英語を英語で考えるとか、英語脳をつくるなどの話がよく出てきますが、それは「やろうとしてやる」ものではありません。「英語をまなぶうちに日本語の干渉が邪魔になる」という素直な心理が根本にあり、これが本質です。この動画では、英語を英語で考えることは上級技能でもなんでもない、むしろ、英語だけで考える方がラクであり、自然である、という話をラジオ的にしています。
【プロフィール】
そっちゃそ(@trans_souta)。フリーランス産業翻訳者。東京工業大学(現:東京科学大学)大学院修了。2019年よりフリーランス産業翻訳者として開業し、現在に至る。専門は技術、IT全般。副業として語学指導や発音指導も手掛ける。ご意見・ご感想は公式HPのお問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。ライオン君との共同ホストPodcast番組、『円卓上のイエティ』にもレギュラー出演中。
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サマリー
このエピソードでは、英語学習における日本語の役割について考察します。「英語脳」という曖昧な概念に疑問を呈し、英語と日本語を同時に使うことの非効率性とストレスを指摘。英語学習が進むにつれて、日本語の干渉は邪魔になり、自然と英語だけで考える方が楽であるという心理が働くため、言語を分離することの重要性を強調しています。
はじめに:語学学習における母語の役割
こんにちは、そっちゃそです。 この番組そっちゃその語学ラジオでは、
語学学習というテーマを軸にその本質やあり方について、 哲学的に考えていきます。
ここで扱うエピソードは、もともとYouTubeに公開した内容をもとに、 音声コンテンツとして再編成したものです。
映像がなくても理解できるように設計していますので、 通勤中や作業中など、長な時間にもぜひお楽しみください。
それでは、今回のテーマに入っていきましょう。
こんにちは。今回も英語学習系の話をしてみたいと思います。
今回なんですけど、英語学習、英語学習に限って話じゃないんですけど、 語学学習をするときに、自分らの母語、要するに日本人の場合は日本語になるんですけど、
日本語の説明とか、日本語の和訳、英単語とかの日本語の訳例とかを、 位置づけてどのように活用していけば良さそうかっていう話は、ざっくばらんにしてみたいと思います。
「英語脳」への懐疑と本質的な問い
こういう話をすると、英語能みたいなのが出てきますよね。 英語を英語で考える英語能を作りましょうとか、
英語能、日本語能と対比して、日本語能ではなく英語能を構築しましょうみたいな話が出てくるんですけど、
僕は英語能自体にはちょっと怪異的で、英語能って、そもそも英語能とは具体的に何ですかってよく分かってないじゃないですか。
みんながみんな英語能っていうのを、おのおのが勝手に妄想と言ったら言い過ぎですけど、イメージして英語能を作りましょうって言ってるのが今の状況なんで、
英語能っていう言葉はなるべく触れたくないっていうのがまず一つあります。
と同時に、英語を使うときに日本語、自分らの母語をどのように解釈して理解すれば良いかっていうのはやっぱり考察する余地がありますよね。
英語能っていう英語能を作りましょうみたいな一言でまとめないで、英語を使うとき、外国語を使うときに自分らの母語をどのように考えれば良いかっていうのは考える余地がありそうですよね。
日本語と英語を混ぜる面倒くささ
今回はそういう話をしまして、僕の意見なんですけど、英語の日本語能とかそういう科学チックな話じゃなくて、
普通に大きな方針ですよ。ざっくりとした大きな方針として、2つのことを同時に混ぜるのは面倒くさいとか面倒とか手間っていう感覚がまずありませんか。
英語能どうこうとか抜きにして。そういうのがあるんですよね。まず当然というか自然な考えとして。
ですから、さっき日本語をどのように役立てるかっていう、母語をどのように役立てるかって話をしたんですけど、そうすると一つの方針というかざっくりとした景色が見えてきて、それは日本語は大いに役立てることができるんですけど、和訳とか日本語による説明、日本語による何かの英語語学知識の説明っていうのは大いに役立てることができるんですけど、
素直な心理として、それが干渉してくるのはだんだん邪魔というか面倒くさくなってくるなっていうのが肌感覚として見えてくるんですよね。
日本語と英語を言ったり言ったりするのってすごくストレスになるんですよね。日本語の和訳を読んでそれを理解するっていうのはスピードがすごく遅いとき、それこそ中学英語レベルとかで一つの文を処理するのにすごく時間をかけるのは当然であるっていう感じ。
中学英語の教える現場って黒板に英文を書いて、すごく一つの文とか一つの単語に対してすごい時間をかけますよね。そういう場合で、つまりゆっくりゆっくり考えても良いっていう場合には、日本語の説明を使ったり英語と日本語を行き来したりするっていうのはあまり負担にならないんですよね、時間をかけられる分。
ただ普通に英語を使っている分には、普通にっていうのは例えばWPM120ぐらいかな、ワードパーミリッツ120ぐらいの、これ普通というか速すぎず遅すぎずぐらいの処理速度ですね。
1秒間に2ワード英語が出てくるぐらいのスピード感で英語を話したり聞いたりするとき、これ決してすごく速いって感じじゃないですよね。普通って感じなんですけど、そういうときと2、その1秒間に2ワードっていうスピードのときに英語が入ってきたり日本語が入ってきたりするとすごく辛いというか面倒くさいじゃないですか。
いちいち英語の話をしているのに日本語の和訳を当てないといけないとか、和訳とか日本語の文章を考えがまず出てきて、それが英語に変換されるっていうのがすごく高速でやらなきゃいけないんですよね。これってストレスですよね。
だから、だんだんこれは当然の流れとして、中学英語を最初に言いましたけど、だんだんしんどくなるっていうのは当然なんですよ。中学英語のときには日本語で考えたり、日本語と英語の和訳を英語の日本語和訳を考えたりする手間があるものの余裕はあるんですよね。時間的、精神的。
なぜなら、量が少ないから。黒板に書いてある単語とか英文っていうのはすごく黒板一つに収まるぐらいで、量が少ないじゃないですか。それは手間、負担にならないので、英語と日本語をお聞きしても別にそんなに苦にはならないんですが、普通に現場で運用される英語っていうのはそうならない。それはスピードもあるし、量も多いから。そういう流れになりますよね。
大きな流れを確認するんですけど、根本とか根底にある考え方っていうのは、だんだんしんどくなるっていうのがあります。日本語を混ぜると。日本語を混ぜるとだんだんしんどくなる。語学学習の過程で。
日本語の干渉を排除する自然な流れ
自然とそうすると、日本語が邪魔っていう感覚になるんですよね。英語を使っているとき、外国語を使っているときに。それを除去したいというインセンティブが自分の中で生まれて、だんだん日本語で考えるということをやめ始めるんですよ。日本語の和訳をあったりするよりも、英語を見る日本語に変換する日本語を理解するというよりも、英語を見る英語の英文や音が出すイメージをそのまま直感的にスッと入れるっていう方が一手間減るじゃないですか。
要するにこういうモードが2つあって、日本語を返して理解するっていう学校地区なモードと、英語で表現されることを素直に素直にダイレクトに認識するっていうモードがあって、その後者の方が楽だなっていうのがまず体感できるんですよね。英語を使っているうちに。
そうすると、だんだん英語のとか日本語のとかどうこうじゃなくて、楽な方向、イージーな方向に流れるという結果として日本語が飛んでいくんですよね。除去されていくっていうそういう感覚だと思います。繰り返しなんですけど、2つのことを同時にやるっていうのは基本的に難しいんですよね。
それをだんだん消えていくっていうのは、日本語の干渉が邪魔になるから、これが消えていくっていう感覚と同じだと思います。認識の話なんですけど、日本語を使うって自転車の補助輪を使うみたいな感覚になってる人もいると思うんですよね。
英語が難しいから、日本語の補助輪を使って補助的に役立てるように理解するっていう、そういうイメージもあると思うんですけど、僕は補助輪を使って良くしていくっていうアプローチじゃなくて、逆に日本語が干渉してくると逆にめんどくさいから、日本語の要素を消したいっていうインセンティブが出てくるんですよね。
日本語で理解すると楽じゃなくて、日本語が入ってくると邪魔っていう感覚です。これは、さっきも繰り返し述べたんですけど、そっちの方が楽なんですよ。日本語がない方が楽であるっていう風にだんだん感じてくると思います。
英語学習をしている人は多くの人が。訳すっていう作業は基本的にはやらなきゃいけない時にやればいいんですよ。友達とか知人にこれを訳してって言われたら訳せばいいですし、これは日本語で何て言えばいいんですかって言われた時に日本語でそれを言えばいいわけで、基本的にそのような役割にあるとか、それをしないといけない状況とか、それを誰かの別の人に説明しなきゃいけないとかいう状況に限り、
日本語が入ってくるわけですよね。日本語で日本人に英語を教えるとかもそうですよね。英語で英語を教えるってのはないわけじゃないんですけど、基本的には日本語で日本人に英語の知識を教えますよね。その時に、当然日本語でしゃべるわけですけど、それもさっき言った訳すとか、和訳を出すとかって同じで、そういう日本語で教えるっていう役割にあるがゆえに日本語でコンセプトを出すわけじゃないですか。
そういう時は日本語と英語を言ったり来たりするのは当然なんですけど、対して当然というか、英語をしゃべるとか英語を聞くっていうその普通に英語を使うっていう場面においては日本語の干渉はやっぱ邪魔じゃないですか。というのが今回言いたかったところです。
日本語ありき学習法への疑問
分離するっていうことなんですよね。邪魔だから消すっていうのは。できれば分離したい。できればシンプルにしたい。異種の混合物がごちゃ混じゃって気持ち悪いというか汚いからそれを綺麗に折り分けて本質だけを見たいっていうそういう感覚ですよね。
これって生理的欲求というかそうしたいっていう真理があるんですよ。多分皆さん英語を使う時に邪魔なものは消したいっていうそういう感覚ですよね。これは何回も今回のお話で言ってしまっているというか、同じようなことを何回も繰り返してるんですけど。
ただ一方で、世の中は日本語ありきで英語を運用するっていう方向性みたいなのを感じるんですよね。僕が具体的に思うのは瞬間絵作文とかそうじゃないですか。瞬間絵作文って僕どっちかというと否定派なんですけど、その瞬間絵作文って日本語を読むっていう操作がまず入りますよね。
これってさっきまでの話で言うと日本語の干渉じゃないですか。瞬間絵作文をする時に必ず日本語を読んでそこから最初に入らないといけないというのはすごく心理的に負担であってストレスなんですよね。
なんかそういうのもあって、瞬間絵作文に代表されるように日本語ありきで日本語を混ぜることが前提で何かが始まるっていうのはすごく僕は変だなというふうに感じています。さっき言ったように日本語をなるべく除去したい方向があるんですが、それを逆に入れようとしてくるっていう人たちもいるわけで、それはなんか変だなというふうに僕は感じています。
今回、話の筋は日本語はもちろん当然あるべきというか、あった方がいい場合もあるが、対極的に見て全体像を見た場合はなるべく消えた方がいいっていうそういう感じですよね。外国語を運用する場合は。だからキーワードとして仕方なく便宜上使うっていうのはあるんですよね。
でもそれって入り口、中学英語って言いますけど、入り口として日本語の和訳、日本語の説明、日本語の意味を使うっていうのはあるんですけど、それはきっかけというか開始点なんですよね。やっぱり前回の動画でも英語の全体像、語学学習の全体像っていうのはなるべく早期に確認した方がいいというふうに僕は思っているんですけど。
日本語が入ってくると日本語の考え方、日本語の文化圏、日本語の語順感覚、日本語の言語感覚っていうのはやっぱり抜けないので、それをなるべく除去したいという感覚がまず生まれるんですよね。
で、また対局感っていうことを説明しますけど、常に今使っている英語の日本語和訳が仮初めの姿で、本質的にはやっぱり英語の語順感覚を使わないと、そのうちどこかで無理が来るなとか、そのうちどこかで日本語の当てはめだけではパンクするなっていう感覚を持つべきだなっていうふうに僕は考えています。
結論:言語の分離とシンプル化の重要性
で、最後になるんですけど、今回の動画を通じて言いたかったのは、いろんなものが混ぜ込んでいるとやっぱりなんかめんどくさくなるんですよね。英語と日本語が混じっているっていうのが気持ち悪いというか、分離したいという感覚になるんですよね。
シンプルにすべきところはどこまでもシンプルにすべきですから、そこはやったほうがいいなというふうに考えています。
繰り返しなんですけど、日本語は便宜上楽に出す場合が多いにあるし、それは使うべきなんですけど、やはり方向性としては分離したい、より分けたいという感覚が効いてくるかなというふうに考えています。
今回は結構抽象的な話になったかなというふうに思っているんですけど、今回の動画は以上になります。次回の動画もぜひご視聴ください。ありがとうございました。
最後までご視聴いただきありがとうございました。
noteやkindleでもこのラジオで扱っている内容をより体系的に整理したコンテンツを発信しています。
さらに深く学びたい方は概要欄からぜひチェックしてみてください。
それではまた次回お会いしましょう。
14:12
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