ありがとうございます。補足しておくと、家族についてと結婚の社会学という流れは完全にアドリブでゴリゴさんが思いつかれた流れで、
こういうアドリブで毎回決めていくというのが、僕方のいいところだなというところと、
おっしゃられるようにAmazonオーディブルの哲学系って結構あるんですよ。
思いましたね、それは思う。
訂正可能性の哲学もあって、ちょっと聞こうかなと思ってたんですけど、もう終わってしまったので聞かなかったんですけど、
案外ね、小説とかももちろん多いんですけど、最近哲学系を結構ピックアップしてて、
とりあえず聞くだけ聞く系の読み方としてオーディブルを割り返していいかなと思います。
ちなみに結婚の社会学を選んだ基準というのが、むしろずっと前からこれ紹介しようと思っていて、
偶然繋がったから繋がったことにしたっていう感じですね。
これがドット・ザ・コネクトですね、要するにね。
いつどこで点は繋がるかがわからない。
そういう感じですね。
あとですね、ミスター・ジミーなんですけど、おそらくインディー系の映画なので、
プライム等で配信される可能性は非常に低いと予想されます。
DVDの発売も怪しい?
ミリあるかもしれないぐらい。
なるほど。
あったら自分も買うかもしれないな。
あと、むしろ東京は終わっているけど、地方では今から配信とかしてるみたいで。
なるほど、配管ね。
ついでに旅行に行って見てくるのがいいんじゃないかな、そういうやってるところで。
でもやっぱりそういう、この現代においてプライムとかのプラットフォームに乗らないニッチなものっていうのは、
そうちゃんと見えへんわけですね、これはね。
ラシタさんの前に話してた、本が買えなくなると同じで。
うん、そうやね、確かに。
レアなものというのは、とにかくその機会をちょっと逃してしまうと、途端に困難なものになってしまう。
確かね、ジミー・サクライさんの地元の新潟でもね、
2月22日から1週間の予定で映画館とかで配信はされたりするらしいので、
そういう感じが、頑張らないと見れないんだろうなと。
見れないかもしれない、なるほどね。
はい、感じです。
あと、業務連絡じゃないんですけど、
つい先日、この僕カタリストの配信プラットフォームを確認したら、
オールサブスクライバーズが1000を超えてまして、
多分、ナレッジスタックはこれより多分多いと思うんですけど、
僕がやってるニュースレターやったら、4桁いったことはなかったので、
ちょっとパチパチパチパチという感じをしてますね。
ありがたいですね。
メルマが登録してくれている人が1000人なので、
例えばスポーティファイとか、
Apple のポッドキャストだけで聞いてくれている人とかは、
そっちとは違う基準。
メルマが読んでくれてたらあれなんですけど。
確かに。
何にしても、まずそもそもサブスタックという、
登録するためには英語の壁を乗り越えないといけないサービスを使って、
登録して聞いていただけるというので、大変ありがたいですね。
そうですね。この辺は嬉しい限りです。
という感じで、今回は第108回。
はい、108回。
学びがわからなくなったときに読む本。
クラシタが紹介したいと思います。
まず最初にお断りしておくと、
この本、出版社さんから憲法でいただいておりまして、
別にプロモーション目的とかではなくて、
かすかに、中に僕の名前が出てくるんですね。
ホンクレっていう書教ブログに、
著者のトバさんの本を紹介したことがあって、
そのご縁でいただいたので、
一応、権利関係。
関係性の明示というやつですね。
ということで、憲法でいただいた本。
先に言っておきます。
本自体が2024年の10月に発売されてまして、
朝麻舎っていう出版社から出てるんですけど、
画面見てる人は分かると思うんですけど、
赤字なんですね。
朝麻舎さんの本って、
僕これまで読んだことがなかったんですけど、
自分時間の作り方っていう本かな。
結構本屋さんで見かけたことがあって、興味を持ってたんですけど、
朝麻舎さんから出ているトバさんの本でして、
この本が対談集。
トバさんが7人の方と対談したものを
ライターさんが書き起こしているという形になっているんですけど、
対談集って、
例えば書評を書くのがすごく難しいんですね。
というのも、
一冊の本で一つのテーマを論じているわけじゃなくて、
対談ごとで異なったテーマが語られているので、
全体としてどうっていうのは言いづらいんですね。
その主張に関して。
なので、僕これまで対談的に面白かった本もいくつかあったんですけど、
ぶっかたせて紹介したことがなかったんですよ。
なぜなら紹介するのが難しいかな。
なので、逆に今年は新しいことをチャレンジしていこう年間ということで、
これまで避けてきた対談集を今回あえて取り上げてみようというところで、
この本。
本当に面白いんで、
今回の紹介でちょっとでも興味を持っていただいて読んでいただけたら面白いと思うので、
取り上げさせていただきます。
基本的には対談のかき起こしを集めたもの?
そうですね。
タイトルにある通り、
学びというものに何かしら関係している。
家族的類似性的な関係であって、
7人が全員学びについて論じているというわけではないんですけど、
何かしら学びに関係がある話が語られているという提案になっております。
7つ全部どれも面白いんですよ。
どれか1個だけ取り上げて語ろうかなと思ったんですけど、
あまりにも1個に絞るのはもったいないということで、
今回はそれぞれの7つの対談を軽く触れながら、
僕とゴルフさんで学びについてちょっと考えていく回にできたらなと思うんですけども、
一番最初、冒頭のインタラクションにトバさんが書き下ろしされていまして、
学びという言葉に感じるうさぐささということを話されているんですけど、
学びってよく使いますよね。僕らも日常的に。
学びがありましたとか、最近よく言う感じのやつですね。
一応、このBook Catalystという一つの大きなプロジェクトも、
本から学んでいこうみたいな姿勢が通帯としてあるとは思うんですよね。
でも、そういう大人が使う学びについて、
トバさんはちょっと危機感を覚えているというか、
それはどうなるのかなって覚えているという話でありまして、
大人が子供に対して勉強せよとは言いますよね、よく。
でも、その言葉は自分自身には向けないと。
逆に学ぶという言葉をよく使うわけですね。
さっきゴルフさんが言われた、あの本は学びがあったよねっていう。
そこで言う学びと、子供に言う勉強するという語彙の違い、語感の違いに、
ちょっとこのうさんくさつは不審感をすると。
勉強っていうのは非常にタフなもの、ハードなものと想定したときに、
そこの言う学びって、すごい軽いんですね。
すごく重う気はする。
安易に手に入るものを学びとすら言っている気がする。
もっと言うなら、結局その勉強していく深さに潜っていくというよりは、
自分がある本から教訓を得たなぐらいがもう学びとして言っている。
大人が勉強しない代わりに学びという言葉を使っている。
何かを学ぶことと自分との関係性が非常にソフト、
ハードではない、ゆるい、柔らかい、あまり本気ではないみたいなニュアンスがある。
そういう学びの扱い方ってどうなのかなということで、
本書全体を通して人が学ぶということはどういうことなのかというのを一回見ていこうという、
そういう問題意識というと強いんですけど、そういう観点で本書全体を眺めていけばいいんかなというふうに思います。
もうちょっとね、フラットにしてから1回考えようって思えるようになったかな。
つまり全く疑ってかかるんでもなく、全てを鵜呑みにするわけでもなく、著者がこう言ってるよというような感じ方でまず入るみたいなところかな。
できるだけ感情を配して一度考えてみようって思えるようになったような気がする。
でもやっぱり感情を配してっていうのは反発心とか反抗心ということだと思うんやけど、
でも1回、著者の言ってることを素直に受け取ってみようという感じがあるような気がするんですが。
それはありますね。
あとはそれについて、反射神経だけじゃなくてもうちょっと理性を使って考えるができるようになったんじゃないかな。
感情で阻害しない。
だから感情と距離を置くようになったということは、先ほどの話を聞いて、感情でやり取りするグループからするとちょっとキモい人になってしまったという。
そうだと思いますね。
やっぱりそういうふうにノリに乗れない、周りのノリに乗れない瞬間というのは絶対やってくるんですが、逆に例えばそういう勉強を続けていくと、
そういうのもありだよねっていうふうに乗れるようになってくるというのが勉強哲学のイメージなんですが、
やっぱり単に知識が増えるという以上の変化が起きてしまう。
特に人文的な学びを深くするとそういうことが起きるっていうことは多分あると思います。
もう1個面白い話があって、インターネットの歴史っていう話があるんですけど、
基本的にインターネットって歴史性を剥ぎ取ったという話があって、
つまりすごく古いものとすごい新しいものがフラットに並ぶんですね。
例えばiTunesの売り上げランキングとか見ると、
すごい前のアニメの曲と最新のヒットのアニメの曲が同じランキングに並んでる。
そこには時間の厚みみたいなものが全くないと。
そうすることで資本主義的に得するということはあるんですけど、
僕らは歴史の重み性を欠いてしまっているっていうこともあって、
それにちょっと関係するんですけど、
そういうようなフラットな歴史性を欠いた時間の扱い方において、
非常にアテンションエコノミーはそうですけど、
その短い時間をどのように最大化していくのかっていう、
いわゆるコスパ思考というのがあるわけですけど、
それ逆に時間をどう使うかっていう観点から離れると、
千葉さんがおっしゃるような晩餐のような勉強という。
晩餐って豪華な夕食というようなイメージをしてもらったらいいんですけど、
たとえば。
あまり過ぎて多すぎる。
だからもうものすごく、
例えば2時間で読める本を読んでどうこじゃなくて、
逆に効率性のある世界だからこそ、
時間をかけて本を読むっていうことが無駄とかじゃなくて、
それは贅沢なことなんだと。
そんなふうに考えられると。
そういう方向か。
結局これ僕らがやっていることに多分近いと思うんですけど、
一冊この絵って語るためにですよ。
何十時間は言い過ぎやけど、
結構な時間をかけて語るとか、
僕あと半年とか1年かけて本を読むっていうようなこともしてるわけですけど、
生産性とか効率で言うとその真逆のことをしてるわけですね。
でも結局そこに豊かな時間というのは、
そういう中にしかないっていう話が提唱されて、
それはもう本当に実感できると思うんですよね。
本をゆっくり読むようになったことが、
時間の豊かさを増やしていると思うんですけど、
時間間隔と読書の関係みたいな発見とかありましたかね。
読書ではないんですけど、
もうちょっと大きな意味で、
最近やっと気がついた話で言うと、
たくさん日記を書いているんですよ。
今年の最近の話で言うと、
そもそもデジタルで日記を書いていたのに、
紙の手帳で1日1ページの日記を書くようになり、
紙の手帳で毎日音楽の練習記録を残すようになり、
すごい量が増えていて、
これって忙しいよなって思っていたんですけど、
逆だったと気がつき、
こういう時間を取らないと忙しいんだって感じるようになったんですよね。
平均したら1日どうやら30分ぐらいだったなっていうのが、
記録による予測値なんですけども、
そのぐらいの時間をゆっくりしないと、
逆に人生が忙しくなりすぎてしまう。
最近は本もそういうふうに考えて読むようになってきたが、
本当この3日4日ぐらいの出来事で起こっています。
なるほど。
やっぱり資本主義に最適化しようとすると、
時間が有効に使えば使うほど、
むしろ僕らは時間的にプワーになっていくんですよね。
有効に使おうとするほどプワーになるという逆説があるような気がするんですけど、
それとは逆で、
資本主義に抵抗する運動として、
例えば共産主義的なものに行くんじゃなくて、
資本主義の中でその資本主義の精神性と反対のことをする。
非常にゆったりとある種無駄な、
別の言い方をすると贅沢に本を読んだり勉強をする。
例えば何の役にも立たないけど1年かけてギリシャ語を勉強するみたいな。
これこそが贅沢な時間であり贅沢な人生。
しかも資本主義的な姿勢のあり方だというような話があって、
これやっぱりこの僕方出動を全体として共感できる話だなというところが第一章でしたね。
そうですね。1時間無駄に話している。どういう言い方をすればいいんだろう。
これ難しいよね。ある種極端的に一冊の本を出しにした雑談ではあるわけだけど。
でもこれを端的な産業のメッセージでまとめると、そこに豊かさというのは失われてしまうわけですから。
そうですよね。自分のさっきの話と踏まえて言うと、
1時間読んだ本について語る時間を持てるということが、
時間に余裕があることにつながっているような気がする。
実際、こういう時間をどこかに人生の中に持っていくことが、
反骨精神のあり方としてもあるんじゃないかなというふうに考えられますね。
急ぎ足で第2章に行ってしまうんですが、
第2章がリズムに共振する学校ということで、矢野利弘さんと対談されていまして、
批評家、DJ、中学教諭という肩書きが書かれているんですけども、
なかなかすごいんですけど、
1つ面白い話というか、考えさせられた話なんですけど、
子ども同士がいている社会の中において、他者とぶつからずに住むフォーマットを先に導入してしまう。
例えば極端なことを言うと、
ADHDみたいな話がありますが、
あの人はああいう性質だからというふうにするわけですね。
そうすると、いさかいが起こらないわけですね。
お互いに、あの人はああいう人だからというふうに納得する。
でも、そうすることによって、相手をもっと深く理解していこうというプロセスがなくなるわけですね。
喧嘩というかいさかいがなくなるけども、
それは逆に言うと、お互いに一歩踏み込む動機づけ、契機、プロセスというのを失ってしまう。
そんなふうに結構、特に現代社会では子どもとかに対して、
どんどんどんどんここの中だったら安全ですよという形とかフォーマットとか景色を用意して、
そこの中で過ごしてしまう。
そうすると、葛藤みたいなものがなくなる。
葛藤がなくなると何がなくなるかというと、
矢野さんは自分の葛藤を表す言葉を自分で獲得するという肯定がなくなってしまう。
これは結構、切実な問題でして、つまり借り物の言葉だけで済む世界になってしまう。
そういういさかいとか争いとか、自分の中で納得できひんこととか、
このもやもやした感じが抱かないから、このもやもやを自分の言葉として出すというニーズがなくなってしまう。
それは自分の言葉がないということは、自分の内面を整理するための言葉を持たないということなんですね。
どうなるかというと、ある日一気にバーンとなってしまうわけです。
その段階がなくて。
ゴリゴさんが浄土に関する本を紹介したときに、自分の感情に言葉を名付けていくことが大切だという話をされていました。
それはたぶん通じる話だと思うんですね。
すごく安全圏で自分の言葉を、ちっちゃなところから感情を言葉とか感覚を言葉にしていく訓練をしないままに、
急にでかい圧力に盛り込まれたときに崩壊してしまう。
むしろ子供同士が喧嘩するみたいなことを、良いとは言いませんけど、
そういう風に圧力の可能性があることが、実はその個人が生きていくための力を得るための一つの契機というか場に、
なり得るんじゃないかという話がありまして、今僕結構膨らませてしゃべりましたが、
これは大人にも通じる話だなと思いますね。
このフォーマットを先回りして導入してしまって、もやもやがない。
言葉にしないというのは、
たとえばノウハウとかでもあるフレームワークとかテンプレートを使うことでできますよっていうのは、
自分の技法とか使っている項目に名付けをするという行為を剥ぎ取ってしまうわけで、
これはやっぱりあんまり良くないことじゃないかなという風に感じてて思いますが、
どうですかね。
ゴリラさんは結構名前つけたりするの好きですか?自分がやってることとかって。
最近はやっぱり意識して自分の思っていることに名前をつけて整理する方が、
することによってより頭の中も心も整理されるというのか。
日記を書くってそういうことかなとは思いますね。よく考えたら。
そうですね。だから何ならそれもブックカタリストを始めたらものすごく増えた行為なのかもしれない。
それは何やろうな。やっぱり時間をかけることを学んだのか、言葉が扱えるようになったからかな。
言葉というものが思った以上に相当すごいと分かった。
なるほど。いわゆる一般的な言い方をすると言語化というやつですね。言語化みたいな功能が体感されたという感じかな。
言語というものが人類が獲得したひょっとしたら最強の発明がそれなんじゃないのか。
それがあることで脳内神経を伝わる電気とか脳内神経物質とかの作用をより精緻に理解ができるようになる。
そのためには自分が何かあった時に言語にしておかないといけない。自分なりの言葉で言語にしておかないといけないんだろうなと思って。
自分なりのが難しいよね。結局テンプレート的な言葉で説明してしまって納得するけど不十分ということが結構あるわけで。
これは日記に限らず思いついたことをメモするとかでもあるんですけど、ある程度の自分の声を作っていく。
それは一気には作れなくて、そのモヤモヤと言語化が違うなということの繰り返しの中でできていく行為なんで。
これも早めにやっといたほうがいいかなとは思いますね。
これめちゃくちゃとんでもなくものすごく恐ろしく難しいことだと思っていて。
このリズムという言葉とともに自分がこの話を聞いてひらめいたのが西野かなだったんですけれども。
自分の感情を言語化するのがめちゃくちゃ難しいから、ああいうミュージシャンがすごく人気になるんだろうなと思って。
代わりにしてくれてる感じ。
代弁してくれてる。よく言うじゃないですか。世代を代弁するアーティストみたいな。
それがいいとか悪いとかっていうことは置いといて、やっぱりその現象を見るとめちゃくちゃ難しいんだろうなと思って。
とは思いますね。
例えば僕が書いた文章とかでも、自分が考えてることをうまく言語化してくれてるみたいな感想をちらほら見かけますけど、
それはうれしい反面、それは自分で言葉にしたほうがよかった。
それはあかんですよね。
どこかで訓練してそれができるようになったほうがいいかなという気はしますね。
そういう話が第一章。
この2章も結構面白いんですけど。
とりあえず僕が一番文章の活気として感動したのがこの第3章で。
家庭の学びや観察からという。
小川知覚さんというエッセイ師との話で、これアフタートークでもたぶん紹介したと思うんですけども。
デイリポータルに書かれてることでしたよね。
家族エッセイというか、子供たちが何かをしているとかっていうことを書かれているエッセイなんですけど。
イメージされる家庭エッセイ。
私たち家族は仲良しですね、みたいなそういうのではなくて。
割とドライというか非常に観察的という観察者的な視点で書かれているエッセイなんですけど。
まず一つ重要な話が、家庭こそが第一の学びの場と書かれてまして。
これも非常に当たり前と言えば当たり前なんですけど。
僕らは子供が学ぶ場所というと塾とか学校ということをイメージするわけですけど。
そんなわけはないんですよね。
まず家庭なんですね。
家庭でまず言葉を学びますし、言葉だけじゃなくて例えば人間関係。
例えば父親と母親がどんな関係になっているのかということも学びますし。
父親とはどんなものか、母親とはどんなものか、家族とはどんなものかというのもまさにその家庭で学ぶわけですね。
おそらくですけど、人の職業観というのはその親に一番強く影響を受けてて、しかもそのことに気づいてないと思うんですけど。
だからまずその家庭に学びっていうのがあるんだよっていうことをはっきり認識した方がいいですし、
親の立ち踏みの愛が子供に影響を与えている以上、思うんですけど、子供に本を読めって言われたらまず。
自分が読めっていう一番基本にしてできないこと。
でも逆にこの本では何回も出てくるんですけど、
親っていうのは自分ができなかったこと、心に持っている傷っていうのを子供に投射してしまうことがあって、
できひんからこそ子供にしてもらいたいっていう欲望をぶつけて勝ちっていうことはあるんで。
でもそれこそそれをやっぱり自分で気づいて修正した方がいいことだなとは思うんですけども。
それと関連するんですけども、さっきもキーワードで出てきましたが、第3章の肝は観察なんですね。
まず観察せよと。観想を禁止する日記の書き方というのが提唱されていまして、
これもだいぶ深いなと思うんですけど、結局観想を書くっていうのはさっき言ったようによくある観想の言葉を出すんですね、人間っていうのは。
まあ楽なんですよね、それもまた。
楽だし多分それが多分言語なん、言語の最初の役割かな。
言語っていうのはある共同体に参加するために学ぶわけですよ、基本的には。
ということはその共同体のフォーマットを自分の規範性にまず取り込むっていうところから始めるわけで、
だからファーストインプレッションで出てくる言葉っていうのは多分その共同体でよく馴染まれている観想に多分なる。
それが多分デフォルトの反応だと思うんですね。
そうか、真似からそもそも言語を学んでいるはずですからね。
だからよく使われている言葉イコール観想をまず言ってしまう。
だからこの小川さんは観想を禁止しているわけですね。
ありがちな言葉を出して済ませないようにすると。
これは例えばセンスの哲学の意味性を剥ぎ取るっていうところと多分ちょっと似てると思うんですよ。
最初に感じる意味イコールその僕らが馴染んでいる感じ方判断っていうところがあるんで、
それを一回やめてみる。
観察するっていうのはそのものそのものを見るとか、リズムを見るっていうのは多分一緒なんですね。
物事のまずそのままをまず観察するようにしてみて、そこから何か考えたことっていうのを淡々と書いていくことで、
むしろそこにその人ならではの何かが立ち上がってくるという話をして。
これはもう日記とか感想だけじゃなくて文章とかも全般的に言えると思うんですけど。
でもね、むしろだからこれ学校では逆のことが行われていると。
学校ではひたすら感想文を書かせてられると。
僕は思うんですけど、学校で感想文を書きなさいって言ったときに、なんか褒められる書き方っていうのが多分あると思うんですよ。
親が喜ぶ書き方、大人が喜ぶ書き方。
喜ぶ書き方っていうのを子供はやっぱり無意識に学ぶ。
特によくできる人ほどそう学ぶ。
そうするとやっぱり物事にどう反応するのかがそのような規範性に乗っ取られてしまうし、そこから逸脱しにくくなる。
だから日本教育を受けてきた人ほど感想を禁止して観察することを心がける。ある種のトレーニングとして心がけたほうがいいと思うし。
これ多分知的生産の一番スタート地点になる練習じゃないかなと思いますね。
めっちゃね、そのオブシリアンでまずデイリーノートに何を書くかっていう自分が提唱している話と同じで。
何でも書いていいんだけど、まず何時に寝て何時に起きてご飯何食べたかを書きましょうっていうのがずっと言ってることなんですよね。
観察せよってことですね、要するに。
自分の表現だと事実を書けなのかな。
なるほど。
そうじゃないと、やっぱり似ているのかな。出てこないというか、そんなことが書けなかったら思っていることなんて書けないっていうのかな。
実際は思っていることを書いてる風で思っていることじゃないことを書いてるってことだと思うんだけど。
そうそう、美味しかったしか出てこないっていう。
そうなんだよね。例えば本を読むじゃないですか。誰かに感想を伝えたかったら、面白かったって言って終わってしまうんだよね。
最近はあと括弧語彙力ってつけとけばokになってるから。
コミュニケーション自体はそれで、そこの場のコミュニケーションはそれでいい。
あまりにもつたない。つたないというか、自分がその感情をまだ掘り下げられてない。十分な冷却期間を取れてないということだと思うんだけど。
感想ってだいたいそうなるんだよね。感想を先に言うと。
なんならね、面白かったならもうあらすじ語ればいいじゃんぐらいなんですけどね。
例えばもっと言うと、観察で言うと、読み始めたらページを作る手が止まらなくて朝まで読んでたっていうのは観察ですし、非常に事実ですし。
途中途中突っ込みながら読んでたとかも一つの観察で、その観察から結果的に何か感想が出てくることは僕はありだと思うんですけど、
最初にファーストインプレッションで立ち上がってくるものと距離を置くっていう姿勢で物事と取り組むこと、あるいは関係性を結ぶことっていうのは非常に重要だ。
深い学びがある話だなと思って。
学びがある話ですね、めっちゃ。
やっぱり観察は裏切らないという話があったんですけど、やっぱりその感想は他人を検索したりとかカテゴライズっていう意味付けが先に生まれてしまうと。
でも観察っていうのはやっぱり淡々としたもの、自律ベースなものなので、まずありのままを受け止めるっていう姿勢がなるっていう点が重要だという点で、
確かにこれは全般的に言えるとこだなということで、これは本当にここの話は切り取って小冊子としてみんなに配ってあげたい。
というわけで第4章が世界が変わって見える授業ということで、
芋芋教室というのを主催されているのと、英語学園数学科教師という、どことも教えるということに。
あれかな、この方は何かで見たことあるかな。
と思いますね、結構有名な方だと思います。
これもいろいろあるんですけど、子供たちをぷるっとさせたいっていうことが。
表現が面白いですね。
三本さんの一つの教育の目標らしいんですけど、これって何かというと、自分ってこんなことできるんだっていうことを発見。
それをぷるっとする。
自分が知らなかったこと、例えば自分ってこんなことに興味があるんだとか、こんなことできるんだとか、こんなことをやったら楽しいって感じるんだっていう新しい自分の発見をサポートすることを一つ目標とされていると。
そういう姿勢の中において、正解ではなくプロセスという話をされてました。
学校の正解っていうのは、できるかできないかっていうところを見てるわけですね。
基本的に学校制度っていうのはできる、できてるやつとできないやつを分ける。
このできるできないはかぎかっこがついてるって基本的に。
つまり、測れるできるなんですね。
だからその測れるできるに合わせようとすると。
もし合わせられるんやったら、わざわざ違うやり方をしませんよね、基本的に。
だから、仮に違うやり方とか違う欲望とかがあったときに、どんどんそこを消していく方向に学校の正解思考の教育っていうのは進んでしまう。
でも実際に必要なのは考えるプロセスである。
どうやって始めて、どこに進むかって進んでいって、どう修正して、どうたどり着くのかっていう一つの流れこそが自分自身そのものである。
だから正解ってのはその点でしかないわけですけど、その道中プロセスっていうそこの中にこそ自分があると。
だからその正解を主眼にしないという話を考えられてて、それをちゃんと学校の先生をやってきた人がそれを言うということが個人的にすごいなと思いましたね。
そうですよね。やっぱ思い返し出すのが学校の由来は大体の場合は国民を兵士にするための教育で、工場を労働者にするための教育で。
それはその時代には確かに必要やったかもしれないけど、現代では違ってきてるし。
それをちゃんと現場にいる人が見据えてますし、そのためにいもいも教室みたいなそれを行う学校みたいなところを作っておられるという非常に実践。
本人著者自身もそれを考えて実践されているという、これもすごいなと思うんですけど。
あと一つ面白い部分があって、ハウツーを使って頭でわかった気になっても実際にやってみると全然思うようにいかないと。
試行錯誤のプロセス抜きに人は学べないんですっていう話。これもこの核にしたい話ですけど。
これも僕らの実感としては多分普通に言えると思うんですよね。この試行錯誤のプロセス抜きに人は学べないというのはその通りだという感じですね。
わかるではできるようにならないっていう表現を最近気に入っていて。
確かに。
まんまそれだなっていう。
だからそのプロセスっていうものをどう確保するのかという。
これは結局時間をかけて物事を取り組むっていうことと繋がってくるんで、第一章の話に通ってくると思うんですけど。
正解にこだわることなくある道中を楽しみながらいろいろやってみるっていうことをする。
そうすることによって自分の新しい知らなかった面と出会える。
それは自己の変身につながっていくというふうに話は流せるかなと思います。
そうやって本人の言葉が出てくるからこそその人を知れるわけですよね。
これは子供に限らないと思うんですけども。
取り繕った言葉が並んでいるだけでは結局その人ってわからないわけですよね。
例えば一番面白いブログって、その人しか書けないことが書いているブログだと思うんですよ。
結果的にそれはその人のことを知るブログでもあると思うんですよ。
だからこういう自ら持っているものをどう出していくか。
特に子供は恐怖心が多いと思うので、それをどう取り除くかが重要だということが書かれているんですけど。
カイさん自身の一つの信念が語られていて、
テストの時ですら力がつくようにしたかったからですというのが書かれていて、
子供に向けてテストを毎回自分で作られると。
ありきたりのテスト、繰り返しのテストじゃなくて。
結局テストがただのゴールじゃないからなんですね、カイさんにとっては。
テストをしたことによってさらに何かが増える。
これも結局プロセスの視点なんですよね。
テストに向かって勉強してテストがゴールでその後はどうこうじゃなくて、
人が学び続けていくプロセスをずっと見据えてあると。
この観点はやっぱり学校、僕こんな観点は学校教育で見たことないんですけど、
テストですら力がつくっていう感じ方はすごいなとは思うんですけど。
でもよくよく考えたら、例えば僕本を書く仕事をしているわけですけど、
一冊本を書き終えるとやっぱり力がついてるんですよね。
達成じゃないんですね。やっぱりその一つ一つの行為が学びの場になっている。
そうでない仕事の仕方ってあんまり面白くもないですから。
大人でそうなんですから子供なんかもっとそうなんですけど。
やっぱりここまでの話で全部言えることなんですけど、
何かがゴールでそこに向かって終わりと考えてる人が一人もいないんですね。
逆に言うと、そういう人が世界は多数派であろうということでもあるんですかね。
確かにね。世界か日本かはわかりませんけど、
そういうのが多くいわゆる中でこの人たちはちょっと違う観点で捉えている。
もう一個言葉。言葉っていうのは非常に大切となっているんですけど、
当然のように僕らが言ってる思考っていうのは大抵言語的思考なわけですね。
言語的思考においてはその言葉こそが思考を導くものだと。
だからその言葉を豊かにする。
だから語彙力を尽きるのとはちょっと違った意味で、
使える言葉を増やしていくことが大切だということを観点において、
子供たちにいろんなアプローチをされてるんですけど、
まずね、かいさんは子供が発言したら、つまりって聞くんですって。
あるいはそれを別の言葉で言うとどうなるって聞くんですって。
そしたらさっき言ったありきたりの言葉から何か変えなければいけないわけですね。
その変化の中にありきたりじゃない言葉が混じってくる可能性が増えるわけですよ。
こういう問いによって相手の考えを引き出していくっていうあり方。
最終的に出てきた言葉が、自分ってこんなことを考えてたのかって発見することがあるらしいんですけど、
例えばブログの記事書いてたのもあるんですよね。
最初の一行目書き出して思ってたことが、最後の行で、
え?こんな結論になるの?みたいなことがあるわけですけど、
結局文章を書くこともある種パラフレーズだからですね。
これはこうで、でも実はこうでってどんどん転じていくうちに、
比喩ですけど、自分の奥にあった言葉が出てくるような感じがある。
それを教師が促してくれるっていうのがすごい。
逆に大村浜っていう人は、子供にどう思ってますかって聞くのは頻がないらしいんですね。
それは思いをすぐ出そうとするし、結局合わせた言葉になりがちだから。
だから直接聞くので、言葉をどんどんスライドしていくことによって
結果的にどう思っていくか出てくるようにするっていう、
子供自身が何かひねり出そうっていう頭を使って考える環境を整えてあげてるっていう話が一つ面白かったと。
似たような話で、何か調べ事をして、例えばある人物について書きましょうと。
みんな共通のテーマでね。やろうとした時に一つだけルールとして、
根底には、あるいはそもそもっていう言葉を必ず使いましょうというルールを設けるんですよ。
設けてあるらしいです。根底にはっていうのを使おうとしたらどうなるかっていうと、
あの人はああいうふうに見えるけども、根底にはこういう気持ちがあるんだろうかっていう文の形が養成されますよね。
これはやっぱり掘り下げることにつながるわけですよ。
この表面的なものじゃなくて、その人の奥にあるものを探そうという思考のフォームっていうかな、
パターンみたいなのが出てきやすくなると。
これって全く新しいアカデミックライティングの教科書でも、ある文の形態を使えと書かれていたんですけど、
それと似てるんですよね。
基本的に文章を書く時にこういう制約を設けることって僕はあんまり良くないなとずっと思ってたんですけど、
これはすごく効果的やなと思いまして、
このたった一つのキーワードで、その人が考えているものをもう一段深く考えさせるようなキーワードをセットにして出すっていうこと。
これは僕はまだうまく使えませんけど、
例えばノウハウ論について語る時にもこういうものの効果って多分あると思います。
広げられたら面白そうな話です。
その型にはめることで、かえって自分なりの考えを出さないといけない。
フレームワーク、思考のフレームワーク的なところですかね。
そうですね、多分ね。そういうのを出せる何かが。
だから型とかっていうのを提示するのは必ずしも悪いことじゃなくて、
型っていうのはある種省力化のために使われることが多いんですけど、
むしろこの世はより掘り下げるとか逸脱のためのフレームっていうのもあり得るんだなっていうのは、
ノウハウ研究者としては非常に勉強に学びが多い話でしたね。
熟達論の初期段階では、まず型をやってみようみたいな、
そういうのに近いところを感じると。
本人が考えることをアプローチする型っていうのが多分あって、
型っていうのははめる型だけじゃなくて、外れやすい型っていうのもあるっていうことを考えると、
上手く付き合うことができるし、文章を書くときにも、
根底にはって使いましょうって言われたら、パズル的に面白いと思うんですよね。
僕は多分こう言われたら面白いと思う。
そういうゲームですよね。
それによって楽しめるようになるし、思考の型も学んでいけるようになるというところで言うと、
やっぱり現場で子どもと向き合って何かをしている人たちが持ってる知見ってやっぱすごいなというのを、
ちょっとしみじみ思いましたね。
根底には遊びとかっていうので、昨日の晩御飯は親子丼を食べた根底には。
これでどこまで遊べるか。
そこに根底ではってついてたら急に面白くなりますね。
めちゃめちゃ難しいけど。
でもやっぱりそういう文章の発展性とか自由さっていうのを感じさせますよね。
その言葉使いとかではね。
あとはあれですね。ここで聞いて、Learn Betterを思い出して。
やはりこのテストの時さえ力でつくというか、
自分的にはやっぱテストこそが力をつけるためのものだと結構思っていたりして。
Learn Betterの影響でなんですけどもちろん。
そういう意味ではやっぱテストをゴールにしたらいかんっていうのはもうすごく当たり前になってきた。
自分の場合は。
あかんかどうか別にもったいないですよね。
僕らが全集中力を使ってやる行為で何も学べないっていうのはもったいなすぎますよね。
そこから一番学べるんだから。
そこで失敗したことを身につけてっていうのはやはり重要なんだなと。
違う観点でも言えるんだなって感じですね。
またその同じく言葉が、言葉使いが導く思考のフレームの話なんですけど。
ここも結構掘り下げてしまってますが。
卒誕、卒業のための卒誕。
単位?
単位かな。卒業研究みたいなもんですね。
卒業研究っていうのは何かを考えようということで子どもたちに卒誕とは○○であるっていうその○○の空いた部分に何かを入れて定義を考えようという授業があったらしいんですけど。
驚いたらしいんですね。
すごくポジティブな言葉で誰でも言える言葉が出てきたらしいんですよ。
卒誕とは全力を尽くすものであるとか、卒誕とは3年間の集大成であるっていう。
肩にハマったやつやん。
まさに例文集に出てくるような言葉だけが出てきて。
カイさんはここでこういう言葉の枠組みが思考に強い影響を与えてしまうんだなということを実感した上ですごく悩んだ上あげく逆にしたと。
卒誕とは○○ではないという風に文を入れ替えてやってもらう。
何しは○○のようなものとか○○かもしれないっていう風に書いた。
そうすると全然それまで出てこなかったような言葉が出てきて。
一つ例として挙がったら卒誕とはTikTokであり本でもあるっていうフレーズなんですけど。
面白いでしょこのフレーズが。
少なくとも多くの意味が含まれていそうな。
一回ではないとかのようなものとかかもしれないって言って膨らませた後で定義であるに戻すというプロセス。
ここにプロセスがありますけどプロセスを踏むことでその人なりの言葉が出てくる。
だから考えましょうこれについて考えましょうみたいな単純な命令では出てこないようなものがこんなに細かいケアによって出てくる。
だから授業を組み立てるとか講義するとかセミナーするっていうものってやっぱりテクニックなんですよね。
テクニックというとちょっとあれですけど。
小手先に感じてしまうけど言い方としては。
ただ愛と情熱があればクリアできるものではなくてやっぱりそこにちゃんとした技術があるんだなということを。
全体的に言葉遣いで思考が変わるという話は僕はずっと共嘆して読んでましたね。
ブックカタリストとは何々ではないとか何々のようなもの何々かもしれないっていうのをハッシュタグをつけてツイートしてください。
やっぱり何々であるは最初からは言いづらいですよね。
だって本を紹介するポッドキャストであるって言えば間違ってなくて。
クッソつわらんもんねそれは。
だから一回その反対のことを言ってその相対として立ち上がってくるイメージを言葉にするというプロセスを踏んだ方がいい。
これ発想法として多分使えると思いますけどそのまま。
まあそうか。
基本的には、多くの場面では怒りとか恐怖とかそういう感情と近い印象はあるけど、
必ずしもそれだけではないような気もしますね。
喜びとか共感を伝える言葉もあるけど、
その言葉の伝達においては、
物理的に離れた存在がある種連続性を持ってしまっているわけですね。
怒りが伝わるとかって。
これすごく不思議ですよね。
岩が二つあっているだけでは絶対に起こらないことですよね。
離れた岩があるだけでは起こらないこと。
両種的結びつきではないですけど。
その二つの異なった肉体をある種つなげてしまう、
共有させてしまう力が言葉にはあると。
言葉というのをどう使うかとか、どう接するのか。
耳に入ってくる言葉は、
感情をオフにしようと思っても結構難しくて。
例えば、喫茶店で作業しているときに、
隣の人がすごく怒っていたら、
集中してしようとするのってまず無理ですよね。
嫌なんですよね。
ああいううるさい客とかいるとね。
考えてみると、それぐらい言葉の力ってすごいんだなと。
でかい音で音楽が鳴っているのとは違う感染力、
あるいはもう暴力さというのがそこにあるっていうことですから、
言葉の扱いって結構注意、
ケアフルが必要だなというような感じがしますね。
言語が入ってくるからやっぱり処理してしまうんでしょうね。
無視できるんじゃなくて。
まず最初に処理が働いてしまうというのがあるんでしょうね。
第7章。
子供の心からアプローチするということで、
おぎゅう。
これ神優さんって読むんやろうな。
神優っていうか、
優は小さくないんですか、神優さん。
精神科医で詩人って。
これもすごいプロフィール。
また面白いプロフィールな人がやっぱり多いですね。
面白いことを言う人は。
神優さんの話もいろいろ面白くて、
基本的にここまで話してきた人って結構、
和社のトバさんと似てる人が多いんですけど、
むしろこれ結構真逆の人で、
例えば学校制度にすごく神話的に
子供自体過ごしてこられたと。
精神科医ですから、やっぱりお医者さんの家系に生まれて、
そのままお医者さんになっていくと。
つまり、いわゆる良い人、良い子、良い子供ルートですよね。
良いとこの子が良いとこの子になった。
期待される規範性を一切裏切らないように生きてきた。
と同時に、子供の頃から学校で詩を書いておられたらしいんですよ。
詩の言葉っていうのは個人的な言葉で、
それが規範性を逸脱するようなことも含まれるわけですよね。
お医者さんが言われるには、それでバランスを取っていたのではないかと。
基本的だから良い子だけでは破綻してしまうけど、
良い子と内側にその詩人的な活動をしていたからバランスを取られていた。
ちなみにトバさんは学校制度はそもそもあんまり好きじゃないという。
その辺は対立的なんですけど。
2つ面白い話があって、憑依・擬態っていう話なんですけど。
お医者さんはね、例えば自分の中にあるコアとか真みたいなのは信じておられないらしいですね。
むしろもっと細かい複数の自分のようなものがあって、
それが時々に出てきてひょっこりなんかしてるぐらいの感じ。
自己の固有性みたいな概念があんまり信用していないという感じなんですけど。
だから文章を書くときも自分の文体みたいなものを出そうとはしない。
むしろそうすると書けないらしいんですけど。
むしろ今回はあの作家のような文体で書こうと設定して始めると、
結果的に固有のものが書けるという話をされてて。
このさっきの刀話って多分近いかなと思うんですけど。
僕はね、例えば書評を書こうとすると、
だいたい書評って本を読み終えた直後に書くんで、
その本の文体に引きずられるんですよ。
で、ブログとかは逆に自分らしい文章を書こうとするんで、
僕は二つ通りあるんですけど、
ゴリコさんは他人の文体とかって意識する?逆に意識しない?みたいなのあります?
なんか昔ね、ラスターさんが書きそうな文章で書いてみるとかね、
真似してやっていた気がするブログで。
なるほど。なんか得たものあります?それで。
あの、考え方が変わる。
おお、なるほど。
えーっとね、なんて言うんだろう。
やっぱこの人が書きそうな書き方だなっていうのを想像すると、
この人が注目しそうなものだなっていうところに注目する感じになる。
あー、注意の向け方が模倣されるということか。
多分。
うーん。
それ、例えば、論理展開とかもやっぱり模倣されるんやろうかな。
AときてBときたらこいつはCといくみたいな、
それも注意の話、注意の一環かな。
そうですね。どこまでそういうロールプレイが上手にできているかとか、
いろんなことがあるので難しいんだけど、
割とね、観察的になれるっていう表現がいいのかもしれない。
確かに。そうやな。文体を真似しようとすると、
感想的というよりは観察的になるよね、当然ね。
その観察した形で文章を書こうと思うので、
少なくともありきたりとは違うものにはなるんじゃないかな。
あー、そうかそうか。だから、あの作家のような文体で書こうとできる時点で、
ある観察を経てるわけやもんな、要するに。
その人の文体を観察できてるからそれできるわけやもんな。
そうか。
結構この文体の話って、固有性の話があって、
個性をいかに出すかという話で、
よくね、他の作家の影響を受けたくないから読まないみたいな人もいて、
それは一つのあり方やけど、逆に意識的に真似することで、
でもその人ならの固有のものが出てくるという事例もここで紹介されてるんで、
一回真似する訓練っていうのはやってみた方が面白いんじゃないかなと、
ここの話聞きながら思ってました。
絵画でもコピーするし、音楽でもコピーするし、
確かに。
多分、文章の場合コピーってじゃないかもしれないけど、
多分社境でも同じだと思うんですけど、
そうやね、確かに。
コピーをしないと分からないこととか、
コピーをしたら分かることとかは結構あるような気がして。
確かにね。
先ほどやっぱり観察的モードに入れるっていうところが大きいんでしょうね。
うん。だからある程度スパルタなんだけど、
やっぱ悩んでるぐらいなら、
例えば好きな作家の文章をコピーしろとか。
確かにね。
上手く文章が書けないで悩んでるぐらいならというとこは言えそうやね、確かに。
うん。一回、もう一冊だったら10時間じゃ終わんないですよね。
多分、分量にもよるけど。
確かに、そうやね。
まあ、全章をやらなくてもいいけど、
一章ぐらい丸々やる価値はありそうやね。
うん。漢字の開きとかもね、
やっぱね、読んだら気づかないんですよね。
そうやな。
苦闘典の打ち方とか。
間違いない。
結局、コピーしたら分かることっていっぱいあって、
まあ、すごい作家であればあるほどコピーする価値はありそう。
確かに。
なぜか、そういえば、
自分が持っている興味・関心の幅ってそんなに大きく動いていないというか、
ある種ずっと似たようなことを勉強しているというか、
本を読んだりしている感じがあるんですよね。
いろんな分野に目を向けますけど、
例えば僕の場合何かを作ることが好きということはずっと変わっていなくて、
それはものづくりのこともあれば本づくりのこともあるし、
料理することもありますけど、いろんな概念を作るもそうですし、
結構作るということをいろんな角度からやっているところがあって、
これこそ自分の活動を振り返ってみると何か通っているものってあります?
そのね、言語化してまだはっきりできていないことは結構多いんですけど、
やっぱね、溜めて整理するのが好きみたいで。
なるほどなるほど。
溜めて整理した結果何かわかってくるみたいなのがずっと多分好みで。
その行動記録を付けていることもそうだし、
ブログを書いていることだって極論同じだし。
なるほどね。
その、そうだな。
そうやって、後から何かそうなったみたいな結果を見返すのが楽しい。
はいはいはい。なるほど。
うーん。
それはやっぱり歴史が、歴史ものが好きっていうのとちょっと通じる。
ひょっとしたら今言われて気づいたけど同じなのかもしれない。
なんか方向性はやっぱり似てるよね。
個人という単位とか社会の単位は違うにしても、
え、営みとして似てるとこあるよね。
そうですね。歴史って人々がこういうことをしていて結果としてこうなっただもんな。
そういう目の出しの向け方っていうのは一緒。
で、やっぱりその、その後でトバさんがおっしゃられてるんですけど、
なぜなら学びというのは仕事に役立つスキルを身に付けることだけじゃないから、
学びとは自分の欲望の所在を明らかにしつつ、
その課税投資を良くするような行為だと思うんですっていうのがあって。
あのね、やっぱりそういうことなんですね。
何かを学んでいく、自分自身を知るっていう。
その自分自身を知るっていうのは、自分が何を欲しているのか、何を絶望しているのか、
何を得た時に深い満足感を得られるのかっていうことを知りつつ、
それを不健全じゃない形で整えていくというような活動を含まれてるんですね。
で、そうやって自分が知ることと、
知ることによって自分がまた変わっていくというようなその営み。
で、それは結局正解がないわけですね。そのプロセスそのものには。
常に変化して続けていくものそのものが学びということなので、
学びには終わりがないですし、
生きていく限りずっと僕らは何らかの形で学んでいくし、