僕はノートとかYouTubeとかこのポッドキャストでいつも言ってるんですけど、語学学習というのはその人の主体、主体というのは自分自身の裁量で進めるべきであるし、赤の他人の意向を混ぜても本当に何も役に立たないし、それはしない方がいいと。
助力は使える、他人の助力は当然使えますよ。
指導者とか講師とかそういう立場の人、専門性を持つ人たちの経験を持っている人たちに対してアドバイスを買うとか、それを組み込んでいくというのは当然役に立つんですが、それは似て非なるもので、さっき言ったのは言われた通りにするというモードと他人の助力、助言を役立てるというのは違いますよね。
まさに主体性があるかどうか、主体化とかって話ですよね。
それは他人の助力を使うにしても自分で主体を自分にするというのをブレさせないでやった方がいいというのが僕の主張です。
なんでこういうことを言い始めたかというと、それができていない人が少なくともノートの記事とかを見るとすごく感じるんです。
ノートの記事ってみんなが何を考えているんだろうなというのが反映されているんです。
要するにこんなことを考えているんじゃないのっていうのはノートの記事の内容に反映されているはずなんですよね、他の人の。
それを見るとみんな正解を求めている傾向がすごく強いんですよね。
私が生み出した最強の学習法とか、私が何年のなんとか監督の末に生み出した究極の学習法とか、そういうのが表にお勧め欄に上がってきたり、これが正解あれが正解。
もしくは逆にこのやり方は間違いとかこれはダメだとかそういうのがすごく多いんですよね。
なんでそういうのが出てくるかというと、世間がやっぱこれが正解不正解っていうのは誰かに宣言してほしいという心理がすごく強いと思うんですよね。
であるがゆえにみんなが何をしているか、まさに一番最初に言った社会的証明、みんながやっていることはイコール正解っていうふうに考えて、
みんなは何を考えているのかっていうのが右見たり左見たりしてすごく必死になって頑張っている人が多いんじゃないのっていうふうに感じています。
当然別に直接見たわけではないのか分からないんですけど、ノートとかの雰囲気を見るとすごくそういうのを感じます。
それが意味ないということなんですよね。
これが本当に中毒みたいなもんで、質問したいのは学習法探しに邁進してノートを見たり、
グーグル検索でめちゃくちゃ頑張ったり、もしくは今風に言うとチャットGPTとかで先生におすすめの学習法を教えてとか、
これをしたいんだけど定番の学習法を教えて、検索しまくったりするのが中毒っぽくないですか。
何で中毒って言えるかというと、だいたいそれを何年、倍によっては何十年続けてきているはずなんですけど、
それで何か良いことがありましたかって質問したら多分良いことは何もなかったと思うんですよね。
時間を無駄にして終わりましたってただそれだけですね。
それが何で中毒って言えるかっていうと、自分でやってきてかつ何も成果がないってもう自覚しているにも関わらず、
それをやってしまうっていうのがすごく中毒的じゃないですかね。
時間を無益に溶かすだけ、本当に何も生み出さないだけで、しかもそれが再現なくやってしまうって本当に変じゃないですか。
さっき冒頭で言ったんですけど、正解があるというか、もう上級レベルだったり指導者レベルだったり、
そういう人の教えを乞うっていうのは全然変なことではないんですよ。
普通ですし、それは事実として役に立つんですよね。
そういう人たちに話を聞きに行ったほうが、要するにいわゆる車輪の再発明みたいなやつですよね。
車輪の再発明って何か、もうすぐに完成しているものを一から作るのは無駄であると、
要するに同じことを2回繰り返しても意味がありませんよっていう言葉なんですけど、
確かにその例えば車輪の再発明になるからであるがゆえに、
もう経験豊富な人から最初から指導を受けるほうが早いし、
実際それは本当にそうだと思うんですけど、それが良いと。
それは本当にその通りで、僕もそう思います。
知っている人から聞くと良いと思うんですよ。
かつそれは肯定するんだけど、
それは今回した話、学習法探しに邁進する話と矛盾するんじゃないのって思うかもしれないんですけど、
そんなことはないと思います。
というのも、この学習法探しに邁進してしまうことがまずいと言えるのは、
他人が持ってくる正解不正解がその程度の問題ではないんですよ。
これって人の話を聞くかどうかっていう論点とは別の話で、
また同じことに繰り返したんですけど、助力を使う時にどういう心理で助力を使うかって話が論点なんですよね。
要するに他人に合わせることを前提、大前提として動くか、
もしくは自分が動くことを前提に他人の助力を適宜使っていくかの違いなんですよね。
態度、態度、姿勢、考え方、思想の問題と言っても良いと思います。
正解探しをしてしまうのは明らかに、自分に軸がなくて他人ありきで行動してしまう典型ですよね。
それがまずいっていうのが今回の主張です。
物事には客観的な情報と主観的な情報があるわけですよ。
それを混ぜないっていうのがよく僕が言ってたんですよね。
客観的な情報ってのは事実情報ですよね。
水は酸素、酸素と水素からありまして、これ客観的な情報じゃないですか。
これは正解ですし、これは情報として価値があります。
なぜかというと普遍的であって、普遍的ってのは広く通用して、しかも時代を問わずに通用しますよね。
100年前も水は酸素と水素からありますし、たぶん100年後も水は酸素と酸素と酸素と水素からなっているはずですよね。
であるがゆえに、広く通用する情報、普遍的な情報は客観的で、かつそこには価値があると。
これは別にそんなに変なことないですよね。
こういうのは別に探していいんですよ。
主体性がどうこうとか関係なしに、こういうのは探しているわけですよ。
時刻表に書いてある時刻とかもそうですよね。
ダイヤは変わりますけど、普遍的だとは変わらないですよね。
それと同じで、広く通用する情報まで、かつ誰の目から見ても、誰の目から見ても変わらない情報、
つまり客観的な情報というのは探しに行っていいんですよ。
要するに調べるとですね。
調べれば解決する。話は調べてさっさと解決すればいいと思います。
今回言いたいのは客観的ではなくて主観的な方なんですよね。
主観的というのは客観の対義語で、
要するに誰か特定の人物、自分でも他人でもいいんですけど、
誰か特定の人物から見た場合の景色について語ることを客観的な情報と言いますよね。
例えばこのラーメンは美味しいと言ったら、このラーメンは美味しいと主観的ですよね。
でもその情報で客観的で広く通用しないから意味がありませんとは当然ならないですよね。
主観的に考えて、僕はこのラーメンがすごく美味しいと思います、
すごく価値がありそうじゃないですか。
客観は劣っている、客観は優れているというわけではなくて、
それぞれに役割があるんですよね。客観的な情報と主観的な情報に役割があって、
主観的な方は当然意味があります。
ラーメンの美味しさを語ることにはすごく意味がありますよね。
ライフワーク的にやっている人がたくさんいるじゃないですか。
これが主観的に物を言うというのが冒頭で言った主体的なんですよ。
これを主軸にして、なおかつ適宜周りの情報を使っていくという、
順番優先順位の問題ですよね。
だから僕は〇〇だと思っています、僕は〇〇をしたいです、
そういうのを持ってくるのが一番最初に来るんですよ。
それありきでそれを前提にして話を進めるというのが主体性の話です。
冒頭で言ったみんなと同じことをするのがまずいというのもこの話から分かりますよね。
みんなというのは多数派の人間ですよね。
多数派の人間の考えているとき、要するにこれもまた主観の集合体じゃないですか。
みんなはこのように思っていますという主観の集合体がまずあって、
それをなぜかコピペすることが自分に向けてコピペすることが良い
というふうに思っちゃっていると思うとすごく怖くないですか。
このみんなと同じことをするイコール、他人の主観をコピペするわけですよ。
さっき電話帳じゃないな、時刻表とかラーメンとかなんとかかんとかと言いましたけど、
時刻表とかそういうのは客観的な情報でそれはコピペしていいんですよ当然。
誰の目から見ても等しい情報ですから同じように使っていいわけです。
それはコピペで良いんですけど、他人の主観をこのままコピペするというのはめちゃくちゃまずいと思いませんか。
それが言いたかったところですよね。
なぜこれを言いたかったかというと、主観と客観をより分けて適宜対応を変えていくというのは
英語学習とか語学学習でも当然使うべきなんですよね。
語学学習の情報にも主観と客観ってありますよね。
主観、客観というのは要するにさっき言った誰の目から見ても正しい情報、
例えば辞書に書いてある情報とかは正しいじゃないですか。
辞書には正解として確定した情報がそこに入ってますから、
辞書に書いてある情報はイコール正解、つまり客観的な情報であるといっても確定しても全然問題なさそうですよね。
それはさっきまで言ったと全く同じ話でコピペするわけですよ、自分のもとに。
正解の根拠を求められたらここに書いてあるからそうですと言えばいいわけですよね。
それは客観です。
語学学習の主観というのは要するにどのように進めるかですよね。
自分がやりたいことが、そもそも自分は何をしたいのか、そもそも自分は何がしたかったんだっけというのを主観で決めて、
かつだからこのようにしたいというのを自分で決めるんですよね。
これが語学学習の主観なわけですよ。
学習法というのはこのようにするという思想が目に見える形で表現されたものですよね。
なぜそれをするのか、なぜならこれをしたいからと思っているからです。
そういう状態なわけですよ。
そこに世間の圧力とか、誰かに煽られた結果やるとかそういう話は全然ないわけですよ。
ここでやっぱりみんなと同じことをしない方がいい、みんなと同じことをすることに意味がありませんという話に合流するわけですよね。
他人と同調しても役に立たないわけですよ。
なぜかというと主観が大元だからですよね。
問題意識、何に対して重要だと感じるか、もしくは逆に何に対してどうでもいいと感じるかというのは完全に人それぞれで、これは客観的ではないですよね。
かつ、さっきも言ったんですけど、これは人それぞれか、どれかが優れていてどれかが劣っているという話でもありません。
それぞれを調べて、貴重なものであって、これをしたいという感じはリスペクトすべきですよね。
その問題意識が違うという事実があるがゆえに、各々で問題意識が違うという事実があるがゆえに、
他人の意見をコピペしたり、他人のやり方をコピペしたりしても意味がないわけですよ。断定できるわけですよ。
課題設定能力の問題みたいなもので、課題設定能力というのは、その人にとって問題が何かというのを宣言する事ですよね。
課題設定というのは。その時に問題は人それぞれなわけですから、まず問題を確認しないと、問題を把握しないと本当に何も始まらないわけですよ。
会ったこともない赤の他人が誰かに対してアドバイスできるわけがないんですよね。状況を早く把握できないですから、会ったことがないわけで。
だからアドバイスというのは、要するに自分で自分の状況を把握する、もしくは他人に自分の状況を把握してもらうというステップ1ありきですものですから、
それをしないと本当に何も始まらないわけですよ。これは他人のコピペでは無理ですよね。
とにかく自分でやっていく、真似しない、他人のやり方を顔だけ真似しないというのが全てだと思います。