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2026-03-20 08:08

TTT/おはぎは一年中じゃダメですか?/

「おはぎは一年中じゃダメですか?」
何気ない一言に、ちょっとした違和感を覚えたことはありませんか。

本来は地域や家庭ごとに違っていた呼び方や習慣。
それが今、「正解」という一つの形にまとめられていく時代。

便利さの裏で、静かに失われていくものとは何か。
多様性と言いながら、同じになっていくこの感覚の正体に迫ります。

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サマリー

本エピソードでは、「おはぎ」と「ぼたもち」の呼び方の違いをきっかけに、現代社会における多様性と標準化のパラドックスについて考察する。本来地域や家庭によって異なっていた呼び方や習慣が、インターネットなどの影響で一つの「正解」に集約されていく現状に疑問を呈し、失われゆく文化の多様性への警鐘を鳴らす。

「おはぎ」と「ぼたもち」の呼び方
今日は旬分の日、お彼岸の中日ですね。おはぎ食べましたか?
ハギじゃなくてボタン、ボタン餅?ボタン餅? じゃないの?って思った方いらっしゃいますか?
思考は完成させなくていい。 TheThinkingTrack、気になったテーマを深める。
改めまして、今回はおはぎは一年中じゃダメですか? をテーマに進めてまいります。
はい、おはぎ食べました?いや、ボタン餅でしょうか?
今回ね、なんかちょっと多様化と標準化のパラドックスとも言えるんですが、
物の呼び方が一つに集約されてしまっている気がした話をします。 本来おはぎとボタン餅っていうのは、
春は花が咲くボタンにかけてボタン餅、ボタン餅。 秋は秋の名物、風物詩、ハギ、だからおはぎというふうに名前を呼び換える、
そういう風情のある言い訳があるということで、それが正論正しいみたいなところで、意見が結構一致していくというか、
そういうことを周りから聞く機会も増えて、私もそういう使い分けをするようになったんですが、
でも、でもですよ。 私の家では一年中おはぎって言ってました。
はい、親は。 これ地域性で一年中おはぎっていう地域あるんじゃないかと思います。
他の方にも聞いたら、その家もおはぎと一年中言っていたと。 皆さんとかどうですか?使い分けてますか?
だからそれは家庭の問題かもしれませんね。 両方区別しない家庭かもしれないし、
和菓子屋はどうなのかわかりませんけども、そもそも呼び名が全然別の呼び名をしている地域もあるのかもしれません。
その辺の情報も興味深いんですけども、まあとにかくですね、今日はこのおはぎとボタムチ問題からちょっと発生したことを話していきたいと思います。
標準化と失われる多様性
正解が一つになる問題。 今多様性とか多様化と言われている時代で、この件については多様性が失われている。
どこの地域であっても、どこの家であっても、もう春はボタムチが正解、秋はおはぎが正解みたいな。
正解が昔は複数あったのに、今はインターネットの影響でしょうか。
検索で上位に出てくるとか、誰か有名なところとか書き込みがあることが一つの答え、正論みたいになっていく。
正解っぽくなっていく的な現象があるように感じています。
ウィキペディアとかでもね、一個の定義みたいになっちゃって、誰かが強い発信力のある媒体がそれを定義することで、それがあたかも昔からスタンダードだった的に書き換えられていく現象が起きている気がしてならないのです。
かつ、知らないの?春はおはぎって言わないんだよ的なところで、マウントを取るみたいな会話が日常会話とかSNSでもあったりして、だんだんなんとなく直されていってしまう。
いろんなみんながそういうことを言うようになると、それが唯一の正解っぽくなっていってしまう。
昔は複数が正解だったのにね、という現象が起きているのではないか。
一見、多様性の逆なのかと思うんですが、ちょっとその辺を今日掘り下げたいんです。
多様化する価値観と標準化の理由
生き方とか考え方、働き方、家族の在り方、夫婦別姓もそうですけども、価値観はもう明らかに多様化している。それはもう揺るぎない事実ですよね。
一方で、今回みたいなものの呼び方とか文化とか言葉が標準化されていく、言葉の意味、表現、正しい知識みたいなのが鳴らされていっている。真逆な感じがするんです。
なんでこんなこと起きるんでしょうか?
それはきっと、みんながシェアして、うんって、みんなが同じテレビを見ていた時代と違って、みんなが違うものを見ている中で、みんながうんって言える共通解を実はそれに植えているのかもしれない。
みんながバラバラだと、理解が、誤解が生まれたりとかね、炎上したりとか、あるいは説明するのめんどくせーって説明コストが高くなってしまうので、
無意識に共通の正解に寄っていく。そういうことなのかもしれませんね。
なんか、表現がちょっと違いますけども、文化の生態系、複数あったいろいろな生態系がシンプルにね、単純化していっちゃうような、なんかそんな怖さというか寂しさを感じるわけです。
昔だったら、自然のありのままの森だったら、在来種がたくさんあってね、雑木林とかあったけど、公園なんか、あるいは植林された山なんかは全部杉とかね、それで花粉症になったりとか、また別の問題もありますけども、そういう変化に似たものも感じます。
文化の保存と再評価の重要性
じゃあこのまんまどんどん消えていっちゃうのかっていうと、すぐには消えないでしょうけども、私のようにこういうふうに疑問を持って意識する人がいると、ある程度は残る。逆に意識しないと消えるっていう状況に陥っているのではないか。
なのでここでネタにしたんですけども、そういったある意味文化なので、方言みたいなもんですね、方言を守るっていうのもそうだし、地域の文化、ローカルにもともとあったものをちゃんと認め残していく、そして再評価していくっていう動き、それもやっぱり私は価値を感じております。
ということでですね、話を戻すと大したことじゃないんですけども、いいじゃん、一年中おまぎって言ったってみたいな。うちは少なくとも言っていた、それは事実だったということをここに音声として残しておきたいと思います。別に間違いじゃないしね、通じるわけですから。
その地域とかその家族の正解なわけですということ。そして本来の多様性っていうのは、そもそも正解って複数あっていいんじゃないか、それを認めていきましょうってことですよね。
なんか戻りました、戻ってるか。
はい、今回はこの辺りで終わりにします。お断りです。この配信では身の回りでセイラージーが感じたことをもとに、ネットやAIなどから得た情報も参考に構成しています。
正確性についての保証はいたしかねますので、くれぐれもご自身で最終判断をしてください。疑わしき情報やお気づきの点がございましたらお知らせいただけると助かります。
在来種と品種改良
The Thinking Truck
思考は途中にこそ価値がある。
ここだけの話ですけど、生産性とか病気に弱い、生産性が低いとかね、病気に弱い、育てにくいっていった理由で品種改良されたりとかして、米なんかもそうですけども、在来種がなくなっていく、消えていく、伝統野菜なんか特にそうなんですけども、どんどん生産量がなくなっていく。
趣味でやってる人しか生産しない。仕方がない、それを理解できるんですけども、逆にそうなっていくがゆえに希少性で価値が逆に増えていく。
あるいは何か病気になった時に、その病気に耐える耐性のある在来種がやっぱり重要になってくるみたいなところで、生産量に反比例してその価値ってやっぱりある気がしています。
なんとか残して未来に受け継げたいものです。
だいぶ、かっけない話になっちゃいましたね、ファンキーと。
08:08

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