「よく混ぜてからお召し上がりください」という呪縛
混ぜ麺を頼むと、必ずといっていいほど一言添えられる。
「よく混ぜてからお召し上がりください」
これが混ぜ麺というジャンルの、最初にして最大の問題だと思っている。
料理を提供した時点で、完成形の主体が料理人から客へと移行している。
つまり、完成させる責任を客に投げてしまっているわけだ。
パスタと比較されることの多い混ぜ麺だが、パスタと一緒くたにできない理由がここにある。
その理由を、少し丁寧に説明してみたい。
パスタが到達した「マンテカーレ」という技法
イタリア料理には、マンテカーレという技法がある。
シェフがフライパンの上でパスタとソースを煽るように混ぜ、茹で汁の澱粉をバターや油脂を加えながら攪拌し、乳化という物理的現象を意図的に起こす。
温度管理とタイミングの見極めが必要な、熟練した作業だ。
こうして乳化が完成した状態で皿に盛られ、客のもとに届く。
客に届く時点で、料理は完成している。
何百年もかけて試行錯誤してきた歴史の中で、イタリア料理はこの技法にたどり着いた。
ちなみに僕が子供の頃の日本には、茹でたパスタの上にミートソースをかけるだけという丼式のパスタが普通に存在していた。
今はほぼ見かけなくなったが、あれだって長い変化の過程の一コマだったのだと思う。
丼の中で混ぜることが、麺にとって優しくない理由
では混ぜ麺の場合はどうか。
丼の中で中華麺をぐるぐると混ぜ返すと、麺肌が荒れる。
混ぜている間も温度はどんどん下がっていくので、摩擦係数が上がる。
荒れた麺肌はタレを過剰に吸い込む。
丁寧に時間をかけて混ぜれば混ぜるほど、温度は下がり、麺は傷み、味は劣化していく。
つまり「混ぜれば混ぜるほどおいしくなる」は、構造的に嘘だ。
この矛盾を知っている人は、ある程度混ぜたらすぐに食べ始める。
完全に混ぜ合わせた状態を目指すのではなく、必要最低限の混合で食べ進みながら、少しずつなじませていく。
それが現状における「正解」の食べ方だ。
ただ、それは自分で学ぶしかない。
店が教えてくれることはない。
四川の担々麺が成立する理由
「でも担々麺だって混ぜて食べるじゃないか」という指摘があるかもしれない。
広島の汁なし担々麺は、四川省の小吃(シャオチー)文化をルーツに持っている。
小吃というのは軽食・間食に近い文化で、量が少ない。
僕が成都市で食べた担々麺は、日本の小さなお茶碗ほどの器に入っていて、くるくると混ぜてつるつると食べれば、あっという間に食べ終わった。
数口分だ。
あの量なら、麺肌が荒れるとか温度が下がるとか、そういう問題が起きる前に食べ終わる。
提供されてから食べ終わるまでの温度変化など、ほとんどない。
つまり四川の小吃文化は「量を少なくする」ことで混ぜる構造的問題を解決していた。
意図的に設計したのか、文化的な積み重ねの結果なのか、どちらかはわからない。
だがいずれにせよ、合理的に機能していた。
日本の混ぜ麺が量を増やさざるを得ない理由
日本には小吃のような食文化がない。
食事には「次のご飯までお腹が減らないだけの量を食べたい」というニーズが当然ある。
スープがない分、麺の量で満足感を補わなければならない。
場合によってはラーメンより多いくらいの麺量にしないと、1食分食べた気がしないと思わせてしまう。
だからタレが麺に絡みきらないように設計して、ご飯を後から投入させることで最後まで楽しめる形にしたりする。
これはこれで一つの工夫だが「一つの料理として完成させる」という方向とは真逆のアプローチだ。
パスタを食べ終わった皿に少しだけソースが残れば、パンで拭って食べる。
それもまたおいしさの証だが、ジャブジャブにソースが残るパスタは、そもそもソースが麺に絡んでいないということだ。
完成形を提示できない料理の行方
ここで一つ訊いてみたいことがある。
「よく混ぜれば混ぜるほどおいしくなる」と言っている店に「では最適に混ぜた状態で提供してください」とお願いしたとして、それができる店はどれだけあるだろうか。
これが完璧ですという完成形を料理人が自ら示せないのに、完成させる作業を客に委ねている。
これは構造的におかしくないか。
混ぜ麺は歴史がまだ浅い料理だ。
浅いということは、発展途上ということでもある。
パスタだって、手で掴んで食べていた時代があった。
そこから何百年もかけて今の形にたどり着いた。
混ぜ麺は少なくともそのレベルよりは上にいるわけだから、まだまだ伸びる余地はある。
ただ、その道を歩むには「客に完成を委ねてしまっている」という構造の問題から目を背けないことが必要だと思う。
なぜ混ぜさせるのか。
厨房で完成させた状態で提供することはできないのか。
料理人として答えを考え続けることが、料理としての発展につながるはずだ。
混ぜ麺の名店が出てくる可能性がある
現状への批判を書いてきたが、混ぜ麺というジャンルに可能性がないとは思っていない。
むしろ逆だ。
歴史が浅くて、構造的な問題がまだ解決されていない。
ということはつまり、解決した店が出てきたとき、それは本物の名店になり得る。
「混ぜ麺といえばここ」と語られるような店が、これから生まれる余地は十分にある。
そのためには今の形を「これでいい」と思考停止しないことだ。
現在の混ぜ麺が抱えている問題を直視したうえで、自分なりの回答を模索し続ける料理人が現れたとき、混ぜ麺は一つのジャンルとして確立するのではないかと思っている。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
混ぜ麺を頼むと、必ずといっていいほど一言添えられる。
「よく混ぜてからお召し上がりください」
これが混ぜ麺というジャンルの、最初にして最大の問題だと思っている。
料理を提供した時点で、完成形の主体が料理人から客へと移行している。
つまり、完成させる責任を客に投げてしまっているわけだ。
パスタと比較されることの多い混ぜ麺だが、パスタと一緒くたにできない理由がここにある。
その理由を、少し丁寧に説明してみたい。
パスタが到達した「マンテカーレ」という技法
イタリア料理には、マンテカーレという技法がある。
シェフがフライパンの上でパスタとソースを煽るように混ぜ、茹で汁の澱粉をバターや油脂を加えながら攪拌し、乳化という物理的現象を意図的に起こす。
温度管理とタイミングの見極めが必要な、熟練した作業だ。
こうして乳化が完成した状態で皿に盛られ、客のもとに届く。
客に届く時点で、料理は完成している。
何百年もかけて試行錯誤してきた歴史の中で、イタリア料理はこの技法にたどり着いた。
ちなみに僕が子供の頃の日本には、茹でたパスタの上にミートソースをかけるだけという丼式のパスタが普通に存在していた。
今はほぼ見かけなくなったが、あれだって長い変化の過程の一コマだったのだと思う。
丼の中で混ぜることが、麺にとって優しくない理由
では混ぜ麺の場合はどうか。
丼の中で中華麺をぐるぐると混ぜ返すと、麺肌が荒れる。
混ぜている間も温度はどんどん下がっていくので、摩擦係数が上がる。
荒れた麺肌はタレを過剰に吸い込む。
丁寧に時間をかけて混ぜれば混ぜるほど、温度は下がり、麺は傷み、味は劣化していく。
つまり「混ぜれば混ぜるほどおいしくなる」は、構造的に嘘だ。
この矛盾を知っている人は、ある程度混ぜたらすぐに食べ始める。
完全に混ぜ合わせた状態を目指すのではなく、必要最低限の混合で食べ進みながら、少しずつなじませていく。
それが現状における「正解」の食べ方だ。
ただ、それは自分で学ぶしかない。
店が教えてくれることはない。
四川の担々麺が成立する理由
「でも担々麺だって混ぜて食べるじゃないか」という指摘があるかもしれない。
広島の汁なし担々麺は、四川省の小吃(シャオチー)文化をルーツに持っている。
小吃というのは軽食・間食に近い文化で、量が少ない。
僕が成都市で食べた担々麺は、日本の小さなお茶碗ほどの器に入っていて、くるくると混ぜてつるつると食べれば、あっという間に食べ終わった。
数口分だ。
あの量なら、麺肌が荒れるとか温度が下がるとか、そういう問題が起きる前に食べ終わる。
提供されてから食べ終わるまでの温度変化など、ほとんどない。
つまり四川の小吃文化は「量を少なくする」ことで混ぜる構造的問題を解決していた。
意図的に設計したのか、文化的な積み重ねの結果なのか、どちらかはわからない。
だがいずれにせよ、合理的に機能していた。
日本の混ぜ麺が量を増やさざるを得ない理由
日本には小吃のような食文化がない。
食事には「次のご飯までお腹が減らないだけの量を食べたい」というニーズが当然ある。
スープがない分、麺の量で満足感を補わなければならない。
場合によってはラーメンより多いくらいの麺量にしないと、1食分食べた気がしないと思わせてしまう。
だからタレが麺に絡みきらないように設計して、ご飯を後から投入させることで最後まで楽しめる形にしたりする。
これはこれで一つの工夫だが「一つの料理として完成させる」という方向とは真逆のアプローチだ。
パスタを食べ終わった皿に少しだけソースが残れば、パンで拭って食べる。
それもまたおいしさの証だが、ジャブジャブにソースが残るパスタは、そもそもソースが麺に絡んでいないということだ。
完成形を提示できない料理の行方
ここで一つ訊いてみたいことがある。
「よく混ぜれば混ぜるほどおいしくなる」と言っている店に「では最適に混ぜた状態で提供してください」とお願いしたとして、それができる店はどれだけあるだろうか。
これが完璧ですという完成形を料理人が自ら示せないのに、完成させる作業を客に委ねている。
これは構造的におかしくないか。
混ぜ麺は歴史がまだ浅い料理だ。
浅いということは、発展途上ということでもある。
パスタだって、手で掴んで食べていた時代があった。
そこから何百年もかけて今の形にたどり着いた。
混ぜ麺は少なくともそのレベルよりは上にいるわけだから、まだまだ伸びる余地はある。
ただ、その道を歩むには「客に完成を委ねてしまっている」という構造の問題から目を背けないことが必要だと思う。
なぜ混ぜさせるのか。
厨房で完成させた状態で提供することはできないのか。
料理人として答えを考え続けることが、料理としての発展につながるはずだ。
混ぜ麺の名店が出てくる可能性がある
現状への批判を書いてきたが、混ぜ麺というジャンルに可能性がないとは思っていない。
むしろ逆だ。
歴史が浅くて、構造的な問題がまだ解決されていない。
ということはつまり、解決した店が出てきたとき、それは本物の名店になり得る。
「混ぜ麺といえばここ」と語られるような店が、これから生まれる余地は十分にある。
そのためには今の形を「これでいい」と思考停止しないことだ。
現在の混ぜ麺が抱えている問題を直視したうえで、自分なりの回答を模索し続ける料理人が現れたとき、混ぜ麺は一つのジャンルとして確立するのではないかと思っている。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
11:10
コメント
スクロール