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最近よく見かける言葉があります。
配慮。誰かが傷つくかもしれない。不快に感じる人がいるかもしれない。だから事前に注意喚起を入れる。
こうした流れ自体は、すごく理解できます。
実際、トラウマや強い恐怖を持つ人がいるのは事実ですし、その苦しみ、それは決して軽く取り扱われるべきではありません。
ただ、ここで一つ気になる問いが浮かびます。
思考は完成させなくていい。
TheThinkingTrack、気になったテーマを深掘り。
改めまして、今回は、配慮と権利、それは果たして同じ重さなんだろうか、をテーマに進めてまいります。
まず言葉を分けてみましょう。
権利、これは法的に守られているもの、侵害してはならないもの、強制力を持つ概念です。
例えば表現の自由、好き嫌いとは別次元で守られる領域です。
一方で、配慮、こちらはちょっと性質が違ってきます。
倫理的に望ましい行為、相手への気遣い。
本来、善意とか判断に委ねられる類のものです。
ここで重要なのは、権利と配慮はカテゴリーがそもそも違う概念だということです。
どちらかが大事とかいうそういうことではなくて、そもそも種類、レイヤーが違うわけです。
この整理を一度置いておきます。
では、なぜこの二つがしばし衝突するのか。
現代社会において独特の空気がありますね。
配慮しないのは良くない。誰かが傷つくの、その可能性があるのであれば避けるべきじゃないか。
この価値自体はごく自然なもので、そうなんですけれども、時にこんな現象が起きます。
配慮そのものがなぜか事実上義務のように扱われ始めてしまうこと。
そうなってしまうと、配慮しない自由とか表現を守る権利、この二つがぶつかりやすくなっちゃうんです。
ここに息苦しさとか違和感を感じる人も出てくるわけです。
さらに話を進めますと、人間の不快感とか恐怖って無限ですよね。霧がない。
災害もそう。音や動物、色、匂い、言葉、はたまた見えない記憶。
もし不快になりうるもの全てに基準を置いたらどうなるでしょう。
理論上、表現そのものがほぼ成立しなくなってしまいます。
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これって別に誰かを否定している話ではなくて、純粋な向上の問題。
配慮というのはとても尊いものですけれども、無限に設定することはできないんです。破綻します。
この現実は避けられません。
かといって、じゃあ配慮は不要かというと、当然そうではない。
なので社会は現実的な線引きをしているわけです。
その影響の影響力、影響の大きさ、予見できるかどうか、予見可能性ね。
あとはどの年齢層がターゲットなのか。
文脈、こういった様々な条件で実際には運用されています。
だからその都度、争点が配慮するかしないかぜひではなくて、どこまでを範囲、共有のルールにするかって話になるわけです。
ここで誤解してほしくないんですけれども、誰かの苦しみとかトラウマはそれは事実ですし、尊重されるべきです。
これはもう大前提ね。
けど、ただしですよ、これと表現の制約って全く同じ議論ではないのではないかと。
違うものではないでしょうかと。
ここを分けて考えないと話がごっちゃん、ごっちゃんごっちゃん、ぐっちゃんぐっちゃんに混戦してしまう。
そんな気がするわけです。
配慮ってどこから義務になるんでしょうか。
不快と権利侵害って同じなんでしょうか。
自由と安全ってどうやったら共存できるんでしょうか。
簡単な答えがない。
でもね、このテーマは感情論ではなくて構造として考える視点、時には必要なのかもしれません。
はい、今回はこの辺りで。
最後にお断りです。
この配信では身の回りでセイラージーが感じたことを基に、ネットやAIなどから得た情報を参考に構成しています。
正確性についての保証はいたしかねますので、くれぐれもご自身で判断をしてください。
疑わしき情報やお気づきの点がございましたら、お知らせいただけると助かります。
The Thinking Truck
思考は途中にこそ価値がある。
ここだけの話ですけどね。
なんでこんなことを考えたかというと、ドラえもんの長編映画がリメイクされたそうなんですが、
その中に海底火山、地震の描写があるらしいんです。
それについてトリガーワーニングが行われたというニュースを見て、
それってでもそんなことを言ってたら何にも表現できなくなっちゃうじゃんって一瞬思ったわけなんだよ。
そこからちょっといろいろと考えを深めてきました。
表現の自由、そして配慮の範囲。難しいですね。とってもセンシティブで難しい問題です。