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2025-02-15 11:24

#124 “首尾一貫していない”人間らしさが好きな人

サミング・アップ/モーム
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絶望カフカの何者かになりたいラジオ、この番組は元アスリートのカフカが日々の絶望と些細なヒントをお送りするラジオです。
好きなスライムはスライムです。
さて今回はですね、首尾一貫性が欠如しているのが人間だ、というお話をしていきたいと思います。
あの人はいい人だとか、悪い人だとか、ずるい人だとか、そういう人を一面的に捉えてしまう傾向というのが、人間の心理傾向としてあるんだと思います。
実際に行動経済学として、そういう傾向にあると言われていたりするんですが、
そうではないと、人間というのは首尾一貫性が欠如しているのだと言っている人がいまして、
その人がなぜそういうふうに言っているのか、そのロジックも含めて今回はご紹介をしながらですね、
人間というのは首尾一貫性あるのかないのか、それを皆さんと一緒に考えて言えたらいいなと思っております。
さてでは、どの方が人間というのは首尾一貫性が欠如しているんだと言っているかというと、
作家のサマセット・モームという方ですね。
この方は1874年パリに生まれています。
代表作として人間の絆を書かれている作家さんですね。
20世紀のイギリス文学の傑作を生み出したと言われている方です。
この方のエッセイでサミングアップというものがあるんですが、その中で先ほどの言葉を紹介しているんですね。
そのエッセイは何を書いているかというと、自分の生涯を締めくくるような気持ちで、
彼は実際64歳でこの本を書いたんですが、人生や文学について思うままに率直に書いていったエッセイ集になるんですよね。
では本題に入っていきたいと思うんですが、彼はこのエッセイ集の中でこんな風に言うんですよね。
私は皮肉屋だと言われてきた。人間を実際よりも悪者に描いていると非難されてきた。そんなことをしたつもりはない。
私のしてきたのはただ多くの作家が目を閉ざしているような人間の性質のいくつかを際立たせただけのことである。
人間を観察して私が最も感銘を受けたのは守備一貫性の欠如しているということである。
守備一貫している人など私は一度も見たことがない。
そんな風に彼は言っているんです。
当時からすると、人間の一面性を取り上げた物語、小説というのが多かった。
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その中で、モームの小説の中では人間の善の部分と悪の部分を持ち合わせたキャラクターを登場させた。
それが当時画期的だったんでしょうね。
だからこそ、守備一貫性が欠如しているのが人間らしいという彼の主張があります。
そして彼は具体的にこんな風に言うんですね。
同一人物の中に両立できぬように思える諸性質がどうして共存し得るのか、私は何度も試案してみた。
例えば、自己犠牲を厭わぬ悪寒、悪い男と書いて悪寒ですね。
例えば、大穴、気立ての細泥。
例えば、もらった金に相当する報いを客に与える勝負。
彼らに守備一貫性が欠如している、善と悪の両立が見られるのは
なぜかというと、私の思いつく唯一の説明はこうだ。
人間は誰しも自分はこの世の中に類のない存在であり、特権があるのだという確信を本能的に有している。
このため自分のすることは他人がすればどれほど誤ったことだとしても、自分にとっては当たり前で正しいとまでは言わぬとも、
少なくとも許されるべきだと感じているのだ。
こんなふうにモームは言っているんです。
つまりどういうことかというと、自分が善だけではない悪を持ってもいいと思うのは、
まあそれぐらいは許されるんじゃないのって自分の中に何か折り合いをつけているから、
その人の中に善の部分と悪の部分が持ち合わせられているっていうことをモームは主張しているんですよね。
なんとなくわかるような気がします。
そしてこの後ですね、モームは自分の物語の中にそういう善と悪を両立した人物を描きたい。
なぜ描きたいのかということをこんなふうに語っているんですね。
少し長いんですが読みます。
仮に私が人間の短所のみを見て長所に対して盲目であるとしたならば、非難されてもあまんじて受けよう。
しかし私はそんな非難に該当するとは思えない。
私は善人の善は当然しし、彼らの短所なり悪徳なりを発見すると面白がるのだ。
逆に悪人の善を発見したときには感動し、その邪悪に対しては寛大な気持ちで肩をすくめるだけにしてやろうと思う。
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私は害して人間を額面通りに受け取ったことはない。
人と会ったとき嬉しくて夢中になるような性質が私に欠けているせいかもしれない。
こんなふうに彼は独白をしているんですね。
少しわかるような気もしますが、かなり尖った考え方だなというふうに僕自身は思いました。
僕なりに先ほどの言葉を解釈するならば、彼自身は、例えば誰かすごく地位の高い人がいたとして、
その人が発している言葉、見た目、それを額面通りに受け取ることなどできない。
彼自身がものすごく善の人だと多くの人に思われていたとしても、彼自身の悪の部分というのが必ず存在していて、
そういう部分にすごく興味があるし、面白がることが私はできる。
そんなふうに言っているし、その逆もしかりですよね。
悪人だったり、わかりやすく犯罪者だったりすると思うんですけど、その中に善なる部分が見えると、
少しその悪人を許してやろうとまでは言わなくても、ちょっと肩をすくめる気分になる。
この話を聞いて、僕は海外ドラマのブレイキングバットを思い起こしました。
そのドラマでは、麻薬を製造する、販売する主人公が描かれているんですよね。
家族を守ろうとする善の部分と、麻薬を作ったり、時には人を殺してしまう悪の部分が共存している主人公が描かれていて、
ある種、人はそこに人間らしさというものを感じているのかもしれない。
なんかそんな風にも思ったんですよね。
これは平野圭一郎さんが言う文人主義、つまり本当の自分というのは一人ではなくて、
いろんな他者に見せるいろんな自分、そのすべてが本当の自分という考え方なんですけれども、
それともちょっと違うような気がするんですよね。
モームは明確に善と悪を分けて、悪なる自分も本当の自分、そんな風に言っているような気が僕はしました。
そういう風に考えると、他者の中に守備一貫性の欠如感を見出す、
つまりあんなに良い人の中にもちょっと悪いところがあるはずだとうがってみるよりは、
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やっぱり自分の中にその悪なる部分があると認めるっていうことの方が健全なのかなという風に改めて思いました。
どういうことかっていうと、モームの言葉を借りるなら、
人間は誰しも自分の物語の主人公でありたいと本能的に望んでいるんですよね。
その気持ちがあるから、ちょっとぐらいは許されるはずだという風に思ってしまいがち。
それは本能として仕方のないことなんですよね。
その悪なるものを消そうとするのではなくて、
それが人間なのだと、それが自分なのだと認めてあげることの方が大事なんじゃないかなって個人的には思いました。
例えば僕がどういう風にリスナーの方々に見えているのかわかりませんが、
でもやっぱり悪なる部分というのは自分の中にあって、僕の中にあって、
それを自分自身が認めていくっていうことの方が大事なんじゃないかなと思います。
それにね、リアルな人間関係にそういう部分を求めるというのは、
かなりカロリーを消費することだと思うので、
文学、映画、物語、フィクションの中に人間の守備一貫性の欠如感みたいなものを見出すということが、
人間の深い理解につながるのかなーって漠然と思ったりしました。
まあ自分がそれができているとは思えませんが、
でもそういったことを面白がれる、そういったことに共感するという意味では、
僕はモームの考え方にちょっと共感する部分ってあるなーって思ったんですよね。
はい。
というわけで今回は、人間の守備一貫性の欠如というお話をしていきました。
あなたは善の部分と悪の部分持ち合わせていらっしゃいますでしょうか。
まあ持ち合わせているのが人間だと僕は思います。
最後までお聞きくださりありがとうございました。
ではまた。
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