ずっともやもやしていた
無添加を売りにしている飲食店を、ちょこちょこ見かける。
「無添加だから体に優しい」「添加物不使用だから安心」という言葉が、SNSやメニューの中に出てくる。
それを見るたびに、僕はなんかもやもやするんだよな、という気持ちが続いていた。
なぜもやもやするのか、今日はそれをちゃんと言語化してみたい。
飲食店の「無添加」には法的定義がない
まず前提として、食品添加物は食品衛生法によって定義されていて、国が認可したものだけを使えるというルールになっている。保存料、着色料、甘味料、乳化剤。僕たちが「添加物」として頭に思い浮かべるものには、使っていい量と方法の基準がある。
問題はここからだ。
加工食品における「無添加」の表示には、食品表示基準に基づいた定義がある。
だが飲食店の「無添加」には、法的な定義も、業界の統一基準も存在しない。
つまり、何をもって無添加とするかを店が自分で決めていい。
保存料だけを指しているのか。
人工の着色料や甘味料も含むのか。
市販の調味料に含まれる添加物まで対象なのか。
食材に使われた農薬は含めているのか。
どこまでを「無添加」と呼ぶかは、店によって全く異なる可能性がある。
そしてその定義を、SNSにも店のウェブサイトにも書いていない店が、僕の調べた範囲ではほぼ全部だった。
無添加は「悪魔の証明」だ
そもそも「無添加」を完全に証明することは、論理的に難しい。
「〇〇がない」という否定命題を証明するためには、考えられるあらゆる可能性を一つひとつ排除しなければならない。これを「悪魔の証明」と呼ぶ。
「うちは無添加です」と言い切るためには、あらゆる原材料・工程・調味料・食材の履歴を完全にトレースして、全ての段階で添加物がゼロだと確認しなければならない。
それは現実的に非常に難しい。
「信じるか信じないか」という構造
定義がなく、証明も困難で、説明もない。
そうなると残るのは「信じるか信じないか」だけだ。
添加物には体に悪いというイメージがある。ナチュラルなものが安心だという感覚は、意識が高い人たちの間で広く持たれている。その不安を刺激しつつ「うちは無添加だから安心です」と言い、しかし何がどう無添加なのかは説明しない。検証する手段を与えない。批判もできない。
これはほとんど宗教だ。
教義を信じるかどうかを問うのが信者への入り口で、「神は本当にいるのか」と根拠を求めることが、そもそも的外れな問いとして扱われる。
だが飲食店と客の関係は、教祖と信者の関係ではないはずだ。
善意は免責にならない
全ての店が意図的に不誠実なことをしているとは思っていない。「無添加は体にいいことだ」と本気で信じていて、その信念からやっている店も多いはずだ。
だが善意があれば不誠実な構造が許されるか、というと、そんなことはない。
「地獄への道は善意で舗装されている」というヨーロッパの格言がある。
善意からやっていれば、その結果まで正当化されるわけではない。
自分のビジネスの看板を定義できていない
まとめてしまえば、これは不勉強の問題でもある。
イタリアンレストランを経営しながら「イタリア料理って何ですか」と聞かれて「よくわかりません」と答えるようなことだ。自分のビジネスの看板にしている概念を定義できていない。
法的な統一基準がないなら、なおさら自分で定義して説明する責任が店側にある。
「私の考える無添加とは、これこれこういうことです。具体的には、〇〇は使わないが△△は使っています。その理由は〜〜です」
これを言えることが、客への説明責任であり、本当の意味での信頼を積み上げることだと思う。
そこまでやって初めて、無添加という言葉に責任が持てる
念のため言っておくと、添加物が好きなわけでも万歳したいわけでもない。無添加を目指す方向性の気持ちはよくわかる。だからこそ、中途半端なままにしてほしくない。
デタラメや誤魔化しが嫌だから無添加でやっているはずなのに、それと同じことを自分がやってしまっていたら本末転倒じゃないか。
あなたの店の無添加とは、具体的に何がどこまでどのように無添加なのか。それをちゃんと定義して説明することが、客との誠実な関係の出発点だと思う。
そこまでやって初めて、無添加という言葉を看板に掲げる資格があると、僕は思っている。
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https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
無添加を売りにしている飲食店を、ちょこちょこ見かける。
「無添加だから体に優しい」「添加物不使用だから安心」という言葉が、SNSやメニューの中に出てくる。
それを見るたびに、僕はなんかもやもやするんだよな、という気持ちが続いていた。
なぜもやもやするのか、今日はそれをちゃんと言語化してみたい。
飲食店の「無添加」には法的定義がない
まず前提として、食品添加物は食品衛生法によって定義されていて、国が認可したものだけを使えるというルールになっている。保存料、着色料、甘味料、乳化剤。僕たちが「添加物」として頭に思い浮かべるものには、使っていい量と方法の基準がある。
問題はここからだ。
加工食品における「無添加」の表示には、食品表示基準に基づいた定義がある。
だが飲食店の「無添加」には、法的な定義も、業界の統一基準も存在しない。
つまり、何をもって無添加とするかを店が自分で決めていい。
保存料だけを指しているのか。
人工の着色料や甘味料も含むのか。
市販の調味料に含まれる添加物まで対象なのか。
食材に使われた農薬は含めているのか。
どこまでを「無添加」と呼ぶかは、店によって全く異なる可能性がある。
そしてその定義を、SNSにも店のウェブサイトにも書いていない店が、僕の調べた範囲ではほぼ全部だった。
無添加は「悪魔の証明」だ
そもそも「無添加」を完全に証明することは、論理的に難しい。
「〇〇がない」という否定命題を証明するためには、考えられるあらゆる可能性を一つひとつ排除しなければならない。これを「悪魔の証明」と呼ぶ。
「うちは無添加です」と言い切るためには、あらゆる原材料・工程・調味料・食材の履歴を完全にトレースして、全ての段階で添加物がゼロだと確認しなければならない。
それは現実的に非常に難しい。
「信じるか信じないか」という構造
定義がなく、証明も困難で、説明もない。
そうなると残るのは「信じるか信じないか」だけだ。
添加物には体に悪いというイメージがある。ナチュラルなものが安心だという感覚は、意識が高い人たちの間で広く持たれている。その不安を刺激しつつ「うちは無添加だから安心です」と言い、しかし何がどう無添加なのかは説明しない。検証する手段を与えない。批判もできない。
これはほとんど宗教だ。
教義を信じるかどうかを問うのが信者への入り口で、「神は本当にいるのか」と根拠を求めることが、そもそも的外れな問いとして扱われる。
だが飲食店と客の関係は、教祖と信者の関係ではないはずだ。
善意は免責にならない
全ての店が意図的に不誠実なことをしているとは思っていない。「無添加は体にいいことだ」と本気で信じていて、その信念からやっている店も多いはずだ。
だが善意があれば不誠実な構造が許されるか、というと、そんなことはない。
「地獄への道は善意で舗装されている」というヨーロッパの格言がある。
善意からやっていれば、その結果まで正当化されるわけではない。
自分のビジネスの看板を定義できていない
まとめてしまえば、これは不勉強の問題でもある。
イタリアンレストランを経営しながら「イタリア料理って何ですか」と聞かれて「よくわかりません」と答えるようなことだ。自分のビジネスの看板にしている概念を定義できていない。
法的な統一基準がないなら、なおさら自分で定義して説明する責任が店側にある。
「私の考える無添加とは、これこれこういうことです。具体的には、〇〇は使わないが△△は使っています。その理由は〜〜です」
これを言えることが、客への説明責任であり、本当の意味での信頼を積み上げることだと思う。
そこまでやって初めて、無添加という言葉に責任が持てる
念のため言っておくと、添加物が好きなわけでも万歳したいわけでもない。無添加を目指す方向性の気持ちはよくわかる。だからこそ、中途半端なままにしてほしくない。
デタラメや誤魔化しが嫌だから無添加でやっているはずなのに、それと同じことを自分がやってしまっていたら本末転倒じゃないか。
あなたの店の無添加とは、具体的に何がどこまでどのように無添加なのか。それをちゃんと定義して説明することが、客との誠実な関係の出発点だと思う。
そこまでやって初めて、無添加という言葉を看板に掲げる資格があると、僕は思っている。
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