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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、自覚的な非合理というお話をしたいと思っています。
サイコパスというのはですね、とても合理的に考える性質があるというふうに言われていますけども、
その理由はですね、常動的な影響を受けづらいので、
自ずとね、ロジカルに物事を考える傾向があると。
ロジカルに考えるのであれば、より合理的な意思決定を下すということで、
結果としてね、合理的に考えることがほとんどだったりするんですね。
ただ、合理性市場主義かっていうと、そんなことはなくて、
非合理なものもとても好きですよと、僕でいうと散歩も好きだし、サウナも好きだしと。
サウナは別に合理的に解釈しようと思えばね、もちろんできるけども、
サウナに僕が行く理由というのは合理的な理由というよりは、
気持ち異常みたいな感じなので、すごく非合理な時間ですよね。
先日もですね、秘密結社、このポッドキャストも言ってますけども、
秘密結社を今作る準備をしていて、秘密結社の会議がてらですね、
サウナに一緒にやるメンバーとね、サウナに行こうということで出たんですけども、
大雪の日でですね、待ち合わせしたサウナの施設に到着すると臨時休業だったんですよね。
臨時休業だったんですよねって言ったときに、いくつかポイントがあって、
そこにたどり着くまでに、僕は特急電車に乗ってね、5駅ぐらい行って、
30分くらいはかったのかな、そこから歩いて50分くらいはけてそこに行くわけです。
もちろんバスとか乗ればもっと近いんだけど、歩いて行くのが好きというか、
そこでね、しっかり運動がてらいってるみたいなところもあるので、
50分歩いて行って、大雪の中ね、大雪の中歩いてたどり着いたら臨時休業だったみたいな。
で、その話を笑いながら友達にしたら、最初は調べて行けばいいじゃんって言われたんですよね。
で、それを言っちゃおしまいよっていうのが僕の思うところです。
サイコパスなんだったら確かに合理的に全部考えれば、調べていって無駄のないようにするっていうのがいいと思うんだけども、
あえてね、自覚的、非合理なことに自覚的であるというか、わざと調べていかなかったんですよね。
臨時休業かもなって別に頭に散らつかなかったわけじゃないですよ。
ただ、大雪の中歩いて行って、たどり着いて臨時休業だったっていう体験っていうのは、合理的に考えるとできない体験なんですよね。
ドキドキするわけですよ。空いてるかな、空いてないかなとか。
そこまでね、空いてない確率高いと思ってなかったんで、空いてる程度行っちゃったんですけども、
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ただ、そこでね、やっとたどり着いた臨時休業ですかっていうその体験っていうのは、非合理だったからこそできてる体験なんですよね。
そこからもう一回駅にまで戻ってね、50分かけて、タクシー乗ったか、途中からタクシー乗ったんで30分くらいかけて、
駅に戻って、また元の町に電車乗って戻って行くっていうね、とにかく非合理なことをやったんですよね。
ただ、その結果ね、戻って福岡市内に戻って、福岡市内でサウナに行くっていう。
そのサウナは僕ね、2年くらい行ってない施設で、行きたかったところに行けなかったから仕方なくそこに行ったんですけども、
リニューアルさせてすごい良いサウナになってたんですよ、そこが。
これもやっぱり臨機応変に対応した結果、そこにたどり着いたっていうのはあって、
例えばね、事前に調べて、そこのサウナに、最初のサウナに行こうとして、
今日休みだったから酔ったら中止しようとか、サウナ辞めてカフェでお茶しようとか、
サウナ自体が中止になった可能性があったんですよ。
でも、その一発目ね、そこの臨時休業のところまで歩いて行って、
ダメだった。ここまで来てダメだったからもうここには妥協したくないよね。
サウナ、いちでもサウナに行こうよっていうので行ったサウナだったんですよね。
それがすごく良いサウナだった。
こういう偶然っていうのはやっぱり非合理ならではの醍醐味かなと思ってるんですね。
で、全てが全てと言わないにしても、多くのことを非合理にやっていると、
そういうことの連続というか、そういうことがデフォルトになっちゃうので、
全部奇跡というか、無駄もめちゃくちゃ多いけど、
よくわからないこともむちゃくちゃ多いみたいな状態になっちゃうんだけど、
基本が合理的で、たまにそういう非合理を入れていくと、
すごい特別な体験になるんですよね。
もう臨時休業さえエンタメになるみたいな。
その感覚って、日頃合理的にやってるからこそ得られる感覚だったりするんですよね。
この自覚的な非合理と僕は呼んでいるんだけども、
非合理に対して自覚的になると、
これ別に非合理にやるべきことじゃないよね、合理的にやったほうがいいよねってことと、
これは非合理のほうがいいよねっていうジャッジが効くんですよね。
ジャッジできるようになっていくと、
ここを合理化しちゃうと、例えば家族との関係を合理化するってあんまりいいことじゃないと僕は思ってるんですよね。
よく家族論とか夫婦論とか恋人論とか話すときに、
僕はあんまりシステマチックにやらないほうがいいんじゃないかみたいなことを結構言ってると思うんですけど、
それは利害じゃない関係、なるべく無条件に近い関係であったほうが健全なんじゃないかって思うから、
家族とか恋人とか友達とかっていうのを合理化しないのは大事かなと思ってるんですけども、
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ここは合理化するけどここは合理化しない、非合理のほうがむしろいいよねみたいなところをしっかりデザインしていく。
つまり非合理さえも合理的にデザインしちゃうっていうところになってくるんだけども、
そうなってくると今度それは果たして非合理なのかみたいな、また別の問題が出てくるんですけども、
とにかくね、僕は自覚的に非合理を楽しむってことをとても大事にしています。
で、なんていうのかな、それが唯一の甲斐であるかというとそんなことはないと思うんだけども、
僕はそれがすごく心地よくて、例えば本を読むにしても結構非合理な理由で本を読んでいるというか、
あんましこの本からこういうことを得ようとしてどたらこたらでっていうよりは、
単純に本を読むのが楽しいから読んでいるとか、サウナに行くのが気持ちいいからサウナに行く、
散歩すると思考が巡って頭が活性化して楽しいから散歩するみたいな、気持ちいいから散歩するみたいな、
あえて非合理をデザインしているっていうのはあるなと思っているんですよね。
かといって仕事とかになってくると、むちゃくちゃ目的があったりするじゃないですか、仕事ってね。
あとは何だろうな、それで報酬をもらったりするわけですよね。
そうなると目的が明確になるので合理的に考えざるを得ないというか、
非合理に仕事しているってもう意味わかんないとかになっちゃうんですよね。
目的に対して合理的にアプローチして目的達成するのが仕事だよねって思っている節がどうしてもあって、
それは多分資本主義のシステム上というかイデオロギー上、
生産性をね、生産性市場主義というか、生産性を上げないと勝てないゲームになっている以上は生産性を上げましょうよって思っちゃうという感じで、
ゲームが始まっちゃうとそういう合理性がむちゃくちゃ発揮されてしまって、
結構厳しい人、合理的に突き抜けている人みたいに見られることが多いんですけども、
僕自身は合理性みたいなものをすごく使い分けながら、
非合理に対して自覚的になってというか、
非合理を意識的にデザインしているというところがあるなと思ったりしています。
何の話だったんだろうね。
自分の非合理に対する向き合い方みたいなお話でした。
皆さんはどうでしょう。
非合理なことをやることに対してどれくらい自覚的でしょうか。
もしくはそれをあえて自覚しないようにしているのか、どうなのかとか、
その辺も考えてみながら合理性と非合理のデザインみたいなのを
どんなふうにバランスとって生活するのかみたいなことを
ご自身で考えてみられても面白いんじゃないかなというふうに思います。
本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。