こんにちは、にじシバラジオ第26回です。
にじシバは、川口市・芝で定期的に開催しているおしゃべり会です。
にじシバラジオは、にじシバで話題になったことや、ならなかったことについて、
にじシバ座長・ともぞーとぶなのもりの小倉さんとで語り合う番組です。
毎週水曜日配信です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は、小倉さんがコンテンツを紹介するということなんですけれども、
これはね、ココシバで売っている本で選んだんですけど、出たばっかりの、
『わたくしがYES』っていうね、皆さん、ネットでSNSをやった人だったら、
ちょっと記憶がある人はいるんじゃないかと思うんですけど、
少年アヤちゃんっていうね、この著者名は松橋裕一郎という本名で多分出てるんですけど、
この人が書いた、内容はね、じいさんが死んだ話なんですよ。
じいさんが死んだ話。
そう。なんでじいさんが死んだ話なのだろう。
このね、ちょうどじいさんも前回のね、谷川俊太郎が死んだって話をして、
谷川俊太郎が93を目前に92で死んだんですが、
ちょうどね、アヤちゃんのおじいちゃんも92で死んだんですよ。
やっぱそのくらいが今限界なんですよね。
そう。人類の限界らしくて。
神秘の限界が。
戦争中だかにうちの父がやっぱり91で死んだので、
まさに人類の限界がそのくらいの感じなのかしらと。
しかもね、この人たちは昭和一桁っていう人たちで、
戦争を経て、戦争の時に多分愛国少年とかで来て、
その後ね、民主主義社会がやってきて、
鍵かっこ閉じてもいいけど、やってきて、
それでその激動の時代を猛烈サラリーマンとして、
あるいは猛烈サラリーマンになれなかった人として生きてきた世代の、
日本を作った人たちみたいに、
よく今ね、今の若い人たちが妄想の中の理想的な男性さんみたいな。
プロジェクトXに出てきた。
そうですね、その世代の人たち。
そういう感じっていう。
で、この人たちが今ね、端から亡くなっていくという時代なんですね、どうやら。
で、少年あやちゃんは、今実際本人は30代前半で、
最初は、だからその少年あやちゃんの名前の通り、
オカマジシ、何て言うの、名乗り。
オカマジニの、
まあオカマって言っても水商売のとかではなくて、
多分自分のファッションとか、メンタリティーとか、
そういうとこを消してたと思うんだけど、
今それをやめて、ノンバイナリみたいな形で、
また生き直しているっていうスタンスなんだけど、
その本が来て、あ、あやちゃんだと思いながら手に取って、
友蔵さんは全然。
そう、だから少年あやちゃんっていう方の活躍を、
そもそも認知してなかったってことですね。
そうだね、ネットでは、
一世を風靡しとは言わない、そこぐらいは言わないけど、
この界隈では、
意外と有名人。
そうそう、この界隈の有名人ですね。
そうなんです。
だから自分はね、その少年あやちゃん認知してなかったので、
どういう活躍なのかっていうのを知らない。
結局そのツイッターベースで考えると、
フォローを捨てないと、なかなか認知できないじゃん、
拡張できないっていうか、認識しないものがあるので、
多分フォロー対象じゃなかったのかなっていう感じなんですけど。
ちょっと危なげな感じだった。
危なげな感じだ。
で、実際ね、SNSのXのアカウントがあってびっくりしたんだけど、
これがブログの文章をこっちでまず書いてあるので、
ちょっと読みながらこの人がどういう人かっていうのをやってみたいと思いますけど、
こちらではお久しぶりです。少年あやです。
最近はオカマの辞書という辞書をやめるという、
個人的に大きな出来事があったので、
こちらでも報告しておくことにします。
オカマの辞書を始めたのは19歳の春でした。
それまでは何の定義もせず生きていこうとしていたし、
高校生の頃始めたブログでもそのスタンスでいましたが、
正直そうなんでしょうみたいな言葉と、
そういった日々で蓄積されていった劣等感を抱えきれなくなり、
ラベル一つで楽になれるなら、という思いで名乗り始めました。
オカマというラベル、記号のおかげでお仕事をいただけたり、
人に知ってもらえたりと、いいこともたくさんありました。
しかし、それによって擦り切れていく部分の方が大きく、
オカマとして呼ばれたイベントの壇上で、
一言も喋れなくなってしまったこともありました。
オカマは本来別称、差別的な用語です。
自分も込みでわざわざ自称する人が多いのは、
うまく逆手に取って弱ったりしていく生き方を選んだだけのことです。
そういった姿勢が差別を助長するという指摘もありますが、
私は社会構造上仕方のないこと、やむを得ない生存戦略だと思っています。
個人の選択の良し悪しでは測れないし、測られては困るのです。
だけど私は、あくまで私個人の場合は、
自称聞き会に笑顔を踏みつけてくる世間に疲れたのと、
そうしなかった誰かの人生、特に子どもたちの人生が苦しくなることに耐えられないので、
やめてみることにしました。
私は男です。誰が何と言おうと男です。
というふうにスタンスを変えて、今に至るんですね。
その宣言を経て、今はどうか知らないが、
男性の恋人が20代の終わりにできて、
いろんな生活が始まったりとかしているんですけど、
そんな中で、爺ちゃんというね、さっき言ったような、
ジャパニーズビジネスマンであったりとか、昭和の男みたいなところと、
おそらく対峙しながらいろいろ考えることがあったのか、
爺さんの死についてでほぼ一冊を通して語っている感じの本なんですよね。
それこそ前回、高橋光雄の孫みたいな。
孫の世代です。
でもそれはやっぱり、親がいたから子がいたから孫がいたじゃないけど、
多分高橋光雄がいろいろ踏みならしてくれたところが、
ここに響くんだなっていう、ちょうど爺さんと孫との関係でっていうところなんだよね。
で、実際にじゃあこのね、その爺さんが死んだ話のところで、
昔は多分おそらくこれ、経緯としてはさ、やっぱり爺さんに対して複雑な思いを、
決してね、そんなにあんまり権力的な、抑圧的なおじいさんではなかったらしいのよ。
まあそれはね、そういうことだと思うんだよね。
その世代の、今91、2の人たちの話を挙げていったけど、
なんだろうな、それなりに戦後の民主主義が入っていて、
なんかそのむちゃくちゃ強権的に、原骨握りしめて殴りかかってくる世代でも、
秘書は一桁、意外とないんだよね。
だからその、来年戦後80周年なんですよね。
で、そこから振り返ると、戦後の時に12、3歳くらい、11歳か12歳。
まあそのくらいで、そうすると尋常小学校、小学生、最終学年くらいの話なので、
いわゆる戦時教育というか、戦時教練を受けてた世代っていうようなくらいなのかなってイメージですかね。
戦時教練を受けてますね。疎開もしてるしね、うちの父親なんかもね。
まさにでも戦争のことを覚えていて、
疎開した時に、船で移動してた時に、
船?
うち何?
船で移動した時に、やっぱり米軍の砲撃があって、
同じ学校の女の子が亡くなったっていう話を。
しかも2人亡くなったんだけど、2人とも同じ名前だったっていうのを、
うちの父親はすごく同じ名前にこだわって気になったらしくて、
たぶんみんなで言い合ったんだろうなと思うんだけど。
そんなことでですね、
あと自分の母親とおじいちゃんとの関係が微妙だったので、
よくあることだよね。つまり、
私の世代ですよ、たぶんお母さんはね、その世代だと。
それとその上の世代で、
幼稚園の時にね、あやちゃんは、
お母さんがさ、こう言うんだよ。
ねえ、ゆーちゃんは、ママもつらいの。
毎日おじいちゃんたちにいじめられてるの。
うーん、なるほどって。
まあ、嫁としてね、家の中にいるだけで、
まあ、母は常に労働や勘定される立場であったろうし、
片身の狭い思いをする時もあっただろうと。
で、そんな母の味方でありたい一心で、
私はおじいちゃんとおばあちゃんを、母の天敵とみなしてきたと。
もちろん頼まれたわけでもなくて、勝手にそうしていたんだと。
で、特におじいちゃんのことは、家父長の象徴として象を抑えしていた。
おばあちゃんがまだ食べ終わらない時にお茶の用意をさせるのも断層女肥だと思っていたし、
母の料理にしょっぱいだとか文句をつけるのも同様だった。
その上、おじいちゃんはものすごい心配性で、年から年中何らかの心配をしていたのだが、
反抗期だった妹がなかなか家に帰ってこない時なんて大変だった。
寝ている母を叩き起こして、あの子は今どこにいるんだ。
今すぐ連絡をしろと問い詰めにする。
一一倍気が強いはずの母が怯えている様を見て、私は時折怒鳴ったりした。
うるさいじじい、ちょっと寝ろ。
こんな家にとっついで母は不幸だと思っていた。
その母を私だけが守れるんだと思っていた。
そんな感じのじいさんだったんだけど、これがついにいよいよ弱って死んだんだよ。
それで、その時に彼も自分の中のアイデンティティであるとか、受け止め方であるとか色々変わって、
最後に、これってもうここまで読んじゃっていいのかな、大丈夫かな。
ネタバレに近い状態ですが、おじいちゃんのことという文章を書いています。
92年にも及ぶ祖父の生涯を未熟者の私がごく身近い文章に圧縮して伝えることは到底難しいと思います。
ですが私は、ふーん、ただのおじいさんが92年も生きて死んだんだね、などと、
単純に彼の存在や死を捉えてほしくないのです。
もちろん私もよそ様のおじいさんが亡くなったと聞いてもそうですが、
あ、そうですか、ぐらいにしか思いません。
先日などエリザベス女王の不法が一面に乗った新聞で犬のおしっこを吹きました。
どんな偉大な人物の死も他人の暮らしを直接的に揺さぶることはできません。
けれど私はそれでもなお自分のおじいちゃんだけは特別で可愛くて愛おしい存在だったのと信じ、
ここに刻み込んでおかずにいられないのです。
祖父は昭和5年、長野の農家に生まれ、シャイではにかみ屋の青年に育ちました。
しかし末っ子だった祖父には居場所がなく、
二十歳になってすぐ愛するふるさとを離れなければなりませんでした。
この時の身を裂かれるような悲しみが祖父の人生における転機になったといいます。
都会へと向かう夜行列車の中でボスタンバックを膝に抱えながら、
若き祖父は一人胸に誓いました。
こんな変化はもうゴリゴリだ。
俺の人生は平凡でいこう。ずっと平凡に暮らしていこう。
そこには、戦士という形で亡くなった二人のお兄さんへの思いもあったのかもしれません。
まだ青年だった祖父の誓いは結果として彼の人生を、生涯を貫く心情となりました。
というより、祖父はそれ以外のことには全く興味がない様子でした。
とにかく必要以上の変化を避けながら、一日一日を淡々としたリズムでこなしていく。余計な贅沢もしない。
祖父は恐ろしいほど、己の誓いに対して実直でした。
実直すぎて臆病に見える時さえありました。
平凡さを求めるあまり、とにかく年から年中あらゆる心配をし、不安に苛まれていたのです。
孫の帰りが遅ければ、悪い想像をして眠れなくなってしまう。
電話に出なければ10回でも20回でもかけてくる。
そしてやたらせっかちでした。
手かけら1時間前には準備を終え、出発しようとしてしまうし、同行者にまでお前も早くしろなんて言い出すのです。
さらにはものすごくシャイで照れ屋でした。
特にありがとうとか愛しているなんて言われるのは苦手だった。
恥ずかしくていてもたってもいられなくて、心が乱れてしまうから。
なんだか悪口大会のようになってしまいましたが、
全ては祖父が取り決めた霊の誓いから離れないための、あるいは帰るための儀式だったに違いなく、
パートナーができたと報告した時も真っ先に肯定してくれたのは祖父でした。
いいんだよ。今は自由なんだから好きに生きたらいいんだよ。
どうしてあれだけ臆病で心配症でせっかちな昭和一桁世代の祖父がこんなに寛容なんだろうと不思議でしたが、
今にして思えば祖父はいざという時に底力を発揮し、家族をまとめるために淡々と死した日々を守っていたという側面もあったのかもしれません。
まあこの辺りかな。ここで十分ですね。
素晴らしい。
オチでしょ。
オチが素晴らしかった。
ということなんですね。だからちょうど先ほど名前が挙がった世代の戦中戦後を生き抜いた人たちが、
一面同性愛とか性的少数者なんていうこととは無縁に生きながら、
そして一面おそらく差別的な局面で自分たちの権力を発揮するような事態に、
個別個別いろんなバラバラなあれはあったと思うけど、
しかし寄り添っているところは個人の生活であるとか、自分の家族の幸せであるとかっていうふうにした時には、
決して頭こなしに動くのではなく、いいんだよっていうふうに言ってくれる可能性と予知っていうのを、
やっぱり少年あやちゃんがいろいろ自分でね。もう少年あやちゃんじゃなくて松橋さんがね。
右往左往しながら、そういったところに心を傾けながら立った地点なんだろうなっていうふうに思うんだよね。
たぶん同じような心の変化を私なんかも含めてしたなっていうふうに思うわけで、
なんかね、すごくこの本も、孫世代から。私はちょうどその母親の世代で、お父さんがひどいのよとかって昭和一桁を罵ってきた世代なんですよ。
で、だんだんその人たちも弱っていくし、弱者に、強者だったその世代がね、弱者に落ち込んでいく。
その時に、やっぱりそれはさ、彼らは本当に強者だったのかというふうに思う考えのきっかけにも多分なるし、
で、綾ちゃんはそのさらにもう一つ世代を挟んでね、客観的にその母の世代と祖父の時代を見て、
なんか自分を新しく織り直すっていうのをね、ちょっとやれるんじゃないかなと思う。
一応、やっぱり年の取り方的なところで、その人生のピークを過ぎて、
その日野翔平がね、その心旅の名言の一つとしてこう、人生下り坂最高っていう言葉がありまして、
要するに自転車で旅をしていたんですよ、あの人は。
で、だからこう登り坂結構きつくて、はぁはぁ行って、自転車越えで登ってて、
で、下り坂はもうシャーってこう降りていくっていうのが、まあ最高だっていう。
まあその意味と、あの人もね、いろんな右翼曲折があった。
そうですね。
っていうところで、もう降りていく中で、こういう人生もいいんじゃないかみたいな、
開き直りみたいな部分もあったのかなっていうところがありますけど、
やっぱりこう、自分がもう死ぬ、これからどんどんどんどん降りて死んでいくんだなっていうことを目前にしながら、
自分の家族っていうか、娘、息子娘だったりとか、孫だったりとかっていうのが、
まあ幸せになってほしいなっていうふうに考えると、
やっぱどんどんどんどん寛容にならざるを得ない部分っていうのはあるんじゃないのかなっていう気がしますね。
そうですよね。
その次の世代の人たちとさ、やっぱりその、たとえばもちろん上野の発展場の風景はさ、
今の世代のマッチアップ?あれなんだっけ?
マッチングアプリ。
そう、マッチアップで知り合っている人たちには伝わらないと思うんだよね。
ただそれだと、何ですか、それってもう体だけの関係ですか?みたいなさ、ね。
それでこそ、それ、知観行為とどう違うんですか?とか。
もうもちろん、だからもう本当ね、あの最強制の知観問題がさ、言われなくなって久しいけど、
つまりもうちょっと前に終わってる、まだ間違ってやってる人もいるかもしれないけど、
少なくともその一番、そうじゃない人たちとそうだっていう人たちの文化がぶつかって、
とらぶった時代っていうのがさ、経てね。
今は多分そこが問題にもならなくなっているっていうさ、その過渡期を超えたんだよね。
あの銭湯とかが今ね、端から畳まれてて、宇宙発展場にした皆さんありがとうございましたみたいな嫌味をかいていなくなるけど、
それもちょうどそうじゃない人たちとそうな人たちがこうぶつかって、
摩擦が一番高かった時期。
でもそれはそうするとなくなっていって、
良かった良かっただけではない話っていうのも絶対あるはずで、
で、それは本当にひどい人たちがいっぱいいました。
もう知観の集団でした、上野の映画館ではなくて、
そこにやっぱり高橋夢通が光を見出したりとか、夢を見出したりとかしてた。
それをさ、そのなんていうの、つまり性差別的な男っていうふうに言ったら終わっちゃう話みたいな。
なんかそれは今の時代からこんな高いところからね、石つぶて投げて嬉しいかって言いたくなったりする話であって、
っていうのと同じものをね、やっぱ、
あやちゃんすごくそのもうネットの時にはね、
なんかもうあの傷つきやすすぎてやばいですみたいな、繊細すぎてやばいですって感じだったけれども、
やっぱり彼もね、34になって、ちょっと人より早く一周回って、
こういうその視点、おじいちゃん、母の敵のおじいちゃんをそういう気持ちで見ることができているなっていう感じなんだよね。
まあね、うちのおじいさんは、
僕が24、5の時に亡くなったのかな。
23、まあそのくらいだと思いますね。
で、その時に80くらいだったので、今生きていればたぶん100歳くらいになるとは思うんですけど、
まあなんていうか、自分の生活をこう守っていこうとするみたいなところっていうのは、
なんか似てるかもしれないっていうのは思いましたね。
なんて言ったらいいかな。
難しいですね。
まあ、だんだんその辺の言葉もこなれてくるんじゃない、紡がれてくんじゃないかなと思いますけど、
今はさ、やっぱりまだ、それこそ昭和一桁男どうしようもないよねみたいな文章しか残せないじゃない。
まだ傷が痛くてっていう人たちがいっぱいいて。
でもたぶん時間が経ってくると、たぶんその違う言葉がね、うまいこと出てくるようになるんじゃないかなと思ったりはするよね。
まあそうですね、なんかね、うちのじいさんが亡くなったときは、もちろんカミングアウトはせなくて、
それでうちのばあさんが亡くなるちょっと前に、僕とパートナーとで病院にお見舞いに行ったことがあって、
で、そのときはもう意識とかない状態だったんで、
本当にうちのばあさんがベッドで寝てるところにちょっと、
だからもう本当受け答えもできないようなそういう状況だったので、
ベッドに寝てるところにパートナーと2人で行ったっていうだけなんですけどね。
なんかそういう思い出はありますけどね。
なんかなんていうか、そのじいさんばあさんの世代の人たちがどういうことを考え、
じゃあ元気なときにね、会ってたらどういうふうに答えたんだろうなっていうのは、
ちょっとなかなか想像しづらい部分っていうのがあるかなっていうのがありますね。
さっきのあやちゃんのね、いい人が見つかってよかったねっていうのはすごいこう、じいんとくるもの。
くるよね、本当。
で、そこをちゃんとね、その後に及んでギリギリで言ったあやちゃんもすごいし、
そのときに手を差し出してね、よろしくお願いしますって言ったおじいちゃんもすごかったと思いますけどね。
やっぱりそうやって身近な人に受け入れられるっていうのは一番やっぱりありがたいことだなっていう部分があるし。
大事なことだしね。
でも、SNSとかを見ると、いまだに両親であっても拒絶をする両親とかっていうのの投稿を見かけたりするので、
それは本当に悲しいことだなっていうのはすごく思う。
たぶんね、でもあやちゃんのおじいちゃんもその20年前に、
たとえば紹介して、20年前はないか。あやちゃんに20年前はない。
10年前にね、連れてって紹介したとか、たぶん無言で背中を向けたとかだったかもしれないわけだよ。
まあ、たしかにね。
たぶん82のね、じいさんが背中をぷいって向けて、以来ちょっとなんか気まずいんだよねとかってなった可能性はすごく高くて、
ハッピーターンの謎の粉が1個多かったみたいな感じだと思いますけどね。
日々いろんな方が亡くなっていく中で、いろんな命も生まれて、そして亡くなっていくっていう中でね、
だんだんこう自分が歳を取りに連れていって、やっぱりそれに比例して死んでいく人も、
それはそうだよね。
それはそうなんですけど、そうなっていくと、不法とかを見ても、この人が残したものっていうのは何だったのかっていうのを、
振り返っちゃう。
振り返っちゃうから出てきますね、やっぱりね。
でも、なんかあまりにもこう、昔ほど死を、若い時はそれこそ死んでいく不法に接する機会も少ないから、
死っていうのが新鮮だった気がするんですよ。
ショックだったよね。
そうなんですよね。
だんだんショックじゃなくなる。
だんだんショックだって。
そうなの、そうなの。
歳を取りに散らがって、死の新鮮さがなくなっていって、メキカなものになっていく。
死がね、地続きになっていく感じなんだよね。
そっからさらに10年経ってますから。
今ちょうど下り始めたところでしょ。
ちょうどね。
下り始めた。
で、私はさ、そっからちょっと10年余計に多分生きてると思う。
10年ぐらい余計に生きてると思うので、
なんだろうな、死が生と、すごい断絶ではなくて、地続きなんだなって感じを、
それこそ10年前はあなたここでこの写真を撮りましたとか、ここにいましたとかっていうのがさ、
いろんなポイントがグーグルが打ってくるのと同じように、
実はわりと死もそんな感じだよなっていうふうな気分になる。
こうやってたくさん周りが死んでいくとね。
まあなんていうか、やばい、まとめようと思って何にもまとまらないって。
いやいやまとめっていいよ別に。
いやでもまあとにかく90前半みんな死ぬっていう説で、
違う違う、まだそのぐらいの方でお元気な方もねいらっしゃって、
あの人もだから亡くなったんだよね、ほら、映画の長谷川さん。
そうそう長谷川さんです。
長谷川さんだ、長谷川さんじゃないですか。
94歳の、以前二次芝羅庄でも取り上げた94歳のゲイに出演して、
出した長谷川さん、ゲイの長谷川さんがですね亡くなられてしまってですね、
95歳で亡くなった。
長く生きた。
長く生きた。
で、長谷川さんもね、詩人だったんですねっていうことは。
そう、そう。
そういえば高橋武蔵の時にちょっと触れればよかったんですが、触れられなかったので、
今ここでちょっと。
ここで傷をね。
そうです。
長谷という傷をちょっと残しとこうかなみたいな気分ですね。
だからまあ長谷川さんももしかすると若い時にはね、高橋武蔵とかを読んでいたんだろうなっていうのはちょっと思ったりしますけどね。
なるほどなるほど。
まあそんな感じで今日は。
そんな感じですね。
ということで終わりたいと思います。
はい。
二次芝は川口市芝のシェアスペーススペーストプランで月2回開催しています。
ジェンダーやセクシュアリティに関わらず誰でも参加できるおしゃべり会で、
LGBTQに関する様々な話題などについておしゃべりしています。
詳しい開催日程などは概要欄のホームページをご覧ください。
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それではまた来週お会いしましょう。さよなら。
さよなら。