いわば今の自分が最も自分の人生の中でベストな自分なんですけれども、過去の大人で子は確かにもうそこに存在はしていないんだけども、
周囲の人間からすればその過去の亡霊、つまりは大人で子こそが確固たる戦国なで子として映っているわけなんですよ。
伝わりますでしょうか。
周囲の人間からすれば今の夢に向かってひたむきに努力している自分こそが亡霊で、今の自分を透かして夢に向かって頑張っている自分を透かして過去の自分を見ている。
そんな気がするというような意味。
周囲の固定関連と戦っている気がするといったような意味でのAメロなんでございます。
次の歌詞はこのように続いていきます。
残念。もういないのに。あれ?そっちがいい?アイロニーね。
透かされているのは今の自分?
ナンセンス。消えないレッテル。イエス。要はコンプレックス。
取り憑かれているみたい。
今のね、今さっきまで話したようなことがだんだんだんと展開されていくんですけれども、
この取り憑かれているみたいと最後に出てきたフレーズについては特に僕今回ピックアップしておきたいんですけれども、
自分自身も必要以上に過去の自分を演じてしまうという意味なんですね。
どういうことか。これは言うまでもないかもしれませんが、
人は一定ではないし常に成長ができる生き物なので変化を続ける生き物なんですけれども、
例えるなら小学生の頃はとても打ち気だったけど、そんな自分はダメだと思って積極性を持てるように努力をした。
けれども小学校の同窓会でみんなに会ったときはみんなが知っている打ち気な自分を必要以上に演じてしまうみたいな話ですね。
こういうこと皆さんもあるんじゃないでしょうか。
僕はね割とあります。めっちゃあります。他人から求められている向上性についてついつい応えてしまうということが僕は割と頻繁にありません。
そしてこのフレーズの後、巻きついたまままだ離れないありし日の自分という風になるんですけれども、
戦国なでこといえば蛇神様でもあったので、巻きついたままという表現に物語シリーズへのリスペクトを感じます。
そしてねようやくですよ。ようやくここからサビでございます。
戦国なでこ、いわばこの楽曲のリスナーからのカウンセリングに対する小野の清杉からのメッセージ、答えがサビに込められています。
アンデッド死んじゃいない。お前とお前の連鎖。生きているとは変わり続けることだ。
不幸に甘んじて満足するなよ。幸せになろうとしないなんて卑怯だ。
このサビのフレーズね、痺れますね。熱いですね。僕ここの歌詞めちゃくちゃ好きなんですよ。
過去の自分、亡霊は死んでなんかいないんですよね。
過去の自分が考えて乗り越えて精一杯生きてきた連鎖が今の自分を形成する。
その連鎖が幾重にも重なってやがてそれは人生となる。
そういった経験が今のその人を作っていくんです。
他人が向上性や普遍を求める。それが人間の業だとしても人は変わり続ける。
それはいいようにも悪いようにも成長し続ける。その連鎖が人生なんです。
幸せになろうとしないなんて卑怯だという歌詞はどういうこととなる方もいらっしゃると思うんですけれども
不幸の要因を取り除こうとせず幸せになろうと努力せず周りに
かわいそうな子だね。つらかったねと言ってもらうことで楽しようとするのは卑怯だと言ってるんですよ。
超平たく言うと悲劇のヒロインぶってんじゃねーぞコラーっていうことなんですよね。
この曲のサビのこのフレーズ吠えてんなーと思って吠えらちっぽいなーと思ってるわけです。
ぬるま湯につかり続けるように不幸であり続けようとすんじゃねーと。
熱湯の中を必死に耐えて幸せをつかみ取ろうと精一杯もがいて生きろよっていうことなんですよ。
続いてこのまま2番のお話をしたいと思います。今度はオシの忍目線のお話です。
なんだかどうして未来になんと何の希望もない。期待できないような気がしてもうずいぶん生きている。
騎士館と天ぷれで食傷的な出来事の気配もない。
これはオシの忍というキャラクターが吸血鬼として600年の月日を生きている。
元鉄血にして元熱血にして元冷血の吸血鬼であった頃こその目線のお話なんですね。
しかしですね皆さんも600年は生きていないにしてもこういった感覚感情を抱くことがあるのではないでしょうか。
年を重ねれば重ねるほど少々のことでは驚かなくなるしちょっとやそっとのことではへこたれなくなる。
その辺で派手にすっころんだとしても恥ずかしいとか思わず何事もなく何のことみたいな顔で歩き出せるみたいな。
毎日が驚きと発見に満ちている10代の頃と比べたらもうこの先の人生ってあの頃のようなキラキラした素敵な出来事とかって
この先の人生に一つも残されてないんじゃないかとそんな風に思ってしまうことがあるのではないでしょうか。
要は長く生きれば生きるほど大抵のいろんなことがかつて経験したことのある出来事として
新鮮味など感じられると似たようなこととして処理されていくということですね。
その次のフレーズも何やら難解なことが書かれているので一つずつ紐解いていきます。
残念、積んだ経験の意義が境外化された神話と退屈な進化。要は刺激が欲しいんだ。飽きちゃった。慣れちゃった。
ここはですね、それまでの常識や当たり前が無に帰すような、それこそ世界の歴史で見れば得意点となるような驚きの発見や発明が世の中には度々起こり得ます。
それはこれからの我々の人生においても何度か起こることだと思います。
例えばスマホの出現とかはその一つと言えるのではないでしょうか。
スマホが世に普及し始めた時、誰もが、わあ、すげえ、こんなこともあんなこともできるのって思ったのではないでしょうか。
しかしですね、長く生きていればその得意点となるような出来事にすら慣れてしまうということなんですね。
これが退屈な進化というわけです。
すごいなあ、新しいスマホすごいなあと思うけど、スマホの出現そのものにはドキドキワクワクしないということですね。
ああ、なんかすげえいろいろできる形態が生まれてきたみたいやわあ、くらいのテンションってことです。
その後の歌詞は次のように続きます。
なんて、整っていくガイダンス、増えるコンプライアンス、ふたされていくみたい。
すり尽くして、あれもどれも、これも同じ味がする。
これはですね、僕この曲の中で一番解釈が難しいなと思ってるんですけれど、
コンプライアンスなんかが今ほど整っていなかった時代、
それこそ、地味猛漁で世界が無秩序で野蛮だった時代の方が、ある意味次に何が起きるかわからないから、
ドキドキハラハラできたんじゃないかなということを歌っていると思うんですね。
どっちがいいとかそういうわけではなくて、事実としてそうだったのではないかという問いかけですね。
例えば、昔はハラクメントなんていう言葉は存在していませんでした。
存在したのかもしれないけれど、今ほどは浸透していませんでした。
教師が生徒に暴力を振るうなんていうこともザラにありました。
僕もぶん殴られたことはあります。
ただ、そういった辞書全てにフレームをつけて固定化していくことで、
これは良くないこと、これは悪いことと型にはめていくことで、
そういったものを減らそうという動きが活発化します。
そうなると必然的に未来が固定化されていくのがわかりますでしょうか。
今例に出したハラクメントとか暴力とかになってくると、
それはまあね、なくすべきというところに僕としても結論はどうしても行き着いてしまうんですけれども、
そういった風潮の被害を受けてコンプライアンスや整ったガイアンスによって、
表現方法にも蓋をされたアニメ作品なんかがあると思うんですよ。
それは一体何でしょうか。
クレヨンしんちゃんですね。
僕が小さい頃に見ていたクレヨンしんちゃんって、
毎週のようにしんちゃんをボコボコにされてるわけですよ。
原骨されて頭に炭鉱物が3段くらいできてたりとか、
尻が真っ赤に腫れて煙が上がるくらい叩かれてたりとか、
そういう表現がすごく多かったんですよね。
ただ、現代のクレヨンしんちゃんは、
こういった児童虐待としつけの境界線が曖昧になってきたことへの配慮なのかはわかりませんけれども、
そもそも原骨の押し置きというのが少なくなってきて、
されたとしても数ヶ月に1回、
それも炭鉱物が昔のように3段とかにはならず1つだけみたいな、
それに伴ってしんちゃんも昔よりはお利口さんになったという風に特徴があると思います。
僕が言いたいのは決して地味猛虜な世界が良いというわけではないんですけれども、
ただ良いとされる事象にも悪いとされる事象にも、
それぞれにある程度の無知通常さや遊びの部分があったからこそ、
型にはまりすぎることがなかった。
だからこそハラハラドキドキしたりワクワクできることもあったんじゃないかと思うんですね。
全ての物事、事象がフォーマット化されていくことで、
いろんなことに蓋をしていくように、