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湧き水のほとり。
エフエム八ヶ岳をお聞きのみなさん。
各種インターネットからお聞きのみなさん。
ごきげんいかがですか。開運小天です。
ここからの15分間は、聞く読書の番組、
湧き水のほとりの時間です。
児童文学や、昔懐かしい物語、
さまざまな文豪の短編などを、
少しずつ読ませていただきます。
おいしいお水を召し上がりながら、
ひと息ついてくださいね。
先週から読んでおりますのは、
永井荷風の短編、
寝顔です。
主人公である、17歳の龍子は、
18歳年上の母親、
きょうこと二人で、
静かに仲良く暮らしています。
生前からお世話になっていた、
医師である桑島先生が、
老病で亡くなった後、
近頃、くちひげの美しい、
34、5歳の岸山先生が、
往診してくださるようになりました。
それでは、続きをどうぞ。
ある晩、龍子は母と一緒に、
有楽座へ長歌県政会の、
演奏を聴きに行った時、
廊下の人ごみの中で、
岸山先生を見かけた。
岸山先生は、
初めて診察に来た時の、
不愛想な態度とは違って、
丁寧にあいさつをした。
それからしばらくたって、
やはり母と一緒に、
帝国劇場へ行った時、
また岸山先生に出会った。
そして、誘われるままに、
紅茶を飲んだ。
龍子は帰りの電車の中で、
岸山先生が、
長歌を習っているということを、
母から聞いた。
親子は、毎年8月になると、
鎌倉か、図志かへ、
2、3週間、秘書に行く。
龍子が15になった時の秋、
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東京にこれらが留校して、
学校は9月末まで休みとなったところから、
親子は一度東京へ帰って、
また鎌倉へ引き返したことがあった。
滞在中に、
二度ほど岸山先生が見えた。
二度とも鎌倉の、
ある病家へ往診に来たついでだ、
ということであった。
二度目の時、
龍子は母と先生と、
三人して海水を浴びに行った。
晩飯をも一緒に済ましてから、
先生は最終列車で東京へ帰る。
それをば、
親子はすずみながら、
電車場まで送って行った。
次の年、
龍子はもう十六である。
去年と同じように鎌倉に秘書していた時、
龍子は毎日母と二人きり、
差し向かいの退屈さに、
今年も岸山先生が遊びに来てくださればよいのに、
と言ったが、
母は笑ったばかりで何とも言わなかったので、
次の日龍子は、
私先生に手紙をあげてみましょうか。
と言うと、
母はちょっと龍子の顔を見て、
すぐに笑顔をつくり、
病気でもないのにお気の毒です。
と言った。
東京に帰ってから、
その年は冬になっても、
親子二人ともに風一つひかなかったので、
龍子は岸山先生の姿を見ずに、
まもなく十七の春を迎えた。
梅が咲きかけた時分。
ある日、学校からの帰り道。
龍子は電車の中で隣に腰をかけている、
二人づれの見知らぬ男の口から、
妙画谷という自分の住んでいる町の名と、
小林という自分と同じ名前が、
幾度か言い出されるのをふと聞きつけて、
何心なく耳をすました。
二人とも洋服を着た三十代の男で、
しきりに岸山医学士のことを噂している中に、
確かに母の京子とおぼしい、
ある女の子とが交えられている。
龍子は車体の動揺、
車輪の響きと乗客のざわつく物音にもかかわらず、
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二人の談話の何たるかを明らかに推察することができた。
急に顔が火のように火照ってくる。
胸の動機が息苦しいほど弾んでくる。
電車が止まった。
龍子はついと立ち上がって、
込み合う乗客を突き抜けて車を降りた。
「貧乏な女だなあ。」
と驚いたもののあったくらいなので、
龍子は停車場の何処であるかもしばらくは知らなかった。
空は晴れているが風が強いので、
表も向けられぬほど砂ぼこりの立つ中を、
龍子は家まで歩き通しに歩いた。
その夜、
龍子はいつものように生まれてから十七年、
同じように枕を並べて寝た母の寝顔を、
次の間から射す電燈の穂影にしみじみと打ち眺めた。
日が暮れてもなお浮き荒れていた風はいつの間にかぱったり止んで、
雨だれの音がしている。
江戸川畑を通る遠い電車の響きも聞えないので、
時計を見ずとも夜ははや一時を過ぎたと察せられる。
母はいつもと同じように右の肩を下に、
自分の方を向いて少し仰向きかげんに軽く口をむすんで、
いかにも寝相よくすやすやと眠っている。
龍子は母が病気のおりにも、
翌朝学校へ行くのが遅れるといけないからと言われて、
決まった時間に寝かされてしまうところから、
十七になる今日が日まで、
夜中にしみじみ母の寝顔を見つめるようなおりは一度もなかった。
即発にゆった髪は起きている時のように少しも乱れていない。
まぶたが静かに閉ざされているので濃い眉毛はさらに鮮やかに、
細い鼻とやさしい頬の輪郭とは、
斜めにさすおぼろげな頬かげに一層際立って美しく見えた。
雨は急に降りまさってきたと見えて、
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軒を打つ音と雫の響きとが一度に高くなったが、
母は身動きもせずすやすやと眠っている。
しかしそれは疲れ果てて昏睡した痛ましい寝姿ではない。
動物のように前後も知らず眠りをむさぼった寝姿でもない。
龍子はきれいな鳥がきれいな翼にくちばしをうめて、
静かに夜のあけるのを待っているかたちを思いうかべた。
龍子は岸山先生と母との関係については、
もう何も考えないと思った。
電車の中で耳にした噂が根もないことであったら、
むろんそれに越したことはない。
万一事実であったら、
それは母の淋しい生涯に儚い一点の色彩をくわえた物語として、
龍子はできる限り美しい詩のように考えよう。
この後、不幸にしてこの噂が世間の人の口に言い伝えられるようなことがあっても、
自分だけは母に対しては何事も知らないような顔をしていようと考えた。
そして龍子は母のほうを向いて、
母と同じように行儀よく静かに目をつぶった。
けれどもすぐには眠られなかった。
夢とも現ともなく、
龍子は去年の秋頃から通学する電車の中で、
毎朝見かけるある学生の姿を思い浮かべた。
たもとの中へいつの間にか入れられてあった縁書の文句を思い出した。
縁書は誰にも知られぬ間に縦横切れ切れに細かく引き裂かれて江戸川の流れに投げ捨てられたのである。
龍子は意外な夢に、われから驚き覚めると、
目の前にはすやすや眠っている母の顔がほのかに白く浮かんでいる。
しかし龍子はもはや最初のように脅威の情をもって母の寝顔を見はしなかった。
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なんというわけもなく一層親しい打ち解けた心持ちで母の顔を見つめているうち、
次第に疲れて今度はぐっすり寝入ってしまった。
大正十二年、二月後、長い花風作、寝顔でした。
さて、FM八ヶ岳でお聞きのリスナーの皆様にお知らせがあります。
アーカイブの発信元が変わりました。
2026年3月からはポッドキャストリッスンから発信しています。
FM八ヶ岳のホームページのアーカイブスにリッスンのリンクがあります。
過去に読んだ作品もぜひお楽しみください。
お聞きいただきありがとうございました。
番組では皆様からのリクエストや感想をお待ちしております。
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お送りしましたのは、開運商店でした。
この後もFM八ヶ岳でお楽しみください。
本日もいい塩梅に過ごせますように。
またお会いしましょう。