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2026/09/07 湧き水のほとり #132 石川欣一 「飢えは最善のソースか」
2026-09-12 14:30

2026/09/07 湧き水のほとり #132 石川欣一 「飢えは最善のソースか」

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サマリー

本放送では、石川欣一の随筆「飢えは最善のソースか」が紹介されます。石川は、一流の料理でも空腹時に食べる方が美味しく感じられるという西洋のことわざを引用し、自身の経験を語ります。親子丼、天ぷらそば、そして山での質素な食事や戦時中の食料探しの体験を通して、空腹や困難な状況が食べ物の味を格別にするという持論を展開します。最終的に、空腹だけでなく、安心感や達成感といった様々な要素が「ソース」となり、食体験を豊かにすると結論づけています。

番組紹介と石川欣一の紹介
湧き水のほとり
FM八ヶ岳をお聞きの皆さん、各種インターネットからお聞きの皆さん、ご機嫌いかがですか。開運小天です。
ここからの15分間は、聞く読書の番組、湧き水のほとりの時間です。
児童文学や、昔懐かしい物語、さまざまな文豪の短編などを、少しずつ読ませていただきます。
美味しいお水を召し上がりながら、一息ついてくださいね。
本日は、石川錦一の随筆、「飢えは最善のソースか?」を読んでいきます。
作者の石川錦一は、1895年、明治28年3月17日、東京で生まれました。
そもそも、石川錦一のおじいさんが、葛海州の親友であり、英語が堪能でした。
その流れもあり、石川錦一の父親は有名な動物学者で、日本に初めてキリンを輸入したり、
ダーウィンの進化論を解説するための講演会が開催されたとき、
講師として来日したエドワード・シルベスター・モースの講演を筆記し、
ダーウィンの進化論の解説本を日本で出版するなど、大変活躍なさった方でした。
その長男として生まれた錦一は、現在の東大である東極帝国大学の英文科からアメリカのプリンストン大学に転じ、
卒業後はジャーナリストとして、大阪毎日新聞の学芸部員となりました。
マーク・トゥ・ウェインのハックルベリーフィンの冒険など数多くの翻訳も手掛け、
石川錦一本人の体験談である随筆本も多数出版されています。
第二次世界大戦中は、新聞報道関係者としてフィリピンのマニラ新聞社に勤務し、
終戦時にはアメリカ軍の捕虜となった経験もあります。
帰国後は、アメリカ人の記者ジョン・ハーシーが広島市への原子爆弾の投下直後、
被爆者6名の様子を取材しまとめた著書、「広島」の翻訳をしたことでも知られています。
そのような石川錦一の随筆を読んでみましょう。
どうぞ。
随筆「飢えは最善のソースか」
石川錦一作
上は最善のソースか
この雑誌にこんなことを書くと皮肉みたいに思われるかもしれないが、
西洋のことわざ、「上は最善のソース」には相当の真理が含まれている。
一流の料理人が腕を振るって作り上げたソースをかけて食えば、
料理はうまいに決まっているが、
それよりも腹の減ったときに食うほうがうまいという意味である。
60年を越す生涯で、いろいろな場合いろいろなものを食ってきたが、
今でもうまかったと記憶しているものはあまりたくさんない。
その中で、上をソースにしたものをちょっと考えてみると、
中学校のとき、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後、
なんと思ってか横須賀まで歩いた。
着いたときは日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実にうまかった。
しかしこれは飢えばかりでない。
プラス換気で湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が還元したのだろう。
大人になってからも似たような経験をした。
毎日新聞の記者として足屋に取材に出かけ、晩館の9時ごろ仕事を済ませて、
やはり駅に近いそば屋で天ぷらそばを食った。
これも冬だったが七味唐辛子をうんと振り込み、
最後に汁を飲んでのどがヒリヒリしたことまで覚えている。
これは飢えプラス寒さプラス仕事を終わった満足感である。
大正12年の大震災の時には大阪にいたが、
生まれ故郷が東京なのですぐ行けと命令され中央線まわりで上京した。
その途中笹子のあたりで山津波があり汽車が半分埋まってしまった。
その泥の流れの中を歩いて抜けてちょっとした高台にある村にたどり着き、
一軒の飲み屋で酒を所望するとゼンマイを一緒に出した。
もちろん干したゼンマイを戻し煮干しで味をつけたものだが、
その煮干しのガサガサした歯触りさえ覚えているのだから相当感銘したに違いない。
この場合は飢えプラス山津波を逃れた安心感だろう。
親子丼、天ぷらそば、ゼンマイと実にありふれた食べ物だが、
飢えプラス何ものかが最上のソースになったのである。
私が冒頭で相当の真理と言ったのはこれなのである。
山の食事とアルピニストとの体験
つまり運営単独では腹が張った満足感はあっても決してうまいとは感じない。
私が若い頃登った山には番人のいる小屋が極めて少なく、
だいたい水に近い場所にテントを張り、飯を炊いて食事をしたものである。
食べ物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている植物を使った。
缶詰類は重いのでせいぜい福神漬か大人煮をそれもたくさんは持って行かず、
動物性タンパク質はほしだらだった。
飯を炊き、味噌汁を作った焚き火のおきに縦半分に裂いたほしだらをのせ、
あち、あちと言いながら指でちぎって食うのである。
満腹はするがちっともうまくないので、東京へ帰ったら、
何を食おうあれを食おうと第一日の晩から食べ物の話ばかりで、
時々東京へ帰って腹をこわしたりした。
それでいて翌年の夏には同じことをくりかえすのだから、
山の魅力はたいしたものである。
いつだったか本格的なアルピニストであるアイ・エイ・リチャーズ夫妻といっしょに、
後立山を歩いたことがある。
籠川を入って行くと松虫草が咲いていた。
暑い日で一度かなり参っていたがリチャーズはこの花を見て、
外側にしずくがつゆになってついているカクテルグラスを思い出し、
初日からそんなことを言い出すとは、
アウトオブフォームだと奥さんに叱られた。
こうなると英国人も日本人も同じである。
ところがこの度で番人のいる唯一の小屋にわなでとったうさぎがあり、
その肉を地産のバターで炒め運び上げてあったビールで流し込んだとき、
リチャーズはこんなに贅沢な山小屋は世界中にないと感激した。
戦時下の食料探しと終戦
太平洋戦争の末期に近く、私は北ブルソンのジャングルの中に隠れて生活していた。
大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いは誤たず、
ここには米と塩がかなりたくさん残してあった。
もっとも終戦がもう一週間も遅れたら、私はガシしていたことだろう。
だがそれ以外の食べ物はすべりひゆとたけのこ、
長く伸びたやつの頭のほうにすんばかり、
私は現在インダストリアルデザイナーとして活動している柳宗道君と組んで盛んに食べ物を探した。
まず川のカニである。
あれを飯碁に入れて火にかけると、最初はガサガサ音をたてるがやがて静かになる。
真っ赤なやつを食うのだが、とにかくそのへんをはいまわっているカニだから肉などぜんぜんなく、ちっともうまくない。
私はすっかり歯を悪くしてしまった。
その数年後、阿佐ヶ谷の飲み屋で伊勢のどこかで獲れるカニを出された。
一年中で獲れる日が一週間とか十日とかに限られているそうである。
これも小さいカニで肉はないが、足やはさみはカリカリしていていい味がする。
ちょっと余談になるが、食いしん坊の私はほかの人たちよりも食えるものをよく見つけ出した。
野生のレモン、唐辛子、わが国で鷹の爪と呼ぶ種類、霊師がそれである。
そしてパパイヤの木の芯が大根そっくりで、少し古くなるとおならくさくなることまで発見したので、
これを刻み、太い竹の筒に、これも刻んだ唐辛子の葉と実、霊師、緑、黄、赤とじゅんじゅんに色が変わる。
レモンの皮と混ぜて押し込み、塩をして一晩置いた。
これはとてもすばらしい漬物で、いつか有名になり、もらいに来る人が増えるようになった。
いよいよ終戦、投降と決まると、自殺用に持っていた手榴弾の使い道がない。
これも私が主張して、隠れ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、
下流の浅瀬で待っていると、大正の魚が無数に目を回して流れてきた。
みんな大よろこびをしたが、特に私たちはひねしょうがとにんにくを持っていたので、
ぼらの刺身を作り、その骨でだしをとってむすびさよりのおすいものを作り、
あじの塩焼きその他で夜中の十時近くまでおごっそうを食った。
このときのごとき、まったくうえ。
プラス、もうまげてしまったんだからしかたがないや。
どういうことが起きるか、とにかく捕虜になってみようという気持と、
こちらがへんなまねをしなければアメリカ人は捕虜を虐待したりしない人間である、
という私の知識経験がこのジャングルでの晩飯を清くすべくうまいものにしたのである。
だからうえだけが最善のソースではない。
これで私のお話は終わる。
石川錦一作、うえは最善のソースか?でした。
エンディング
このあともFM八ヶ岳でお楽しみください。
本日もいい塩梅に過ごせますように。
またお会いしましょう。
14:30

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