列車内での語らいと事件の概要
湧き水のほとり。 先週から読んでおりますのは、
不気味で残酷な演劇作品を得意としていたフランスの作家、 モーリスルヴェルの作品
ペルゴレーズ街の殺人事件です。 とある寒い晩、夜行列車はフランスからスイスを抜けてイタリア方面へ向かっています。
ボックスには、年老いた男性と一組の若い夫婦、 そして語り手の男性が同席していました。
若い夫婦のうち妻と、そして年老いた男性は、 最近世間を騒がせているペルゴレーズ街の殺人事件について、
これは迷宮入りだろうと噂していましたが、 語り手の男性はそれを聞いて黙っていられなくなりました。
そしてつい、事件について新しい展開があることを自慢げに話し始めます。 それでは続きをどうぞ。
語り手による事件の証拠提示
私は警察の職卓位として最初の検証にも立ち会いました。 その時は、あの強行のあった部屋が暗かったものですから、
担当で胸をひとつきにやられたのが致命傷、 ということだけはわかったのですが、
死体を死体置き場へ運んでから、私が改めて調べると、 左のちぶさの下にかなり大きな一種のシミを発見しました。
茶化色を帯びていて、ちょうど人間の手形を推したかと思われるシミです。 そこで私はそのシミを写真に撮って種板を捕虜して焼き付けてみると、
果たして手形に相違なく、しかも長い華奢な手であらゆる細部が、 膝や腺や指紋のひとつも欠けないではっきりと出たではありませんか。
それは警察が死体を持ち上げる時に触ったのでしょう。 と老心師が反駁した。
警察なんか一般に手袋をはめていないんだからね。 病ましいものでなくても、そこにあまり綺麗でない手の跡がくっつくはずです。
新聞を読んでいた若い夫は、それ見ろと言いたげに笑い出した。 しかし私は怒りもしなかった。
医者のことなら何でも馬鹿にして、ことに鑑定人を笑いたがるのが彼の癖らしかった。 そこで私は単に付け加えた。
人間の目に見損ないがあっても、華奢は間違いっこありません。 そのシミはまさしく血痕だったのです。
極めて希薄だけれど、血で付着した手形に相違なく、ことにそれは事件の発見以来、 その家に出入りした誰の手にも合いません。
それに血に汚れた濡れ手ぬぐいが一本、化粧台のそばに捨ててあったのを発見したので、 それを手がかりとして容易に凶行当時の模様を判断することができます。
すなわち犯人は凶行を終えると、 鮮血に染まった右手をその手ぬぐいで拭いてから、
さり際に被害者が完全にこと切れたか、 とどめを刺す必要がないかを確かめるために、
彼女の心臓の部分に手を当ててみると、 鼓動が全く停止していたものだから、すっかり安心して、
入った時と同様に音もなく出ていったというわけだが、 気の毒にも彼はこの手形のことに気づかなかったのです。
その血が執念深く女の皮膚へ粘りついていたわけで、 要するに彼は迂闊にも自分の仕事の上に明瞭な疑う余地のない署名をしてしまったのです。
三人の乗客はあっけに取られて聞いていたが、 珍しいこともあるものですね。
若い妻君が真っ先に感心すると、 夫もその後について、
実に不思議ですね。 ところが、
指紋だけじゃ心細いねえ。 老親子は頑固につぶやいた。
同時に妊娑や風災を突き止めない限り、 それは空理空論の満足に過ぎないでしょう。
私が犯人なら枕を高くして眠りますねえ。 今晩だけはねえ。
しかし明日はダメです。 今言った手形の写真が明日、あらゆる新聞に出ます。
そうするとこの手はフランス中はもちろんのこと、 二日後にはヨーロッパ全体に知れ渡りますからねえ。
犯人は一生涯寝ても起きても手袋を離さないという決心をしなければ、 必ずこの手から発覚します。
それが嫌なら男らしく自分で手首を切断するんですね。
なぜって、この手は手術なる特徴があって、 専門家が見ると容易に判別ができるばかりでなく、
もう一つ、 誰が見てもわかる目印があります。
それは薬指の先から手相身のいわゆる生命線の起点へ走っている 一筋の傷跡なんですがねえ。
実に鮮やかなもので見舞いとしても目につくのです。
それで、 大変不吉なお話だが、
もしもその犯人がこの箱に乗っているとすれば、 マダムなりムッシュなり私なりが直ちに彼を認めて、
次の停車場で警察に捕獲させることができるわけです。
乗客たちの反応と新たな展開
「ああ!」 若いサイくんがうめいた。
二人の男は思わず手袋をはめた自分たちの手を見た。
その写真は本当に明日発表されますか?」 若い男が問いかけた。
我々が向こうへ着くと、 その写真が新聞に出ているわけですねえ。
と老人氏も続いて聞いた。
いや、写真は今夜渡したのですから、 早くても明朝のパリ新聞でなければ出ません。
若いサイくんもひどく気になってきたらしく、 少しもじもじしながら、
「早く見とうございますわ。」
「わけないことです。カバンの中に一枚持っていますから、 お目にかけましょう。これですよ。」
彼女が写真を手に取ると、 夫は肩越しにのぞき込んだ。
老人氏もごめんなさいと割り込んできて、 三人は額を集めてその写真に見入った。
彼らが緊張した顔をして熱心に見つめている様子は、 まるで実物の手が眼前に現れたような風だった。
しかしランプが暗いので、私はその細部を 説明で補足しなければならなかった。
「この白い筋をごらんなさい。鮮やかなもんでしょう。 さてこの筋は、なんだかうっとおしいじゃありませんか。 少しあけましょう。」
若い男がそう言って窓をあけると、 老人氏は額を拭きながら、
「これは大助かり。」 私は説明を続けた。
その時、汽笛がけたたましくなったと思うと、 車輪の響きが急にひどくなった。
私は一段と声を高めたけれど、 豪豪たる音響に押されて話が通らない。
「このトンネルを出てからお話ししましょう。 騒々しくて聞こえはしない。」
すると老人氏は自席に帰ったが、 若い細君はじっと例の写真を見つめていた。
どうもうっとおしい。 彼女の夫は再びそう言って、
負傷者の出現と語り手の確信
正面口のほうへずっとかがみ込んだ。 と妙な物音がした。
叫び声のようでもあったし、 ぜいぜいいう瀕死の喘ぎのようでもあった。
我々三人が同時に顔をあげたところを見ると、 皆にそれが聞こえたらしかった。
列車は一分間トンネルのこの物音に包まれながら走っていたが、 やがてその音が静まると、
空気も軽くなったように思われ、箱に侵入していた蒸気も散っていった。 列車はトンネルをできって再び広い空の下を走っていたのである。
私は説明を続けようとして、ふと若い男の方を見ると、 彼は自席のところに寄りかかって窓の外へ手をぶら下げたまま、
真っ青な顔をしていた。 なんだかひちがいじみた目つきで、私たちを、
ことに、細君の方をキョロキョロと見ていた。
「ご気分が悪いんですか?」 私がそう言いながら支えようとした途端に、
彼は前方へつんのめった。そのとき私は、 彼の右腕の端に血みどろなものを見た。
めっちゃくちゃに砕けた肉と、 骨と、
血でどろどろになったものがぶら下がっていたのである。
「ああ、大変!」 老心子が叫んだ。
「トンネルの柱でやられたな。手首がない!」 若い細君はぎょっとして立ち上がった。
私はいきなり負傷者の服の袖を引き裂いて、 出血を防ぐために自分の半ケチでその腕を縛ってやった。
彼は目を開いたが、おどおどしてその視線は肩から不気味な傷へ下がって、
それからそこに立ちすくんでいる若い細君の方へ狂おしくこびりついた。
細君はやがて座席へ腰を下したが、歯の根も合わぬほど震えながら、
黙って怪我した夫を必死と抱きしめた。
突然今の老心子の叫びが私の耳に返ってきた。
手首がない。私は床に落ちていた写真を見た。
と、不傷者も私のその視線をたどって、
それからじっと私の顔色をうかがった。
私はまた、面相を確実にするためには、
彼は手首を切断するほかはあるまい、とさっき自分で言った言葉を思い出した。
権威と、そして確信が、同時に私の頭に浮かんできた。
けれども、その際私は、それを口へ出す勇気もなかったし、
そんな気持ちにもなれなかった。
我々はただ、黙然として夜の明けるのを待った。
バロルブではまだ暗かったので、ローザンヌ駅へ着いてから怪我人をおろした。
その後、私は絶えて彼の消息を聞かない。
あの時に彼は命が助かったどうかも判明しない。
しかし、フェルゴレーズ街殺人事件の犯人が、ついに捕まらなかったということだけは、
確かである。
番組紹介と結び
モーリス・ルヴェル作 田中さなえ役 フェルゴレーズ街の殺人事件でした。
お聞きいただきありがとうございました。
お送りしましたのは、開運商店でした。
この後も、FM八ヶ岳でお楽しみください。
本日もいい塩梅に過ごせますように。
またお会いしましょう。