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はい、皆さんおはようございます。 2026年3月2日、月曜日、ツカサです。
この放送は、現役ベンチャー企業の管理職、ツカサが、 日々の仕事や生活の中での学びや気づき、
そしてビールを通じて豊かな人生をお届けする番組です。 皆さんおはようございます。
昨日は卒業式のところが多かったんじゃないでしょうかね。 私の娘も18歳、高校3年生で、
今年卒業を迎えまして、昨日がその卒業式でした。 今日はその卒業式の話からシェアしていきたいと思っています。
昨日なんですけど、娘が卒業しまして、高校を無事に。
それで、卒業式、皆さん覚えてますかね。
昨日の放送では、私が全く卒業式を覚えていないという、 そんな放送会だったんですけれども、
娘の卒業式、娘にとっては、 とても思い出深い卒業だったようなんですね。
私にとっては、それなりというか、そんなに、 私が高校生ではないですから、
私が卒業するわけではないんでね。 全く寂しさも何もないんですけれども、
ただ、昨日娘から言われた話で、卒業と同時にですね、
パパって呼ばれてるんですけども、
パパ、パパって呼ぶのをやめて、 お父さんって呼ぶようにするからって言われたんですよね。
この呼び名を変えられるっていうことに対しては、 ものすごく寂しさを覚えました。
寂しさというか、まるで別人扱いされるような、 そういう気持ちになったんですよね。
こういうことっていうのは、 皆さんの身の回りにもあるんじゃないのかなって思います。
なんでこの寂しさを覚えるのかっていうことを、 今日は深掘りをして、そんなシェアをしたいんですよね。
例えば、私の場合は娘から、 パパ、パパってずっと小さい頃から呼ばれてきていたんですけれども、
これが呼び名が変わるっていう瞬間に、 それまでの自分、過去の記憶も含めて、
何か娘との関係性が切り離されるような感覚です。
これをうまく説明された方がいて、 平野圭一郎さんという作家の方なんですが、
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その方が文人主義っていうことをかつて唱えていまして、 今もその話はされているんですけれども、
この文人、分ける人って書くんですが、 この文人ってどういう考え方かっていうと、
人はインディビジュアルって、個性って、 個人って呼ばれますけれども、
分けられない最小単位っていう意味で、 個人というふうに呼ばれるというか、
そういう概念で考えられるんですけれども、 だけどこれ本当はディビジュアル、
分けられるんじゃないかっていうのが 平野圭一郎さんの考え方ですね。
だから個人ではなくて文人っていうふうに 言えるんじゃないかっていう話です。
つまり、一人の人間の中にも対人関係において、 それぞれの人格があって、
それぞれに分けられる比率があるんじゃないか っていうことなんですよね。
例えば、小学校の友達、同級生って 皆さんもいらっしゃると思うんですけど、
小学校の同級生と久しぶりに会って、 会話をするときには、
やっぱり小学校の頃の自分の人格が 出てくるわけですね。
それは、例えば社会人になってからは、 小学校の同級生との会話っていうのは、
会話とか思い出、そのときの人格っていうものは、 100%の中の1%ぐらいに加減を潜めていて、
社会人としての自分、あとは家庭の自分とか、 子どもと接するときの自分っていう具合に、
33%ぐらいずつ繰り分けられているとして、 残り1%が小学校の自分だとして、
その小学校の同級生に会った瞬間に この1%の比率がぐーっと上がって、
他の社会人の自分がぎゅっと圧縮されるような、 そんな感覚だというふうに私は理解しています。
だから、例えば小学校の同級生に、 社会人の友人と一緒に出会ったときに、
何かあだ名で呼ばれたときに 気恥ずかしいような気持ちになるっていうのは、
これは文人同士、社会人としての自分と、 あとは小学校の同級生と会っているときの、
過去の人格の自分が、やっぱり発達段階が違うから、 そこでちょっとギャップを感じたときに、
すごく嫌な気持ちというか、 モヤモヤしちゃうっていうかね、
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そういうことになるんじゃないのかなって思うんです。 関係性が違うからね。
話は戻りますけれども、 この文人という考え方を取り入れると、
パパという呼び名からお父さんという呼び名に変わる、 この瞬間の寂しさが説明つくと思うんですね。
パパと呼ばれていた娘との関係性で育まれた私という人格が、 お父さんというふうに新たな呼び名に変わることによって、
かなり別の人格として一つ切り離されて、 違う関係性になるような気持ちになっている、
というところに寂しさを覚えているのかなというふうに、 自分では思うんです。
こういうことって、中間管理職のためのラジオなので、 その話にちょっとフレームを置き換えるとですね、
よくある、なんと社会人でもよくあるなというふうに思います。
会社において、役職でずっと呼んでいる関係性があったとするならば、
突如個人名で呼ばれたら、何か差し込まれたような感覚というか、
そういうプライベートに一気に踏み込まれたような感覚になると思いますし、
反対に、個人名で呼び合っている会社の組織の場合は、
急に役職で部長とか課長とか呼ばれた瞬間に、 何か他人行儀が切り離された、
そんな感覚に陥るんですよね。
私たちの組織は、ベアレンビールという会社は個人名で呼び合っていますから、
しかも下の名前で呼び合うという、 ルールじゃないですけど文化なんですよね。
だから私も部長とは呼ばれていなくて、 下の名前で司さんというふうに呼ばれるんですけれども、
みんなから司さん司さんというふうに呼ばれて、
これがもし部長と呼ばれたら、 何か俺じゃなくてもいいんじゃないみたいな、
部長という誰かに話を振ってくれという気持ちになってしまう、 そんな気持ちですね。
話は組織の話に戻るんですけれども、
管理職においてワンオンワンとか、
いろんな話をする部下と話をする機会があると思いますが、
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その時に部下からね、部長はとか課長はとかという話にもしなるのであれば、
結構それは会社の役職としての線引きをされているというふうに認識した方がいいと思います。
その時ぐらいは個人名で話をする。
○○君とか○○さんとか、
あとはいいよ、この場では名前で呼んで、みたいな形でするっていうことが、
個人のプライベートとか、あとは悩み、
そういったところにお互いに踏み込めるというか、 侵食し合えるんじゃないのかなと思うんですよね。
それができれば本当の親戚安全性が保たれているということにつながるんじゃないのかなというふうに考えています。
そのためにも、どちらが自己開示をして、どちらがそんなふうに呼ぶように提案するのかっていうのは、
これは上司側なんじゃないのかなっていうのが私の考えです。
上司から自己開示をしていく。
自分のプライベートが悩みとかそういう話をするっていうことが、
相手のプライベートがそういうところまで踏み込むための自己開示の大前提であって、
それができて初めて相手の懐に入って、
より一層いい関係性がつかめるようになるんじゃないのかなというふうに私は思っています。
ということで、今日の放送はここまでなんですが、
私大きな忘れ物をしておりまして、
この放送が実は800回だったんですね。
全く放送回を数えてなくて、
ライブ配信をするって言いながら、すっかりそれも見送ってしまったので、
ちょっと仕切り直しをします。
ライブ配信は今週の土曜日、
今週の土曜日朝7時からライブ配信を行います。
もし朝皆さん起きていらっしゃいましたら、
朝の7時ライブ配信ご参加いただけたら嬉しいです。
3月7日土曜日朝7時からライブ配信を行いますので、
ぜひともご視聴いただけたら嬉しいです。
それではまた皆さん明日お会いしましょう。
さようなら。バイバイ。