暴力観から読み解くアメリカの論理
トランプ大統領の言動を見ていると、多くの人が「あれはおかしい」「認知症なんじゃないか」「バグが発生している」と言う。
先日一緒に飲んだ人もそう言っていた。
気持ちはすごくわかる。
僕もそう思いたい。
バグであってほしい。
だが、歴史やアメリカという国の成り立ちを学んでいくと、どうもそうじゃないという気がしてくる。
これは残念な結論なんだけど、トランプはアメリカが生み出した、ある意味正統な産物なんじゃないか。
今日はそのあたりを話してみたい。
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アメリカ映画の冒頭暴力シーンが、なぜ「かっこいい」のか
最近、Amazonプライムで『ワーキングマン』というジェイソン・ステイサム主演の映画を見ていた。
冒頭からものすごい違和感があった。
主人公は元特殊部隊の男で、今は建設現場で働いている。
その現場で、従業員が借金の取り立てで暴力を振るわれている場面に出くわす。
主人公はためらいなく割って入り、暴力で相手を制圧する。
日本人の感覚だと、「また始まった。これで暴力の連鎖が始まるぞ」と思う。
物語を成立させるための正当防衛として受け取る。
でもアメリカ人の多くはこれを見て「かっこいい」「この主人公は信用できる」と感じるらしい。
なぜそうなるのか。
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「スタンド・ユア・グラウンド」という法律
アメリカには「スタンド・ユア・グラウンド法」というものがある。
日本語で言えば「自分の立場を守れ」という法律だ。
自分の身に危険を感じたとき、逃げるのではなく力で反撃していい、暴力で地位や身の安全を回復して構わない、という考え方を法律として認めている。
2005年にフロリダ州が最初に制定して、今では35州以上が取り入れている。
アメリカは50州あるから、その大半がこの考え方を法律レベルで認めているということだ。
これと似た考え方に「キャッスル・ドクトリン(城の法理)」がある。
自宅や敷地内は個人の「城」であり、そこへの侵入に対しては実力で自衛していい、という原則だ。
スタンド・ユア・グラウンドはそれをさらに広げて、公共の場でも適用できるようにしたものだと理解していい。
1992年には、ハロウィンで「トリック・オア・トリート」をしようとした日本人留学生の男の子が、訪問先の家で撃ち殺されるという事件があった。
これもキャッスル・ドクトリンが背景にある。
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日本の「喧嘩両成敗」との根本的な違い
日本では江戸時代に「喧嘩両成敗」という考え方が制度化された。
先に手を出されても、やり返したら同じように罰せられる。
とにかく暴力には耐えろ、個人が自分の判断で暴力を使うことは認めない、というルールだ。
この考え方は明治以降も続いていて、今の日本人の感覚の底にある。
「警察が来るのを待て」という世界だ。
アメリカはまったく逆だ。
そしてその根っこは開拓時代にある。
広大な荒野を切り開いていた時代、そこには警察も裁判所もなかった。
保安官が来るまで待てる状況じゃない。
そもそもその保安官が正義かどうかも分からない。
西部劇を見ていればそれはよくわかる。
自分の身は自分で守るしかない。
やられたらやり返す。
その感覚が、今もものすごく生きている。
スタンド・ユア・グラウンド法が2005年という、ほんの20年前に制定・拡大されているのはその証拠だ。
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暴力より、無力の方が怖い
アメリカ人にとっては、暴力そのものよりも「無力であること」の方が怖いらしい。
やられても何もできない、仲間を守れないという状況の方が、耐えられない恐怖なのだという。
これは僕にはなかなか体感として分からない。
僕は暴力が嫌いな日本人だから。
でもそう聞くと、映画の主人公がためらいなく割って入る場面の意味が少し変わって見えてくる。
映画の別の場面では、主人公がボスのところへ乗り込み、その手下たちをボコボコにする。
するとボスは、自分の部下を叩きのめした相手と握手するのだ。
日本人の感覚では「部下の手前、なんでそこで握手するんだ」となる。
でもこれが、フロンティア精神の論理だ。
正々堂々と戦って、勝った。
正面からやってきた相手は、信用できる仲間だ。
部下たちもたぶん、同じ感覚でそれを納得している。
大谷翔平さんがMLBであれだけ認められているのも、同じ文脈で説明できる。
正面から戦って結果を出し、礼儀正しい。
それで「敬意に値する仲間」として受け入れられる。
MLBはそもそも多国籍な世界で、今年ドジャースに加入したクローザーのディアス選手はベネズエラ出身だ。
ベネズエラはつい最近までアメリカと緊張関係にあった国だが、そんなことは関係ない。
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セクトとチャーチ
以前にも少し話したことがあるけど、アメリカを理解するのに「セクト」と「チャーチ」という考え方が役に立つ。
チャーチとは、生まれた場所・家族・地域・国籍といった共同体への帰属を基盤にする考え方だ。「日本人であることに誇りを持つ」というのに近い。
日本はこちらが圧倒的に多い。
セクトは逆で、自分が自発的に選んだ仲間との結びつきを基盤にする。
生まれがどこか、どの国の出身かはあまり関係ない。
同じ価値観、同じ覚悟を持つ者が、自分の意思で集まる。
野球のチームがそれに近い。
仲間への忠誠心は強いが、仲間でない者には薄い。
アメリカという国は、このセクトの考え方が非常に強い。
それはしょうがない話で、もともとあの国に集まったのは、ヨーロッパの重苦しいカトリックの教義から離れてプロテスタントとして新天地を目指した人たちだ。
階級も家柄も関係ない、自分たちで選んで集まった人間が、荒野を開拓していった。
その積み重ねの先に南北戦争がある。
60万人とも言われる死者を出した凄まじい内乱だ。
そういうことを繰り返しながら作られてきた国は、やはり違う。
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そしてその構造が、トランプを生み出す母体になっている。
この続きはまた次回。
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トランプ大統領の言動を見ていると、多くの人が「あれはおかしい」「認知症なんじゃないか」「バグが発生している」と言う。
先日一緒に飲んだ人もそう言っていた。
気持ちはすごくわかる。
僕もそう思いたい。
バグであってほしい。
だが、歴史やアメリカという国の成り立ちを学んでいくと、どうもそうじゃないという気がしてくる。
これは残念な結論なんだけど、トランプはアメリカが生み出した、ある意味正統な産物なんじゃないか。
今日はそのあたりを話してみたい。
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アメリカ映画の冒頭暴力シーンが、なぜ「かっこいい」のか
最近、Amazonプライムで『ワーキングマン』というジェイソン・ステイサム主演の映画を見ていた。
冒頭からものすごい違和感があった。
主人公は元特殊部隊の男で、今は建設現場で働いている。
その現場で、従業員が借金の取り立てで暴力を振るわれている場面に出くわす。
主人公はためらいなく割って入り、暴力で相手を制圧する。
日本人の感覚だと、「また始まった。これで暴力の連鎖が始まるぞ」と思う。
物語を成立させるための正当防衛として受け取る。
でもアメリカ人の多くはこれを見て「かっこいい」「この主人公は信用できる」と感じるらしい。
なぜそうなるのか。
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「スタンド・ユア・グラウンド」という法律
アメリカには「スタンド・ユア・グラウンド法」というものがある。
日本語で言えば「自分の立場を守れ」という法律だ。
自分の身に危険を感じたとき、逃げるのではなく力で反撃していい、暴力で地位や身の安全を回復して構わない、という考え方を法律として認めている。
2005年にフロリダ州が最初に制定して、今では35州以上が取り入れている。
アメリカは50州あるから、その大半がこの考え方を法律レベルで認めているということだ。
これと似た考え方に「キャッスル・ドクトリン(城の法理)」がある。
自宅や敷地内は個人の「城」であり、そこへの侵入に対しては実力で自衛していい、という原則だ。
スタンド・ユア・グラウンドはそれをさらに広げて、公共の場でも適用できるようにしたものだと理解していい。
1992年には、ハロウィンで「トリック・オア・トリート」をしようとした日本人留学生の男の子が、訪問先の家で撃ち殺されるという事件があった。
これもキャッスル・ドクトリンが背景にある。
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日本の「喧嘩両成敗」との根本的な違い
日本では江戸時代に「喧嘩両成敗」という考え方が制度化された。
先に手を出されても、やり返したら同じように罰せられる。
とにかく暴力には耐えろ、個人が自分の判断で暴力を使うことは認めない、というルールだ。
この考え方は明治以降も続いていて、今の日本人の感覚の底にある。
「警察が来るのを待て」という世界だ。
アメリカはまったく逆だ。
そしてその根っこは開拓時代にある。
広大な荒野を切り開いていた時代、そこには警察も裁判所もなかった。
保安官が来るまで待てる状況じゃない。
そもそもその保安官が正義かどうかも分からない。
西部劇を見ていればそれはよくわかる。
自分の身は自分で守るしかない。
やられたらやり返す。
その感覚が、今もものすごく生きている。
スタンド・ユア・グラウンド法が2005年という、ほんの20年前に制定・拡大されているのはその証拠だ。
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暴力より、無力の方が怖い
アメリカ人にとっては、暴力そのものよりも「無力であること」の方が怖いらしい。
やられても何もできない、仲間を守れないという状況の方が、耐えられない恐怖なのだという。
これは僕にはなかなか体感として分からない。
僕は暴力が嫌いな日本人だから。
でもそう聞くと、映画の主人公がためらいなく割って入る場面の意味が少し変わって見えてくる。
映画の別の場面では、主人公がボスのところへ乗り込み、その手下たちをボコボコにする。
するとボスは、自分の部下を叩きのめした相手と握手するのだ。
日本人の感覚では「部下の手前、なんでそこで握手するんだ」となる。
でもこれが、フロンティア精神の論理だ。
正々堂々と戦って、勝った。
正面からやってきた相手は、信用できる仲間だ。
部下たちもたぶん、同じ感覚でそれを納得している。
大谷翔平さんがMLBであれだけ認められているのも、同じ文脈で説明できる。
正面から戦って結果を出し、礼儀正しい。
それで「敬意に値する仲間」として受け入れられる。
MLBはそもそも多国籍な世界で、今年ドジャースに加入したクローザーのディアス選手はベネズエラ出身だ。
ベネズエラはつい最近までアメリカと緊張関係にあった国だが、そんなことは関係ない。
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セクトとチャーチ
以前にも少し話したことがあるけど、アメリカを理解するのに「セクト」と「チャーチ」という考え方が役に立つ。
チャーチとは、生まれた場所・家族・地域・国籍といった共同体への帰属を基盤にする考え方だ。「日本人であることに誇りを持つ」というのに近い。
日本はこちらが圧倒的に多い。
セクトは逆で、自分が自発的に選んだ仲間との結びつきを基盤にする。
生まれがどこか、どの国の出身かはあまり関係ない。
同じ価値観、同じ覚悟を持つ者が、自分の意思で集まる。
野球のチームがそれに近い。
仲間への忠誠心は強いが、仲間でない者には薄い。
アメリカという国は、このセクトの考え方が非常に強い。
それはしょうがない話で、もともとあの国に集まったのは、ヨーロッパの重苦しいカトリックの教義から離れてプロテスタントとして新天地を目指した人たちだ。
階級も家柄も関係ない、自分たちで選んで集まった人間が、荒野を開拓していった。
その積み重ねの先に南北戦争がある。
60万人とも言われる死者を出した凄まじい内乱だ。
そういうことを繰り返しながら作られてきた国は、やはり違う。
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そしてその構造が、トランプを生み出す母体になっている。
この続きはまた次回。
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