たぶんアカルフさんで一番有名なのはアニマルスピリットって本なんだけど。
行動経済学に通じる話で、人間って動物的な感じ、感覚、精神によっても行動してると。
経済学のもともとって、全て合理的に行動した結果市場がうまくいくっていう話だけども、
人間って感情的にも行動するし、そこを加味しないと見えてこないよねっていう話なんですよ。
だからその流れにありつつ、アニマルスピリット的なものをいかに抑えて全体の合理性にたどり着くかと、
この著者はたぶんおっしゃりたいんだろうなとは思うんですけども、
それが果たして政府による規制だけなのかなと僕は思うんですよね。
なんか他にもあるんじゃないかなとは考えたいところですね。
なんだかの手段はいる。なんだかの手段はいるんですけど、
それが例えば規制という形を取らなくても、新しいルールの提案っていうことはできないのかなと思うんですよ。
行動経済学の実験で、イスラエルやったかな、幼稚園の実験が有名なんですけど。
バッキン払えるやつですよね。
そうそう。あまりにもお迎え時間に迎えに来ない保護者が多いんで、
お迎え時間を過ぎたらバッキンを払ってもらいますって制度にしたら、
お迎えに来る時間がさらに遅れる人が増えたっていう話で。
これはルール、インセンティブですね。
インセンティブの設計の変更によって人の倫理観が変わったっていう話なんですね。
倫理観が経済的損失とか経済的計算に置き換わってしまったっていう例なんですね。
で、これの面白いとこはルールを戻しても人の行動はなかなか戻らなかったってことなんですね。
そう、あれはね、あの話はね、暗い未来しか見えなかった。
でも逆のことも言えるはずなんですよね。
もともとあったものを別のものに置き換えることによって、
人の認知行動が変わるっていうことはプラス方面にも使えるはずなんですよ。
それは規制の形を取らなくても済むと、個人的には思うんですよね。
この人の立場に立って考えてみると、
結局そういうルールを一番低コストで作ることができるのが政府だって考えてるんじゃないかなっていう
全体、取引コストですよね、まずは。
ただやっぱりその一番の懸念は、政府が間違えない可能性がゼロではないというところなんですよね。
僕が思うには。
もうそこはね、間違えるのは間違いないですからね。
だからボトムアップでいろいろやって、少しずつうまくいったものを広げていくほうが、
その取引コストそのものは上がるかもしれないですけど、
決定的なミスを避けられるっていう、もっと大きいコストの削減になるんではないかなと個人的には思いますね。
そこはあれじゃないですかね。
やっぱりリスクとリターンのバランスで、この人が考える場合はやっぱりリスクが、
政府の場合のリスクというよりもコストがかからないことを重要視しているんだろうなっていう。
そうでしょうね。
だから例えばアメリカだったら州レベルで規制を始めて、
うまくいったらその合衆国全体とか日本でいうと都道府県レベルで始めてみてって言うんであればいいんですけど、
日本国政府が一気にっていう話だと僕は大いに反対したいですね。
そうやって考えるとちょっと違う話なんですけど、
アメリカが合衆国であるっていうことは今の反映とつながっているのかもしれないですね。
だからうまくいくルールを見つけやすいですね。
各州が結構権力強くて好きなことをやっていて、
その中でうまくいったものだけみんなで取り入れていて、
ちっちゃいところからのテストができている。
そういうのはプログラマーと似た思考なんですけど、
逆に当然リスクじゃないなどういったコストがあって、
例えばマスクをつけなくても大丈夫な州とつけなければならない州っていうのが現状あるわけで。
あそこはもう問題だらけですよね。
だからその統治コストが高なってしまう反面、
さっき言ったうまくいくのを見つけやすいっていうトレード風があるんですよね。
日本の場合はむしろその統治コストの方が安くなっているんですけど、
実験がしにくいっていう環境もあって、
どちらがいいかっていうのは言えないんですけど、
個人的にはいろいろ実験できた方が失敗しやすい方がいいですよね。
だから逆に言うと。
問題提起そのものは非常に面白いけど、
解決に至る一人が僕には結構同意できれば、
僕はリバタリアン4なんでどっちかっていうと。
俺はだいぶリバタリアンだと思っていたんだけど、
読んでちょっと考えさせられたなって思いましたね。
何もかも結構原理主義まで言わないんだけど、
リバタリアンの方が正しいに決まっていると思っていたけど、
そうとは言い切れないということは分かったっていう感じで。
なるほど、確かに。
それはその通り。リバタリアン自身にも問題が書いてある。
心に落ちたのはリバタリアンだけで集まると規模が小さくなるっていうのは、
これまさにその通りで。
言ったら1割もいないでしょ、たぶん。人類で言ったら。
リバタリアンって自由を尊重する人たちなんで、
そもそもグループっていう考え方が合わないんですよね。
例えばですけど、インターネッツの世界を見たところ、
リバタリアンな人ってやっぱり孤立してるんですよね、当たり前ですけど。
それよりもサロン作ってウェイの人たちの方が数の規模が大きいんですよね。
盛り上がってるし、経済は回ってるんですよね、そこで実際に。
言論的な力強さでもやっぱりそっちの方が弱いんですね。リバタリアンの方が弱いんですよね。
それはその弱さを考えるときにリバタリアンが自分の考えが正しいと信じてたら、
その弱さはやっぱり権威をつけた方がいいことなんですよね。
ただ正しいことを言ってるけど力弱いでは多分ダメで。
妥協してグループを組まないと、自分が思う社会で結局できなくなってしまうっていう。
ということは多分、通定してる話。
そこでは自分の持ってる自由っていうのは多少抑えても、
何かしらのパワーを得るトレードとして提供しなければならないんだろうなと思いましたね。
その視点は確かにそうだなと思いました。
なんかね、そこはね、すげえいっぱいいろんなサンプルがあってね。
それも長くて難しくてね、パッと説明できないんですよ。
なぜリバタリアンが結局いいのかっていう。
納得できるかどうかさておき、面白い話ではありました。
個人的なあらゆるものにも個人の自由が重要だと考えてるんで、
あらゆるコストを払っても自由の方が大切と考えるんで、
その職者の政府の規制を強めるべきだという意見そのものには反対しますけど、
個々の政策において提案されてることは、まあなるほどなと結構思いますね。
なんかね、この面白い解決策はね、やっぱ良かったですね。
気候変動の話にしても。
あとアメリカがもう一個あったもので、
無料の電話番号案内を0.1ドル課金するって言ったら、
アメリカ中ですっげえ非難されてふざけんなよっていう風に言われたんだけど、
皆さん毎月0.3ドル値引きしますって言ったら、みんな納得した。
それこそ行動経済学の上手い使い方ですよね。
飛行機のオーバーブッキングがあった場合に、
昔って早く着いた人が遅かった人は飛行機に乗れないっていう仕組みだったのが、
今は100ドルの金券あげるから誰か降りてくれませんかって、
200ドルにします、300ドルにしますっていうオークションシステムが今当たり前になってきて、
それによってやっぱりみんなが幸せになれるようになった。
これなら降りるって納得をして降りることができるようになったっていう、
そういう良い事例は結構あって、
そのあたりはやっぱり自分の興味と重なるとこですね。
ちょこっとだけ後でここを聞いてもらってもいいので、ちょこっとだけ言うと、
アダム・スミスって国富論っていうのが経済学の出発点と言われている本なんですけど、
もう一個道徳感情論という本も書いてまして、
これは倫理学の本なんです。
人間の行動の中にその共感っていうものがあると。
共感っていう他人に共感する気持ちっていうのがその道徳のベースになっている話なんですよね。
で、古典的な経済学っていうのは国富論だけをいわば原点として読んできたんですね。
で、市場主義というか市場法人主義かな。
ほっとけばうまくいくみたいな。
反映をすればするほど悪くなるっていう考え方なんですけど、
それって個々のプレイヤーが自分の最善を考えた時に全体として昭和がうまくいくっていう話なんですけど、
この国富論をちゃんと読めばね。
で、個々の人が自分の利益について考えるっていうことは、
実は自分の金銭的利益を最大化するっていうことだけじゃないはずなんですよね。
金銭だけで測れないっていう。
で、そこにもう1個の道徳感情論っていうのを持ってくると、
例えば人間にもってその共感っていうものが個人の利益を考える。
利益っていうか行動。利益というのか。
利益を考える上でその共感っていうのも実は入ってるんではないかっていう見方をしたら、
市場の見え方も多分変わってくるんですよね。
別に金銭を最大化しようと思ってるわけではないはずなんで。
うちのそういうプレイヤーもいますけど。
で、金銭を最大化しようって思ってるプレイヤーだけで回ってるって規定してルールを作ると、
当然そういう人たちばっかりが集まってくるんで、
破綻するんではないかと思うんですよ、個人的には。
だから規制というよりはその個人の感情的なものをよりエンハンスするような仕組みがあれば、
市場経済っていうのも今と違った形に回るんではないかと。
だから株価だけを評価するとかというのは誤った方向に進んでると思うんですよ。
それは一番身近な例で言うと、PV市場過ぎにするとブログが壊れるっていうのと、
多分通停してることだと思うんですよ、きっと。
だからそこの新しい、ブログの面白いって言ってもらえてる、面白いと思ってもらえてるっていうのは、
数値化できるって言う人もいるでしょうけど、僕はできないんじゃないかなと思うんですよね。
できるかな、できんかな、できるか。数値化。
例えば長い時間見てるとか、何度も同じサイトを訪れてるということで、議事的に数値化はできるかもしれないですけど、
どれだけその人の心に刺さっているかはさすがに無理じゃないかなと思うんですよね。
まあそうか、それで言うと幸福度というものがまず数値化できるかどうかっていうところですからね。
第マイナス1回の話を引きつけると、数値って抽象的なものじゃないですか。
抽象的っていうのは基本的にドパミンなんですよね。
非ドパミン的なものってやっぱり数値で表せない何かを、
その行為の実践者、市場に参加しているプレイヤーにフィードバックする仕組みっていうのがあれば、
人は数字を追いかけるだけじゃないプレイヤーに変身するのではないかっていうのをちょっと最近考えてて、
そういうことがこの本に書かれてるのかなと思ったらちょっと違うかったっていう話なんですけど。
違った。やっぱ改めて言うけど、面白かったと思うけど、思ったものとは違った。
それはもう本当俺もそうです。
最後までどうなるのかなどうなるのかなってすっげえ難しいところを頑張って最後まで読んだのに、
最初の方に言ってたことと何も変わってねえっていう。
でもそういう本読書の体験は結構大切ですね。
まあでも難しかったですね。全部理解しようとするのは。
結構ガリガリの経済学の本、経済の内容に踏み込んでる本で結構難しいですよね、これは。
逆に言うとやっぱりポッドキャストで話そうと思ったから読めたという意味もあって、
このシステムはなかなかよくできたシステムだなっていう、自らに締め切り効果をつけて、
この日までに読んで語れるようにしないといけない。
これも不思議なのが、タバコの値上げによってやめるっていうのとちょっと似てるんですけど、
ある種の外からの規制によって自分の自由の行動が変わってしまうというこの不思議さがあるんですよね、人間って。
まあやっぱり怠惰なところを解決、解決っていう言い方は違うか、怠惰を減らすためにこのシステムは良いですね。
なかなかこれはね、締め切りなかったら多分やめてた。
まあそうでしょうね、締め切り効果というか、自分以外の外部性、大橋さんやったら多立性というか、を導入するっていうのは良いんですよね。
だから、怠惰に任せるっていうのが要するに自由本人主義と多分似てて、あんまり良いことにはならない。
結局ね、怠惰であることは幸福ではないんじゃないかっていうのはずっと思っていることなので、
それを不幸にならない範囲で怠惰を立することができる仕組みがあるならば、まあ俺は乗っかりたいなだから。
まあやっぱり振り返ると、じゃあこの著者にちょっと近いニュアンスはやっぱりあるのかもしれないですね、自分の場合。
だからキーワードとしてはナッジっていう高等経済学のキーワードがあって、
ナッジはリバタリアンパターナーリズムと言われていて、その両方のハイブリッド的な言い方をされるんですけど、
どちらかというとパターナーリズムを受け入れる。
リバタリアンは重要やけど、人間って完全じゃない部分、完全じゃない、愚かだから愚かな部分を補う、
何か制度的なものを作った方がいいっていうのがナッジの考え方のベースになってて、