自己紹介代わりに、かつて書いた小説の冒頭を貼っておく。全文はカクヨムで検索すれば読める。
タイトルは「発語」
りすんは適当に喋る予定。noteもやってて、そっちに自分の基本情報とか集まっている
https://note.com/alcoholartdj
私と彼の話をしたい。
などと始めてしまうと、随分と凡庸な始まりだから、随分と凡庸な、というか、ぼんやりした、物語になりそうでこわい。
私は私で彼は彼だから、二人の間柄は、それをめぐる語りは、誰にとっても輝いていてほしい。特別な物語でありたい。
けど、まあ、うん。それは叶わないかもしれない。というより、叶わないだろう。生身の私と生身の彼と、その柔肌のあやふやな気持ちに注目してくれる人が、私たちの町にどれくらいいたって言うんだろう。私の名前知っている人、この町にほとんどいないよ。それが明瞭な傍証になる。この町に、私の名前を知らない人ばかりなように、この世界に、私たちの物語に耳澄ませる人も、きっと、ごく僅かだろう。
わからないな。ほとほと。皆目。見当がつかないな。だからといって、困るわけないけれど。私は心の中で、そう区切り区言葉を思い浮かべて、それでようよう、思い浮かべた通りに呟くのだった。「わからないな、ほとほと。皆目、見当がつかないな。だからといって、困るわけないけれど」私はどんな言葉であれ、それが独り言だったとしても、心の中での予行演習が必要だった。いや、実際のところ、それは私の思い込みで、予行演習などなくとも、即興でなんとかなったのかもしれないけれど、私は私の言葉をすぐに飛び出させないところがなぜだか好きだったし、気に入っていたんだ。それしかない、って気分で生きてきた。きっと、生まれて初めての発語も、十二分に心の中で予行演習した後に、滔々と唐突に披露したんだろう。そんなわけで、私はあまり会話というものを楽しまなかった。私は私の間を楽しめたけれど、誰かは誰も、私のゆっくりさについてこれなかった。私はただゆっくりで緩慢なだけなのに、誰もが私においていかれた。私は誰かの言葉を耳にするときも、私が自分で話すときの逆向きのように、彼の言葉を心の中で唱えて、ふむふむと、心の中の私自身が頷いてからじゃないと、受け付けられなかった。受け付けられない気がしていた。始終していた。だから、私はいつも独り言のようにつぶやくし、独り言しか、つぶやかないし、そんなんじゃ私の言葉は、いつにしたって、学校のチャイムにかき消されちゃうし、だから、クラスで私が教師に指名されると、なんだか急に氷河期がよみがえったみたいに、時間の流れが緩慢に進化した。それでいい。それがいい。それが私は好き。好きなのだ。それでいいじゃないか。って心の中で暗唱したのち、こくりと私は私で頷く。考え込んで身動きができなくなっていたうちに、凝り固まっていた肩首の筋肉が、途端ほぐされる。ほだされる。私は私の言葉が好きだ。言語動作が好きだ。それはさておき、彼は中空に揺蕩っていた。なにしとるんや。と思った。なにしとるんや、と呟こうかしら、と逡巡した。私にとって、全ての思考は逡巡であり、予行演習であり、重要な検討材料だった。私は私の思った通りに行動しようか行動しまいか、常に悩んで、だから、現に動き回る私は、本当の心のままの私じゃなくて、私の心を約半分ほど反映した影みたいなものだった。なにしとるんや、なにしとるんや、なにしとるんや、三度ほど心の中をなにしとるんやで満たした後で、よし、これこれこのタイミングこの拍の置き方や、と至極納得した私の心は、満面の笑みで、彼に向かって、ずっと言葉足らずでもじもじしていた私を、風のない日の綿雲みたいに鷹揚に、応用問題解くときの受験生みたいに、じっくり腰を据えて、私を見下ろしていた彼を、私の視点から、影が肉体をねめつけるように、見上げた。いつだって影は肉体の足元にある。いつにしたって、彼は私より頭上にある。既成事実がそうだった。彼が私より背丈が高いって決まってたわけでもないけれど。そんなこんなを考えているうちに、私はなんだか、はにかんでしまった。やっぱりやめようかな。どうしようかな。なにしとるんや、って完璧なタイミングで呟きたいものだ。何度も素振りして、ホールインを決めるゴルフのパターみたいに。でも、そのタイミングは、今じゃないかもしれない。意味じゃないかもしれない。どこをどうほっつき回っているんだろう、私の口唇は。こうした発語へのためらいは、もしや私の口唇が退化して消滅してしまったためではないだろうか、と不思議に思って、顔面の下半分を撫で回した。アリバイを探る刑事のような手つきだった。ぼこ、ぼこ、唇に十分のでっぱり二つとその谷あいを確認して、指と指とで、たぷたぷの肉襞をこじ開けた。それだけで指パッチンのように音、声、発話すればいいんだけれど、私の言葉は私の意思に由来している。私の指先がいくらわなないたところで、私の言葉が、今は喋りたあないねん、と思い込んでちゃ、いつまでたっても、彼は私の二の句を待つばかりだ。私は私の言葉に従順だった。奴隷といっても現状を言い当てている感があった。私は唾液で濡れちゃった指先で、鼻を摘んだ。自然口呼吸にならざるを得ないから、はあ、はあ、ふう、さっきより、喉が激しく震えだす。呼吸が次第に声に近づく。試しに深呼吸をして、ため息をついて、ふへえ、と喉の震えとともに息吐いて、猫がゴロゴロ喉鳴らすように、震える喉で息吐いて。よし、準備運動完了ってなわけで、私はつぶやいた。「なにしとるん」当初の予定から、や、が抜けてしまった。けど、その分、マイルドになった。詰問調が減退した。この質問には、答えたかなか答えんでもええよ、の雰囲気をまとった。私は職務質問を乱発する警官じゃないのだ。私は、始終ためらっている、おしとやかな人間なのだ。今回もためらいにためらった結果、なにしとるんや、を、なにしとるん、に変換するという重大で、きっと、とてもとても、このために、ためらい続けてきたんだ、と思えて、この妙案を実践とともに思い至るために、ここまで思い悩んで、じれったくなっちゃったんだ、と思えて、とても嬉しくなった。小躍りをした。小躍りの小(こ)がいずれ受精卵のように発生して、こ、から、こい、こいび、こいびとと踊る日も近いだろう。私のホムンクルス。むぐむぐと、私の心の中の小(こ)が、変形増殖変質して、一個の人間へと、むぐむぐと影と肉とを生み出す見えないコピー機の力借りちゃったりして、ふまれる、うまれる、ふまれる、うまれる。私たちは、生まれた瞬間、日光や照明や月光に照らされて、自身の影をふみしめる。私はほとほと私に困ってしまう。私自身イメージできないことを、ふと唐突に、無関連に、心の中に、産み落として、見かけはへだたる、世界と異世界を、心の中でつなぎ合わせてしまう。唐突に、今、や、ここ、が気になって、今はいつ?ここはどこだっけ?って気分で世界を見回す時のように、びっくりさせられるタイミングで、心に思い浮かべる。私は、すこし自失した体で、これが私の心なのか、と心の脈絡のなさを見回す隙間時間があった。その間、私は、私の肉体の客観性を見失う。目玉がぐるりと白目を剥いているみたいに、私は心の外部が見えずになった。心の中は、まるで工場で、千台のミシン、千台のタイプライター、千台のコピー機が、並んでいた。それらが、紡ぐ、紡ぐ、紡ぐ、むぐむぐ、ぐぐぐ。彼は、ふんふん、と私の発話を聞いていた。首肯いた。その頷きは、どうにもリズミカルで、まるで、私と彼とが路上ミュージシャンで、私が彼に即興のセッションを不意打ち的に仕掛けたけれど、彼のたゆまぬ音楽修行が、彼の底知れぬ音楽的天才が、私の不意打ちを返すたちで打ち返してきたようだった。ふんふん、ふふふん、と彼の小刻みの頷きは、聞き取れた。一言の問いに、五度首肯くとは、彼の過剰な誠実さを表していた。蛇口をひねれば華厳の滝、って感じだろうか。私は彼のことが好きだった。別に、彼の過剰に誠実なところが好きって訳じゃなくて、さまざまにとんがった彼の多様な個性が、私の心を引っかかった。雲丹を外殻ごと飲み込んだ時のように、心にとげとげと引っかかった。ごわごわのセーターの襟首に、毬栗を忍び込ませた時のように、ちくちくと突き刺さった。彼は誠実で、私の前で待ちぼうけをくらう。私の発語における緩慢さを、思考における間欠さを、春の日差しのぬるみで体を温める喜びに浸る冬眠明けのひきがえるくらいのんびりと、私の緩慢さにぴったり歩調合わせたのんびりさで、ほぼほぼ身動きせずに、私の発語をアイドルファンの出待ちよろしく、ある意味執拗に、待ちわびてくれるところとか、好きで、それ以外にも、彼から滲み出る彼の人格とか人徳とか、そうした諸々と合わせて、好きだった。彼はピクルスみたいだった。私はピクルスも好きだった。私は輪切りにしたピクルスをハンバーガーショップの窓ガラスにぺたぺたと貼り付けるのが好きだった。ケチャップにちょっと汚れたピクルスは、その湿り気によってしばしガラスにピタリぴったり貼り付いて、時間軸の上でも空間上でも周囲の人々関連する人々にさまざまな暗示を与え続ける。この子はよほどピクルスが嫌いで、ただ食べ残しただけじゃ飽き足らず、ピクルスごときを衆人の元に晒したくなったのだな、とか。ピクルスを磔刑に処した。いつか烏に啄ばまれるだろう。いつか烏とツバメバトル。店員さんの私をみる目。いや、ピクルスのことは好きなのである、しかし、その好き、を分析すると、ピクルスのことは嫌いだけれども、嫌いなピクルスを窓ガラスにぺたぺた貼り付けて遊ことは、無邪気に好きだった。人間のことは大嫌いだけれど、人殺しは好き、そんな殺人鬼も実在するだろう。だけど、今の私は、そんな屈折とは無縁に、彼のことを純粋に好きだった。この世が一次元だったら、友達、親友、恋人、最愛の人、夫を五線譜として、その上を飛んだり跳ねたりするおたまじゃくしが、彼であった。そして、その彼を奏でるのが私の鼻歌。世界が鼻歌でも良いと思えた。彼と目があった。黒目である白目である。黒白。好きだから、こんなにずっと彼のことばかり考えてしまうのだろう。ただ、そんな彼の現況も、ピクルスに似ていた。私は中学生で、背丈はまだ伸びるかもしれなくて、中学校というものに通っていて、いつも生理でたらたらと血を流していたのだけれど、中学校校舎で一番ありきたりな部屋、目を瞑ってても設計図かけそうな、量産された部屋、クラスルームでぼんやりと頬杖をついてたのだけれども、彼は教室の左側の一面の窓ガラスに、ぴたりと貼り付いていた。ピクルス、彼、ピクルス、彼。ピクルスというより、その能動的貼り付き具合は、ヤモリか。その姿は、ヤモリだった。怪人ヤモリ男だった。ギョッとするタイミングを逸したように、私は彼とは日常会話の最中だった。「なにしとるんや」ちょっと強い口調で再度質問してしまった。五度同じ質問を繰り返したなら、それは尋問と言える。でも、口の重い私が尋問に乗り出しちゃ、日が暮れてしまう。日没まで優雅に時を過ごしたい時のみ、尋問に明け暮れよう。明け方始めた質問が、午ごろ詰問に変わり、夕暮れようよう尋問に至る。一つ事にこだわり過ごす、優雅な一日だと思う。彼は困った顔をして、しばし返答に渋っていた。私は、二進も三進もいかないから、埒があかないから、進行中の保健体育の授業に正面を向いた。席はまばらで、女子生徒しかいなかった。おまんこについての話題だった。様々な呼び名でおまんこを指し示す女教師の手腕が冴えていた。トライリンガルだった。トライリンガルな渡来人。ふっと思いが日本史へ逸れた。
内親王の内反足。私にとって日本史とはそういうものだった。思いがぼうっと膨らんだ。嵐でもないのに朗らかに風が吹く、春。外は大変な風なのだろう、彼がたなびく気配がした。全身襞になったように、びらびらびらと、揺れ惑う様で、カタカタと窓枠が方々鳴った。彼はなおなお平にへばりついた。ソォファアにこぼした、とろみのあるソースくらい平らかだった、変な顔。私は頬杖を支点に、黒板のある正面と彼のいる窓ガラスへとに、交互に視線を向けた。振り子のような動作で、リズムが生まれ、気持ちが浮いたり沈んだりした。ワクワクのクは苦しみのク、私は小規模にワクワクした。それはいやいやと首振る動作ではなく、彼のことも女教師の授業もどちらも気になるディレンマだった。私にとって、学校の授業を受けることも、彼との関わりも、どちらも日常で、どちらか一方が欠けても、私の自我が壊れてしまうのだった。それは私という列車の両輪で、でも、軌道と軌道の間があまりに広いので、ひどく大股びらきをしなくちゃ、ならないのだった。愛猫が死んじゃった日は、勉強なんか手がつかないのに、愛猫の死を誰彼構わず話したくって、気もそぞろ学校へ通う、そんな感じだ。心ここに在らず、でも、その心を誰かに見せたい、見て。二つの隔たりは、地続きのように思われた。保健体育には補習はないし、彼だって今が旬だ。彼は、どちらかというと人間というよりヤモリに近く、人間と同時にヤモリにも近く、窓ガラスのようなツルツルするものには、よくへばりついている質であったが、わざわざ私の通う中学校にまでやってくるのは珍かだった。というより、初めてだった。何か急用でもあったのかな。「嘘太郎」私は彼の名を呼んだ。返事がない。チャイムがなった。タイムになった。途端に女教師は早口になり、並べてる途中で倒れ始めたドミノのようにせかせかと授業を締めた。余韻を残さず、女教師の口から「ヴァギナ」がららと、男子生徒が引き戸を開けて、教科書がパタンと閉じられる。嘘太郎は私の目以外、誰も見えないのかもしれない、だから、誰も気にしない。やはり、彼は、人間というより、ヤモリに近く、だから、注意力のない人間には気づかれない。私はぺたぺたと赤い足跡を立てながら彼に近づいた。授業中にも先生が話題にのぼしていたことだけれども、私は今、月のものが澱りていた。体内が生卵になったみたいに、些細なことで重心が揺れる揺れる。足の裏から靴下を染み通り経血が垂れ続けている。止まらない。靴下は、ある種のクッション性を獲得するまでに、ぐっしょりと怒張した男性陰部の海綿体くらいぱんぱんに血を含んでいた。踏みつけ圧をかけるたびに、ぐきゅうぐきゅうと、繊維が擦れ、血を吹き出した。海鼠をぎゅうぎゅう踏みつけたみたい。両足が海鼠になった気分。上靴が血溜まりになって、ちょっと揺するとサイドに溢れた。リノリウムの床には、赤い引っ掻き傷みたいな血の跡が点々と汚れてる。生理的現象だから、仕方がない。生殖器が、股座についている人が羨ましい。最もふさわしい位置だから、正常位というらしい。正倉院で正常位。逆に、後背位と言って、背中に生殖器が割れている人もいるそうだ。私はなんの因果か、両足の裏にそれぞれ一つずつ割れている。双子が生みやすいようにだろうか。生みやすいけど踏みやすい。私は赤い足跡を立てながらブルーになった。もっと違う体に生まれたかった。遺体と違体。死んだら生まれ変われるだろうか。死んだら生まれ変われるだろうか、を、心の中で、生まれ変わったら死ねるだろうか、と言い換えたら、輪廻転生の渦の中に、自分を落とし込むことができた、急な法悦に、めまい一つ。目の前にヤモリが一匹。嘘太郎に向かって肩を竦める。女と男であるからに、解りあえないだろうとは、思いつつ。共通理解のための第一線を超えたいものだ、誰とでも、無理だろうけど、無理解だろうから。憂愁を伝染病に仕立てて感染させたい。そのための濃厚接触。からら、と窓を開ける。嘘太郎一人貼り付いている窓だから、音ほど軽快でも軽量でもない。両手を使って、肘から突っぱねるように、上半身で重心移動。経血に濡れた上履きがきゅきゅと音立てる。春風が穏やかに舞い込む。花粉症の人が迷惑そうな顔をする。顔面に生殖器のある人もいて、なおかつ花粉症である場合、少し悲惨なことになる。私は迷惑は極力少ない方がいいと思い、窓枠を乗り越え、その際、濡れて滑り良い上履きが抜けそうになりつつも、指先を釣り針のように反り上げて堪えて、窓の外に排水溝を兼ねて連なる転落事故防止のための排水溝みたいなUの字型のポケットに、着地する。そして、からからと、窓を閉める。嘘太郎がすぐそばで貼り付いている。春風が気持ちい。私は花粉症ではない。世界中の花粉症の人が一斉にくしゃみをしたから、巻き起こる強風のような春一番が、私の前髪とまつ毛と眉毛とをもみくちゃにする。風を感じるために毛髪とは生えているのかもしれない。気持ちいい。かきわけてかきわけて私の生え際を撫でる春風。嘘太郎のことなど少し忘れてしまう。いつものように感動して、春を楽しむ。嘘太郎も、気持ちよさそうに、風にびらびらと揺れて、ごろごろと喉鳴らす猫の表情で、ヤモリやってる。まとめると、『わからないな、ほとほと。皆目、見当がつかないな。だからといって、困るわけないけれど。なにしとるん。なにしとるんや。嘘太郎』というのがここまでの、会話だった。だいぶ喋ったな。もう一生喋らんでもええかな。そしたら、『嘘太郎』が遺言になってまう。それもそれでええかな。残りの人生六十年辞世の句の余韻を楽しむ無口。私はしばし、数日間何も喋らない日々が続くのだけれども、そういう時は、最後に発した台詞が、ずっと私の気分を支配する、そんな気がしてる、次回予告を楽しみに一週間過ごすみたいな。嘘太郎も嘘太郎で無口なものだから、その特異な見た目以外、彼には個性がないかのように思われてしまう。私の背景で、数学の授業が始まる。私の眼下で体育の授業が始まる。嘘太郎は、普段何をしているのだろうか。私より、年上には見える。でも、せいぜい、大学生って感じだ。でも、この街に、ヤモリを入学させる大学なんかないだろうから、嘘太郎の肩書きはいつだって謎だ。駅前にあるオフィルビルによく貼り付いてて、雲をつかむような右手だけビル壁面から遊離させた姿勢で、よく電車待ちの私に手を振ってくれる。十二、三階建ての、ちょっと背の高いビルで、怖くないのかな、って思う。高所恐怖症のヤモリがいたなら、トカゲかイモリになれば良いと思う。カナヅチのイモリはトカゲかヤモリになれば良いと思う。現職に不満なヤモリイモリトカゲが居並ぶ、転職支援NPO、そんなものどこかにあるのだろか、探してみたい。今更だけれども、嘘太郎の肉体はちょっと変わってて、言いにくいのだけれども、陰嚢とちんちんの代わりに、人間大のヤモリの掌が股間に生えていた。社会の窓のチャックとチャックの間から、にゅっと手のひらが生えていた。それがぺたりと窓ガラスに貼り付いているんだ。灰褐色のヤモリの片手。ぶつぶつの小さな吸盤たち。それは右手。その一点によって窓ガラスに吸着している。こわくないのかな、って思う。そんな一点張りの命綱で、そんな不完全なヤモリの片手で。そのヤモリの右手を、尺取り虫みたいにくねらせて、前後左右這い回るのだ。くるくるくるくる独楽みたいに回ってることもある。それはヤモリにしておくには惜しい指さばきで、手品師かピアニストにでもなればよいのにと思ったが、股間に生えた手で手品を披露したりピアノを演奏したりするわけにもいかないだろう。ちなみに、嘘太郎には、陰毛はなかった。手だけ生えていた。手と毛はちょっとだけ字が似てるけれど、例えばガラスに書いた手は、ガラス越しだと毛に見えたりするのかもしれないけれど、窓ガラスの向こう側で執り行われる数学の授業と窓ガラスのこちら側で過ごされる私と嘘太郎の時間とでは、手と毛とぐらい決定的に何か違いがあるみたいだった。当然私たちが毛で、向こうが手だった。何一つ新しいことを学ばない無為な時間。そういえば、カタカナのテとケも少しだけ似てる、でも、て、と、け、は似てない。ただよほど無理を思えば、て、は小文字のhに、けは、大文字のHに似ていなくもない。「てけてけてけ」知らぬ間に、私は呟いており、そのつぶやきに合わせて、一拍に十五度ずつ、嘘太郎が回転していた。ticktackを和訳するとてけてけになる。だからか、時計の針も回転しており、仕方ないから夕暮れになる。夕暮れになるのはいつだって、仕方ないからで、私が仕方ないなあ、と思った時、だいたい日は没しかけていて、日が沈み始めると私は仕方ないなあ、と思う。
夜になると、まっくらだな、って思う。いつだったか、夜が怖くて、地球の自転と同じだけの速さで歩いて、太陽を追いかけようとしたことがあるけれど、歩いて走って自転車に乗って電車を使ってやっぱり歩いてとても疲れて、真夜中に一人取り残されたことがあって、仕方ないなあ、となった。ものすごい成長速度のひまわりがあって、いつもいつも太陽に向かって伸びちゃって、ぐんぐんぐんぐんすごい勢いで伸びちゃって、地球を一周して二周して三周して、赤道ならぬ緑道ができて、そんなことはないか。あたりはもう、まっくらだった。気がつくと私は家の中にいた。家の中の部屋の中の布団の中にいた。瞼を閉じると、瞼の中にいることになった。目を開けていると、目玉は二つって感じがするけれど、目を閉じると目玉は一つって感じがする。不思議だ。もっと言えば、目を閉じてじっとしていると、頭から手足が生えていて、胴体なんかない気がしてくる。不気味だ。気がつくと私は、家の中にいて、部屋の中にいて、布団の中にいて、瞼の中にいて、夢の中にいた。マトリョーシカの、一番奥の奥の、ピーナッツの殻みたいなやつの中で、体育座りをしてうつつを抜かしているみたいだった。今頃、学校で別れた嘘太郎は今頃、どこでどうしているだろうか。真夜中だし、嘘太郎も夢の中にいるだろうか。同じ夢の中にいるなら、会えそうなものだが、見渡しても見当たらないってことを考ふるに、夢の中とは、たとえば東京都内くらい広々なのかもしれない。そんなに領野が大きかったら、同じ夢の中でも出会えないわけだ。人混みはそんなないけれど、登場人物少なめだけれど、果たして夢ってどのくらい大きいものなのだろう、ふと疑問に思って、そもそも暇だし、夢の中ってこれと言ってしなきゃならないこともないし、そもそも夢見たくて夢見てるわけじゃないし、夜、疲れたから身横たえてたら、夢の方から勝手に私を取り込んでかといって虜になる程夢が魅力的なわけじゃなし、夢の中で無為に過ごしていた私は、夢の世界の測量を始めることにした。夢の世界の地図を作ることにした。夢の世界で伊能忠敬になることにした。それを人は夢日記というのかもしれないけれど。目覚めたら方眼紙に、広大な夢の世界をコンパクトに描きこんで、一般に頒布しても良い。夢の世界の座標軸さえわかれば、示し合わせて待ち合わせもできる。といっても、測量のための専門知識も、技能も、道具一式もないわけだから、ひとまずどんどんなるたけ一直線に歩いて、歩数を数えることにした。ずっとずっとうつむいて、ただただ歩いているだけの私を、夢の住人たちは新奇なものみるように眺めている。五百歩くらいこっちからあっちへ歩いていると、数えるのも歩き続けるのもじれたくなって、地団駄を踏むビートで歩を進めていると、自然次第肥大、股下が長く長く伸びていった。願望が、実現するのだった。透明なエレベーターに乗って急上昇するみたいな視野で、細く細く細く長く、伸びゆく二の足と眼下に広がる夢世界を見下ろしていた。手放すとどこまでも浮上して心細くなる風船のような靴下だった。一歩がめちゃくちゃでかくなる。一歩ごとに、地中深くに根を張った雑草を毛根ごと引っこ抜くような、快感が伴う。足を振り上げる、というより、深く深く深く深く沈下した細長きものを途中ちぎれないように、慎重に引き上げ、引っこ抜き、天日干しにするような快感だった。よし、これで歩数と時間の節約ができるけれど、代わり一歩一歩がめちゃくちゃゆさゆさする。蛇口につないだホースに思い切り水を流入させた時のようにのたくる足だった。釣竿のようにびゅんびゅんしなった、足が、リールのように吹っ飛びそうになった、頭が。風がびゅうびゅうほおをかきむしる。空を飛ぶのも、足の長さが東京タワーと同じだけになるのも、実質は同じなのだな、と理解する。一歩一歩が反動でヘッドバンキング、首がもげないかと心配である。脳みそは少しくらい溢れたかもしれない。足だけ伸びて上半身が小粒のままだからこんなバランスが悪いのだ。紐のように長く、干物のように細り切った足は、まるでぴぃんと張ったギターの弦のように、一っぽ一っぽの振動で、びぃんじぃんと空気を震わせている。膝が超震える。この世界が一個の弦楽器の空洞で私の足が二本の鉄弦の役割をして、超重低音の響きが世界に満ちて、夢の世界の住人の皆々が鳥肌だって、鳥になって、皆一斉に飛び立った。手品師のシルクハットの中みたいだ。測量のことは少しだけどうでもよくなって、歩いたり、飛んだり跳ねたり、走ったりした。鍵盤の上を走るみたいに音色がなった。せっかくここまで測量したというのに、私の足跡で、地形がどうにかなっていた。朝日が今日も舞い戻って、私の頬を差す頃、私は頭の上半分だけ目覚めはじめて、まだ、下半身は夢の中におり、夢と現の半身浴、といった風情なのだけれども、ああ、これから目覚めるのか、と思うと、なんだか、むなしくなってもったいなくなって、立つ鳥跡を濁すの方式で、首から上だけ目覚めた段階で、目をはしばしと瞬きながらも、未だ、夢の世界に残った首から下、というか、細長き二の足で、揉みくちゃに、足と足とが紙縒れるくらい揉みくちゃに、踏みしだいた。その際、地と天とをつなぐ両足は、稲妻か竜巻のごとき様相を呈した、のだろう、と思う。目覚めが、胸、臍、腰と降下する頃には、夢の中の両足は、針金でできた毛糸玉のように、鋭角的に折れ曲がりながら、こんぐらかっていた。ひどくいやな予感にかられながら、目覚めが、腰、尻、腿、ふくらはぎ、足裏、へと波及するのを待っていると、案の定、両足が攣っていた。ひどくぴくぴく痙攣していた。寝違えたんだ。酷い夢のせいで、寝違えたんだ。寝違えたんだ。痛い。痛い。それはさておき、夢の中で、よほどばたばた両足をはためかせたためだろう、夢の世界ですっぽり靴下が抜けていたようで、目覚めた時には素足だった。ああ、やれやれ、また今夜も夢の世界へ忘れ物をしてしまった。物忘れは損である。靴下だって数百円するのに。痛い。痛い。いつもは、夢の記憶を忘れてしまう。夢の世界は私の記憶でごった返してしまう。いっさい手をつけられず最終日を迎えた夏休みの宿題みたいに、うずたかく、記憶だけで五重の塔ができそうなくらい、もう思い返されることもない私の記憶が層になって、夢の世界を覆っている。夢の世界の地層は私の記憶。痛い。痛い。生理は今夜も終わっておらず、シーツの上を何重にも紅く染めていた。私の足元は、血にまみれており、波紋のようにシーツがしわくちゃだった。痛い。痛い。痛い。痛みが後数分続いて、苦痛が苦い珈琲の役割を果たしたなら、照射する朝日を覆うカーテンを目一杯まで押し広げて、窓を開け、窓から身を乗り出し、窓枠を越えて、散歩に出かけよう。窓から家出をすると、その気分は猫になれる。玄関で靴を履いていると、さもさも人間だな、って感じがする。靴べらなど使うと、なおさらだ。そもそも人間。もそもそ人間。私は芋虫のようにベッドの上でうつ伏せていた。階段の前で立ち尽くしていると、小人の気分になれる。締め切ったガラスの前で行ったり来たりしていると、水槽の中の熱帯魚の気分になれる。散歩に出かけるならば、猫の気分に粧ひたかった。痛い。痛い。疼痛疼痛、ツーツー、トントン。手負いの猫。あわれな猫。早く四本足で立ち上がりたいのに、ベッドやシーツが絡みついてうまくいかない。泥の中にいるみたい。声が漏れる。「ああ」足の痛みを解消しようと、大腿部から切り離したら、もっと痛い。そういうのはよくない。痛いだろうなあ。痛いだろうなあ、の、あ、を少し伸ばすと、ああ、それが私の声の正体だった。詠嘆。どれ程痛くたって、時の流れに身を任せるほかなくって、漬物だって、はじめ漬物石に押しつぶされて、痛々しいけれど、しまいには解放されるのだ、食べられるけど、切り刻まれる食材、空腹を呼ぶ。唸る私の腹腔が朝飯時。お腹減った。下半身だけ操り人形になって、ひくひくと見えない糸に釣り上げられような痛みだった。上半身は糸が切れており、ぱったりと倒れている。いい加減にしてほしい。お腹減った。やっぱ眠い。夢の中へデリバリー頼みたい。それは植物人間。私の心臓の鼓動が、痛みによって分散したり集中したりした。太陽に、乱反射する宝石をかざして、振り回すみたいだった。私の心臓の鼓動が、脈拍が、琥珀となってきらきらと輝く朝だった。すり抜けるのが得意なのかカーテンの隙間から細く長く差し込む朝日は、そのか細さと境界の明瞭さで、まるで白い影のような印象を与える。印象と印度象は似ているようで似ていない。印象は軽いが、印度象は重い。印象は思いが、印度像は重い。印象は軽い、印度象はカルカッタ(軽かった)とかにいる、たぶん。白い影というのは、もう幽霊と同義で、あともう少しで手をつなげる。伸びをする。私は起き上がる。起き上がったって、横たわってたって、どっちみち痛いのだから、起き上がる。起き上がったら、とても痛みが響いたので、つっぷする。起き上がったり倒れたり起き上がったり倒れたり、誰も見ていない。倒れる、という動作にはエロスが内包されるが、誰も見ていない。まるで見えない波にさらわれてたゆたっているように、起き上がる倒れるという、己の動作にもみくちゃにされる。シーツをただ、事細かにしわくちゃにするために、動いているみたいだ。関節が連動せず、例えば、手首の返しだけで、身じろごうと蠢く。
巨大な手のひらが私を覆っていて、草団子のようにこねくり回されているみたいだ。テレビゲームのコントローラーにアナログスティックとして埋め込まれて、ぐりぐりやられているみたいだ。蠢く。動く。蠢く。動く。動くをモザイク上にしたんが蠢くで、そのモザイク上のざわめきを、肩肘掌、腿脛足首、と漣立たせるのが動くだった。起き上がる、起き上がりかける、離陸する、着陸する、倒れる、倒れたままひくひくする、というリズムがすこしおかしくて、自傷行為か、舞台のリハーサルみたいに、反復する。反復すれば反復するほど反復しやすくなって、滑らかに、ベッドが軋む。倒れたままひくひくする、を、少し過剰に演出して、ひく、ひく、ひっくり返る。なぜ蛙は、あんなにジャンプ力があるのに、バク宙やバク転をしないのだろうか。飛蝗もそうだ。身体能力の低い私は、いつもそれを宝の持ち腐れとして、羨んでいる。蛙や飛蝗が転校してきたら、私のスクールカーストは、彼らの下にひれ伏してしまう。運動神経の悪い私は虫けら以下だ。彼らは虫けらだ。ばね仕掛けでひっくり返ったあと、天井を眺めながらそんなことを思う。私のひっくり返り方はあまりにショボかった。開いていた本の頁が、風に吹かれて、ぱたんとめくれるような、ただそれだけの動作だった。何も印象的でない、右から左へ受け渡すような、無意味で無価値動作だった。私がこの世から消滅する瞬間も、これと似たしょうもない動作を発作的に一つして、それで終わってゆくのだろう。背中がかゆいなあと思って、かゆみへ手を伸ばそうとしたら、なかなか手が伸びてゆかなくて、なんだかまるでそれが長い旅のようで、その中途で力尽きて、終わったりするんだろう。気がつくと、痛みは跡形もなく消えていて、力なく横たわっているだけだった。こんな短時間で、傷んんだ肉体が修復した、とは思えないから、痛みを感じる私の神経が、いい加減すり減って、眠りに落ちたのだろうと思う。その眠りを妨げないように、そろりそろりと、慎重な動作で、ベッドを抜け出す。抜け出した。足音をごまかすように、時計の針の、ticktack、に合わせて、歩行した。秒速で歩いていた。秒の速度で歩いていた。くるり、と時計回りに一周、反時計回りに一周、準備運動みたいに右往左往して、時間の無意味と判然とした。毛長いカーペットに、乾ききらない経血を擦り付けるすり足で、クローゼットの前で目的を思い出して、これから猫になるのだった、猫の気分を身に纏うのだった、パジャマのままでも、猫的ではあるけれど、より安っぽい格好に、肌寒く、けれど、肌の露出少なめの、いい塩梅の毛並みを、衣服で表したかった。ぶかぶかのパーカで肉体に丸みをつけるという浅知恵くらいなもので、それは、私が猫になる、というよりも、私の気分が猫になるための工夫だった。私の気持ちは、幽霊のように、変幻自在、無味無臭だけれど、確かに形取られた、私の気持ちだった。パジャマにパーカという不格好さはさておき、春の日差しと相まって、猫の毛皮に包まれたかのようにぬくぬくとする。ぶかぶかのパーカはふかふかのパーカでさっきよりなお微睡みたくなる。カーテンをかいくぐり、窓枠に取りすがり、舌足らずに、にゃあ、と鳴く。その一声で、爪が伸びれば良いのだけれど、それはそれ、深爪のまま。あくびと見まごう、緩慢な鳴き声であったけれど、というより、猫ってあくびするときもなくけれど、眠いのではなく、猫なのだ、と思考の弱さを下等動物になすりつけて、随分と猫当人らには嫌われそうな偏見で猫を演じる。深爪のせいか、随分とつるつると滑るのだけれど、背丈を利用して、窓枠から身を乗り出す。眼下の芝生の上にはスニーカーが一足用意してあり、それはいつものことで、というのも、今日は水曜日だから。水曜日はいつも、窓から家を逃れ、猫になるから。というより、私は、学校へ通わぬ日は、割合猫になりたがる性分だから。今日は水曜日、昨日は火曜日、学校に通うのは火曜日だけと決めており、だって、通う日は火曜日だから、という多分私以外誰も納得しないだろうな、でも、これも理屈なのだ、という私の信念で、ずっとそうしてきたから、今日まで、なので、昨日は、帰宅するとそそくさと明日、つまり今日から、猫になる下準備をしていたから。猫になるためには、玄関からではなく、窓枠から屋外へ、身軽く飛び出さなくちゃならない。猫なのだから。かといって素足でアスファルトの上をタタタ走れるほど、私はそんな野生児じゃない。足裏の柔肌を破かないよう、これだけは履いて行きなさい、とまだ人間だった昨日の私が、軒先に機先を制して用意したスニーカーで、窓枠に馬乗りになった私、半分猫になりかけた私が、すとんと、そこへ着地する。うん、今、猫になりきった。猫とは、そのしなやかさからもわかるように、種族というより動作である。飛んだり跳ねたり転げ回ったりといった猫的動作によって猫は猫たり得るのだと、思われる。とはいえ、泥団子のように、日向で丸まった、生ける屍と化した猫も、確かに、あれは、猫だけれども。その辺が、難しいところだけれど、メリハリ、ってやつなのだろ。あとは鳴き声。人間の語を発しちゃいけない、せいぜい、口いっぱい、団栗を詰め込んだ栗鼠のように、無口になれば良い、いつもの私を徹底的に。その上で、時折、猫のように鳴けばいい。素足にスニーカー、というのは、切なくなるほどささやかな反社会的行為だが、自然への回帰でもあった。スニーカーは少しずつ、私の色に染まっていった。私は中学二年生だったが、だいたいにおいて猫でもあった。シャンプーの匂いがする猫だった。お腹を空かした猫だった。夜が明けたばかりだったから、空は乾き切らない絵の具のように潤んで見えた。私は猫だけど二足歩行で歩くから、猫にしては珍しい猫なのかもしれない。調子に乗って片足立てば、世界に一匹だけの猫かもしれない、猫になった私は全能感に溢れていて、些細なことで、厳密さとか忘れちゃって、唯一無二の存在になれる。さらに調子付いで、ヨガのポーズで、にゃあにゃあと鳴こうか。主題を見失って、本末転倒、という気がした。私は猫で、さも猫らしい猫で、猫の目でこの街を眺めて、猫の足でこの街を歩いて、そこに趣旨などないけれど、でも。街には私以外猫らしい姿は見えず、皆手袋とかマスクとかしていた。花粉症の季節だった。通勤通学にはやや早いから、みんなジョギングとかしていた。だから皆、すごい勢いで私に近づいてきたり、私から遠ざかって行ったりするものの、住宅街だというものの、ほとんど人には出会わないで、たまに散歩中の犬と出くわすと、私は、じっとその犬を見つめるのだった。猫と犬といえばにらめっこ。負けたくない絶対に。けれど私のはひとり遊びみたいだ。私は猫なのに。あなたは犬のくせに。犬は私を見てくれない。どうしてこの子は私に向かって吠えたり噛み付こうとしたり、威嚇しないのだろう。そしたら、私だってふしゃあ、と湯気吐くように返礼して、塀の向こう側へとよじ登って、ああ、怖かったと、ため息一つつけるのだけれど。その犬は、猫とともに育てられたのか、私という異性に、一切動じない。この犬もそうだ。あの犬もそうだ。気不味い話題を提供されたみたいにそっぽを向いて、電信柱を匂っている。頰肉は垂れ下がったまま。これ見よがしに「にゃあ」と鳴いた。私は私でここにいるよ。少しだけ犬をおちょくり、挑発してみたかった。気がつけば犬も飼い主も遠ざかっており、私は一人マンホールの上に立っている。そこがすごろくの升目みたいだ。まだ、ゴールじゃない。彼らの影が、まだ私の足元に残っており、ふん、と苛立ちまぎれに踵をねじ込んだ。意味のない復讐だった。復讐はいつだって意味がない。私が、執拗に踏みつけたから、というわけでもないだろうけれど、彼らの影はしゅるしゅると、私の足元からしぼんで消えた。穴の空いたポケットみたいだが、私の足には穴がある。止まっていた経血が少しだけ滲んできて、少しだけ後悔した。痛みはないけれど、不愉快さが額縁のように縁取られ、印象付けられる。というより、不愉快さが印章みたいに私にぶら下がっている。犬にシカトされるようでは、猫としておしまいだ。けれど、私はいつも、おしまいなのだった。おしまいの猫だった。やっぱり、アレか。尻尾か。尻尾が生えていないからか。あるいは、耳か、耳が生えていないからか。ヒゲかも。笑うしかなかった。「にやにや」猫は泣きながら笑うことができる。「にゃーにやにやにゃー」それだけのことだけれど。歩いていると風景が変わる。時間も私の歩く速度で流れていく、夕暮れだった、さっきまで、朝ぼらけで、家々の内側から始終あくびが聞こえていたのに、それが証拠というように、橙色の明かりに照射された。ざわざわざわ、と樹々がざわめいている。ちょうどお見合いのように、二本の大樹が向かい合って、と思いつつ、どちらが正面かなどわからないけれど、だから、尻相撲かもしれないけれど、その堂々とした体格からは、私は力士を連想して、揺らめいている様から、大相撲の土俵入りから四股踏みが見えてて、これから何か始まりそうで、けど始まらない、樹だもの。まるで、この辺り一帯の何かと何かを代表するようにメンチ切り合う桜と銀杏だった。ざわめき、とは、動静や陰影というより、ただ、音で、何千何万という葉っぱが、風に後押しされ、メビウス型にドミノ倒し、こすれ合っていると、なぜだか、私まで、私の心とか私の葉っぱとかまで、葉っぱと同じ数だけ分裂して、こすれ合って、泡立つんじゃないか、と思えた、思えなくもなかった。目を閉じるとふわああ、とするところを鑑みるに、私の体まで、蒲公英の綿毛のように、一陣の風と共に分解してしまいそうだった。ただ、重力があるために、積み木の分解は、積み木の倒壊にしか、ならないのだった。私はすとんと収まるように、木陰に座り込んでいて、背後から抱きしめられた時の気持ちで、どちらの場合にもそうであるように脱力していた。
安心を醸し出す相手に抱きしめられた場合安心安全の法悦だし、不安を掻き立てる相手に抱きしめられた場合、非力だから私、どうしようもない、虚脱と脱力は違う、ってそれだけの話かもしれないけれど、自己放棄って点ではおんなじか、抱きしめられると動物、というより、植物に近くなる、花束。そんなだから、もう、正直、猫とかどうでもよくって飽きていて、そのくせ思い返したように「にゃあ」と鳴くけど、死にかけの蝉の生存確認の鳴き声みたい、本物の猫だって、自分が猫であることとかどうでもよくなって、道ゆく人に懐いたり、風と遊んだり、鳥と話したり、する、じゃないか。私の手のひらには、一匹のヤモリが捕獲されている、さすが猫だ、けど、そのヤモリは嘘太郎ではない。手のひらサイズの嘘太郎がいたら、愛らしいけれど、後生、不便だ。桜の樹陰を這いずり回っていたから、思わず、嘘太郎かと思って、捕まえたのだけれども、等身大の人間大ではなくって、普通のヤモリで、もしかしたら、嘘太郎の親戚かもしれないけれど、友達の友達が他人であるように、嘘太郎の親戚も私にとってはただの爬虫類だった。となると、嘘太郎と友達でもなんでもない人たちにとっては、嘘太郎当人も、ただの爬虫類なのか。すこし寂しい。街には嘘太郎の気分が漂っており、こうして、彼と離れ離れでも、彼に繋がる何かを、か細く感じることができた。遠い隣人が味わう煙草の煙を、深呼吸で味わうみたいだった。誰かの酒臭い息に、酔っ払うみたいな感じだ。それを気配とか雰囲気というのかもしれない。彼がヤモリで良かったと思えた。仮に嘘太郎がどこからどう見ても人間で、ヤモリ的要素がゼロだったとしたら、私は道ゆく人間一人ひとりから、嘘太郎の片鱗を感じて、嘘太郎と見紛うて、彼らにつかみかかったかもしれない。私の両手の隙間から逃げ出そうとヤモリがもがいている。ヤモリが、ヤモリも、ヤモリが、ヤモリも、もがもがもがもが、もがいている。舐められる噛みつかれる蹴爪ずいている。人間相手にこんなことをしたら、大変な乱闘になるから、省エネだな、と思う。ヤモリにとって私の手のひらとは、人間にとって、サハラ砂漠の真ん中にぽつん、なのかな、と思うと壮大で、残っているふおの手のひらを眺める。頭脳戦が地平線のように見える。嘘太郎は確かにヤモリだから、天井を走るヤモリや、草葉の陰のトカゲ、小川を泳ぐイモリなどを見かけても、嘘太郎を連想する。というより、連想の下地はすでに出来上がっていて、何か目に見えるきらめきを感じたいから、何かにつけて、ヤモリらしきシルエットを目で追いかけるのだろう。かといって、直接に嘘太郎に会いに行こうとしないところが、私の怠慢だ。出会ってしまってはダメな気がする。ふと見た月の輪郭から、彼を連想できる方が楽しい。誰の声でもない彼の声で耳鳴りを一つデザインしたい。耳飾りの代わりに耳鳴りを、誰かの発音を非人間的に歪めることで、ゆわん、と。ゆ、わー、ん、と。ゆ、って弓の、ゆ、みたいだな、と思うけれど、み、っも、下方に構える弓矢みたいだな。論理的な推論のみで、家からここまでの足踏みの数と、彼の心臓の鼓動の数をつなぎ合わせたい、コインの裏と表にしたい。とはいえ実際に会うのも悪くはない。アイス珈琲の中の氷は、珈琲を冷やすことが存在の意義だけれども、終いに飲み干されかけた珈琲の中で、混じり合って、珈琲とミルクとは別の、透明と黒で墨絵みたいなグラデーションを作る頃、舌先をぴちゃりと直接に冷やすのも、悪くない、氷から溶けでる水気だけ、細長きストローですすりあげて、珈琲の濃度に応急処置を施すのも、嫌いじゃない手間暇で、すこしでも長く、珈琲を飲んでいる気分を長引かせる。好きでも嫌いでも美味しくも不味くもないのだけれど、私は、溶けかけのとけ切ろうとするアイス珈琲の氷片を愛でてしまう。そんな感じに嘘太郎の実際のことを思う。どんな感じだか、わからなくなる。珈琲の中の氷ってコーヒーを楽しむための間接照明だけれども、それ自体に愛らしさがあるって話だったか。嘘太郎は私が世界を楽しむための緩衝材だけれども、それ自体に、愛着がある、ぬいぐるみ、みたいだ。想像上のアイス珈琲の方が、嘘太郎より、味覚を刺激するから、嘘太郎のことを半分忘れて、ぼうとするけれど。少なくとも、嘘太郎には味はないから。けど、匂いはあるし、温かみはある。アイス珈琲の溶けかけの氷、そんな感じが嘘太郎だと思う。嘘太郎は、常に溶けかかっている、気がする。雑居ビルのガラス面にへばりついて、はためいている嘘太郎は、いつもどこか、溶けかかっている気がする。酸性雨のせいだろうか。嘘太郎を溶かす何かがあるわけじゃなく、けど、それは消尽でも消滅でもない気がして、輪郭のぼやけ、こぼれ、この街全体が溶液で、嘘太郎の何か、嘘太郎の生命を損なわない程度の何かが、この街へ溶け出して、例えば、この私の突き出した舌に張り出した眼球に、味覚や疼きを与える気がする。一方、私だって溶けたいけれど、私だって溶け出したいけれど、かわいそうだから、掴んでいたヤモリが逃げ出した、満員電車のトイレに立てこもる先客に、怒りのノックをかました後、けど、こんなことで怒り狂うのも狭量だ、と思い直し、握りしめた拳、解くような感じだ、ふわあ、と呼気を放つとそのふわあ、は、どこまでも上昇して、その上昇に引きつられるように、私の一部も、上昇して、ひきちきれて、拡散するような気がした。私が凧だったら、絶対、子供泣かす。子供なくす。家出する。鎖に繋がれた犬と、放し飼いの猫の中間形態が糸に繋がれた凧、だろうけれど、そこには、脈絡のなさというミッシングリンクがある。私が糸に繋がれた凧なら、嘘太郎は雑居ビルにへばりつくイモリか。ミッシングリンクとミシシッピリバーはなんとなく似ていて、どちらも隔たりって意味解釈ができる点でも合致してる。私は先ほどからすごくどうでもいいことを考えているけれど、それは飛び散る桜の花びらが眩暈だからか。桜の花びらは人を酔っ払わせる効能があるから。きっと。凄腕のサーファーならば、乗りこなせそうな、すごい勢いの花吹雪。犬の毛や猫の毛も桜の花弁で、身震い一つでこうなったら、犬猫アレルギーがすごそう。今、ここに、嘘太郎が、いたら、あれやこれや、朴訥に甲骨文字で話せるのに、残念至極だ。けど、まあ、いま思ってることをそっくりそのまま、コピペして、今度嘘太郎にあったときに話そう。何日かかるかわからないけれど、フランス料理みたいに一品ずつ。埋もれる。埋もれる。埋もれる。埋もれる。桜の花びらは容赦がなく、重力は偉大なので、埋もれる。重さはない。軽い。しっとりとした質感が、重さとは違う情報で私の私の意識を埋める。桜色の点描画になった気分だ。羽毛ぶとんにくるまっていると、いつも、手羽先になった気分を味わい、味わい深い夢をみるけれど、これは、今は、どんな気分。それから、幾星霜が過ぎた。清掃員が、桜の花びらも、刈り取られた夏草も、秋の落ち葉も、あと積雪なんかも清掃した。私は地元の公立高校に入学し、嘘太郎は地元の国立ヤモリ大学校に入学した。埋もれる。埋もれる。
埋もれる。私は今でも桜の花びらに埋もれるのが好きで、埋もれては目覚め、埋もれては目覚めを繰り返していた。まぶたのように薄い花びらの中、花びらのように薄いまぶたをぱつりぱつり、させるのだった。ひとえふたえひとえふたえ。けれど、ここは寝床じゃなくって、嘘太郎との待ち合わせまで、日の縮尺を測っていただけだった。透明に起き上がる。立ち上がってぷるぷる震えても、まぶたや額や耳うらに張り付いた花びらは取れなくってご愛嬌。泥だらけで遊んでいた子は泥臭い。私の手のひらは、ヤモリの体温の匂いがする。変温動物のヤモリをぎゅっと握りしめていたってことは、あの時、私の体温が彼のヤモリに移ったってわけだ。それがなんだ、というわけでもないけれど、それがなんだか、というわけでもあって、私の体温を身に纏った小動物が、木を這いずり、蛾をぱくつき、性行をし、卵を孕むか卵を孕ませるかして、それからなんだかんだあって、線香の火のようにふしゅんと消える。着火したネズミ花火の行く末を俯瞰するような心持だった。あの時、この場で、ヤモリ逃して、何年にもなるけれど。堪能した後は余韻が残り、余韻ってなんだか、酩酊に似てて、一歩二歩とほとほと歩を進めるのだけれど、首からぶら下げた写真機が邪魔をして、つねに胸元掴まれている気分で、胸閊えて、埋め合わせるみたいに背伸びしたり、ググっと身をねじったりする。経血を踏みしめているのは相変わらずで、ホワイトパズルを連想させる、とはいえその連想の度合いは、ひび割れる氷床ほどではない、雲から雹になる様は、まさに、上空をたゆたうホワイトパズルが、雷の一撃で、ぽろぽろに砕かれてぽろぽろという感じで、敷き詰められた桜の花びらの上を、革靴が吸いきれなかった余分の血が、遅れてやってくるレッドカーペットみたいで赤く濡らす。一歩一歩が朴訥で、擦り付けるような痕跡で、そっと踏み下ろしても、痕跡は書き殴ったような乱暴さで、一歩ごとに出来不出来を賞翫しながら、ここまできた。けど、一風とともに、キュビズムって感じに、一定の意味なしていた私の足跡群が、攪拌される。足跡って不可思議なもので、二本の足から多量に生産される。ふっと振り返り、視界いっぱいに足跡を眺めやると、まるで私が、複数の私たちであるかのように錯覚する。花びらの圏外に立つ。追いかけてくる花びらはいない。嘘太郎はここには来ない。待ち合わせているのは別の場所で、私は一日暇だから、一日暇だと一日中をかけて、下手をすると三日前くらいからずっと、嘘太郎のこと待っているようなもので、仕方ないから煙草は百本吸っちゃうし、一人で待つのは寂しいから、駅のホームで電車待つ人の傍らで、乗りもしない電車待ったり、開演前の映画館の前でうろうろしたり、ポケットから両手を出したり入れたり、写真機に向かって喋りかけたりしていた。最終的に、桜の木の股座に横たわって、桜の花びらに埋もれる道を選んだのだけれど、時計は普段着用しないのだけれど、なんだかそろそろいい時間な気がした。嘘太郎待ってるかな。私が待ちわびた万分の一秒くらい待ちぼうけを食らわせたかった。思わず冬眠しちゃうくらい待っていればよかった。待ち合わせ場所は駅前だった。二人で電車に乗るのだった。楽しみだった。嘘太郎は果たして、並んで座席に座ってくれるだろうか。それとも、天井に貼り付いているだろうか。だとしたら、吊革がわりに、嘘太郎のたらりとぶら下がる手をつかんでいよう。ゆらゆら揺れる電車の中で、嘘太郎をつかんでいよう。のんびりと歩き続ける。歩けど桜である。季節だから。何かの安全地帯のように、ところどころに桜の樹々が植わっていて、何かの合図のように、そろいもそろって散り際だった。そろいそろいと歩く。そろそろと歩く。のろい。緩慢にビデオ再生される、飾り独楽のように、一歩ごとに角度を変えて、く、る、り、と振り返ると、背中が安全だ、なんだか、背中が安心な背もたれに包まれているような気がする、さっきまで視界に含まれていた風景が、私の頭の中で、私の背中の肉を包み込んで、そこには情報があって、知覚があって、なんだか、いつ無重力になっても、安心で安全な気がするから、く、るり、くる、り、く、るり、と旋回していける。桜の花びらは、ひらひらで、私の前身はくるり、くるり。桜の花びらは、雪よりも、溶けるのが遅い。溶け出す氷床や冠雪の代わりに、桜の花びらで、世界を満たしては、と国連で議会中。桜の花びらは、一日二日ならば、溶け出さずに、一面の薄桃で、地上を覆っていられる。私の体温が伝わったようで、私が踏みしめた箇所だけ、敷き詰められた桜の花びらが、黒く滲んでいく。ふっと気がつくと、スポットライトから身をはみ出したみたいに、桜の花びらの圏内から、また踏み出していた。主役でなくなった気分だ。平凡な路上へ戻る。どこにでも民家があり、そんなつまらないこともないだろうに、犬が吠えている。ほえええいる。おえええいう。いうあおえええいう。四つ這いになると勇気でも増すのか、声の反動で地面に食い下がりながら、桜の花びらより、もののあはれな、こんまいチワワが私に向かって吠えている。儚いなあ、と私は思う。住宅地は、いく筋もの川に小川に用水や溝に分断されており、金管木管管楽器のように、川は大きさによって音色が違わないのは耳寂しいな、と思う。川も小川も用水も溝も、皆同じような音程で流れている。ソプラノのような用水路、アルトのような小川、テノールな三級河川、河川に三級はないそうだけれど、今、橋の下を流れるそれを、どう指し示せばいいのか、私にはわからない。水溜りからは鉦の音がして。涙は、風鈴みたい。だったなら、な、と思う。もしそうだったなら、ウルトラマンみたいな聴力で、街の中心で、街の流れに耳をすませたい。橋はレゴブロックみたいにそっけない作りで、固形で、私が飛んだり跳ねたりしても、一切揺らがない。名前をつける代わりに、これでもかと赤赤く塗られている。視界のはるか川下に、緑緑した、光合成でも起こしそうな