辰巳さん、ゲスト回はみんな濃いんですけど、濃かったです。
なんかね、配信聞いてるとすごくナチュラルな感じで、あれでしたけど。
当日、配信の中でも辰巳さんもおっしゃってましたけど、ちょっと喉の調子を崩されてるタイミングで、3時間もお話にお付き合いいただいたんですけど。
ちょうど私、前に座ってたから、かわいそうになってしまった。だんだん話させちゃいけないみたいに思ってしまって。
リスナーさんの中では、深々と喋りすぎるという疑惑があるかもしれないんですが、それはそういう事情によるところです。
でもあれですよね、ファッションの話になると熱が入りがちですよね。
でもすごい、辰巳さんが、例えばブルネルクチネの話とかも、実際にイタリアも行かれた、辰巳さん自身の経験とかも話してくれたのが、結構辰巳さんの、言ったら学生時代の記憶なんで、生まれたものを掘り起こしたのかなって感じもあったんで、良かったですけどね。
話しといて頭の整理もされたし。
改めて聞き返しながら、倉田紫ラジオってゲスト回がインタビュー番組ではないなと思って。
確かに。
僕ら別にインタビュアーじゃないじゃないですか、ウエスト呼んだ時って勝手なこと喋ってるし。
インタビュアーだと引き出さないといけない、引き出すに徹底するってこと?
一応僕らもそういうね、意図を暗黙のうちに3人で共有して望んではいるんですけど、雑談のメンバーがちょっと1人2人ないし増えるようなムードが、よく分かる、あおる君も倉田紫ラジオなのかなという。
だからあれなんですよ、辰巳さんの話の中で、いろんな工芸の現場に行ったことを文章で書かれて、記事として出されてるのが、別にライターとして行くみたいな、記事を執筆するために行くとかじゃなくて、
たまたま行って興味があったところを後々記事化するみたいな順番で記事にしてるんやっていう話とかをお聞きすると、それがやっぱり伝わってくるんですよね、読んでる側からするとね。
それと似たような話かなと思って、別に引き出そうと思って引き出すというよりは、僕らも面白くて喋ってる話が、最終的に全体で面白い話になればという思いでやっており。
全体的にやっぱり思ったのは、行動力の塊な人なんだなっていうのを印象で思った。すごく考えて観察して、記事もすごく考え抜いてるっていうのはすごい伝わってくるんだけど、
わざわざ行ったりとか、場に行ったりとか、自分を作ったりとか、そういうので実践っていう行動をしてやってきてる方なんだなっていうのが、話を全部聞いて思ってわかった。
わりとそのレポータージュみたいなことをやっていく活動もあるから、足を運んだりとかするっていうのは、わりかしもう学生の頃からわりと染み付いた印象があられる中で、行動範囲の広さと、でも集中するところは故郷のピンポイントのところだぞっていうそのミクロとマクロのバランスをずっと同時に持ち続けてるようなそういう印象があって、
なんか、チンプな言い方ですけど、いいなと思いました。
ひるがえて考えてみたときに、きのうちょっと用事があって岩津さんと喋ってたんですけど、自分の故郷のために何かしたいことってあるんだっけって僕が思い返したときに、名古屋ってなーてんてんてんみたいなところがあって、
名古屋からさらに狭めて、蓄作のために何かやるかなとか、そういうこともちょっと考えるところなんですよ。
それ言われたら、東京のためにとか、全然思えって言っても無理なんだけど。
むしろそれが本当に残さなきゃいけなかったものをなくしちゃうというか、文化が消えていっちゃう。
やっぱりもともと地元だったからこそできるってもちろんあるんだけど、
人のネットワークだったりとか、彼がやるならサポートしたいとか、
そういうのもちろんあったとしても、その勇気がすごい必要じゃない?
そうだね。あとは、良さと悪さで言ってもしょうがないんですけど、
行政が旗振った何かみたいなのは、予算の取り方に課題があって、
例えば年度って1年ごとにちょっと決まっていて、
それで何かを始めて終わらさなきゃいけないっていう長期支店のもてなさだったりとか、
そうは言っても何かやらないと次の予算が縮小されるからって言って、
打ち上げ花火感をちょっとは出さないといけないとか、
民間に委託してるんだけど、それが地元の人じゃなかったりするから、
自分ごとの気持ちが希薄みたいなところと比較したときに、
やっぱり辰美さんとかは自分の話だし、
今年だけで終わらなかったら来年も当然だしとか、
別に終わりのない話をこれから立ち上げて語っていく話なので、
そういうのはありますよね。
基本そういうものって時間かかるじゃん。
コミュニティづくりにしても、行政の何にしても、
でもやっぱり11月頃になると急にイベントが増えるのって、
3月までに予算を消化して、
次の予算を取らなきゃいけないという時期の、
ちょうど11月ぐらいまでにやっとかないと、
エビデンスが作れないから、いきなりアートイベントが増えたりするのが、
それのせいなんだけどね。
そうなんですね。
そうなんですよ。秋だからじゃないんですね。
そういう話が出ましたね。
それだとサイクルっていう意味では、1年目やったの、
2年目はどうしようとか、そういうふうな考えで、
サイクルで5年計画で提案できる行政のプロジェクトだったらいいんだけど、
毎年公募とかだと、残らないとできないとなると、
そういった時代だったりとか、今までチャレンジングなこととか、
コミュニティづくりとか、とにかく難しいよっていう話なんですよね。
だから今まで使われてなかった馬の革の流通がないんだったら、
発明せんといかん。発明せんのだったらいかんかったら、
誰にたどってっていうことを、自分でまずたどっていかんといかんという作業とか、
ああいうのって本当にバイタリティとかも必要ですけど、
本当に自分事がしてないとなかなか体が動かないなって思いますね。
僕も海さんと名古屋の話を昨日してましたけど、
僕も近いので岐阜羽島なので、地元の能備平野っていわれる、
だだっぴろい平野のエリアですけど、
僕は地元の風景みたいなものに、愛着といえばあるのかもしれないですけど、
どちらかというと辛さを感じて出ていったところがあって、
辰巳さんの大学に入る以前ぐらいのところから今までの話を聞けたわけですけど、
その流れを聞いていってすごい面白いなと思ったのは、
ゴブっていうブランド名を決めるにあたっての決め方であったり、
何をそれでやるのかみたいなところって、
割と言い方をすると行き当たりばったり感があるように聞こえるんですけど、
とりあえずゴブがつくブランドとか、
バニックのことも最初は注目しなかったわけですけど、
実家のリンゴ農園のところから、
地元に対して何か貢献できることだけはあって、
その手法とか題材みたいなものは何も決めない状態で行って、
しかもバニックのところにたどり着いても、
それの皮を使うみたいなことも最初は別になくて、
そこに行って見つけたものに対してアプローチしたらこうなったみたいな流れでここまで来たみたいな、
ところ、そういうすごく流れに身を任せてきたようなところに見えるところがある一方で、
すごいこの辺っていう街に対しての何か貢献というか、
みたいなところはめちゃくちゃずっとあるみたいなところのバランス感覚がある。
物に対する愛着っていうのかな。
だから素材としての皮だけど、物がどこからどうやって出来上がっているのかって、
ずっと自分も作っていたからっていうのもあるんだけど、
観察感があるし、それに対する課題っていうのもいろんな地方の見てきて、
取材というか記事を書いている中でいろんな人の話を聞くと、
どういう解決方法をしていて、どういうことがあってというのは耳にしみついちゃっている感じがする。
だから多くの人は先にそっちが行っちゃうじゃん。
その使命感というか、バリックを何度かしなきゃいけないみたいなので、この辺とか。
順番逆の場合が多いと思うんだよね。
なんだけど、どっちかというと旅する人であり観察していて、
でもやっぱり本当に物というか日常で身に着けたり使ったりする物が好きでしょうがないんだなっていうのは、
話全体的にそれは一貫しているのがすごく分かった。
面白い学校に行っていたんだろうなというのも想像できるんですよ。
IA登録下校。
そうそう。だからやっぱりその地方のいろんなことをちゃんと学校が向き合ってやっていたんじゃないかというのがまず大きいのかなと思って。
そのコラボレーションとかも。
我々今京都にいるわけじゃないですか。だんだん声が小さくなってくるけど。
京都にある芸術大学だから京都のやらなきゃいけないところになるとちょっと違う気がするんですよ。
背負ってるものが違うんだみたいな。
例えば山形に東北稽古がありますけど、山形稽古と言わずに東北稽古と言っている感じのこととか。
もうちょっと差している範囲が広いとか。
確かにそうですよね。
京都は京都ですからね。
ブランドのためにやっている感じが、これすごい言い方間違えたらすみませんなんだけど。
地雷踏んだらすみません。
だからみんな京都の美大学、京都をブランディング売りにしているとか言っていいわけじゃないんだけど。
聞こえちゃうんですよ、外からの人間からしてみたら。
京都のプロジェクトをやっていると京都を押してくるなみたいな。
中部とか地方、もうちょっと広い意味での地方を見ないのかとか、やっぱりちょっと思うことがあるんだよね。
なるほど。
だからそういう意味では、ある意味面白い学校なんだなっていう、ちょっと同じことを繰り返して言っちゃうけど、
思った理由というのが、ある意味ラディカルですよねって思ったんですよ、地方に対するアプローチ的に。
東北って言っても、面積にしたら広大だし歴史だってすごい長いわけなんで。
無謀っちゃ無謀じゃん、それをカバー3、4年間ぐらいでしないといけないとこって。
それをリプレゼントしようと思ったらってことですか?
そうそう。
言ってみないとわからないんだけど、そんな風に想像しましたっていう。
なるほどですね。
優先順位がちょっとユニークだなっていうのは、翔さんと岩瀬さんの話を聞いて思いました。
何かを作らなきゃいけないっていう、作り物とかを一筋の巧妙みたいにしてるっていうことではなくて。
ゴブっていうブランドめちゃめちゃピッタリだなと思って。
岩井達美さんっていう人の生き方みたいなものと、本当にゴーゴーが尽くしみたいな、たまたま感ではおっしゃってましたけど。
収録の後も一緒にご飯食べに行きましたけどね。
結構ゴブゴブの関係みたいなのはね、割と汎用性が高いんで。
翔さんと岩井さんの関係のことも言ってましたけどね。
僕らがいい加にゴブの関係であるからね。
あとは、客の話があるとしたらゴブの酒漬けとか、そんな話もしてましたね。
確かに。
親子酒漬けでもなければ、兄弟酒漬けでもなく、ゴブの酒漬けっていうね。
簡単に言うとヤクザの世界の話ですけどね。
話すれちゃうかもしれないけど、ヤクザとゴブで思い出したんだけどさ、入れ墨もゴブシチブってあるんだよね。
そうなんだ。
シチブ袖みたいな。
ヤクザだけじゃないよ、差し物って。
って言われてる。
それは洋服の隠し方に絶対職業的に着なきゃいけない職業とかだとゴブのやつにするだろうしなとか。
だからいろんなゴブあるねって思った。
確かに。
辰美さんにすごいぴったりな名前だなと思ったのは、さっきのなんて言うんですかね。
自分の、翔さん言ってくれたみたいに、これの課題を解決しないといけないんだみたいなところが、自分の中ですごい強くあって。
そこに対してマッシグラみたいなことではなくて、いろんな環境に負けていくというか。
柔軟。
柔軟。
そこをちょっとずつかき集めていって、みたいな関係性を作っている感じは、本当に自分がやりたいことを前に出すでもなく、相手の要望に対して単に応えるっていうことでもなく。
ただただ横たわっている、ごめんねっていう風土とどう付き合うかという、そんな感じですよね。
なんかさ、思ったの話聞いてて、もちろんご年齢我々に比べたら全然お若い。
岩田さんはそんなに大人に。
いやでも、ちょっとあれですよ。
小学校一緒に行ってないですよ。
やっぱり現代的だなっていうのも同時に感じた。
聞かせてもらおう、おばさん的意見を。
思わなかった。
いや思います。何とは言えないですけど思います。
これって言えないんですけど、現代語とかそういう言い方じゃなくて、現代のアプローチの、現代的なアプローチ、歴史だったりとか、難しいこととか、トランスペランシー、透明性とか、
あとはそういう意味でどうやってコミュニケーション、伝えていくかとかを、ちゃんと気を付けなきゃいけないポイントって、現代ってすごい多くて、
言ったら、今ドラマでやってる、
施設にも言葉がある。
見てると、私は完全に昭和の人なんですよ。
お父さんというかおじさん側の人間だから。
変なのあんたらだよっていう人ね。
そう思ってる。
そっち側のおばさん。
おばさんだし、あとその面白い時に、94年に日本離れちゃったから、バブル時代の頭で日本帰ってきたら、急に日本がすごいみんなが繊細で気を遣い合って、
正しさってなんだってことを、ちゃんとコンプライアンスとか話をなってるなって。
内向的に批判的な目線が向けられてた時代を、日本にいなかったってこと?
それが帰ってきて、ちょっと経ってそうなったんだけど、今ってポジティブな方にちょっとずつ転換してきてるんじゃないかなと思ったんだよね。
それが私の現代っぽさというか、だからもう3段階目に今いっているわけですよ。
いやー、想像したことなかったですね。
おっさんとしては。
なんか変なこと言ってるのがある。
結構ね、むずい。不適切にもほどかる話をするつもりはないけど、あのドラマとか見てると、
そこまで昭和って消えてるっけって思ったりする。
普通に安倍晒音の86年から来た人がやってること、普通にやってる人もいるじゃないですか。
特にここ五条の界隈とかだと全然います。
送られます。
今日もね、あったし。
いやー、そうですね。結構東京とかだと、本当に簡単に言うと、分かりやすいよりで喫煙みたいなの。
みんなが共有してるマナーみたいなのが東京とかだとあって、
路上喫煙とかもよっぽどじゃないとする人もいなくなったんですけど、
別にするとしたら多少悪びれてするようなところを、多分もう何十年もそうされてるんだろうなという高瀬川の橋のほとりで、
ふーって息をついてるおっちゃんとか。
スリッパだったもん。
スリッパ見たら、ここの地域の公民館の名前なんか書いてたんで、
そっかーと思って、ずっとこういう感じであられるんだろうなという。
それは別に安倍さんのほうが感じなんですよ。
そのポジティブなほうに繊細さみたいなものが、コンプライアンスみたいなことに気を使うみたいなことが、
ポジティブな方向に向かってるっていうふうに言われたのは確かにわかる。
例えばあのドラマだと、どちらかというとポジティブなほうに向かってるところよりは、
その手前のコンプライアンスだけを表面的に気にしてるみたいなものに対する批判がちょっと強すぎて、
なんか今の、もうちょっと今のだから、本当に世代的に若い人の感覚みたいなことと、
結構ズレがあるんちゃうかなとかって思ったりしながら見てるんですけどね、あのドラマはね。
まだ全部見てないから、無数の映画見始めてて。
状況の複雑な言語能力による整理の凄さっていうのをまた僕、岩田さんに目の当たりにしてるような。
いや全然今整理できなかったけど。
それは多分テレビに対する、今のテレビっていうものに対するアンチテーゼだっていう風な意見があるじゃないですか。
だから私全部見てないからわかんないんですけど、
それって今テレビの話になっちゃうけど、それはやっぱりちょっと古いメディアになっちゃったから、
そこに対するアンチテーゼはちょっと手前にはなってしまうんだけど。
多分僕、もう全然辰巳さんの理解でなくなってるけど、ちゃんと戻っていきますからね。
あのドラマに関して言うと、多分テレビっていうのが題材になってるところにすごい違和感があるんですよ。
多分テレビってずっと昭和やんって思って見てるから。
確かになー。僕全然見てないけどあのドラマ。
僕もテレビそんなに見ない方なんで、正直あんまり感覚的にわかってないところは確かにあるにしても、
なんかその、令和批判しすぎな感じはちょっとあるなっていう。
で、その辰巳さんから感じたポジティブな現代性みたいなことで言うと、
僕はそれより夜明けのすべてっていう映画見たいんですよ。
見てない。わかんない。
めちゃめちゃいい映画です。
これでも振り返り会配信されるのは、もう4月入っちゃうのかこれ。
4月はやってるかな。
もう今この収録時点で。
終盤?
結構経ってますからね。公開してから。
そこ終わっちゃう。もうすぐ。
わかんない。うまく話題でね、ロングランになってくれたらいいですけど。
ロングランになってほしいなって思う映画です。
うん。夜明けのすべて。
でね、そのポジティブな現代性みたいなものがすごくナチュラルに、
映画として今はそういうふうに表現しないといけないとか、
そういう義務感みたいなことではなく、
相手のことをナチュラルに気遣って矯正していくみたいなものの、
押しつけがましくない。
そう、押しつけがましくなさっていうのが、
何かを守ったり残そうとしたり、
動物愛護の観点とかもあったりとか守るっていうには、
やっぱり戦ったりとかするのが私たちぐらいの世代のイメージなんだけど、
そういう抗うとかそういうのではなくて、
その状況はもちろんしっかり分かった上で、
繋がりを丁寧に作りながらやっていくっていうのが、
我々ができなかったことだから、そこに現代っぽさを感じたのかもしれない。
大学院生っぽいじゃん。
ちゃんと商品化しようとか、先をちゃんと見据えている。
学士は学部じゃない。
学部生っていうのは学士で終わる。
4年生の方。
その時ってやっぱり必死じゃん。
学校をまず卒業せねばみたいな気持ち。
そっちに就職どうしようとか、先どうしようとか。
視線がどうしてもやっぱり自分に向かうような。
自分に向かうような。
でも商品化なんとかしようっていうのは、
どっか外を見ていないと思いつかないというか、
努力もする気にならないわけだから、
聞いてて、やっぱりマスターレベルのプロジェクトだなと思って、
ちょっと偉そうに言ってて申し訳ない。
偉そうっすね。
学校で教えてる人とか、
今の学士の人にしたらだいぶレベル高いことやってるなと思った。
プロジェクトの卒典で、
菅財工の作り手の人と一緒にみたいなのもありましたけど、
さっきの静かで、
熱量が高い戦いみたいなことで言うと、
すごい難しい戦いをこれからしようとされてると思うんですけど、
僕は収録の後、ご飯食べに行った時に、
科学設定の話とかをちょっとチラチラと聞いてて、
それは今の段階でここで言うべきことではないんで、
具体的には言わないんですけど、
いわゆるバックならバックの一般的に高いって言われる価格よりも、
もっと上の価格帯を狙っていこうとされてるんですけど、
僕は多分それは確かに高いって感じる人が多いだろうなと思いながら、
でももっと高くしないといけないんだろうなとは思ったんですよ。
辰巳さんが言ってる価格よりもさらに。
多分ブルネオクチネリの話とかもきっとそうだし、
本当にこの辺の街の産業みたいなこととして長いスパンで考えた時には、
多分もっと価格として上のところに持っていくっていうアプローチが必要なんだろうし、
それはやっぱり一筋縄ではいかないけれども、
多分辰巳さんもやらねばならないことだって思っているでしょうし、
それを聞いて思い出したのが和紙を買ったことがあって、
高知県のグジョウテンシ。
違う違う違う。
トサ。
トサ。
えーと、なんかギネスに乗るような0.何ミリの薄い和紙ですよね。
駆け戻し。
駆け戻し。
駆け戻し。
駆け戻し。
えーと、なんかギネスに乗るような0.何ミリの薄い和紙ですよね。
駆け戻しって言われている0.03ミリの紙なんですけど、
高いんですよ。一言で言うとびっくりするぐらいの値段なんですよ。
思い出したいな、あれなんだっけな。
3桁ぐらいするんですけど。
それちょっと語弊があって、
それの紙の仕入れと、それに印刷する難易度とかも含めての3桁だから。
あと1枚ガチャないからね。
ただ、バルク買いをしなきゃいけないからその金額になっちゃったんだけど、
何を言いたいかというと、
ちゃんと素材作りその方たちはしていて、
素材を作る人たちもサポートしている。
だから紙をただ作っているだけとか、
印刷屋さんとのやり取りとかももちろん入っているし。
とさてんぐ上司。
そうです。
それ考えたら普通に妥当だよなって。
そこでやっぱり話聞いて計算してみると、
関わっている時間と関わっている人の量とか、
本当に消えちゃうから、そうでもしないとダメだとか。
あともう1つ価格設定のポイントになりそうだなと思ったのが、
辰巳さんのもう1個のキーワードである100章ですよね。
全てのことを一旦自分で引き取って1人でやれることの
仕入れから制作とか販売、ブランディングも全部も含めてやられる
ということであったのはおそらく価格設定にすごい重要だなと思っていて。
何でかというと、物の仕入れとかで、
要は外部に仕入れとかを任せたりすると、
仕入れというのは自分でコントロールができないから、
そこでもう価格設定の要素、自分がコントロールできる価格設定に
制限が出てきちゃうじゃないですか。
だからそこの仕入れから全部、点灯に並ぶところまで
全部自分が1回引き取るというところの厳しさと自由さというところを
引き受けているんだなという。
それも含めて百姓という言葉の凄みみたいな、そんなのを感じましたね。
そうだよね、だってただ仕入れるというより、そもそも仕入れ先がないじゃん。
だから例えば、進行芸者の三田知担の回でいうと、
原材料はレジンとか、素材というには本当に進行芸の芯というぐらいだからプラスチックですけど、
原料ってたどるとアラビアとか石油になるのか、金属でも同じですけど、
採掘する鉱山とかというのがなると考えた時に、
それがしかも金属、佐々木さん回でもありましたけど、
金とかプラチナとか、地金が世界的なレベルで価格調整がされているものとかだと、
自分が城内としてできる価格設定にものすごくハンディーがあるんじゃないですか。
五の辺という小さい地域に念願させて、そこで得られる資源というものに自分が五部のことで付き合い、
価格設定からゼロベースから自分で検討するというのは、
思っていた以上に注目すべき点がありそうだなと思いました。
何か重い話にしたくないなと思って。
聞いていて、一個それ授業に入れたいなって、ちょっと今頭の中が。
翔さんが年度末で次年度の授業の準備をされている中。
後期の方に、それはそうだなって聞いていて思ったの。
今、ずっと倉田市ラジオをやっていて、作り手の話とか聞いていて、
素材の面白さとか、私は面白いなと思って聞いていて、そっちが印象が強いんだが、
よくよく考えると、物は本当にどこから来るのかというのが、
今インターネットでだいぶ情報が公開されたとはいえ、
まだ分かっていない自分がいるし、しかも作った端材とか、
職人が作ろうとして出ちゃうゴミだったりとか、
そういうのがどこに行っているかも分からないなとか、やっぱりあるんだよね。
その辺の責任って、作る人としての責任というのを岩井さんから感じるのは、
いろんな職人さんの現場に足を運んだからなんじゃないかなと思うんだよね。
作っている人というよりは、作り手というよりは観察したからこそ
気づいた視点なんじゃないかなと思う。
作っている時って必死だから、ちょっとした糸くずがどうなのかと思わないじゃん。
インクがとか、岩田さんも排水がとか、すごいそこにめちゃくちゃフォーカスして、
それに対する授業を始めようとかまでの気持ちになりにくいと思います。
そういう気持ちになりにくいよね。
何だろうな、話聞いてちょっと懐かしい感じがしたのもあるんですよ。
現代的だなと思いつつ、デニムの作り手に近いものを感じるの。
デニム?
ジーンズ、デニム。
例えば、昔ディーバーストのプロジェクトをやっていた時に、
昔は最初は安く壊れにくいものを作ってみんなが着れるという、
オープンソースか洋服のリベットを作って壊れにくくすることで長く使ってもらえるよと。
それが逆に売れちゃって大量生産しないといけないから、
イノベーションで売る機械とかもどんどん新しくしましたよと。
そこまでは結構よくある話なんだけど、
ここ数年、5年ぐらいとか10年ぐらいのデニム業界って、
自分たちに対する反省がすごい強くなってて、
例えばサンドブラストって言って、砂でストーンボッシュとかで亡くなった方がたくさんいるのね。
肺に砂が入っちゃったら。絶対にマスクしてるはずなのに、
なんで死亡者がいっぱい出るんだっていうので、禁止にされちゃった。
次にやったことは、洗濯機の中に石を入れて、
軽石みたいなのを洗うとストーンボッシュみたいに。本当のストーンボッシュ。
それで人が死ななくてよかったね。
なんだが、やっぱり排水に軽石を買います。
そうすると粉っぽくなるじゃないですか。
あれが水で流れちゃって汚染したりとか。
あとインディゴってもともと愛は自然のものだからいいじゃんとか思うんですけど、
それが化学愛に変わってめちゃくちゃ皮を汚染しちゃったりとかしてて、
それがレポートに載っちゃったりとかすると、
もうデニム買うのやめようみたいな動きが出ちゃったわけですよ。
それが大手だと注目されがちだから、
これからはウォッシングしないデニムの作り方を何とかしてやらなきゃいけないって言って、
レーザーでパスを書いてフォトショップでダメージの白い部分をデザインをフォトショップで書いて、
レーザーでピーって焼いてるんです、表面。
そうなんですね。
そこの視点が後から怒られてやってるのはあるんだけど、
岩井さんの場合は逆に後から馬とかの皮使うなんて言われるかもしれないじゃないですか。
でも結局は今私着ているズボンはプラスチック製のフェイクレザーで、
これプラスチックなんですよ。
これゴミに、プラスチックゴミになるわけ。
石油使ってるわけですよ。
どっちが本当に地球のためにいいんだっけとかをちゃんと考えると、
本当に命あったものも元々ものだけど、レーザーの方は自然分解もするし、
だからゴブでしょ。
隣にいるだけなんですね。
そっか。そうよね。それだ。
隣にいるだけか。考えたことなかったな。
ただ地球に住んでいる位置。だから生物じゃないと人間。
さっきね、ダストとダストって歌とか、
分かんないかもしれないですね。
足と足か。ダストとダストっていう。
ネーションとネーション。
さっき思ってて、なんでダストとダストって人が亡くなった時に
灰は灰に、塵は塵にって言うんですよ。お葬式で。
なんで、土は土には分かるんだよね。
灰は灰に、分からんくもないけど、
塵、どっから来た?と思って調べました。
そしたら、
人間は塵からできてるって考えたの。
だから塵に戻ってくる。
ニュートリウムとか。
みたいな感じのことなんだなっていうのがあって、
だから人間って、はっきり言ってホコリみたいな。
地球にとったら。
ホコリ、ちなみに鮮花できあがって、
服着るからホコリでできるんだけど、
それと同じやった。
火の鳥未来編とかで、
火の鳥見て死ねなくなった人が、
生きてる自覚はあるけど、見える形はだんだんなくなってきますよね。
分かった。
どういう状況なんだろうと思ったら、
塵でもなくなって、ただの存在だけとなったみたいな。
分子。
分子、よう分からんけどね、あの概念も。
まあまあ話しとりましたけども。
だから分子の塊のくせにね、
ただの分子の塊がね、
地球に優しいってどういうことなのか。
そうなのね。
それがちょっと違和感があるよっていう。
っていうので、
服のリサイクルとか、
何が地球に優しい素材なのかっていうのは、
まだまだ議論の余地がきっとあるだろうと。
っていう話ですよね。
そうです。
あとね、やっぱりちょっとこう、
あと岩井さんと話した後に、
ちょっと読み返そうかなと思い出した本が実はあって、
ここに置いてあるんだけど、
前にも倉田氏で話したかも。
クレイドルとクレイドルっていう。
ゆりかごからゆりかごで本が日本語版で出てて、
日本語版は最悪だみたいなことを言ったのを覚えてる。
それって造本が特殊なやつ?
そうです。
プラスチックに印刷してるとか?
そう。
しかもインクがお湯で消えるから、
お湯っていうか熱で消えるから、
お湯につけたらもう一回印刷できるよってことで、
ずっとその本のページ数が変わらない限りは、
新しい本を作れますよっていう考えで。
クレイドルとクレイドルは、
クレイドルってゆりかごっていう意味だから、
本当の意味の持続可能性っていうのは、
ずっと残って戻ってくるものだっていう話なんだけどさ。
何でも土に帰ればいいわけではないよと。
ただその本の1ページが、
この本は木ではありませんって書いてある。
英語で。
日本語訳の本ちょっと見ないと忘れたんだけど、
This book is not a treeって書いてあって、
は?って思うじゃん。
そりゃそうだろうと。
木じゃないよと。本だからって。
でも元には戻らない。
紙になっちゃうと木に戻らない。
不可逆性?
だから進行芸者の話とかもそうだよね。
プラスチックはプラスチックに戻せる。
戻そうと思ったら戻せるし、
馬の革っていうのは馬の革として、
戻せるかどうかっていうのは分からないけど、
土にしたりとかもできるんだけど、
だからどっちがいいかっていうと、
やっぱり物の作り方?
素材が云々とかいう議論が、
ちょっとやっぱり今後のサステナビリティとか、
話すのにちょっとやっぱりネックになってないかなって思って、
岩井さんの話聞いてもう一回ちょっとね、
クレイドルとクレイドル読み直そうって思った。
議論を作るとかってすごく難しいし、
まず前提を共有するのを世の中的に規模でやること自体が難しいんですけど、
論文とか書いたり、どっか行って喋ったりとかするっていうよりは、
物があった方が話が早いので、
やっぱり辰美さんみたいにリアリストというか、
実際にこれから物を作る人はやっぱり注目したいなって思いますね。
実際に自分でやるってことの、
100章の話に戻るけど、
人に任せてしまうとそこのプロセスが見えなくなってしまうっていうところは、
やっぱり思考がそこまで及ばないっていうところでは、
文業って日本って結構多いんじゃない?
文業をしやすくするマニュアライズで、
日本の生産業は支えられている側面はあると思いますね。
日本は特にテキスタは文業でしかないなって思った。
もっとね、車の何百何千とある関連工業とかもそうですし。
でもね、イタリアって文業はあまりしないんですよ。
イタリアのテキスタイルは結構自分たちで羊羽買って、
そこから作って、管理もするし、検査もそこでやるっていう工場ばっかりだったから、
やっぱり最初から最後までやるからこそ、
コントロールできるものがあるんだろうなって思う。
日本のテキサイルはちょっと違うなって。
まとめていく話でもないんですけど、
シーズン3をずっといろんな人にお伺いしていて、
あらゆる分野での終わらない仕組みづくりの戦いと、
あと、文業家から一人で一人何役への揺り戻しっていう、
何回かに分けてリマインドされているような感じはありますね。
そうですね。
岩井さんは最初は一人かもしれないけど、
私は仲間が増える気でしかない。
仲間が増えてほしいと思うし、絶対増える気がする。
その中で岩井さんは、
例えば、馬以外の話も出てくるだろうし、
そういうコミュニティというか、
町の出来方、村の出来方っていうのがあるっていうのは、
夢のある話だし、できる気がするんだよね。
やっぱり難しいんですよ、コミュニティというのは。
京都にも素晴らしいサブカフェっていうのがあって、
やっぱり人が回さないと、
場所だけさ、今の行政の多くは箱をまず作ってさ、
そしたら、みんな使うからコミュニティできるとか、
そういう考えがあって、
コミュニティを作って、
みんな使うからコミュニティできるとか、
そういう考えが一時期。
スタジオ3回でもあったけど、
箱物の一つである仙台メディアテイクとか、
YCAMとかっていうのはそういう人がありつつ、
まだまだあれは成功している部類かもしれないですけど。
そこは人なんですよ、仙台メディアテイクのキュレーターとか、
YCAMもディレクターとかキュレーターとかが、
中心になってやっている。
ただ図書館っていう箱は、
それは発明なんだよね。
図書館と美術館をガチャッとしたのは発明なの。
アートに関係ない人も来るから。
でも人の流れが必ずあるじゃないですか。
家でも。
フラッと寄ってもいいんだなみたいな。
美術館にフラッと行くって、
だいぶカルチャー的な。
そういう習慣を持っていない人は別に。
普通に持たないよ。
持たないと思う。
行かないよ、美術館とかギャラリーとか。
我々はお菓子。
お菓子かどうかは少数派なんだから。
少数派でしょ。
どっか地方行ったら地方の美術館絶対見るしな。
よくってデパートのギャラリーとかぐらいだよ。
普通だったとしたら。
6階のデパートの祭児場とかぐらいじゃん。
よくって。
昔だとそこでやってるのが
ヒロ・ヤマガタとか
アマノ・ヨシタカのシルクスクリーンとかが売ってる感じで
現代アートの展示止め売った展示が
そのデパートの祭児場でやってる感じでしたけどね。
そういう市民とアートとの関わりのイメージでした。
アリシーズ・ヒロね。
これ言っていいかわからないけど
なんでいまだに工芸ってデパートのギャラリーで売るのって
すごい不思議なんだけど。
たぶん、なんで千引屋フルーツパーラーって
フルーツパーラーじゃないのにまだあるのに近いと思うんですけど
要は五福屋とかが
ある種そこの品質をサティフィケートするっていう
江戸時代からの機能だと思うんですよ。
それは五福屋が百貨店になって
百貨店が百貨店お墨付きっていうところの
工芸品であったりとか
美術品だったりとか