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詩吟の魅力を発信する、
詩吟チャンネル!
おはようございます、こんばんは。詩吟チャンネルのheyheyです。
このチャンネルは、詩吟歴20年以上の私、heyheyによる、
詩吟というとてもマイナーな日本の伝統芸能の魅力や吟じ方について、
わかりやすくザックバラにお話ししていくチャンネルです。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
喉は、多少戻ってきたんですけれども、
いかんせん、この喘息気味な感じがですね、まだ取れていなくて、
いやー、本当に声で生きているような人間としてはですね、
本当にこれが辛いんですが、
それ以外の体調に関してはですね、ちゃんと睡眠も取りつつ継続できているので、
相変わらず若干聞き苦しい感じが続くと思うんですけれども、
よろしくお願いします。
うちの娘はもう最近、だんだん本当に立って歩いて、
それが得意になってきたんですね。
奥さんが、そう、スイッチの、ニンテンドースイッチのゲームでですね、
なんかヒップホップで運動できるみたいな体験版があったんで、
それをやっていたら娘も一緒に踊り始めてですね、
もう可愛いのなんの?という、そういう時期です。
ではでは、今日の本題に行きたいと思います。
今日はですね、前回の続きです。
資金の始まり、期限とかですね、どういうふうに広まっていったのか、
そういうところを遡って自分なりに調べてみて考えを述べるという、
ちょっと今までとは少し異なった感じの内容になっておりますけれども、
まあそんな感じですね。
資金が平安時代、中国でいうと唐の時代の文化が平安時代に伝わって、
江戸の後期に勉強方法としてですね、
この吟じるスタイルができて、
あとは幕末ですね、幕末にこの維新の志士たちがですね、
いろんな熱い熱い鑑賞を作ってきたという、
そういう流れでちょっとした盛り上がりがあったんじゃないかというふうに考えております。
今回はですね、昭和初期の話になります。
取り立てて言うとですね、
これは近代銀衛の祖というふうに言われている木村学風という方ですね、
その方を軸にして今日は話しつつ、自分の考えを述べていきたいなと思っております。
この木村学風という方はですね、
1899年明治ですね、明治32年に長野県の諏訪市の方に生まれまして、
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そこから53歳で亡くなったという方です。
日本詩銀学院の創設者という方ですね。
この方が詩銀に出会って、なんと素晴らしいものだということで、
全国あんやですね、別に車とかがあるのかな?あるはあるか。
まあとはいえ、本当自分の足で全国に赴いて広めていったという。
それが軸になって、今のこの銀衛のスタイルが大体確立されたというふうに、
僕も本を読んでも、あと周りの先生からも聞いている流れになります。
ちょっとさらさらとですね、経歴をお話しすると、
1899年に諏訪市に生まれまして、1921年つまり22歳の時に詩銀に出会ったんですね。
それまでも色々、授業とか手を出しつつも失敗ばかりしてしまっていたそうです。
1921年に詩銀、22歳の時に詩銀に出会って、28歳になって全国あんやを始めたということですね。
37歳の時に日本詩銀学院を創立しまして、53歳で亡くなったと。
今だいぶばっさりとですね、経歴をお話ししたんですけれども。
この1900年初頭から1930年40年という、日本でいうとものすごく激動の時代になります。
これは合わせて年表と比較してみると、ちょっと歴史の話ばっかりで申し訳ないんですけれども。
この頃何があったかっていう話ですね。
1899年に生まれたってことなんですけれども、もうその5年後ですよ。
1904年には、坂の上の雲で有名な日露戦争ですね。
坂の上の雲、僕大好きなんですけど。日露戦争が始まりまして。
1914年ですね、その10年後には第一次世界大戦が始まって。
1920年、市議院に出会う1年前とかですね、それぐらいには世界恐慌が始まって。
1922年は関東大震災です。市議院に出会って直後は関東大震災。
全国案件の途中である1931年には満州事変が起きまして。
市議院学院創立された翌年の1937年には日中戦争が起きた。
日中戦争の後2年後、1939年に第二次世界大戦があって1945年には敗戦という形ですね。
その敗戦の翌年からGHQの統治が始まっていくという、そういう中。
1952年に53歳の年齢で亡くなられたという、そういう流れです。
もう想像つかないぐらい多分、めちゃくちゃに激動の時代ですね。
1945年とかの年表で見てもそこだけ嫌気にものすごく分厚いんですけれども、そういう流れになっております。
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なので、この時代背景も合わせてなぜ市議院が広がっていったのかというのを、両方見ないといけないのかなと自分ながら思っているわけです。
この木村学風という方がですね、市議院の素晴らしさを見て、かつこれをもっと広めたいということでですね。
今のこの議員営スタイル、多分当時それ以降以前の資料僕全然持ってないでわからないんですけど、
監視をただ声に出す、叫ぶように議員じるとかですね。いろんな議員じ方があったんでしょう。
幕末とかはそういうやり方が多かったというふうに言われてるんですけれども、そんな感じでですね。
芸として、一つの芸としては形が定まっていなかったんでしょうね。
それをこういうふうに、この五言絶句とか四言絶句とかこういう設置をつけて、高音中音低音とかこういうものは組み合わせてやりましょうというふうな、
そういう形を作ったのがこの木村学風と言われています。
この研究が行われたのはやはり、これは人に伝える上でのとても大事な大事な要素になっておりますし、
全国暗夜をしたというところもですね、いわゆるこれは商売で言うならもう直営業ですよ。
直営業、一番人が従らないようなものすごく大変なことを実際されたというところ。
ここは本当に大きいんですね。
それが大きいんですけれども、それに加えてこの資金が広まった時代というのがまさしく日本が帝国として邁進する時代なんですね。
世界恐慌も起きるし、地震も起きるし、他国はもういろいろ締め付けてくると。
もう日本として立たなければいけないみたいな。
そんな国為発用、国為公用、こういう国としてはですね、日本はもう一体となって頑張らなければいけないという、こういう方針があったんですね。
それに合わせて、この国から軍に対して、軍においてこの監視を、特に精神を高揚させるような、日本を大事だと愛国精神を高めるような、そういう監視を銀ずるようにですね、
軍とか国にやるように、軍とか学校ですね、やるように国からのプッシュがあった、後押しがあった時代というのもこの時代なんですよ。
なのでやはりここはものすごく大きいですね。
本人の力、研究の賜物プラス、この国からの後押しがあったというところが大事かなと思っております。
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あとは1946年、戦後直後にはもうラジオ放送が許可されて、1948年には資金の全国大会みたいなものが開催されたというふうに言われているんですけれども、
こういう国からのですね、後押しがあったところ、プラスそこからさらにここから人口がもうものすごく増えていくんですね。
ベビーブームが確かどれぐらいだったかな、今ちょっとど忘れしたんですけれども、1947年から49年でしたっけ、
それぐらいの方が第一次ベビーブームになりまして、1970年代とかですね、それぐらいの頃には資金の会員数は、本当かなこれ400万人ぐらいいたっていうふうに言われているんですよね。
もう今では多分信じられないぐらいなんですけども、本当にすごい数の方が資金をやっていたんですが、これはベビーブームも関わっていたんじゃないかなと僕としては思っております。
時系列で言うとですね、時系列を整理すると、1930年代ですね、1930年代ぐらいのところにその全国あんやをして、多分いろんなところにお弟子さんができたんです。
全国各地にお弟子さんが生まれて、その方がですね、それぞれを拠点として生徒さんを育てていくと。
その育てていったところと、このベビーブームの人口がどんどん伸びていくところと多分相まったんじゃないかなと。
さらに言えばこのGHQの統治方針ですね、もっとアメリカの文化だみたいなところがあって、それに反発する形で日本の良さ、やはりそれはやはりこの監視の中にあるよねという、それも相まって資金はどんどんどんどんと増えていったんじゃなかろうかなというふうに考えているところです。
自分の考えがいっぱい混ざっていてですね、なかなか難しい説明が下手くそだったなというところはあるんですけれども、この木村学夫という方がですね、資金を普及させるために今のこの議員仕方の核となるものを作られたということ、そして全国あんやで全国にお弟子さんを作られたということ。
それに加えてこの日本の日程ですね、帝国時代に邁進したところ、あとはGHQの時代から逆に反発するように盛り上がったところ、そしてあとベビーブームとかの人口増加の流れですね、こういううねりもうねりも相まってものすごく盛り上がったというところが全体の流れになるんじゃないかなと思います。
頭使いますね、昨日なんかいっぱい調べてみたんですけれども、どうでしょう、少しでも何かしらこれ伝わったでしょうか。
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これ調べて終わりというところではちょっともったいないんでですね、前回と今回の話、こんなところで資金が広まっていった、始まった、広まっていった、普及した、そういうところを含めてですね、じゃあこの令和6年ですよ、この令和の時代に資金はどうやったら広まるんだろうかですね。
そこをこれからのことをですね、僕なりにちょっと考えよう。そこそこまとめられたんで、それは次回にお話ししてみたいと思います。
本当になかなか不慣れな感じではあるんですが、やっぱり勉強したことは発信するつもりでやらないとなかなか頭に入ってこないんで、自分としてはいい機会なんですがね、分かりにくいです、つまらないです、意外と面白いですね、こんな感じのコメントをいただければ自分なりに改善して頑張りたいと思います。
ではではでは、今日の後半なんですけれども、せっかくなんでですね、この木村学夫の方の資金を一つ吟じたいと思います。
結婚祝いの歌という漢詩がありまして、これはゼックとリシの間ぐらいの長さのやつなんですけれども、これは自分にもですね、縁がありまして、結婚式披露宴の時に資金の僕の師匠先生に来ていただいて、これを吟じてもらいました。
またあとこれは僕の友人の結婚式で資金やってほしいというふうに言われてですね、僕もこの詩を吟じました。
いやこれ大変だったんですよね、結婚式ってもうお酒は飲むしワイワイ楽しんでくるから、もう頭に血が昇って倒れないように吟じるのが精一杯だったんですけど、
でもよかったよって言われたんで、この結婚祝いの歌ですね、だいぶ思い入れの深いものになっております。
じゃあまず詩文をサラサラと読んで通釈を読んだ後に吟じたいと思います。
結婚祝いの歌 木村楽譜
両縁成立して神明に誓い 結び得たり 回廊凍結の千切り
親戚抱友 心を込めて祝い またいのる流々たる佳雲の栄えを
愛励まし 愛助けて 苦楽を共にし 忘るるなかれ この日この時の情
良い縁談が成立して、神前に神様の前に誓いを立てて、共に白髪の生えるまでと夫婦の約束を固く結ばれたことは本当におめでたい。
親戚や親しい友人は心からこの結婚を祝うと同時に、また新しい家庭の佳雲が流々と栄えるように祈っています。
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新郎新婦よ、願わくは今日のお二人の温かい千切りの心を忘れずに、一生涯を互いに助け合い励まし合っていく久しく栄えられんこと。
ということで、もう文字通りですね、結婚祝うというやつです。
僕も本当に先生に吟じられて、今ちゃんと助けあえているかなとかですね。
なんかしみじみ感じます。
それではこちら吟じて今日終わりますね。
まだ喉が怪しいので、喉に気をつけつつ控えめに吟じたいと思います。
結婚祝いの歌、木村楽譜
両縁成立して
心霊に誓い結び得たり
回路洞窟の千切り
親戚方へ
心込めて
祝いまた祈る
流々たる
花雲の栄えを
愛励まし
愛助けて
空楽よ
共にし
忘るなかれ
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この日
この時の
情
いかがでしたでしょうか。
カスカスな喉の割には何とか吟じれたかなというところです。
本当に内容がスッと入ってきますね。
分かりやすいですし、ちゃんと重みも感じるという感じがします。
本当に結婚して5年経ちましたね。
6年目か。
あの時と今、ちゃんとどういう風に慣れてるかなとか、ちょっと今思い出しながら吟じてみました。
今日はこんな感じになります。
今日は金曜日だから、次は月曜の夜の配信ですね。
ということで引き続きよろしくお願いします。
コメントやリクエスト、ご相談などもいただければとっても嬉しいです。
志銀の魅力を発信する志銀チャンネルどうもありがとうございました。
バイバイ!