね
余計なことを
怒り、罪悪感そのようなもの
そして切り離された体という夢
この辺は逆に
愛することによって思い出すことができるんで
とにかく全力で愛してみてください
そんな風にして思い出しながらですね
本来自分が何であったか
いい一日をお過ごしください
ありがとうございます
43:10

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