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どうも、丸山です。
まずは、おめでとうございます。
ということで今回は、誹謗中傷というテーマで話をしていきます。
はい、誹謗中傷ですね。
誹謗中傷したことはありますか?もしくは、されたことはあるでしょうか?
程度の差はあれど、ある程度年数を生きていると、このどちらも経験をされたことがあるかと思います。
生まれてから一度も誰かの悪口を言ったことがない。一度も悪口を言われたことがない。
このようなケースの方が、稀だと思います。
言わずもがな、誹謗中傷をするというようなことは、良くないことです。
相手を傷つけているということももちろんそうですし、それを言っている自分自身のことも傷つけているということで。
ですから、誰かに誹謗中傷をしているのであれば、それはやめましょうという話ですけれども、
今回の本題は、誹謗中傷を受ける側、このことについて話をしようかと思っています。
誹謗中傷をされて嬉しいというように喜ぶような人。
通常の考え方をしていると、当然喜べないこと、悲しむこと、傷つくことになるかと思います。
そんな中でも、ある考え方を持っておくと、悪口を言われた時のダメージが軽減するということはもとより、
通常であれば考えられないかとは思いますが、誹謗中傷をされることすらも嬉しいというように感じることができる、
そのような考え方ですね。
これ実はあるんですよ。
それが何なのかというようなこと。
誹謗中傷で一般的にイメージしやすいのは、今のネットの時代であれば、
どこどこの誰々が誹謗中傷されてどうたらこうたら、
芸能人のニュースなんかよく見ると思います。
身近においても、あなたやあなたの周りの人が誰かに対して悪口を言う。
あの人がどうたらこうたら、内容はどうでもいいんですけれども、悪口に種類はないので、
悪口は悪口ですから、もしくはあなた自身が誰かに言われて深く傷ついている、
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そのような言葉もあるかもしれません。
外見であれ、中身であれ、自分自身のことを誰かに中傷されるというようなこと。
こうしたコミュニケーションにおける攻撃的なものを受けた場合に、
次のような考え方を持っておくと、すべてが裏返る、そのようなきっかけになります。
それはですね、自分の存在を認知してくれた、このようなことを思うということです。
これだけではダメージをリカバリしきれないということであれば、
さらにもう一歩踏み込んで、わざわざ人生の時間を使ってまで、
自分という存在を認識をしてくれたと、このように考えてみてください。
どのようなことであれ、それがたとえ誹謗中傷というような攻撃的なものであれ、
それを受けたということは、されたということは、
あなたが今そこにいるということを相手が認知をしているわけです。
これは非常に喜ばしいことなんですね。
自分という存在がいるということ、これを意識をしてくれているということなんですよ。
それもわざわざ限られた人生の時間を使ってまで、何か言ってきてくれた。
それがいかにひどい言葉であれ、ひどい行為であれ、
ここでいう行為とは、暴力はまた別ですから、
誹謗中傷と物理的な暴力は別と考えてください。
暴力は暴力で、具体的な対処の仕方が必要なので、
誹謗中傷、今回のテーマのこととは切り離して考えてください。
それはまた別の機会に話をしようと思いますので。
コミュニケーションによる暴力、物理的な暴力ではなくて、
あなたの体に実際にダメージを与える行為ではなくて、
いわば精神にダメージをきたすような行為、
これらのことは自分の心の持ち方一つでいかようにでも解釈ができる。
自分というのは誹謗中傷を受ける側ですね。
何か外見の顔の造形のことを言われた、体型のことを言われた、
内面の心の振る舞いのことを言われた、
どのような場合においても、それをどう受け止めるか、
受け止めたことをどのような考え方を持って理解をするのか。
これによって、それが薬にもなれば毒にもなる。
180度変わってくるんですよ。
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あるならば、この誹謗中傷を受けるというような状況、
こうしたものがあると、これで心を悩ましてしまっていると、
それは非常にもったいない。
そうではないんです。
言われたことをそのままストレートに受け止めるということではなくて、
相手が何かを言っている、自分に対して何かを言っている、
それに対して自分はこう思う。
そのこう思うという部分は、自分で操作できる部分なんです。
受け止めることの意味を変化させることができる。
相手がもし仮に自分のことを認知をしていなかったら、
いるのかいないのかもよくわからないというようなことであれば、
それは、誹謗中傷すらしてこない。
存在をしているということすら認められない。
いるんだかいないんだかよくわからない。
空気のような存在。
このことの方がよっぽど悲しいと思うんです。
空気のような存在だと、誰からも見られていなくても、
自分が自分のことを見ていれば、それは完結できることなんですけれども、
それも今回のテーマとはまた別なので、
誰かから誹謗中傷をされるというような場合には、
その相手は自分のことをいるというふうに認めているわけです。
あなたは今そこにいますよね。だから誹謗中傷します。
であれば、それを受けたあなたは、
ああ、そうか。ありがたいな。
わざわざ自分の限られた人生の時間を使ってまで、
私に反応を示してくれている。
それが例え、誹謗中傷を傷つけるような言葉であったとしても、
そもそも私がこの場に存在をしている、
今ここにいるということを知ってくれているということの証ではないか。
ありがとう。
さらには、その言ってくれたことに対して、
今まで自分では人からそのように見られているとは気づかなかった。
そうした新たな気づきを得させてくれた。
形はどうであれ、自分の存在を認めた上で、
さらにはある気づきを得させてくれた。
これはありがたいという他ない。
このようになるわけです。
それを思うか思わないかは、誹謗中傷を受けた側の自由じゃないですか。
自分の考えを誰かに制限されるというようなことはないわけです。
受けたまま、言われたままストレートに受け止めたり、
怒りで反発したり、
そうした負のエネルギーへと変換をするというようなことではなくて、
相手から受けた負のエネルギー、これをプラスに持っていくというような、
なんていうんですか、
相手から発せられた力をうまく利用して、
考え方によって自分にいいことに変換をしていくというような、
合気道みたいなもんですかね。
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合気道よくわかりませんが、イメージで、
銃を持って強制するというか、相手から受けたものを利用して、
自分の糧にするというような感じですかね。
つまり何が言いたいのかというと、誹謗中傷。
これは身近であれ、そうでないのであれ、誹謗中傷を受けるというようなこと。
こうしたことは一度もしたことがないというようなことが、なかなか稀だと思います。
常習的に受けているのか、そうでないのか、どのような場合においてもですが、
誰かに誹謗中傷をされるというようなこと、これが起こったということは、
相手が自分の存在を認知をしたということに他ならない。
それがどのような内容であれ、
相手はわざわざ限られた人生の時間を使ってまで、
あなたという存在を認知し、言葉を投げかけてくるというようなこと。
さらには今まで気づかなかったようなことを気づかせてくれる。
これは誹謗中傷を受ける側の解釈一つで変換ができるというようなことです。
受けた言葉をそのまま飲み込んで、心のダメージへと直通させるのか、
怒りや憎しみという感情を持って反発をするのか、
いずれにおいても負のエネルギーをそのまま負として吸収をしてしまうのか、
もしくは誰かに何かを言われた。
中身がどうであれ、それは自分という存在が今ここにいるということを認識をしてくれた。
このように変換をしてプラスAとするのか。
それはあなたの解釈一つ。
であれば技術を使ってプラスAと変換させた方が
あなたにとっても良いことになりますよね。
傷つくというようなこともあるかと思いますが、
それは実は傷つくためにではなくて考えるきっかけになるなと。
あなた自身はもとより周囲にそうした誹謗中傷で悩んでいる、苦しんでいる
そのような人がいる場合にはこのようなことを言ってあげるというのも
何かお支えや助けになればいいですね。
ということで今回は以上となります。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。