外部から来られる先生方で、タペストリー作家さんって方が来てお話をしたんですけど、
平面作品ではあるにせよ、絵画とかレリーフとか彫刻とかでもないし、
その織物をひたすら作ってるジャンルの人がいるんだっていうのを僕そのとき初めて知ったんですよね。
作家とは言いつつも、お仕事的にはいろんな土建業の方とか、
建築家とかホテルのプロデューサーみたいな方に、
自分のそのサンプルを送って、新しいものが立つときに、
例えばホワイエとかエントランスとかにかかってるタピストリーとかを、
作家として思い出してもらうみたいなことをおっしゃってて、
作家であるという側面と、ある種のデザイナーとしての経済活動というか、
営業的な側面の両方をそのときに感じて、不思議なジャンルだなと思ってはいたんですよ。
今回小林一真さんのやつを見て、別に僕の疑問が解決されることもなく、
謎がますます深まる、ある意味では面白い展示だったんですけど。
私はポスターをいろんなところで京都市内でファイバーアートって書いてあって、
自分がテキスタエル研究をやって、早9年経つから、なんだろうと思って、
そもそもファイバーアートって言葉を聞いたのがすごいもう、何年ぶりだろうって感じだった。
昔流通してた言葉って感じですか?
たまたまボストンに行ったときにファイバーアートの展覧会を見に行ったのは7年前で、
展覧会はファイバーアートと銘打ってたんで。
そういう名前だったと思うんで、本を買った60年代頃とかは結構盛り上がってたんです、アメリカとかで。
でもやっぱりそこからあんまりファイバーアートに特化した展覧会っていうのを見たこともないし聞いたこともなかったから、
すごいなんか急にリバイバルみたいな、リバイバルって言い方変だけど。
京都の近代美術館がある。
なぜスポットを当てたんだろうってことを知りたくて見に行きました。
僕多分今日聞き役というか、質問役なんであれなんですけど、
ファイバーアートは全く馴染みないですね、言葉として。
タペストリーもちょっとタペストリーって聞いてあんまり形としていまいちイメージできなくて、
あの三角形の観光地とかの。
ペナントですかね。
ペナント、あれって。
タペストリーって言い換えが聞きそうな感じはありますよね。
あれはちょっと違うかな。
タペストリー基本的に壁に掛けるっていう感じなんですよ。
布のポスターみたいなこと?
布、分厚いカーペットが壁に掛けられているっていうイメージ。
壁に掛けるカーペット?
本当は絵画なんですよ、もともとタペストリーって。
で、フランスとかはすごく美術館とかタペストリーのコレクションの部屋とかまであって、
そういうのって大体国の王女様とか王様の肖像だったり、
あと物語を模様化したりとかしたり、
それこそイギリスなんかは、
民芸のウィリアム・モリスとかもタペストリーの文脈で見られるときもある。
そっか、だから絵画のテキスタによる絵画作品みたいな、
そういうことです。
という言い方もできるってこと?
で、特徴としてはパターンがやっぱりすごく本当の絵画とちょっと違って、
コーディング、プログラムをしないとその柄が折れない。
だからすごく技術とか知識もいるっていう意味で、
やっぱりできる人が少ないから大事にされるっていう、
絵画ももちろん大事なんだけど、
お城とかで飾られたりとかするときには、
もう本当に宝物的な扱いをされるのが、
さっき言った分厚いカーペットっていうか、
分厚い布が重さも相当あって描けられてるっていうイメージ。
絵画は絵画っていうよりはあれですよね、
まずテキスタイルを使っているっていう前提がありますよね。
司法さんの今のお話です。
そうですね。
海外の一ジャンルとして考えたとしても。
糸を使っているっていう意味、どっちかっていうと。
だから日本だと西陣織っていうのがあって、
フランスでジャカードっていう織りがあって、
縦糸を上下にアップアンドダウンさせて、
横糸を見せたい色のところを縦糸をキュッてループさせて。
キュッていう音声メディアで。
音声的に伝わりましたよ。
飛ばすということで、
その横糸の色が出てくるから好きな柄ができますよと。
それはすごい発明が、
昔は人が機械の上に乗って、
二人で一斉の背でやってた。
っていう話がシーズン1の筒井さんの回でも話がありました。
筒井さんが結果してるとうまくいかないってこう言ってたじゃない。
それを自動化しましたよっていう話なんだけど、
そこから多分タペストリーも状況が変わったんじゃないかなって思ってて、
やっぱりプログラミングできちゃったら好きな柄とか作れるし、
誰でもというよく機械で。
それまではやっぱり手でこうやっていたものは、
機械化しちゃうとありがたみというか、
もう減ってきたりとかしないのかなっていうのを気になってて、
フランスにも研究所がいまだにあるんですよ。
手で折るため。
折ってタペストリー専門の美術館とか研究所もあるから、
国あげて結構大事にしようとしているっていうのは見えてくる。
一応その展示の話に戻ると、
確かに翔さんが言っているように、
小林雅一さんの作品を見る限り、
手折り感というよりは機械でやっているのかちょっと分からないんですけど、
これはね、難しい。
どっちでもあまり本題には関係がなくて、
折り木の縦糸の張り方とかを、
どうハックするかみたいな、
それによって展示の概要にもある糸そのもののたるみとか、
基本的に折りってピシッと、
縦糸と横糸が、
緊張感を持って布としての張りが出てくるようなところだけど、
あえて縦糸を省いて横糸のたるみとかを見せている、
折りっていう行為のハックだったりとか、
そういうものが見えてきたかなというのが。
これやろうとすると、
私たちはフロートって呼び方をしたりとかするんだけど、
あんまり好かれない折り方なんですよ。
なぜかこのたるみが出ることによって機械に引っかかっちゃうから、
すごい神経使うし、
これだけのたるみの調整で造形的な3ダイメーショナルな形を
波打っているように作るっていうのは、
すごい根気がいる。
簡単に言うとマニアックな展示だなと思った。
ちょうどマニアック。
これは音で伝えるのに向いてないですよね。
実際に見に行ってほしい。
単にたるみっていうだけじゃなくて、
そのたるみが三次元的にというか、
立体的にモチーフになっているのが、
西外波紋とかですよね、日本の波の。
あれを糸の自然なたるみで、
円弧状に表現しているので、
それを展示を見た時にふと思って、
技術的な工程をちょびっとでも想像を働かせられる場合は、
ふむふむという感じで引き込まれる展示なんだけど、
そうでもなければ平面の視覚情報かなと思っていて、
そこの波打ち際がコンクラっぽい話だなって思ったんですよね。
言ったら別にどんな見方も見る人に委ねられているから、
別にこういう見方をしなきゃいけないという正解はないと思うし、
美術館はこういう手引きとかを用意して、
なるべく小林雅一さんの世界観に入ってもらっているような手助けはするんですけど、
どうとられるかはお客さんの自由なので、
これを普通に素敵な跡だわって入っていく方もいれば、
ふむふむここの縦糸を抜いたからこう来て、
ここの横糸がこうなってみたいに見る人もいると。
たぶんそれは私。
僕もそういう感じですね。
印刷とか折りとかの工程っていうものとかを
仕事でやっちゃってるとどうしても見ちゃうよね。
これどういうふうな。
引きで見たときに絵画的なビジュアルのものとかでも、
すごいここにかかった時間のことに思いをはせてしまってるんですか。
分かります分かります。
筆一本でシュッて書いたものじゃない、
ように見えるものがこれ何ヶ月かけてここまでやったんやろみたいな。
そうですね。
ちょっと話しとれるんですけど、
今やってた国立、
違うわ、
小林さんの奥さんがまだ御存命だから、
残してコジン像のやつは残してあるのかな。
70年代とかの作品をこんな糸出てきた。
個人で持っているものが多い。
これも弓、要はあれですよね。
例えばギターとかに例えてわかりやすいのかな。
長期間保管するときに原点張らずに緩めたりするじゃないですか。
これ佐々木さん回の記憶があったらしいんですけど、
工芸ってことで考えたときに、
それを工業製品と考えるかアートピースで考えるか、
あるいはどっちでもないのかどっちもなのかみたいな話があったときに、
これをレシピ自体が弓で張る作品っていうレシピ自体が作品ってことも言えるんだとしたら、
別に当時の寸法を再現しても別に作品とは成立する気はするんですよね。
糸と金の緊張関係自体が作品ってこと。
コンセプトと。
ちなみに小林さんの展覧会には、
彼の展示のメモというか設計図とか、
結構ちゃんと糸とかもサンプルとかも貼ってあって、
すごいちゃんと残している人なんだなって、
この手書きで全部やっていらっしゃるんだけど、
それ写真撮って私も見習わなきゃとか思ったりとかしたっていうか、
結構展覧会のときって、
その場その場でイラストレーターとかでピーって書いて、
はい終わりっていう場合もあるんだけど、
紙にやっぱりああやって残しとくと、
なんかそれだけが作品的じゃないけど、
ちゃんとサインが書いてあったりとかする。
それいつも思うんですよね。
水木しげるの原画展とか行ったりしたときに、
ようこの初期段階のやつのメモ残してたよなみたいな。
絶対捨てるけどなと思ってこういう。
そうなんですよ。
私よくコースターとかに書く癖があって、
レストランとかに行ってる間に、
話が盛り上がってコースターでこうやって。
紙がね。
ないから、
それ捨てるか取っとくかってやっぱり、
今だと写真撮って捨てちゃうじゃないですか。
でももしもずっと残してたら、
100年後とかにさ、わからない話が。
東米アンソンのムーミンのさ、
初期のメモとかもちょっと俺はそれ思ったわ。
残ってるんですかそんなの。
なんか変な妖怪みたいな。
今の話もそうなんですけど、
レシピで作品として成立するっていうのは、
もはや工芸じゃないじゃないですか。
ものが作品じゃないって。
それが面白いなと思った。
この小林さんなりファイバーアートって、
そもそも工芸コンテキストがあるかないかっていうのが、
すごい気になるところではあって。
多分カテゴライズが難しいから、
おそらくこのジャンルそのものを、
作ってきた方っていう位置づけだとは思うんですよね。
やっぱ図録を見てる限り、
例えば一番、
作品ナンバー1の1のやつでいうと、
1975年頃のやつで、
これが第2回国際テキスタイルトリエンナーレ、
文化芸術大臣賞、うちポーランドって書いてある。
この第2回っていうことでいうと、
ちょっと第1回がいつだったかはわかんないんだけど、
歴史はそんなに新しいジャンルなんだなって感じさせられますよね。
1975年の時点で。
私持ってるファイバーアートの本は、
1960年代に盛り上がってるって書いてあるから、
だから国によって多分年代が違ったりはするし、
なんでこれが工芸的なのか、工芸的じゃないのかとか、
別にどっちって言いたいわけじゃないんだけど、
一応なぜ私これ気になってるかというと、
川島織物さんが関わってるんじゃないですか、制作に。
だって彼が漆やってたのに、
物の構造に興味を持ったから、
川島織物に入社したって書いてあったんだよね、テナン会には。
その気持ちすごい分かる。物の構造が知りたいって言ったら、
それ入って会社で教えてもらうのが一番早いじゃんみたいな。
でも今って川島織物って川島セルコンって名前が変わって、
伝統工芸的な着物のテキスタイルもやってれば、
どっちかっていうとテキスタイル全般?
建築で使われるような建材だったりとかもやるし、
テキスタイル全部すごい大きな会社なんだけど、
そういう意味では元々川島織物も工芸として着物でスタートしているんだけど、
工業の方に振り切っているし、両方やってますよと。
そのちょうど変わる時代に彼が川島織物にいたってことも、
面白い状況だなと思ってはいる。
今、松尾さんが言っていたファイバートの文脈をロンドンで聞いたんですかね。
ボストン。
言っても75年と60年代とかだと10年ぐらいのラグがあって、
100年ぐらいのラグはそんなにないのかなと思ったんですけど、
この時代が面白かったのかなと思っていて。
どっちかというとその前は民芸的なコンテクストだったり、
記憶をする記録物、テキスタイルって絵画と近いけれど、
何かの伝統的な物語や記号とかそういったものを模様として残すという行為が多かったのがテキスタイルの扱いだったから、
これやっぱり小林さんは違う。そういう文脈からは。
確かにね。
前にもまた話をとんじゃうけど、
カルフォルニアにあるコンピューターサイエンスミュージアムの一番初期の計算機とかで、
ひもを結んだノットの数とかを保存していたみたいなのがあるけど、
文字と文様とかそういうものが全部、
そこに全部集約しているような時代もあったし、みたいなことを考えると、
確かにこのタペストリーという文脈はそこからも題を変え入りした、
一時独立したジャンルだなとは思ったりはするんです。
今、そう思った時に、
今、翔さんからもいろいろ話があったんですけど、
僕はどっちかというとアート作品というよりは、
試みとか技術見本みたいなこととして受け取った方が、
持ち帰るものが多いなと思ったんですよね。
なので全然僕はアート作品としては見えてこなくて、
それがダメというんじゃなくて、受け取れるものがすごい多いっていう。
そういう意味で言うと、
デジタルとかメディアアートとかでも同じようなことがすごい多かったので、
ちょっと気持ち的にはすごい、
これの類似性とかをタペストリーの展示を見ても結構思ったので。
アルス・エレクトンにずっと昔通ってて、
98年か私行ってたんで、
割と早い方だと思うんでしょ。
日本人でアルスに通い始めたの。
やっぱりその時はどちらかというと、
アート、サイエンス、テクノロジー、ソサイティって、
社会っていうのがちゃんとコントヒストで入っていたことがすごく重要で、
面白いなと。
ここにもしも社会っていうものが抜け落ちていたら、
それこそセスとか、セスって分かります?
CESってか、年明けにやっているラスベガスの家電見本市。
そうですね。
セスで出している人もアルスにも出すしみたいな、
あとはサウスバイサウスウエストと何が違うんだっていうことになっちゃうんだけど、
テクノロジーの発展とかをセレブレーションしているところは変わらない。
みんな共通点なんだけど、新しい技術とか、
技術から見えてくる人間の風景っていうものを、
そこも共通しているんだけど、
そこに政治、社会性、哲学的な問いっていうのが付いているかいないかで、
こんなにも違うんだって思う。
見本市じゃなくなる。
小林さんの作品ってある意味、
意図に対してっていうだけじゃなくて、
最後の作品なんか彼の3階だったかな、2階かな、
最後に見て回って、ちょっと布っぽい布を天井から吊るして、
もはや意図じゃないじゃんみたいな。
もう綿でしたね。
綿で布、穴開いてる布を光を通してやってて、
もしかしたら彼にとってはファイバーっていう、
人間に非常に身近な素材をいかに使って空間を切り取っていくっていう、
だから形を作ってるっていうだけじゃなくて、
テキスタイルって空間を切り取る役割もする。
カーテンとか、壁にもなるし、
柔らかい壁だというふうに作品じゃないけど使われ方もするし、
服だったら体と外を守るための壁というか、
身につけている膜じゃない?
だから結局この方はそもそも最初はそうじゃなかったかもしれないけど、
糸のたるみの面白さ。
でも空間を切り切っていることには変わりない。
糸が空間を切り取っていいのか分断させているということには変わりない。
空間って何もないと空間って意識しないんだけど、
糸があることによってここに空間があるってことが意識されるのがそういうことですね。
そういうことです。
最後の方はもうそこに、布の方でも糸でもいいじゃんかという方に行ったのはすごいなって思った。
環境的な情報とか空間把握とかそっちの方に作品が展開していったみたいな。
でもそれも結構アート作品でもそういうことあるし、
メディアアートとかでも空間をどう捉えるかというので、
だんだん一つの技法だったり手法が体積多めに展開していくと同じようなことが多分起こってくると思うんだけど、
そういうことが僕は面白いなとは思ったんですよね。
3Dプリントに近いかもしれない。
プリントものっていうものが3D化したものが3Dプリントじゃん。
すごい雑に言うと。積層させていくって形。
だから一本の糸が形を作って空間を切っていくっていうさ、分担させて。
立体的にも見えるし空間も変えていくっていうので、
3Dプリントの一本のフィラメントのプラスチックのさ、糸じゃないねあれは。
糸って言ってもいいのかなって。
あれもファイバーですとか言い出す人いるのかな。
糸状のレジンなり。
そう、三立さんとかそういうの使って。
積層で糸状になって。
テキスタイルも2つに大きく分けると、
ファイバーと呼ばれるコットンとかシルクとかそういうプロテインとか植物ベースのものと、
プラスティック、ナイロンとかポリエステルとか押し出して糸にしているっていうので。
トコロテンのように。
トコロテンのようにそうです。
それを束ねて夜っていうのは分かる?夜って言い方分かる?
夜で粘地ですね。
粘地させて強度を作るのが糸になってるわけだよね。
でもその無くても強ければそのまま寄らなくても大丈夫なすごい強い糸も開発されてるし、
もはや糸って一言で言ってもすごい色んなものがあるわけなんだから、この世界掘るとすごいよねっていうのはある。
例えばそのビッグサイトでテキスタル系の展示やってた時にこんな糸開発してますっていう時の糸の見え方も技術見本じゃないですか。
それはそれで何かここまで来たんだっていうような感度があったりとかして、
その感覚とあんまり変わらなかったりとかするんだけど、そこにも何か紙分けもいらんのかなっていうのが最近の僕の気分だったりとかしてて、
それでなんか結構前僕サラリーマンだった頃にビッグサイト系の展示とかモーターショーモビリティショーとかそういうのは結構いろいろ企画だったり制作とかやってたんですけど、
そこでやっぱりエモーショナルな空間にしたいからインスタレーションのような空間を作るわけなんですけど、
そこと僕仕事でやってたからってこともないんだけど、僕その空間をみんなが楽しめるような空間にと思ってたけど、
アート作品と僕は思ったことはなかったんですよね。
ビッグサイトに仕立てた空間とかを。
この間ふと思った時に、今札幌国際芸術祭ってやってますかね。
終わった。
終わったのか。あそこにソニーが確かブース出してたんですよ。
センサーを使った、ソニーっていろんな運転自動化のためのセンサーとかカメラをすごい開発してると思うんですけど、
それを使って人の動きをリアルタイムに検知した空間みたいなのがあって、
それは国際芸術祭に展示してるから、どっちかというとアート寄りの文脈で。
芸術祭って言ってるだけ。
言ってるぐらいだからね。その行き来が面白い時代だなって僕は思ったんですよね。
っていうようなところを、タピストリーっていう謎のフォーマットを見つめる中でいろんなことが思い浮かんできて、
なかなかマニアックな展示だけど、いろんな想像を沸かしてくれる楽しい展示だったなっていう話なんですけど。
川島さんいましたって言いながら、川島織物が全面に出てるかというと全然出てないわけだし、
そこはやっぱり彼のいきなり漆から適したりどうしてっていうところの説明がそこのやっぱりそういう会社が
割とオープンに好きなことやっていいよっていう会社の雰囲気がなかったら、
たぶんこんなめちゃくちゃな作品は作らせないと思うんだよね。
そこは本当にすごい重要な話ではあると思う。
全然例えばビッグサイト系のテキスタイルエキスポみたいなところでも川島織物さんって
展示しててもおかしくないメーカーさんなんですよ。
全然。
ですよね。
いや、出してますよ。
そうですよね。
なんかアルスとかサウスバイみたいなところのセスとか日本一とかって言葉だけ聞くと全然違うジャンルのものなんだけど、
結構別にあんま変わらんかもなって思ったときにおっとなんかこう視界が開けた感覚が僕最近ありました。
テキスタイルってさ、どうしても手織りはできるスピードとか限られてるけど、
基本は機械でバーって折って量とかスピードとかたくさん作って値段を下げるっていうやっぱりものがみんなの思ってるテキスタイルじゃない?
だからなんかそういう効率とか機能性っていうものだけがテキスタイルじゃないよっていうことをやっぱりあんまりこう一般の人たちがそういう知るきっかけってほんとないかなと思ってはいて。
なんか日本一もちろんそうだんだけど、なんとなく私はメディアートに近いものをなんか感じるのは、
例えばアラミド繊維っていうのがあって、それはめちゃくちゃ強いんですよ。
多分もしかしたらもっと強い繊維って出てるかもしれないんだけど。
手ぐすみたいなやつですか?
そう、それでもう車吊るせますよみたいな、よくそういうこう、なんていうのかな、日本一とか行くとそういうポスターとか見るんだけど、
それってすごいピアノ繊維、ピアノ繊維と何が違うんだと言いたいくらい強くなった。
それだけ強いものがあるってなると、じゃあいろんなパラシュート、すごい強いパラシュートができるかもしれないし、
他の今まではプラスチック整形してたけど、本当はテキスタでやった方が強くなるかもしれないよねみたいな感じで、
ほぼほぼ技術の発展をバーって想像できるじゃない?そういうすごいのが出てくると。
でもそれってアートにはならないよねっていうところを、でももしかしたらそのすごい強い意図をアート作品に紹介する人も出てくるかもしれないわけですよ。
そうですね。
その一本だけですごいものがスレだったら作品に使ったろうと思う人も出てくるかもしれない。そこがメディアアートっぽさがあるかなと思うんだよね。
でもたまたま最近あんまりそういうテキスタやる作品を、塩田千春さんって、
赤い糸でひたすら部屋中を貼りまくった空間インスタレーションの方ですよね。
そうですね。数年前に六本木の森美術館での展示が東京だと大規模な展示だったかな。
赤だけじゃないらしいんですけどね。彼女は黒とか白も使ってるし。
でももはやロープを使ってたりとかスーツケースを通して回してたりとかしてて、
なぜ彼女の作品はファイバーアートのコンテキストに入って紹介されないんだろうというのが気になったりはした。
そこをファイバーアートですよって言っちゃうと、糸使ってるからって暴力的に全部ファイバーはファイバーだから、
ファイバーアートねってしちゃっていいのかとかそういうのもあるのかなっていうのは。
カテゴライズのネガティブな面ですよね。今塩田さんが言ってるのは。
そうですよね。別に糸使わない作品だってあるでしょうよね。
本には多分そんなつもりは全くないとは思うんだけど。
だってもう塩田さんの作品は今ウェブで見てますけど、
焼けたピアノとかにぐるぐる巻きにした糸とか、別に糸っていうよりは空間に対するナラティブとかそういうものにいくと、
これはアート作品だなって僕は思います。
特に彼女の作品ってその場所にタグを糸をつなげちゃってるから、すごくサイトスペシフィックっていう言い方するんだけど。
サイトスペシフィックについてちょっと。
サイトスペシフィックっていうのを現代アートで言うと、その場でしか作れないという作品のことをサイトスペシフィックっていうんですよ。
空間に固有化した。
固有化した作品。
だから同じ作品でも場所を変えちゃうと雰囲気がすごい変わっちゃったり、意味性すらも変わっちゃうっていうことなんだけど。
だけどやっぱりこの方の作品、塩田さんの作品は糸がやっぱり記憶と人と人をつなげてるとか、そういうテーマ性をすごく感じるの。
ネタピアノとかも歴史があるじゃない。何かしらの物語、ストーリー性が。
糸を紡ぐっていうのはストーリービービングとか物語を紡ぐっていう日本語にももちろんあるから、そういう意味ではすごく相性がいいメディア。
共有してるアナロジーみたいなもんね。みんなどんな人でも話として通じやすいものがありますよね。
メタファーとして。だからファイバーアートっていうふうに塩田さんを呼んでいいのか呼ばないのかっていうところなんでしょうね。
でもそういう企業の展示会行くときに見る目と同じかって言ったら違うしな。
メディアートと日本一が似てるなって思ったのと同時に、これがアートかどうかっていうのはもう一段階僕のすごいシビアな目線を自分が持ってるんだなってことに気づかされました。
それで言うと僕アートがまだよくわかってないです。
誰もわかってないんだと思うんですけど。
アートはこうこうこうだからアートですとは言い切れない。
明確な線引きがあるわけではないんですけど、なんとなくの境界線があるとして、そのなんとなくの境界線を意識しながらそれをかなりシビアに持ってる自分に気づいてしまう。
ちょっと前のエピソードでトイレで読んでいる岡本太郎の本のタイトルが思い出せなかったので持ってきたんですけど、
今日の芸術ってやつで、ちょうど今日朝読んだところはね、芸術はいやったらしいっていう。
いやったらしいってどういう意味?
いやったらしいってあんまり聞き慣れない表現ですけど。
この70年代に出版された。どちらかというと、当時の若者向けにアートってどういうことっていうことをわりと丁寧に歴史から説明してるみたいな本なんですけど。
だからデザインとアートの違いってどこにあるかみたいな。
モダニズムとアートの持つ力みたいなのがどう違うかみたいな話をしてるんですけど、ここで。
で、いやったらしいっていう。
だからちょっと今読んでると一種の不快感も含みますよっていう話ですからね。
別に癒やしっていう側面だけではもちろんないという。
なんかちょうど芸術は呪術であるっていう話、この前あれしなかったっけ?
どこでですか?
ここではしてないか。
聞いてないかな。
聞いてないし、呪術はいいキーワード、なんか芸術のことを考えるのに面白いキーワードだと思う。
ちょうどこの大阪万博公演の岡本太郎の生命の劇に裏口、だから降りるときにその言葉を書いてあったの。
芸術は呪術、呪いの術って書いて、呪術であるって書いてあって、言い切っちゃうなと思ってたんですよ。
この人のいいところって言い切ることに責任をちゃんと取ってるし、行動活動で伝えることもすごい頑張ってるなと思うから、年取ってきたらだんだん好きになってきたの。岡本太郎が。
少なくとも岩瀬さんが今陰を引いている、分かる分からないっていう次元の話ではないんですよって、不快感も含みますよっていう意味で言うと、
分かりやすさとか、今のメディアとかで、例えばブログがツイッターの140字になり、それがもっと非言語的にも分かるようなショート動画とかになり、
どんどんどんどん表現の時間、受け取るものの時間がすごい減っていってるような気がするんだけど、そうなるとめちゃめちゃ分かりやすいものばっかりに知らん間になくなっているというか、
基本的には全世界中にすぐ面白いものはバズったりする世の中で、それはノンバーバルにとにかく分かりやすいものとか、面白いもの見てて癒されるものっていうのはものすごく強大な力を持っている時代だと思うんですけど、
その岡本太郎がここで言う嫌ったらしいっていうのは、ちょっと嫌だなと思ったら簡単に遠ざけられる、フィルターがかけられる世の中だし、それに慣れちゃってると不快感を肝心にわざわざ美術館に行こうなんて思う人も減ってはいそうだなと思うんですよね。
インスタ映えするかどうかそんな感じで来ているエンターテイメント的な感じ。
とはいえお客さんが来ないと商売っていう意味では成り立たないので、ちゃんとそういう人向けの展示構成にはもちろんネキュレーターの方は結構心を砕いていると思いつつですけど。
ただちょっとほら2023年も終わってさ、ちなみにうちの会社、G社がトレンドを出すわけですよ。検索。
普段公開あんまりしてないけど、今年の人気ワード。
清水寺みたいな、今年の一文字みたいな。
日本のチームラボ5位か6位かなんか入ってた。チームラボプラネッツが。
で私は美術館扱いされているのかと、むしろびっくりしたんだけど。
すごいですよね。チームラボプラネッツはそれこそ不快感の雑味を極端に細部まで省いている印象がすごいあります。
でもあんな水さ、行ったことないと思うんであんまりネタバレしちゃいわれだと思うんですけど。
靴、ズボンを履き替えさせられてだから濡れるんで、膝ぐらいまで水、しかもいろんな人が入っている水だよ。
不快感でしかなくないあれ。すごい嫌だなって私はちょっとやっぱり、衛生面的にこれしんどいわってちょっと思っちゃったんだけど。
プラネッツは俺も行っとらんかもな。豊洲台のね。
豊洲の方ですね。
大阪のとか。
要するにちょっとイメージして、戸島園がね、昔芋洗い状態だったときに、本当にすごいいろんな人の皮膚のタンパク質から抽出されるいろんな雑菌とかがわーみたいな思わない。思わない。
雑菌でいうと人の体液も一緒にそこで混ぜ込んで流れるプールに。
それがね、心地よいと思いますかという話はあるんだけど。
なるほど。
みんな平気そうだから。
ひたすら塩素を足して消毒してもらって、そういう世界じゃないですか。
すごいなと思ったけど。
日本はさ、お風呂大衆、みんなお風呂入る文化だから大丈夫なんで。
日本人にはOKなんだろうけれど、海外の人にはどうなんだろうって。
ごめんごめん。
ショウさんが言ってるのは、グーグル社って言ってもいいと思うんだけど。
今年のキーワードの美術館の中にシウムラブプラネッツが入ってました。
ショウさんの話はどういうことなんですか。
あれがアートなんだっけみたいな話なんですか。
アートの前に美術館だったんだっていう衝撃を受けた。
おしまいと近いことなんじゃないかっていうのがショウさんの印象だったってことですね。
私はどちらかというと美術館というよりはエンターテインメントスペースだと思っている。
だからお化け屋敷とかと近い。
近かったから、なるほどっていう。
そうですよね。
エンターテインメントっていうのとアートっていうのが実は相当距離あるんじゃないかっていう話。
そうですね。
岡本太郎って人が面白いのが芸術は居合ったらしいとか呪術だとか言っておきながら
大阪万博であんなでかいものをめちゃくちゃ国策に関わって立てるわけじゃないですか。
それがすげえなと思うんですよね。
そういう思惑があった上で国に乗っかってあれやってるわけでしょ。
めっちゃエンターテインメントの顔をして。
そういうことができる人が本当にいなくなったなっていうのが
私が岡本太郎をもう一回振り返るのはいいんじゃないかなって思う。
翔さんだったらお声がかかったら次の万博何やります?
遅いよ。
次の万博っていつの万博ですか?
25年後。
間に合うなよ。
この前先日ちょっと中でいろいろ作っている人にバッタリイベントであって
3年半やってるんです実はもうっていう苦労話をちょっと聞きまして
怖いなと思って大変だなっていう旗から見ております。
そういうことが聞きたかったんじゃなかったんですけど
でもさ、テーマはいいと思うけどね
命がやっぱりこう生き生きとするっていうさ
ミャクミャクってキャラクターも実は結構好きなんですよ。
ミャクミャク僕は好きですよ。
使い勝手の良さも。
会いましたよミャクミャクくんにこの前。
そうなんですか。
ちゃんとあれ後ろから見ると尻尾も可愛いんで
後ろから知らない。
尻尾もミャクミャクしてる。
なんなら前と後ろがあることあんまり意識してないキャラ。
そうなんだよね今ね今前しかみんな見てないけど
ちゃんと縫いぐるみって言うのかこれ。
になるとちゃんと造形ちゃんとされてる。
そうなんだ。
でも何にも動かない。ただ手をパタパタさせるだけだから
まあなんか喋ったりジャンプしたりとかするわけではないんで
ミャクミャクだおって終わりみたいな写真撮って終わりって感じなんですけどね。