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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、人は変われるのか、という話をしたいと思っています。
変われるのか、というと、分かることが可能なのか、というのも、
そういう言い方をする時は、変わりたいとか、変わるべき方向みたいなのがあって、そのように変われるのか、みたいなニュアンスを含んでいるのではないかなと、僕は思っているんですね。
人は変わるのか、という、自動的な形で言われると、変わるでしょう、と思うんですけども、変われるのか、という、何かたい方向、べき方向に変わることができるのか、と言われると、
結論としては、僕としては短期的にはノー、ものすごい長い時間、長期的にはイエスの可能性がある、というふうに思っています。
例えば、怒りっぽい人がいるとして、怒りっぽいの直したいと思って、怒らないように怒らないようにって頑張っても、怒っちゃうと思うんですよね。
今日こそ怒らないぞ、とか思ってても、もうそれは避けられない。怒りっぽいんだから怒っちゃうよねって思う。
し、例えば他にも、他者に興味が持てない、とかいう人がいたとしても、じゃあ今日から人に興味を持とうと思っても、ほんの数時間が限界というか、めちゃくちゃ意識して初めて興味を持ってても、
日常的に他者に興味を持つ、とかいうことは難しいと。
そして、人と喋るときに、自分ばっかり喋ってしまう、みたいな人が、もっと人の話を聞けるようになりたい、って思っても、そう簡単に聞けるようにならない。ついつい自分が話しちゃう、みたいなことが起こると。
明日から変わろう、とか、こういうとこ直したい、って思っても、そう簡単に直るもんじゃないだろうな、っていうのが僕が思うとこですね。
で、それが何でなのかっていうと、物の見方だと思ってるんですよ。
もう世界をどのように認識するか、自分がどんなふうに物を見てるかっていうものを変わらない限りは、そのもっと後ろの工程で、その行動だけを変えようとしても、変わらないと思うんですね。
やっぱり認知そのものが変わっていかないと。
怒りっぽいっていうのは、それが気に触るようなフィルターで物を見てるから、その時点で怒りっぽいことは避けられないと。
で、それを見てるのに、でも行動ベースでというか、そこから先の起こってくる感情みたいなものとかをコントロールしようと思っても、もう手遅れで、世界をそのように見てしまった時点で、もう怒ってしまうっていう、怒りっぽいみたいなことは避けられないし、
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世界を他者がつまらないと思うフィルターで見てしまってる時点で、そこから興味を持とうとしても、もう手遅れだし。
会話もそうですよね。人の話を聞くという、コミュニケーションって人の話を聞くことが大事だよなというフィルターで見てないと、もうついつい気が緩んだ瞬間に自分が喋っちゃうということが起こってしまう。
これはもう、行動をどう変えるかみたいな話じゃなくて、もっともっと手前の、すごい世界をどう見るかみたいな話だなというふうに最近は思ってます。
なので、人は変われるのか?変わりたい?とか言って、そう見ても、僕からすると、物読み方は変わってないなと思うと、多分変わらないだろうなと思うし、
分かんないけども、1年とか2年とか経って、時間じゃなくてもいいよ、大きな出来事があって、すごい認知が変わるようなことが起これば、変わるかもなとも思えると。
なので、根底のその認知が変わるのに、すごく時間がかかりそうだなという意味で、さっき言ったみたいに、短期的には変わるのが難しいけれども、長期的には変わり得る可能性がある。
認知が変わるような出来事が起こり得る可能性があるので、長い時間があればね。そういう意味で、人は変われるかもなとも思っています。
今言った3つの事例というか例題っていうのは、実は僕自身のことでもあるんですよね。
怒りっぽいって、今全然僕は怒りっぽくないんですよ。最近、ものすごく久しぶりに怒ったんですけども、
そういうの以外、日常的に怒ったり全くしない。こんな僕がですね、小学生の頃って日々ブチギレてたんですね。
友人が待ち合わせに1分遅刻するとかって、すごいキレてたし、とにかくそういうレベルで怒ってたので、ありとあらゆることに怒ってたと。
で、それが起こらなくなったっていうのは、さっき言ったみたいに、認知が変わったからなんですね。
どういうふうに認知が変わったかっていうと、小学校の時の話なんでね、あれですけども、どう変わっていったかっていうと、
あ、世界には自分と違う感覚を持ってる人がいるんだな、みたいなことにだんだん気づいていったからですね。
時間感覚みたいなものも人によっては違ったりする。朝10時ということは変わらないにしても、
その朝10時が何を意味してるかってことは人にとって変わってくる。
それがものすごく、朝早いと思う人もいるかもしれないし、とかいうのもあるし、待ち合わせの5分前に来るのも当たり前だろうって、例えば自分が思ってたとしても、
別に待ち合わせ5分後まではセーフみたいなのを思ってる人もいる。そういう感覚もありますよね。
みたいな感じで、時間も今言いましたが、時間だけじゃなくて、いろんなものの感覚が人それぞれ違うと思ったら、
そんな1分遅れたからどうのこうのみたいな話じゃないよねっていうふうに、だんだん思うようになってきたと。
なので、怒らないようにしようとしたわけではなくて、みんな感覚が違うよねって思った瞬間、
怒るに値しないことだなと、別に怒ることじゃないよなっていうふうになってきたという感じで、
怒らない努力をしたというよりは、自分の人生の中でいろんな人がいて、いろんな感覚があって、
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人それぞれだなと思った瞬間に、別に怒るようなことではないなっていうふうになってきた。
結果、怒りっぽくなくなったっていうことですね。物飲み方が変わったことによって怒りっぽくなくなった。
2つ目。他者に興味が持てない。これもさっき言った認知の変化にかなりつながるところなんですけども、
結構過度に分類してしまってパターン化してしまうみたいなのが、最近は自覚があるんですけども、
昔は自覚がなかったので、だいたいこのAパターンの人だな、Bパターンの人だなみたいなのを、
多分無意識レベルで判別しており、またBパターンの人が言いそうなこと言ってんな、
どうでもいいこと言ってんな、つまんないこと言ってんな、みたいな感じで、
人の話とか人の興味を持てなかった時期が長くあったんですけれども、
さっき言ったみたいに人それぞれ違うので、結構解像度を上げていくと、
確かにBパターンみたいなものに何らかの形で分類できるかもしれないけれども、
細部に入っていくとみんな違うので、その細部の部分に興味を持っていくというか、
深い部分に興味を持っていくと、その人ならではみたいなものが見えてくるので、
深さを探求していけば、個体差というか人それぞれの違いが見えてくるということで、
確かにもう興味を持てるようになってきた。つまり、物事を深く見るようになってきたことによって、
差みたいなものが見えるようになり、その違いみたいなのも面白いと思えるようになってきた。
ので、結果確かに興味を自然と持つようになったみたいな感じで、
これも物の見方がちょっと解像度が上がったというか、
深いところまで見ようとするような自分の物の見方みたいなのが身についたので、
結果としてみんなの差異みたいなものが見えるようになり、興味を持てるようになったということですよね。
3つ目、自分ばかり喋ってしまうというのを、結局は今言った話ですよね。
みんな違うと思ったときに、どう思ってるんだろうみたいなことにすごく興味が湧いてくる。
確かに興味を持てるようになったからというのもあるんですけども、
確かに興味を持てるようになったら、自分のことを伝えるよりも、
相手のことをもっと知りたいと思うように自然となって、だんだん話を聞けるようになった。
もっと言うと、それでテンションが上がるとついつい自分が喋ってしまいがちなんですけれども、
こうしたポッドキャストとかで、一方的に一人で喋れる時間で、
しっかりガス抜きというか、喋りたいとか伝えたいみたいなことは、
あらかじめ日々欲求として発散してしまっているので、
人と対峙するときには話を聞ける状態になっていると。
なので結構ね、最近は人の話を聞くのが好きで、
人と会うときはそんなに聞くことの方が多いかなというふうに思ってますね。
特に3人以上とかになると、あんまりわーっと喋るというよりは、
ちょっと聞いてるっていう感じになっているなぁと思って。
昔だったらちょっと考えられない。
その場で一番喋って、場で主導権を握りがちだったんですけれども、
今やどっちかというと、口角少なくですね、
見てることの方が多いのかなという感じですね。
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という感じで、人間は変わりたい方向に変われるのかというときに、
簡単には変われないと。
なぜなら、行動を変えようとしてもすぐに限界が来てしまうからですね。
だってそのように見てないのに世界を。
例えばさっきも言ったけど、もう怒り浸透な状態で世界を見てるのに、
そこから怒らないようにするってめちゃくちゃ難易度が高いけれども、
そもそも怒る必要がないという世界の認識というか、
物の見方をしていると、ブロックしてなくても怒らなくなるということで、
物の見方を変えていくことが重要であると。
その物の見方を変えていくみたいなのが、
どれくらい意識的にできるのか問題っていうのがあって、
よし、じゃあ物の見方を変えようと思って、
変えるようなものでもないと思うので、長い年月がかかるかなというふうに思うし、
そこには確かに意志を持ってそういう認知を獲得するために、
そういった情報に触れていく、そういった体験を重ねていく、
みたいなこともできると思うから、
努力が無意味とは思ったりもしないんですけれども、
すごく時間がかかる認知を変えていく、
根本的な認知を変えていくためにはすごく時間がかかってしまうと思うので、
過去数回、対話の話とかもしたんですけども、
対話を慎むとき、人と話しも無駄だよねと思うときとか、
こういうときじゃないと対話が成立しちゃうよねみたいな話にも
繋がってくるんですけれども、
認知が変わらないことには、
根本的な問題というのは何も変わらないので、
変わりたいとか変わるって言われたところで、
それは変われないと思うし、
変わりたいという意志は分かるが、
変われないだろうなと思うという感じで、
長い時間を置いてですね、
また変化みたいなのを見ていけばいいんじゃないか、
その焦らずですね、長い目で物を見ていくってことがとても重要かなと思いますね。
世界をどのような眼差しで見つめるのか、
物の見方っていうのはとても大事なので、
改めてですね、自分がどんなふうにそれを見ているか、
いろんなものをですね、
どのように見ているかってことを、
すごく自分を俯瞰してみて、
自分がどんなふうに見ているのかっていうのをまず見れるようにならないと、
なかなか難しいところかなというふうにも思います。
人は変われるのか、
認知が変われば変われるというのが、
僕の思うところですね。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。