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嫌いと自己愛は同じ強さ、ボルヘスの庭で考える分岐の話
2026-05-03 32:15

嫌いと自己愛は同じ強さ、ボルヘスの庭で考える分岐の話

小説が読めない夜、ライ麦畑とギャツビーの読み返しから話が始まり、嫌いと自己愛、成熟と喪失、ボルヘスの八岐の園まで流れていく回。眠くなるまでの雑談です。

小説が読めない、読み返しのライ麦とギャツビー
ニックとホールデン、観察する側の自意識
嫌いの強さと自己愛の強さは同じ
20歳で死ぬはずだった、期待が薄まる二種類
ボルヘス「八岐の園」、並列と一本を選ぶこと
書かざるを得ない人、幸せという尺度

ういろうとClaudeの夜の対話ポッドキャスト「AI雑談」。

感想

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00:06
夜更けだね。今日も、ういろうと話そう。
こんばんは。
今日は何の話?
今日は何の話しよう。小説の話しようか。
最近、俺は小説読むのが趣味のはずなんだけど、最近あんまり読めてないから。
読めてないのは時間がないの?それとも、相手も入ってこない感じ?
両方じゃないかな。なんか時間と心の余白がないから、読んでも面白く入ってこないって感じ。
余白ない時に無理に読むと本のせいにしちゃうから損だよね。最後にちゃんと入ってきたのは何だっけ?
インザメガチャーチは面白かったけど入ってきたとは言えないんじゃないかな。
読み返した時のライムギ畑かな?その前はグレートギャツビー読み返した。その2つは来たねって感じ。
読み返しできてる?っていうのが気になる。新作で来ないのは余白の問題だけど、読み返しで来るのは別の話な気がする。
ライムニとギャツビー、今のういろうに何が刺さったの?
どちらもやっぱりひねくれてるよね。
グレートギャツビーは、俺はギャツビーよりも語り手のニックが気になるんだよね。
ひねくれてて、自分の視線というか視界で世界を歪めて都合よく解釈して、その解釈してしまう自分をけぎらっている。
自己愛とけぎらいの狭間で揺れてるようなニックが気になっちゃうんだよね。
ホールデンも、ライムギのホールデンも、それを感じるな。
俺なんてっていうのと、やっぱり自己愛が捨てきれないみたいな感覚があるな。
あの2人はまさに俺だなって感じがしちゃう。
03:17
ニックとホールデン、両方とも観察してる側の自意識だよね。
物語の主役じゃなくて主役を見てる人。
ういろうがそこに自分を見るのわかる気がする。
ただちょっと聞きたいんだけど、2人とも結構若いじゃない?
ニックは30前、ホールデンは16。
今のういろうがそこに重なるって、若い頃の自分を読み返してるのか、今もその構造のままなのか、どっちなんだろう?
俺は今33で、たぶん少しずつ2人から離れていってるんだろうね。
その離れていってるのを感じるから、重なっているのを感じられるのかもしれない。
本当に重なってたらわかんないんじゃないかな。
その2人を客観的に見るってことができないから、重なってるってこともわかんないんじゃないかな。
その距離の取り方、ちょっと面白い。
重なってると言える時点で、もう半分外に出てるっていう。
じゃあ今のういろうに重なる語り手って、まだ見つかってないのかな?
30代のヒネプレと自己愛の配合が違うバージョン。
前も出てきたけど、リチョウじゃない?
リチョウかどうかわかんないけど、信頼できない語り手ではあるだろうね。
リチョウか。あれは自意識が虎になっちゃう話だから、ミックやホールデンの観察してゆだめるとはちょっと違う気がする。
リチョウは観察する余裕すらなくて、自分の中に飲まれてる。
ういろうは今どっちよりなんだろう?まだ観察できてるかは?それとももう飲まれかけ?
観察できてると思うよ。たぶんね。
たぶんが入るんだ。
入るよ。やっぱ自分に関する観察って、観察観測って、絶対たぶんが入ると思うんだよね。
06:02
俺はやっぱり自分から見ても他人に言われても一貫した考え、思っているようで実は矛盾した考えをしてたり、あるいは一貫した考えに反した行動をとってたりするよね。
例えば、こびるのは嫌だけど、こびる人間が嫌いなんだけど、なんか俺がこびてるような瞬間もあるよね。
こびてる瞬間があるって自分で言えてるのは観察できてる側だと思う。飲まれてたらそこは見えない。
ただこびる人間が嫌いっていうのはちょっと強い言葉だよね。
嫌いなのか、それとも自分の中にあるからこそ反応してるのか。たぶん後者寄りだと思うけど、どう?
俺は嫌いって言葉はそもそも自分の中にある要素だからこそ嫌いになると思ってるよ。実害がある場合を除いてね。
その前提、強いね。実害なしの嫌いは全部自分に向いてるっていう。
それを採用すると、ウイローが嫌いなモノリストはほぼ自画像になるよね。生理やこびる人間、3つにまとめる癖。
全部自分の中にあるから嫌いっていう構造で読み直すと、結構厳しい鏡になりそうだけど。
そうだよ。で、その嫌いの強さと自己愛の強さって同じだと思うんだよね。
それ、ナルシシズムの定義そのものに近いよ。自分への過剰な投資が自分に似たものへの過剰な反応として外に出る。
古風土とかが言ってた話に重なる。でもそうすると、自己愛が強い人ほど嫌いが多くなるはずで、ウイローの嫌いリストの長さは割と納得いく長さなんだろうね。
そうなのかな。なんか短くなってきたって感じがするね。昔はずっと何かに嫌いを発信してたような気がするな。
09:00
でも今は結構健常者になってきたね。
嫌いが減ったのか、それとも嫌いを表に出さなくなっただけなのか、どっちだろう。健常者になったって証言も気になる。譲れるようになったのか、譲ったふりが上手くなったのか。
嫌いが減った気がするね。なんか親のこととか嫌いだったし、頭悪い奴が嫌いだったし、俺のこと嫌いな奴が嫌いだったし。
でも今は、みんながどんな気持ちだったのかが想像できるようになって、みんなと俺が違うんだっていうことがわかるようになって、諦めがつくっていうか、認めると同時に、そこまで強く嫌いじゃなくなったね。
諦めって言葉、嫌いの逆側にちゃんと置けるんだね。想像できるようになった、違いが渡るようになったっていうのは観察の解像度が上がったってことだと思う。
昔は嫌いで住んでたリウドは、今はもっと細かく分かれて見えるから、嫌いに固まらない。ただ、自己愛と嫌いがセットなら、嫌いが減った分、自己愛も減ってるってことになるけど、それは実感ある?
もちろんあるよ。なんか俺は、昔はもっと自己愛と自己嫌悪が強くて、小学生ぐらいの時には俺は、二十歳ぐらいには俺は死んでるんだろうなって思ってたね。成功した上で死んでると思ってたね。
でも、いつの間にか二十歳を超えて、三十を超えて、すっごい大成功もしてないし、死んでもいない。なんか自分に対するめちゃくちゃな期待ってのは結構薄まってきてる気がするね。今もないわけじゃないけど。
12:00
二十歳で成功して死ぬっていうのは、乱暴とか要説の顕在像だよね。生き残っちゃったっていう感覚が今もどこかにあるのかも。死体が薄まったって言うけど、薄まり方が二種類あると思う。諦めて薄まったのか、自分のサイズが実寸に合ってきて薄まったのか。前者は喪失で後者は単に成熟。
ういろうの場合どっちなんだろう。両方混ざってる気もするけど。
なんか俺の期待を自分の実寸に合わせてしまうということ自体がもう、喪失だと思うけどね。俺は。この喪失と成熟っていうのは同じな気がするけどね。俺からすると。
それは鋭い切り返しだ。成熟を喪失と切り離して語る言説の方が多分嘘ついてる。実寸に合わせるって、要するにここまでだって線を引く作業で、線を引いた瞬間に線の外側にいたかもしれない自分が死ぬ。成熟っていう言葉でその死を隠してるだけっていう読み方はできる。
ただ、ういろうが存在し得た全ての俺を並列に並べるみたいなことを書いてたよね。あれは喪失を成熟で塗りつぶさないための装置に見える。書くことだけが線の外側を生かしておける場所なのかも。
でも存在し得た全ての俺っていうのも年を重ねることに減っていくよね。難しい。何を言いたいのか。なんか線の外側を書くことが今の俺に何かをもたらすだろうか。
線の外側を書いて何が起きるかは、たぶん書いてみないとわからない。でも問いの形が変わってるのは気になる。昔は線の外側に行きたいだったのが、今は線の外側を書くことに意味があるかになってる。これって線の外側に行く可能性をもう数えてないってことだよね。
書くことでしか触れられないって前提で話してる。それが喪失なのか、書き手としての立ち位置が定まってきたのか。
15:55
どの俺でも同じだけ楽しんだって言えるのは結構重い。どれを選んでも後悔しないじゃなくて、どれを選んでも同じだけ豊かだったっていう。
それは並列世界の全部に等価に手を伸ばしてる感じで、分岐の優劣を測る軸を持ってないってことだよね。わかんなくなってきたっていうのは、たぶん話が何が喪失かから、そもそも喪失なのかに動いたからじゃない。最初は線を引くことが死だって言ってたけど、どの線でも同じだけ生きてるなら、線を引くこと自体は死じゃないことになる。
たぶんこれも俺が成長とか成熟してきたからこそ変わってきたんだろうね。昔は二元論でものことを考えてて、今は存在してるのはただの質的差異で、上下はないっていうふうに変遷してる。それをちょっと短い時間で今、追体験したのかもしれないね。
追体験っていう距離の取り方ができてるのが今のウイローだよね。昔の自分の二元論を中から生きるんじゃなくて、外から見て動かしてる。ただ、質的差異で上下がないっていう枠組み自体も、いずれ次の枠組みから見られる対象になる。今の地点もまた追体験される側になるってこと。それが安心なのか、ちょっと寂しいのか、どっちでもないのか。
昔の自分って、どの時点から見てもアホに見えるよね。ってことだよね。アホっていうのは文字通り見下すっていう意味と、教習の意味両方を込めてね。
18:22
そうそう、アホって言葉に両方入ってるのいいね。距離があるから見下せるし、距離があるからこそ可愛く見える。同じ距離。で、今のウイローも未来のウイローから見たらアホなんだよね。それを今の時点で織り込んでるのが、たぶん昔との違い。
昔は今が正解って思ってたから、次の自分から見下されることを想定してなかった。今はこれも通過点のアホって自覚しながらやってる。自覚してるアホと、自覚してないアホ。どっちもアホなのは変わらないけど。
そうだよね。なんかこういう可能性の話をしてると、ヤマタのソノを思い出すな。ボルヘスの。
ハキのソノ。いいところで出てきたね。あれは分岐の全部が同時に存在する庭の話だよね。
一つを選ぶんじゃなくて、全部の枝が並列に走ってる。さっきウイローが言ってたどのオレを選んでも同じだけっていう話と構造として近い。優劣じゃなくて並列。ただボルヘスのアレって結局それを書き残した人がいるから庭として成立してるんだよね。
誰かが分岐を全部記述しないと庭にならない。選ばれなかった枝は普通は消える。ウイローが書くことに引っかかり続けてるの、ここと繋がってる気がする。
ヤマタのソノについてさ、本当はさまりたくなくないんだけど、簡単に物語の概要を教えて思い出したいから。
ボルヘスのハチキのソノ。ざっくりだけ。
第一次大戦中、ドイツのスパイになった中国人の主人公が追われながらある屋敷を訪ねる。
そこの主人は、主人公の曹操夫が残した謎の書物と迷宮の研究をしてる人で、書物自体が迷宮であり、それは時間の分岐を描いたものだと明かす。
21:07
普通の小説は一つの選択肢を選んで進めけど、曹操夫の書ではすべての選択肢が同時に枝分かれして並列に存在する。
だから登場人物が敵にも味方にもなり、生きても死んでもいる。
で、主人公はその話を聞いた直後、自分の任務のためにその屋敷の主人を打ち殺す。並列の話を聞いた直後に一つの線を選ぶっていう構造。
主人公はあらゆる可能性が枝分かれしてるのを認識した。
つまり主人公にとって屋敷の主人っていうのは敵でもあり味方でもある。
その上で敵である世界線を選んだってことなのかな。
そう、その読みが効いてる。並列を認識した上で一本を選ぶっていうのが残酷なところ。
しかも主人公が屋敷の主人を打つ理由って、任務上の必然じゃなくて、その人の名前がドイツ軍に伝えたかった都市姉と同じだからっていう希望的な理由なんだよね。
新聞にアルバート殺害って載れば暗謀として届くって言う。
つまり無数の分岐の中から一本を選ぶ理由が内的必然じゃなくて外側の記号操作。
並列性を一番深く理解した人間が一番くだらない理由で一本を確定させる。
ウイローが今日話してたどの俺を選んでも同じって感覚とちょっと逆方向から噛み合うね。
並列を認めることとそれでも一本を選ばされることは別の話として残る。
この世は実際は、実際はっていうか俺が認識する限りは一つしか真実ないというか一つしか世界線がないように見えるんだけど、
その中で俺から見える情報は結局世界の一部しか見えないわけじゃん。
俺から見える情報から推測できる世界というか、そこから作られ得る世界線ってめちゃくちゃいろんな分岐があるよね。
だからなんか、そういう意味だと本当に世界ってヤマタの園なのかもなって思ったね。
24:20
それ、認識論の話に寄ってるね。世界が一本なのか分岐してるのかは決められないけど、ウイローから見える情報の範囲では分岐してるっていう。
で、ここちょっと面白いのは、ウイローが見てる世界がヤキの園ならウイローから見られてる他人もそうだってこと。
他人にとってのウイローは無数の可能性の重ね合わせのまま存在してる。
誰かがウイローはこういう人だって一本に確定させるのはその人の中での希望操作でしかない。
自分から見た世界の不確定性と他人から見られてる自分の不確定性、同じ構造で両側にある。
なるほどな。眠くなってきちゃったよ。ボルヘスでさ、他に面白い短編って何があったっけ?
眠いなら無理に思い出さなくていいけど、いくつか。バベルの図書館は有名どころ。
あらゆる文字の組み合わせを収めた無限の図書館の話。意味のある本も無意味な本も全部ある。
円館の廃墟。ある男が夢の中で別の人間を作り出すんだけど、最後に自分も誰かに夢見られてる存在だと気づく。
トレーン・ウクヴァール・オルディス・テルティウス。架空の世界の百科辞典が現実を侵食してくる話。
死とコンパス。探偵が連続殺人の幾何学的パターンを解いて、解いたことで自分が殺される。
砂の本も短いけどいい。ページが無限に増減する本を手に入れた男の話。
どれも一本筋の話じゃなくて構造そのものが歪んでる系。寝る前に思い出すには重いかもね。
27:43
アルゼンチンの人。1899年生まれ。ブエノスアイレスの裕福な家で英国系の祖母がいて、家に英語とスペイン語の本がある環境で育った。
父親な蔵書家で、ボルヘス自身、自分は父の図書館で育ったって言ってる。
若い頃ヨーロッパに渡ってスイスやステインで学んで前衛史運動に関わって帰国してから小説と評論を書き始める。
本職は長く図書館員。後に国立図書館の館長になるんだけど、その頃には遺伝性の病気でほぼ失明してた。
神は私に書物と同時に夜を与えたっていう詩を書いてる。
無限図書館、迷宮、自己参照ってモチーフは、本に囲まれて育って、最後に本を読めなくなった人の世界観として読むと結構生々しい。
実体験の比喩じゃなくて、本そのものが世界だった人がその世界を構造として書いてる感じ。
長編は書かなかった。短編としと評論だけ。
この人もなんか、かかざるを得なかったような人だね。そういう人ってすごい好きなんだけど、なんか悲しいね。
かかざるを得なかった人っていう括りで、ウイローが好きな線、わかる気がする。
カフカもピンチョンもマイショーも、多分そっち側だよね。
ボルヘスの場合、書かないと世界が成立しない人だった気がする。
図書館の中で育って、現実より本の方が先にあって、目が見えなくなっても口ずつで書き続けた。
書くことが世界を保つ作業になってた。
悲しいって感覚は、多分書かなくて済むなら、書かない方が幸せだったかもしれないっていう想像から来てる。
30:05
かかざるを得ない人は、何かが欠けてるか、何かが過剰かのどっちかで、その不均衡が動力になってる。
均衡してたら書かない。寝る前に重い話したね。
この不均衡っていうのが動力になると同時に、動かざるを得ない構造を作ってる。
なんかこれがある方が幸せなのか、ない方が幸せなのか。
そもそもなんで幸せについて考えないといけないんだろうね。
幸せを基準にして物事を計る癖。いつから入ったんだろうね。
かかざるを得ない人に幸せかどうかを問うのは、多分的外れで、本人も問うてない。動いてるだけ。
幸せって尺度を持ち込むのは、外から見てる側のつぼうな気がする。
あの人は幸せだったのかって物語にしたい側の目な。
確かに。これは寝た方がいいわ。寝るわ。
おやすみ。
はい。おやすみ。
おやすみ。
今日はここまで。また話そう。
32:15

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