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“まち”とは思い出がある場所|ゲスト・加戸慎太郎さん
2026-09-21 17:42

“まち”とは思い出がある場所|ゲスト・加戸慎太郎さん

松山市の歴史にも詳しい!?加戸慎太郎さんにインタビュー!

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サマリー

松山市銀天街で生まれ育った加戸慎太郎さんが、商店街の音や東京との静けさの違い、外から来た人と地元の人で異なる松山の見え方を語ります。街は人々が関わるための器であり、「思い出がある場所」だという加戸さんの定義が示されます。松山では城下町の形成や町名、戦後の復興、銀天街の成立などの歴史が、現在の街の姿に重なっています。加戸さんは漫画や文献、写真、地域の人々への聞き取りから歴史を学び、過去を知ることで近年の変化も読み取れると話します。

銀天街で暮らす感覚と松山の見え方
よろしくお願いします。 加戸さん、どういう風にご紹介すればいいですか。いろんな肩書きを持っているんですよね。
どんな肩書きを持っているんですか? 肩書きというか、松山に生まれ育って、
生まれたのはどちらなんですか? 銀天街、港町です。
今もまさに銀天街の商店街のど真ん中で、インタビューさせていただいておりますけども、銀天街に生まれ育つってどんな感じなんですか?
今も住んでるんですけど、窓を開けたらアーケードがある状態でずっと住んでて、朝昼晩にいろんな音がしますよね。
どういうことですか? 朝の通勤通学の音もあれば、ごみ収集車の音もあれば、
昼間の街の音もあって、夜の音もあって、昔であればパラリラパラリラと。
この前であれば松山野球圏音もずっと流れてて。
それが当たり前なんですね。 環境として当たり前なので、東京に行った時もそれが当たり前だったんですよ。
だから感は変わらないというか、むしろ東京の方が、ど真ん中に行ったらそれとおかげなんですけど、住むところってちょっと裏手とか違うところに行くじゃないですか。
むしろ静かで、こっちの方が田舎じゃないかと思うんですよね。
東京はどのあたりにお住まいだったんですか?
東京は大学が受けたんで、不動前っていう駅のところと阿佐古ですね。
街の中じゃないですか。
そうですけど、住宅街なので。
銀天街よりは不思議な感覚ですよね。
東京の方が静かですね。
シーンと寝づらかったです。
今はいくついらっしゃるんですか?
今やっと今年で44歳。
44歳。44年間大学の間は東京にいらっしゃってて、松山銀天街で生活されてて。
生まれてから、小さい頃から今と変化というか、感じられますか?商店街の変化というか。
商店街というよりも、皆さんが街に対して思っていることの世代によって当然変化があって。
昔ながらのことを言っている人もいれば、今の街を見ている人もいたり。
特に松山というところは外からも人がいらっしゃる。
観光地ですよね。
観光とかですね。
実は都市部に関していくと、転勤とかでいらっしゃっているんですよ。
これ多分、私結構いろんな人に今まで話を聞いてきて、
元から松山にいる人に話を聞いたのと、転勤とかいろんなところで出入りされている方に話を聞いたのとほぼ違うんですよ。
どういうことですか?
分かりやすく質問したことが、松山市ってコンパクトだと思いますか?って聞いたんですよ。
コンパクトなっていう、一般的には自転車で全部行けるコンパクトな街っていうイメージの方が多いような気がしますけど。
これは多分、今も松山に住んでいる方によって言うことが違うかもしれないんですけど、
その時聞いたら、外から来た方はこんなにコンパクトで住みやすいところがないと。
もう楽園のようだと。今でも。
この商店街、めちゃくちゃ人が歩いててすごいですよね。
地方都市の中で。
これぐらいの人口で四国のここで、こんだけ歩いてて賑やかで立派な商店街ですね。
ただ、昔からいらっしゃる方はコンパクトじゃないって言うんですよ。
そうなんですか。
昔が多分もっとコンパクトだったから。
昔と比べるとコンパクトでなくなったように感じる。
っていう意味なんだと思うんですよね。
ただ、こんだけ違うんですから。
もう本当に右と左ぐらい言うことが違う。
昔からいる方と外から見る方が違うんですよ。
そうか。
だから、皆さんが思っている感覚の違いに、
こんだけバラつきができるようになったんだっていうのが、
この生まれ育ってから今の間での一番大きな変化だと思うんですよ。
なるほど。
街は思い出が集まる人々の器
街ってやっぱり生き物であって、
みんなが作ってきているものなので、
そういう意味では、いろんな人がいろんなことを言うっていうことは、
それだけ注目度も高くて、
それは人の数だけ価値観は違うので、
いろんな価値観で言われるっていうのも別に悪い話じゃないんですよ。
逆に、元気だよね。稼いだねって言ってる時点で、
もう人ごとなんですよね。
なるほど。
だから自分ごとの人が多い場所なんですけども、
どう言えばいいですかね。
商店街はクラス街がずっとなくて、
クラス街というのはA組、B組、C組、D組のイメージで、
やっぱり脈々と長く続いてきたからこそ、
やっぱり動かせれないところが結構あるんですよね。
それで場所柄も変えられないじゃないですか。
そうか。
だから商店街っていう話をしてしまうと、
ちょっと話が長くなってしまう。
この場所で話す時間がかかるので、撮影しますけども、
やっぱり一番のでっかい変化っていうのは、
その賑やかさ、活性化、
みんなが思う商店街っていうことが、
どんどん変わってきているという結論なんですね。
これからどういうふうに、
松山という街全体でもいいんですけど、
どんなふうになったらいいな、
みたいな考えてらっしゃることはあるんですか。
どんなふうになったらいいというか、
もともと商店街もそうですけど、
街という場所自体の定義って何かっていうのって、
これが大事なんですけど、
どう考えられます?
ずっと住み続けたい場所みたいなことですか。
いや、あのー、
そうですね。
私も全国ツーラルオーナーになるのを、
いろんな人に聞いてきて、
街ってどんな場所ですかって聞くと、
住みたい場所、賑やかな場所、
お店がいっぱいある、
いろんなことをおっしゃってたんですね。
じゃあ、ショッピングセンター、
住みたいじゃないですか、近く便利だし、
空調も効いてるし、
あそこどう思います?
街とは言わないですね。
まあ、確かにね。
買い物に行く場所。
街とは何か。
いや、考えたこともないですね。
これが、先ほどから話したように、
40何年間住んでて、
自分なりの結論と、
街ってどういう場所かなってなった時に、
そうか、みんなが作って、
みんなが関わるところの器。
いわゆる人と人の関わるための器みたいな。
わかります?
人と人が関わるための器ですよ。
場所みたいな。
っていうイメージで、
一言で言うと、
私がよく話すのは、
街とは思い出がある場所である、
っていう話をするんですよ。
思い出。
人と人が、
それこそ本当は100年じゃ聞かないぐらいの話も含めて、
紡いできた思い出。
歴史とか。
歴史とかっていうところが、
色濃く残った場所。
逆転すると、
器となり得たもの。
逆説的に言うと、
器になったところが街なんですよ。
松山の城下町と町名の歴史
どういうふうに松山は歴史的にもある?
歴史的に、
松山の歴史を話させていただきますと、
1600年ぐらいから城ができて、
松山という場所が広がっていったんですよね。
道後は道後であるし、
この銀天川大海道のところは長屋町。
長町っていうところが港町で銀天川になって、
大海道っていうのはもともと戸倉海道。
海道沿いであって、
川の地水で松山の城下町が形成されたときに、
南側は川で守って、
城下町の長屋町で形成して、
西側に、
ふだの辻って昔大丸があったの知っていますか?
知らないです。どのあたりですか?
今のおそらくアッパーホテルがあるあたりです。
本町のあたり。
ふだの辻ってまずあそこの石碑があるんですね。
そこから大丸も多分あそこに最初あって、
宅家店ですからね。
あそこ小町って昔あるんですか?
ありますね。
あそこがラクイジラクザだったらしいんですよ。
あ、そうなんですか。
後福町とか何々町とか、
いわゆる名前がついた町、東山町。
東山町は残ってますよね。
あります。
その北側に自社町。
だから自社が多いんですよ。寺とか。
あー、そうなんですか。
今その後戦後にあそこに軍隊の訓練所が、
鉄砲町とかがいろいろあります。
鉄砲町あります。
で、東側は山と道後で守っていて、
道後というか山ですよね。
山とは牛月城ってことですね。
で、実際あそこ全部水浸し、
水浸しになっていて、
人が進んで来れる場所じゃなかったらしいから、
南側はそれで守って、東側はそれで守って、
北側はそれで守って、西側はそれで守って、
で、三軒交代で三津浜との道ができる間に、
いろんなものができたと。
甲子園もそうじゃないですか。
そうなんですか、甲子園。
そうですね。
何者なんですか、その。
それはどうやって学んだんですか?
松山の町づくりの長をずっと、
この十何年してたら、
これぐらいの話はできなきゃいけないし、
できることができる。
すごいっすね。
まだまだ間違ってることとか、
いろいろまたブラッシュアップしてる。
いやいやいやいやいや、すごいっすね。
何も見ずに。
十何年喋り続けてますから。
いや、すごいっすね。
知らないことばっかりです、まだ。
今のお話も。
鉄道の歴史もありますしね。
そもそも小橋信之さんと、
実際に合気屋さんの話もありますしね。
こういろいろあるって。
町ってそういう土地柄ですよね。
作ってきたんですね。
陰天街自体は長山町っていって、
武家町。
北から黒田区が下がって行って、
武家が住んでたんですよ。
堀の内は過労化区。
そうなんですか。
その黒田区が下がって、
一番町、二番町、三番町、四番町やったんですよ。
四番町もやったんですか。
四番町が大漢山町って名前に変わって、
そっから千舟町になったんですね。
大漢山だったんですか?
大漢山町。
大漢山町。
産林関係の武行がやってたんです。
そうなんですか。
そういうふうに守りのためにやってて、
ここにデッチぼうこうってわかりますかね。
長屋町。長屋町だったんです。
武家屋敷に働きにくい人たちがここに住んでた。
落語とかに出てくる長屋のお話みたいな。
そうなんですか。
この歴史の話続けていいですか。
いやいや。
でもそれだけ、
その世はでもそんだけの歴史がある町ってことも調べられて。
調べます。
だからそれで例えば松山で行くと、
商店街で行くと銀天川大海道。
つまり港町と大海道、そして市駅前。
で、花園町、老舗街と道房。
で、茅町、宇都浜とかね。
あとは銀天街の南銀天街とか野良屋町とか。
いろんなところにありますけど。
今、歴史も話したように、
だいたいもう昔から幼少なんですよね。
が、さっき言った紡いできた歴史の中である。
なるほど。
それはただ普通というかごめんなさい。
戦後復興と銀天街の成立
松山は戦争があって、
焼けた後にもう一回同じご飯物目に作り直してる。
珍しいところなんですよ。
縦横全部東西南北。
だから中根町の真東から旬分旬分の日はね。
太陽が上がって毎日に落ちるんですよ。
そうなんですか。
そういう街並みを作り直してる。
だから案外室町時代からの街の変わってないところがあるっていうのもあるし、
この昭和の高度経済成長期で出来上がった60年前なんですよね。
銀天街がだいたい60年前なんですよ。
本当はこの銀天街が一番最初に商店街と呼ばれて、
昭和28年にここに屋根ができて。
そうなんですか。
最初に松山で商店街と呼ばれた場所は銀天街なんです。
そうなんですか。
だから港町の住所に銀天街って名前がついてるんですよ。
他のところは全部地名で商店街ってついてますよね。
そうなんですか。
住所名でついてますよ。
歴史をYouTubeにした方がいいかもしれないですよ。
後、大人じゃないかもしれないですけど、
松山市役所って銀天街に最初にできたの知ってますか。
知らないです。
そこの円広寺に戦後最初に市役所っていうものを作ったんですよ。
銀天街だったんですか。
そうそう、そこの円広寺。
ありますね。あそこが市役所だったんですか。
そうです。
えー。
市長の地なんですよ。
中心というか。
そうです。
皆さんそれも知らずに松山市を語る人は多かったりしますか。
申し訳ございません。
要は町ってどういう場所ですかから入ってるんですけど。
思い出っていうのは。
それは歴史を知るかどうか。
賢者は歴史学びというところですね。
愚者は経験により喋るみたいな。
そこがあって。
でもじゃあ町がすごいとかすごくないじゃなくてですね。
町は生き物で変わっていくのも今の人たちの思い出によって変わっていくんですよ。
なるほど。
だからさっき言った商店街って活性化しますかどうですかって言われたら。
いやその時その時ですごい変化するのが分かったっていうのが私の感想で。
なるほど。
歴史を調べて街の変化を読む
歴史のこの捉え方がすごい。
僕はだから何十年かなと思ってましたけどもっと。
大枠を勉強したからこそこの数十年の変化も読み取ることができたというお話を言いました。
なるほど。
すごいですねちょっと。
それを歴史の本とかを調べるんですか?
そうですね。
まずよくご存知かもしれないですけど松山の歴史って漫画の本って愛媛の歴史って漫画の本もありまして。
これ小学校の時読んだんですけど。
それ今もどこかに書いてありますけど。
それとかあとは商店街に残ってる文献とか写真とか。
あとはもう人にとにかく聞きました。
亡くなられた方いっぱいいますけどどうやったんですかって昔のことを結構聞きました。
それはやっぱり松山の歴史を知りたいという。
知りたいというか自然と環境地域ですよね。
帰ってきて16年間政治関係の方から経済界の方から文人の方から地域の名刺の方からいろんな方とお話しする機会をいただいたんで。
いっぱい入ってるんですねここに。
まあ私興味があったからでしょうね。
いやいやいやそうなんですか。
今日何の話を聞けばよかったの?
でも知らない方多いと思いますよ。
知らない方多いと思います。
何話しても長いなって。
いやいやいや全然長くないですけど。
いやちょっとこれ取り留めがないですけど。
まずはこれから松山のこととか愛媛のことを知ったつもりになってましたけど。
でもそれは別に知らなくても別にいいんですよね。
人間の数だけ価値観あるわけですからそれは全然構わないんですけど。
これからの街をつくる関わりとデータ
まあでもそのすいません町というは思い出が集まった場所。
これからの町はどうなりますかとよく質問されますけど。
いやこれから関わる人によって町が作られる。
まあそれは政治家が政治家だってみんな言いますけど政治家一人で作るもんじゃないです。
ただその雰囲気や空気っていうもので確かに左右されてしまうし。
もう中身は言いませんけどこの数年間でもその空気でなっちゃいましたねこうやってね。
でその空気を早く変えなきゃいけないので
誰にも知られずに自分は今いろいろやってますけども。
まあそれは結局でも答えはないんですよ最後は。
ただやっぱり話を聞いてもらったりやっぱり何か投資する投じることによって変わることっていうのはあって。
でさっきも最初に話したように四国市、愛媛市、松山市の商店街。
今大海道より銀店街の方が昼間の12時から16時で通行量も多いんですね。
はい。
だいたい1.3倍か1.5倍。
そうなんですか。
2倍までいかんですけど平日の昼間は少ないんですよ。
夜に多いようなイメージが多分あると思うんですけど夜の人って行ったり来たりしてるんで。
まあまあそうか。
あとでうわーって湧くとこは別の特別な話もあるんで。
そこはちょっと置いといて。
キャパがあるのにもったいないですよね大海道はね。
でもちゃんと数字でというかちゃんと調査とかされたりとか。
そうですね。
それを元に。
私の経歴から言うとだから外資金融にいたこともあって根拠がないことって価値にできないっていう。
私の理屈はあるんですよ。
まあ当然株価であってもね。
根拠よりもどんどん株価が上がることってそれはありますよ。
私自身はそういう巨業があまり好きじゃなくて。
実業でやりたいと思って帰ってきたからこそ。
帰ってきた時に全部データ見たんですよ。
だからみんなが喋ってること嘘だらけで。
全部データと数字といろいろ人の話を。
そこから人の話聞いて。
理論無双というかちゃんと根拠や知ってから言わないとダメなの。
イメージとかだとね。
そうです。
イメージも大事なんですよ。
イメージでこうやっていくことが一番大事なんですけども。
それがあったんで文章、調査票いろんなものを見て
その頭に入れた上でこれを話してあげますね。
帰ってきた時はまだ銀天下と岡山同じぐらいの通行路だったんですけど
どんどん下がっていって岡山は。
会えるかできる前にはもう結構下がってて。
そこからもうちょっとね。
喋れる話と喋れない話。
いやちょっといろいろまだまだ来たいことがあるんですけど
またちょっと次回ということで。
今回はこのあたりで。
加藤さんありがとうございますお忙しい中。
ありがとうございました。
17:42

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