自分の常識と他人の非常識
こんにちは、ちじゅです。お元気ですか?
昨日ですね、My Trash Your Treasureっていう話をね、させてもらったんですよ。
My Trash Your Treasure、私のゴミはあなたの宝物っていうようなことでですね、
まあゴミって言ったら言い方がちょっときついけれども、
私にとってはそんなに大したものではないもの、それがあなたにとっては宝物になることがあるみたいなことで、
まあビジネスがね、そういうことでできてるんじゃないかっていうようなお話をさせてもらったわけなんですよ。
このそのトゥラッシュっていうね、ゴミと訳される日本語にするとものなんですけども、このトゥラッシュがね、
そのちょっと定義を変えてみると、いろんなことが見えてくるよねっていうことで、
トゥラッシュっていうのは、要はビジネスでいうところの自分の当たり前っていうことだと思うんですよ。
なのでレストランとかだったら、自分はこの料理をするのが当たり前っていうか普通にできちゃうことなんですよね。
もうほぼもう無意識でなんかできてしまうこの料理が、他の人から見たらタイミングもありますけど、
お金を断してもう食べたいなぁとか、これは自分では再現できない味だと思う人もいるかもしれないっていうその価値がね、生まれてきたわけですよね。
でもその作り手からすると、そんな大したことじゃないっていうか、当たり前のことなんですよね。
トゥラッシュって言ったらちょっと言葉は強いですけど、まあそういうことですよね。
コンテンツビジネスの可能性
これを無形商品の話にしてみると、いわゆるコンテンツビジネスとかって呼ばれるものに当てはめてみると、
要するに自分は当たり前にできていること、あるいは自分にとっては当たり前に知識として頭の中にあるもの、
それってそんなに宝には見えないものじゃないですか。もう陳腐になっちゃっててね。
でもかつては、その知識とかアイディアを入れるためにものすごい努力をして、ものすごいお金もかけて、時間もかけてっていうものだったかもしれないですよね。
中にはささっとすぐにできちゃったっていう、知識も入れちゃったっていう人もいるかもしれないんですけど、大抵の場合は試行錯誤を重ねながら失敗もして、
いろんな体験をしながら、やっと自分が得た知識とか経験とかそういったものがそれぞれみんな積み上がってるわけですよね。
なのでそこに行くまでの道は、そんなに簡単ではなかったかもしれないですよね。でもそれを振り返ってみると、こうやっときゃもっとショートカットができたなっていうことなんですよね。
そのショートカットができたのに、なんでやらなかったんだろう、教えてあげないとって思うところが言ってみれば、コンテンツビジネスの基本なのかなっていうふうには思うんですよ。
でもそれを自分の頭の中であれこれ考えてて、これが良くって、これがダメだったからこうだねって言っても、誰も私のところまでやってきて、頭の中から何かを取り出すっていうことはできませんから、そこで言語化っていうものが必要になってきて、
これが上手な人がね、やっぱりこう自分の知識とかを人に与えることもとっても上手にできてくるっていうことだと思うんですよ。
だから最近よく聞かれるのはね、言語化が上手な人がとか言語化の練習をしようとかっていう言葉も聞かれるようになりましたけど、これって要はそういうことですよね。
それだけがわかってても、その知識とかっていうのは言ってみれば、まあゴミみたいなもんじゃないですか。使われないんだし、私だけだし、しかもそれってもう今はいらないし、捨てちゃおうと思いませんけど、
でももうなんか自分としては確立されたものがあるから、特に今更また同じものをお金出して買おうとは思わないようなもの、あるいは知識、アイデアですよね。
でもそれってまだ持ってない人から見たら、それ欲しいって多分なるわけなんですよね。
だからそこで、コンテンツ?内容のあるものを何か売るといいんじゃねーみたいな感じで、コンテンツビジネスっていう言葉が結構ふわーっと出てきて、結構儲かるらしいぜーみたいな話にもなってきてると思うんですけど、
まあただね、何でもすぐ儲かるものなんてないと思うので、いろいろと工夫が必要だったりとか、本質がわかってないといけなかったりとかすると思うんですけど、
当たり前のギャップ
まあでも基本的にはコンテンツビジネスっていうのは、自分の頭の中にあるだけじゃもったいないから、それを他の人から見たら宝かもしれないからもらってもらおうかなーみたいな、そういったところなんですよね。
その基本が抑えてあれば、割と間違ってないのかなーとは思うんですけども、ここで結構問題になってくるのが、この自分にとっての当たり前に気づくところがね、結構難しかったりとかするんですよね。
私もね、英語は割と普通に話すんですけど、ドイツ語も割と普通に話すんですけど、そんなネイティブみたいには話せませんよ?
うん。いまだにね。だけど、よく考えたら、英語でもドイツ語でも、まあ大体言いたいことも言えるし、自分にとっては割と普通になっちゃってるわけなんですよね。
で、しかもここに行き着くまでに、やっぱりいろいろと自分のこととか、あとは話せるようになった人とか、あと本やんだりとか、いろいろしてきてるわけですよね。
で、その中でいろいろと蓄積された私としては、知識とかアイディアっていうのがすっごいあるわけなんですよ。
あれはダメだった。これはダメだった。なんでダメだったんだろうかっていうのを、それを全部つなげてみると、あ、こういうことかみたいな。
なんでこんなシンプルなことに何年も気づかなかったんだろうかっていうのがね、いっぱいあって。
で、そういう自分が割と間違ったようなところを他の人がやってるのを見ると、いやいやそこじゃないんですよみたいなね、いうのがやっぱあったりしますよね。
やっぱり料理ができる人なんかが、私が料理してるのを見たら、なんでそこでこんなの入れちゃうみたいなのがたぶんすっごいあると思うんですよ。
いやちょっとそれ順番逆じゃね?みたいなのを、もう私は毎日やっちゃってると思うんですよ。たぶん。
でも料理ができるから、できる人から見たらものすごい当たり前のことを、私はその人にとっての当たり前が全くできてないっていうことになっちゃうわけなんですよね。
だからほんとにね、たでくう虫も好き好きとか言いますけど、人ってほんとそれぞれだから、なんかこう学校にね、昔いた小学校とか中学校の頃はね、隣の子とものすごい色々違うってことはあんまりなかったと思うんですよね。
生きてる年数も短いし、やってることも似たりよったりだから似たような感じだと思うんですけど、もう大人になるにつれてね、本当に枝分かれしていくっていうか、みんなもう本当になんか違うじゃないですか。
考え方も違うようになったりとか、生き方も違うしっていう風になってくると、余計にね、やっぱなんかこう、それぞれにとっての当たり前っていうのが、ものすごく幅が出てきてると思うんですよね。
比較で言うとですよ、日本人って当たり前っていうのの概念が、割となんか他の人と一致してるところはあるかなっていう、文化的にね、そういうふうに思うことはあるんですよね。ユニフォームソサイエティとかって呼ばれたりとかしますけど、やっぱなんかこう、出る杭は打たれるじゃないですけど、割とみんな似たりよったりのところが、よその国と比べて、比べてですよ、結構高い傾向はあるかなと思うんですよ。
なんかこう、横並びが好きっていうか、なんか同じことやってたら安心するところが、やっぱり日本の人は強いのかなーってね、主には思うから、そういうところはね、確かにあると思うんですよ。でもそれにしてもですよ、それにしてもやっぱり、なんか佐藤家とそれから山田家の当たり前って違ったりとかするんですよね。
そうそう、だからその当たり前が違うっていうところに目をつけたのが、こういういわゆるコンテンツのビジネスっていうことなのかなと思いますよ。
自分にとっての当たり前は、人にとっては当たり前じゃなかった、そのギャップを埋めるところで、お金が発生するかもねーみたいな、そんなお話なんだと思います。
はい、では本日は以上です。またねー。