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2024-12-14 12:14

瞑想マイクvol.2 想像力と社会課題?

あおり運転のような出来事を見かけた話。
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瞑想の後に10分間収録する、瞑想マイク、そるくらの黒沢隆明がお送りします。
このラジオは、瞑想した後の脳がクリアな状態で、思っていることのアウトプットと、
思考の整理や、想像性をより発揮するために、自分の音声を使って思考を整理していく、アウトプットしていくということと、
あとは、接客業でもあるので、お話の一貫性とか、慣例性とかの練習と思って、10分間収録しています。お付き合いください。
先日の放送でお話していたのが、対立構造みたいになるコミュニケーションみたいなのを減らしていきたいというのと、
人の幸せを願える人が身の回りに増えるということを大事にしたいというお話をしていたんですけれども、
それに伴って、さっそくある出来事を見まして、
車のクラクションがすごくて、煽り運転に近いようなことをしていたというのを見かけたんですよね。
状況としては、歩行者用の信号が押しボタンであって、そこが赤信号になったりしている。
交差点ではないんですけれども、曲がり道があって、その歩行者用の交差点に差し掛かる手前の段階、路地に差し掛かる手前の段階で1台の車が止まっています。
その後ろにウインカーを上げた車がいて、その車がすごい数のクラクションを鳴らしていたんですけれども、
しばらくして頭に来てしまったというか、前から2番目の車の運転手が降りてきまして、信号待ちをしている車の方に寄って行ったんですよね。
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で、「おい開けろ!」というような形で段階を切っていたんですけれども、前の信号が赤で、その前には路地があって、
その路地のところまで差し掛かったり信号まで差し掛かると、歩行者や路地から出てくる車を圧倒的に邪魔する。
それが分かっているから先頭の車両は路地の手前で止まっているんですけれども、ウインカーを上げて曲がりたかった運転手はその発想がないわけですよね。
想像力が欠如していると内心思うんですけれども、僕運転免許を持っていないから詳しい人はぜひ教えてほしいんですけれども、
そういう光景に遭遇する路地の先頭にいる運転手にとっては、全然悪いことをしていないのに急に因縁つけられたみたいな平和とは程遠い状況が起きてしまっているわけですよね。
ということは、それはその人にとってしてみれば平和だったほうが良かったわけですよね。急に後ろから追い明けろなんて言われることもないし、迷惑こむることもないんですけれども。
誰かの立場を想像したりということって、できるできないかによって社会課題を一個解決するというか、そういうふうに感じたんですよね。
想像力が欠如している人が増えているっていうのが仮に社会課題だとしたら、誰かの人生や行動、感情、そういったものに思いを馳せる能力っていうのは、すごく社会課題を解決するんではないかと思っていて。
前回の放送でも、個人主義がいきすぎると想像力が欠如したり、共感性を生まなくなってしまったりっていうことがあるらしいですって話したんですけれども、個人主義がいきすぎるっていうのをどう共感性に振るのかっていうのは、すごい社会課題だなっていうふうに思いました。
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個人主義に突っ走ろうが勝手だろっていう人はいると思うし、僕も大事にしていたこともあるんですけれども、だけど交通ルールすらも履き違えてしまうような、自分の先入観にとらわれた個人主義というのはとても危ないなと思って、それを解決するっていうのはすごく社会課題だなっていうふうに改めて思いました。
何で僕が個人主義みたいなものをこじらせたかっていうのは、そう考えるとちょっと考えても利益というかメリットになり得るかなと思うんですけれども、
自分の突き進む道をとにかく試行錯誤してアップデートしていくっていうことを自分に生かしていた日々ではあったので、よくも悪くも内向的なというか、自分の内面に向き合うっていうことになりますよね。
それでその結果、世界にアウトプットするものを更新していこうっていう試みなんですけれども、ただ内向的になって感情的になってしまったらそれは社会的なデメリット、例えばあおり運転とかそういった迷惑行為とかになってしまうんだけれども、
社会課題だったり自分が世の中にアップしたいこと、問いかけていきたいことみたいなことを追求していく限りは、ある種の独善的ではあるんだけれども、自分自身の社会課題というか自分自身の課題の解決に向かうんだったら、それは一個迷惑行為にはならないようなベクトルなのかなとは思います。
でもその人は結局感情のコントロールができていないわけなんですよね。
僕が感情のコントロールができているかどうかはさておき、私はすごくいわゆる瞬間違和化式のような、ちょっとイライラをこじらせてしまうタイプだったんですけれども、
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それは認知行動療法という本当に心理学の改善方法みたいなのを本で勉強したりとか、自分の内面と向き合う方法ステラも勉強したから感情のコントロールがわりとできるようになったけれどもというのが実はありまして、
それを世の中全てに求めるのは違うかなと思う一方で、感情のコントロールができるできないというのが社会課題の解決につながるんだったら、
道徳の時間、今道徳ってないのかもしれないけれども、感情のコントロールとか認知行動療法みたいなものを誰もが使える世の中って社会課題だなと思うんですよね。
ちょっと2回目にしてカウントダウンタイマーをかけるのを忘れてしまったんだけれども、あと2分くらいで多分10分だからもうちょっと考えていこうと思います。
でもなんだろう、1日経って思うのは自分が成し遂げたいこととか、自分がこうありたいという映像を思い浮かぶときに、
人の幸せを願える、誰かの幸せを願える人が身の回りに増えるようなそんな人でありたいと、
誰かの幸せを願う人でありたい、そしてそのような人を増やす人でありたいということなんですけれども、
すごいシンプルに言ってしまうと自分の身の回りが幸せを願う人で増える、誰かの幸せを願う人で増えれば、
自分の身の回りの世界は少なくとも誰かの幸せを願う人たちが集まるという空間になりますよね。
なんかそれが自分にとってもしかしたら大事なのかなと思いました。
そうすることによって自分が社会を見る見方みたいなものがあって、
誰かの幸せを願う人がこんなにいっぱいいるというふうに思うことができたなら、それは新しい取り組みにもつながっていくかもしれないし、
それは社会に対する認知が変わるということですね。
世の中は善悪両方いるけれども、善人も悪人もいるよねという認知で、
自分の身の回りにも善人もいるし、悪人もいるかもしれないと思うのではなくて、
身の回りにはこんなに誰かの幸せを願える人がいるということを考えたら、きっと社会に対する認知って変わるなと思いました。
ちょっと話がまとまっていなかった気もしますけど、すごい僕にとって有意義でした。ありがとうございます。
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