デジタル時代の国語教育を語ろうにようこそ。パーソナリティの笠原です。この番組では、ICTを活用した国語の授業実践に関する話題を中心に、Google for Education認定トレーナーと認定コーチの資格を持つ、私笠原が教育にまつわる様々な話を配信していきます。
職員室のスタッフ同士で行われる教育談義のようなものだと思って、ゆるっと聞いてください。
今回はいろいろな人から聞かれるこの質問に答えておこうと思います。それは、生徒主体の活動中心の授業で受験は大丈夫なの?ということです。
これはですね、個人的にはこう聞かれると暴言を思わず口走りそうになる質問なんですけど、ちゃんと答えておかないといけないかなと思います。
実際問題、探究的な授業をやりたくても、もしの成績が悪かったら周りからダメだと止められてしまう可能性って十分あり得ますからね。
しっかりと答えておかないといけない課題だなというふうに思います。 高校は学校によって何をどう教えるのか、どの科目を教えるのか、そういうことに大きな差があるので、一言で高校と一概には語れないのですが、
自分の勤務校のように、大体の生徒が首都圏の大学に進学する私立の普通科をイメージしながら、今回の配信はお話をしていきます。
さて、本題の生徒主体の活動中心の授業で受験は大丈夫なの?ということについて、ここからお話をしていきます。
まず大前提を言っておきますね。 自分は学校の授業のすべてが探求的な学び方での授業でいいだろうと思うぐらいに、探求が大切だと思っていますが、一方で基礎学力も同じぐらい大切だと思っています。
だからどういう学び方をするか、どのくらいの深さで学ぶかなどについては、自分で決めれば良いと思う一方で、
科目についてはまんべんなくいろいろとやりつつ、ちゃんとそれぞれの科目が一番大切にしている考え方やスキルみたいなものは身につけた方がいいんだろうなというふうに思っています。
もちろんテストで点数を取れるという意味ではないのですが、何か自分が活動をする時にその分野の記述を読んだり、明らかに変な情報からは距離を置けるような、そういう判断ができるぐらいの基礎学力はあった方が良いだろうと思っています。
また、教える側の責任として活動だけをさせておいて、それっぽくなってれば学力なんてどうでもいいんだみたいなのは絶対に違うということは言っておきます。
それぞれの科目で保証するべき力は何かを、授業者はちゃんと考えて、それを保証できるように工夫していかなければいけないだろうと考えています。
もちろん、何を基礎学力と呼ぶべきかは判断もとても難しいところであるので、この話は現段階では個人的な気構えみたいなところではあります。
ただ、活動をしていればいいんだと思ってしまうのは、這いずり回る経験主義と呼ばれるものそのものになってしまうので、やっぱり避けなければいけないだろうと強く思います。
さて、これらのことを前提とした上で、生徒主体の活動的な授業で大丈夫なの?という問いに対する答えですが、あまり心配ないというのがこの10年ぐらい授業で生徒の活動に任せて実践を行ってきた自分の結論です。
もちろん、学校や学級によって前提条件が全く違うので、安易にすべての教室で大丈夫だとまでは言わないです。
どうしても探究的な学びよりも手前のところから支援していかなければいけないケースがあるというのも個人的にはよく知っています。
ただ、少なくとも受験は大丈夫なの?という問い、つまりは受験をしようと思うぐらいの学習意欲があるという前提ならば、授業のスタイルによって大きなマイナスは起こらないのではないかというのが自分の意見です。
自分の授業スタイルならばという条件はついてしまいますが、こう考えるのにはいくつか理由があります。
まず、これを言うと敵を作りそうなんですが、そもそも受験で点数を取るということをこれまでの授業でどこまで保証できていたのか、そういうことって確かめようがないんですよね。
基礎基本については一斉授業で教えて成果を出すということは確かにできそうだなぁと自分も教えていて思うんですが、高度な応用になればなるほど授業時間を超えて生徒自身が時間をどれだけ費やして訓練してきたかということにかかっているんだよなぁという気がしています。
そう考えると単級型の授業でも基礎基本を軽視することはないですから、結局点数を取るための勉強は自分がどれだけやるのかの方がはるかに影響としては大きいのだろうというふうに思っています。
個人的には、単級的な授業に対して子どもたちが単元を面白がって勉強時間を使ってくれるのであれば、やる気が出ないでその科目を自分ではやれないという状況よりは学力と呼ばれるようなものもつけてくれるのではないかなというふうに思っています。
2つ目の理由としては、単級的な授業を展開すると普通の授業をするよりも大量の情報を単元の中で扱うことになるということが理由にあります。
例えば自分が以前に行ったポッドキャストを作るという単元の時には、教科書の文章に換算するのであれば、おそらく生徒たちは10本分とか20本分とかそのぐらいの文章を読み書きしていたんじゃないかなというふうに思います。
一般的な国語の授業のイメージって5時間ぐらいかけて一つの文章をみんなで読んでいくみたいなことが多いんじゃないかと思うんですが、自分がやっているような授業だと同じ授業の時間数でその2倍3倍ぐらいは文章を読んでるんじゃないかなというふうに思っています。
これは一般的な国語の授業では読む量や書く量が圧倒的に少なすぎるというふうに思っているから、とにかくたくさん読んでたくさん書いてという課題を課したいと思っている、そういう授業づくりをしている影響はあるとは思うのですが、自分で何か成果を出そうと思ったら大人だって自然にインプットの量って増えますよね。
だから探究学習の授業だと確かに細かく読んでいくみたいなテクニックを教えるチャンスは減ってしまうかもしれませんが、その代わりに圧倒的な量が保証できるんじゃないかと思っています。
質と量のどちらの方が成長に効果があるかはなかなか断言できないところですが、自分はまず量が慣れにつながるのだろうというふうに考えてそういう授業をやっています。
3つ目としては、しっかりとアウトプットをするからこそわかることがあるということです。
一般的な一斉授業の国語だとアウトプットの機会ってほとんどないですよね。
リスナーの皆様は自分の受けてきた国語の授業を振り返ってみて、何か教科書や文章を読んで考えたことを自分のオリジナルな視点でアウトプットをする機会ってどれだけ授業の中でもらえましたか?
自分自身の学生時代を振り返ると全く自分のことを表現する機会はなかったですね。
問題演習をして問題を解くことがアウトプットだというふうに言われる方もいるかもしれませんが、まあそれは自分とは意見が合わないですね。
アウトプットをすると自分がどこを理解していなくてどこに弱点があるのかということがはっきりとわかります。
そして本当に良い自分の成果を出したいと思うのであれば、一度のアウトプットではうまくいかないで、おそらく何度も試行錯誤をすることになるんじゃないかと思います。
そういう試行錯誤で粘り強く自分にこだわるということが学びとしてとっても大切なんじゃないかとそういうことを思っています。
いずれの理由も究極的には受験で点数を取れなければ意味がないでしょうという人にはおそらく何も響かないんだろうなということもよく理解しています。
今日お話ししたことは自分の教員としてのスタンスの表明みたいなものだと思っています。
ちゃんと計画的に子どもたちの学びを深く理解して設計された授業であれば、子どもたちの自分で学びたい興味関心を伸ばしたいという気持ちを根幹に置きながら、どんな形であっても受験の基礎学力ぐらい簡単に乗り越えていってくれる。
そういうようなきちんと子どもたちの一生に関わる力を伸ばせるのだと信じています。
今回の配信はいかがだったでしょうか。探求と学力の話をするときに一番厄介だなぁと思っているのは色々な言葉の定義が、前提が揃わないということです。
例えば今回何度も繰り返し出てきた学力という言葉一つをとっても受験で合格することなのか、生きる力としての学力なのか全然噛み合わないですよね。
もしくは一個人の中でも使い方がぶれてしまうことが多いので話すのがなかなか難しいところです。
究極的には膝を突き合わせてしっかりと前提を確認しながら話すしかないのではないかなというふうに思っています。
今回のテーマに関連して参考になるイベントを紹介します。
10月26日にお茶の水女子大学附属中学校の公開研究会が行われます。 この研究会はプログラムが最初から最後までみっちりと濃密です。
今回のテーマを考えるヒントが多いんじゃないかなというふうに思います。 今回の配信を聞いて何か参考になったことがあれば、いいねをしてもらえると番組作成の励みとなります。
また、アウトプットの一環としてぜひお気軽にコメント、SNSでのシェアをお願いします。
概要欄のメールアドレスやGoogleフォームに直接感想をいただいても嬉しいです。 この番組は毎週月曜日に1回配信されます。次回の配信もお楽しみに。
ではまた