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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、頼まれことが嫌いなワケ、という話をしたいと思っています。
僕は昔からですね、頼まれことが嫌いなんですね。
全くやる気が起きない、なんならちょっとムカついてしまうというところがあって、
これは他者のためにエネルギーを使いたくないという、すごい薄情な人間なのかなというふうに自分のことを思ってきたんですけれども、
よく考えてみると、そんなこともないなというふうに思います。
僕はですね、結構、利口的か利多的かみたいな判断軸ってなくて、
エネルギーが出るか出ないかっていうところを大事にしているんですね。
もちろん自分のエネルギーが出るか出ないかっていう判断軸そのものが利口的であるというふうに思われるかもしれないんですけれども、
その結果、エネルギーを出す内容というのがすごく利多的に見えるような内容についてもですね、やることはあるし、
結果それを観察している人が利口的とか利多的って言っているだけであって、
僕自身は自分のエネルギーが出るか出ないかで判断しているので、
それがめちゃくちゃ利口的なことっぽいことにエネルギーを出すのかもしれないし、
利多的っぽいことにエネルギーを出すこともあるよねというだけであって、
別に人のためにしたくないとか、そもそも人のためとか自分のためとかっていう観点があんまり薄いというのがあるんですね。
なぜ頼まれることが嫌いなのかというと、エネルギーが出ないからなんですね。
なぜエネルギーが出ないのかというと、頼まれることの多くって作業が多いんですよね。
言い換えるならミクロというかね、抽象度が低いことを頼まれることが多いと。
僕はね、そういう作業がすごく嫌いで、しかも作業が嫌いって言っても全ての作業が嫌いなわけじゃなくて、
させられる作業というのは嫌いなので、おのずと頼まれることイコールさせられる作業なわけだから、
嫌いですよね。僕はですね、構造的に物事を捉えるというか、その作業が起こっている背景にある構造システムみたいなところを考えることが好きだし得意だし、
そういうのを考えるのが楽しくて仕方ないっていう人間なので、この作業をもっと効率化したいんだよねとか、
この作業をしなくていい方法を考えてほしいとかっていう構造のところで頼まれることをすると、
僕は喜んでね、一生考えましょうよとか言ってね、考えますねとかって感じでやるんですね。
なので頼まれることが嫌いなんじゃなくて、頼まれているレイヤーがミクロだからちょっと嫌だなと思っているだけなんだなってことを気づきました。
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実際、友人から経営の相談とかを受けると、それは要はレイヤー的には構造的なレイヤーなんですね。
組織をどうするかとか、授業をどういう感じにバランスを取っていくかみたいな話とかっていう話は僕は大好きなので、
全然お金いらないからとかって言ってね、相談に乗ったりするんですよね。
仕事としてじゃなくて本当にボランティアで相談に乗ったりするんですね。
だから頼まれることが嫌いなんじゃなくて、頼まれている中小度が低い、作業させられるとかってなると、
させられるとかでもないんでしょうけどね普段ね、普通はね。
けど僕の中ではすごく作業になった瞬間、させられている感じがすると。
構造的な話になると全然させられている感がなくて、楽しい、ありがとう、なんか面白いテーマを与えてくれてありがとうという気持ちになるというところで、
頼まれごとに罪があるわけではなくて、頼まれごとの内容に問題があるということでした。
ところがですね、物事をそういう構造的に捉える人って少ないと思うんですよね。
だから、そもそもその作業が大変だからその作業をしてほしいみたいな頼まれることがあっても、
その作業が大変だからこの作業が起こらないように何か知恵を貸してほしいとかっていう風に、
一個中小度を上げて頼み事をしてくる人っていうのは、構造的にまず物事を捉えていないので、そういう頼み事にすらならないですよね。
その作業を手伝ってほしいっていう頼み事になっちゃうと。
頼み事をする人がまずそのもう一個上、もう二個上っていう中小度を考えてくれれば、
そのシステムのところで話ができるんだけども、作業のところで頼み事をしてくると。
だからもうその時点でお断りするってことになっちゃうんですよね。
一方で、その頼まれる相手がその構造的にとかシステム的にね、物事を考えれるっていう人も少ないですよね。
だから根本的にそういう人間があまり多くないっていう意味では、
そういう頼み事も発生しないし、そういう頼み事をしていい相手も少ないということで、
構造的な頼み事は起こりづらいということですね。
必然的にそういう構造を考えなければならない立場の人、例えば経営者であるとかね、
そういう人の相談が必然的に多くなるし、
経営者が日本にどれくらいいるかっていうとやっぱりパーセンテージ的には少ないわけじゃないですか。
し、その経営者の中でも構造的に物事が見れない人がいるので、
永遠に社員のせいにしてる人もいますよね。
あいつの仕事ぶりかとかって言ってる人いるけども、
それはもう構造的にそうなってるっていう考え方もできるよねっていう風に考えられない経営者の方も相当いるので、
そうなるとやっぱりね、構造的な頼み方ってことっていうのはすごく減ってきますよね。
ビジネスでそれをされている方、いわゆるコンサルタントとかですよね、
そのシステムのところをちゃんとすると組織が良くなりますよみたいな提案をして、
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お金をいただいて仕事をするっていう、そういった仕事も僕も一部やってるんですけども、
仕事でそれをするってなると結局、ちゃんと組み立ててね、
信頼してもらって受注を取ってみたいな話になるんだけども、
この頼まれことみたいな文脈でいくと、
僕は別にね、頼まれたいとも思っていないというのが前提にあるので、
あくまでね、エネルギーが出る頼まれことってなんだろうって考えたときに、
構造的な頼まれことであり、そういう頼まれことだったら頼まれても、
エネルギー出るから引き受けるけれどもって話をしてるだけで、
別に頼まれたいわけではないという大前提があると。
やっぱりね、頼まれことが僕はそんな好きじゃないと。
嫌いなわけではないけれども、頼まれることそのものが別に好きなわけじゃないと。
誰かの期待に応えられて光栄ですみたいな気持ちはなくて、
単純にエネルギーが出る案件にエネルギーを出したという自分がいた以上という感じなので、
誰かのためにできたなとか、自分のためだったなとかって、
そのリタとかリコっていう意識がとても薄いですよというのが、
自分の中にあるなというふうに最近気づきました。
なので、僕に何か頼み事をする機会がある方はですね、
ぜひ、作業を頼まないでください。
頼まないでくださいというか、頼んでもいいけど断るので、
そういう構造的なお話をぜひ相談していただけると、
僕も新民になってお話が聞けるかなと思いますので、
そういう僕に相談していただける機会があれば、
そういう構造的なことを相談してほしいなと思います。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。