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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、才能についてお話ししたいと思っています。 よくね、才能を語るときにですね、努力か才能かみたいな話になりやすいかなと思っていて、
そういう対比になると、才能というのは先天的な生まれ持ったもので、努力というのは後天的なもの、みたいなふうにですね、
捉えられるような気がしているんですけども、僕はですね、そもそも才能と努力っていうのを、なんかその同列に並べて、その対比させるものでもないのかなと思っているんですね。
何が言いたいかというと、才能は必ずしも先天的なものだけではなくて、もちろん先天的なものもありますよね。例えば身長がとかということで、
体格がということでね、それ才能じゃないですかね、スポーツ選手とか一つね、なのでそれって努力で何だろう、身長を2メートル30センチにしようって無理だから、
才能だと思うんですよね。けど、2メートル30センチあるから全部オッケーかって、当然そうじゃないから、それを努力でカバーしましょう、みたいな意味での才能と努力って多分多くの人が言ってるんだと思うんですが、
僕はその校舎の、じゃあその2メートル30センチを活かしてどうたらこうたらっていうのも才能だと思っているんですね。
つまり、努力っていうのは、なんかただの根性で、僕にとってはね、ただの根性であり、基本的には才能×才能、先天的な才能と後天的な才能を掛け合わさって、才能が発揮されているっていうような考え方を僕はしています。
才能って言うと、なんかこう、もうあらかじめ、その先天的なものだけじゃなくてね、あらかじめ決まっていて、もうどうしようもないものっていうふうに思ったりもするかもしれないですが、まあ決してそんな意味ではないと。
国語辞書ね、大辞令を引いても、才能って、物事をうまく成し遂げる優れた能力、技術、学問、芸能などについての素質や能力って書いてあるんですね。
なので、素質や能力って言ってるので、別に素質っていうのは確かに生まれ持った性質であるとかいうような意味を含むけども、素質や能力って言ってますから、別に素質だけではないんですよね。
結果としてその能力があれば、それと才能があるっていうふうに言うよね、というふうに思いますね、この日本語的には。
なので、あんまし努力と才能で対比させることによって、努力でカバーしようっていうような思考に陥るかなと思っていて、僕はその対比があまり好きではありません。
やっぱり人間には向いていることと向いていないことがあると思っていて、それがさっき言ったように、生まれつき向いていないものもあると思います。
ただ僕で言うと、人に共感するとかっていうことは向いてないですよね、サイコパスですから。
向いてないんだけども、からそれは無理やり共感しようとしてもやっぱりしんどいし、しんどいんですよ。
だからそれは向いてないので、ある種共感する才能はないけども、それによって合理的に考えやすいというか、冗談に流されずにですね、合理的に考えれるという特徴の能力がありますので、それをいいふうに使えば才能になるんじゃないかな。
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それを悪いふうに使えば、きちがいみたいになりますけども、いいふうに使っていけば、それっていうのは能力と言えるんじゃないかなと思います。
さらに、それは一つ生まれ持った能力というか才能なんだけども、合理的に考えることができる素質を持っているんだが、それを合理的に考えていくという経験を積んでいかないと、その才能というのは開花しないよねと思うんですね。
それがたまたま僕の場合は経営という形で、ピシャッとはまったという感じで、合理的に考えなければいけない、合理的に考えることが求められるような役割につくことによって、その才能を持っていた素質をね、伸ばすというか、後天的に伸ばすことができたと。
つまり、才能を生かすというか、生まれ持ったものをちゃんと環境にも適用させていく中で、さらに才能が伸びていくというようなイメージでいます。別に経営の努力をしているというよりは、単純にフィットしているから自然と伸びていくというイメージです。
そんな感じでですね、それをね、努力でカバーしようとするということは、ある種の才能を見落としてしまう可能性があるなと思ってですね。要は向いていないのに頑張ってしまうことがあるかなと思っているんです。なので、努力って言葉が僕は嫌いで、嫌いというか、合理的でないなと思っているので、あんまし、そんな合理的でないことをする必要があるかなと思っています。
努力って思っている時点で、それはもうちょっと向いていないことを頑張っちゃってるんじゃないかなって思ってしまうので、努力という言葉が好きではないし、あんましそういうふうな意識で努力しているのは結構危ないんじゃないかなというふうに客観的に思ったりするところでございます。
つまりですね、向いていることって自然と頑張れるじゃないですか。頑張れるというか、なんかやってしまう。どんどんどんどんやってしまうじゃないですか。っていうことを突き詰めていかないと、なんていうのかな、無理して頑張って、なんかいいことあるのかなって、自然にやっちゃう人にどうせ勝てないよって思っちゃうんですよね。
例えばずーっと演習率を覚えるのが好きで好きで仕方ない人、まあそれは才能というかわかんないけど好きで好きで仕方ない人がいて、演習率ずーっと覚えてる人に、なんか頑張って演習率覚えようとしてる人が勝てるかっていうと、やっぱ好きでずーっと覚えようとしちゃう人、自然にやっちゃう人にはやっぱ勝つの難しいですよね。
っていう風に考えると、まあ演習率と同じようなことがですね、いろんな仕事であるとか、別に趣味の領域でもなんでもいいんだけども、あるかなと。だから絵が上手くなりたい、みたいな感じで憧れだけで絵を一生懸命練習するのは、それ努力でなんか気合ですよね。それよりも、なんか絵を描きたくて描きたくてしょうがなくて、えーと、描いてしまうという人が、まあそのテクニックを身に付けていくっていう分には、まあ永遠に描き続けれるのかもしれないけども、なんかこう努力でカバーしちゃうと、うーん。
まあ確かにテクニックとしてね、その一流になって、それがプロの世界でやっていけるかもしれないですけども、それってハッピーなんですかねっていうのが僕の思うところでございます。やっぱり才能が社会の中で適応されるというか、自分の才能を伸ばして、その才能で社会の中で適応するってことが、ある種の自己実現と社会的な適応がこういい感じでバランスするところなのかなという風に思いますので、
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えー、社会的な適応ばっかり目指してですね、えーと、なんだろうな、自分のこう、を歪めちゃうっていうのは結構しんどいし、えー、自己実現に偏ってというか、こうありたいみたいなところに偏ってですね、実は全然社会に適応できていないといったらあれですけども、その社会の中では、えーと、全然その他大勢みたいなレベル感で留まってしまう可能性もあるので、えー、無理な、えー、才能ないところを伸ばそうとしても、やっぱ伸びしろっていうのが限界があるかなと思いますので、えー、自分が才能があると思って、
自分が才能があると思えることを、えー、ずっとやっていられるっていうことを、えー、伸ばしていって、それを社会にどう適応させていくかっていうことの方が、まあ、才能を生かした生き方っていうのができるんじゃないかなという風に思いますので、あえてね、才能、才能一本、えー、才能っていうところですね、あの考えていく方が、あのー、かえって生きやすいんじゃないかと僕は思うわけです。
もしかしたらね、えー、才能がない以上、もう、えーと、生きる価値なしって言ってるわけじゃなくて、何か、人はね、何か才能が僕はあると思ってますので、むしろ才能を見つけましょうと、えー、そういうお話です。えー、そしてその才能は生まれ持った自分の特徴、えー、生物学的なね、物が絡んでいる、えー、特徴もあるけども、そうではない、肯定的に身につける、身につけるというか、えー、その肯定的にこう伸びていく才能みたいなのがあるかなと思いますので、えー、その両方をちゃんと見つめてですね、えー、努力でカバーするんじゃなくて、えー、才能でね、えー、その、その、その、その、その、その、その、その
えー、才能を伸ばしていくと、えー、才能をむしろ見つける、えー、努力はしてもいいのかなというふうに、えー、思うところでございます。
えー、才能を大事にしていきましょう。えー、持ってまわる才能をね、大事にしていきましょうというお話でした。本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。