これってどうですかって言われたらどう回答しますかね。 それできてますか。
色眼鏡で情報を見てないですかっていうのが僕の一番聞きたい質問なんですけど、
何か学習をします、何か勉強をしますというときに、 まず真っ先に何をしますかという質問の形態に書き換えてもいいと思うんですけど、
そのときに例えばですよ、解説動画を見ますとか、参考書を読みますとか、教本を読みますとか、
あるいはGoogleに行きますとか、よく知ってそうな人に教えてもらいますとか、
そういうのが出てくる場合って、いずれも一時情報ではないですよね。 現状把握になってないですよね。
現状把握は現実を見なきゃ始まらないって言ったんですけど、 それっていずれも二次情報、三次情報以降の、
誰かの手が着色が入った情報ですよね。 それがダメだというわけでは決してないんですけど、
それだけになってしまうと現状把握がどんどん遅れるじゃないですか。
それをしないほうがいいというのが僕のサジェクションになります。
そうなってしまうのは何となくわかるんですよね。 さっき自分の英語を録音しましょうとか、
自分の書いた英語そのものを確認しましょうって言ったんですけど、 それって何となく恥ずかしいとか照れとか、
何となく後ろめたさが感じるのはわかるんですよね。 何でかっていうと、やっぱりみんなネイティブ英語、ネイティブ発音とか言ってるんで、
それと比較してしまいますよね。 それで自分の英語を出すのが恥ずかしい。
もっと言うと、記録として残しておくこと自体、 記録として残して公開したりシェアしたりすることに対して、
すごく心理的抵抗を感じる人がすごく多いと思うんですよね。 それは何となくわかるんですけど、
それは必ず通らなければいけない道なんですよ。 それが相反かたきなになって、
どんどんどんどんインプルーヴしていくわけですよね。 それをしないと本当に何も始まらないわけですよね。
技術的ハードルもないじゃないですか、別に。 録音するにせよ、英文を記録するにせよ、
スマホ一台あればできますよね。 録音録画って別に人々が24時間手元に持っていて、
スマホを使えばいつでもできますし、 あるいは英文だってテキストでタイプすれば別にいいわけじゃないですか。
当然記録っていう面でも有利で、 スマホに残しておけばいつでもチェックできますよね。
現状把握、現状確認っていう元々の目的ともすごく整合すると思います。
だからできないはずがないんですけど、 それは記録して確認してインプルーヴしていくっていう、
ある意味当たり前の方法ってできないはずがないんですけど、 なかなかそれをやってくれる人がすごく少ないんですよね。
それをしないでやっぱり二次情報、三次情報、 誰かの教え、誰かの情報、誰かのハードツールばかりを求めてしまうと、
主観が抜けて客観ばかりが入ってきてしまうっていう、 そういう状況になってるんですよね。
自分の問題、自分の課題、自分の目標、自分の方向性っていうのは、 やっぱり現状確認してると本当に分からないんですよね。
それをした方がいいっていうのがサジェスションになります。
それって日本人には通じますけど、 日本人以外の誰かにトイックのスコアを伝えても
別に本当に何にもならないんですよね。 トイックの知名度は知らないですし誰も。
ちょっとここからは角度を変えるんですけど、 現実を見ているかどうか、見えているかどうか、
現実をちゃんと把握できているかどうかっていうのが 良いもの差しというかチェックになるのが、
自分の言葉で説明してみるっていうのがあります。 これすごく役に立つと思います。
まさに僕がやってることなんですけど、 ノートとかYouTubeとかこのポッドキャストで
自分の言葉で僕が説明してるじゃないですか、 それをやってみるのが良いのではというのが
僕のサジェクションになります。 というのも現実を説明するっていうのは、
現実を把握していることの十分条件になりますから、 説明できるのであれば理解しているって言っていいはずですよね。
説明できないってことは、現実を、目に入ったことを うまく解釈できていないっていう、逆にそういうサインになりますよね。
それってすごく役に立つんですよ。 なんでかっていうと、そこで出てくる言葉が
世間がよく言っていることに やきましになっている場合とかもありますよね。
例えば、どこかのインフルエンサーっぽい人が 言っていることを復習をしただけでは、
それ現実を説明したことには なってないですよね。
ネイティブはこのような表現をします。 ネイティブ英語はこれです。
カタカナ教科書英語はこれです。
そういうことを誰かが言ってたよっていう説明をしちゃうと、 それって現実の説明にはなってないですよね。
それは二次情報をもっと薄めて 説明しただけじゃないですか。
それをしてしまうと、現実を見ていない っていうサインになるんですよね。
逆に現実っていうのは もっと訳がわからないんですよ。
一言で説明できるようなことでもないですし、
そこをわけわからないとか、カオスとか、 もう本当に複雑でよくわからない状況を
理解、把握しつつ、それでもわけわからないなりに 自分の言葉で説明することがもしできたのであれば、
それって現実を見ているという証拠になりませんかね。
それをするといいと思います。
これって語学学習でもすごく役立つと思うんですよね。
語学学習っていうと、教科書とか参考書とか、 そういうのに書いてある情報を暗記して
複装できるようにすることだけじゃないですよね。
それは現実ではないですよねっていうのが くどいようですけどあります。
事実としてどうなっているのかを確認する。
確認した事実を自分の言葉で説明するっていう流れが すごく効くっていうのが僕の持論になります。
怖いのは分かったような気分で止まっちゃうことなんですよね。
YouTubeのショート動画とかが典型なんですけど、 分かったような気分になってしまって止まっちゃうっていうのはすごく多いんですよね。
それって現実を見ないで数十秒、 十秒、数十秒の動画だけ見ていい気分になっておしまいっていう感じなんですけど、
これって全然学習になってないんですよね。
学習っていうのは、現実を見て問題を把握して インプルーブしていくって何度も何度も言ったんですけど、
それはYouTubeのショート動画を100万個見ても 分からないわけですよ。
YouTubeのショート動画は簡単分かりやすい風ですけど、 それってなんかシュガーコードされてるというか、
複雑な現実を見せないようにしてるっていう、 ある意味良くも悪くも配慮があるわけですよ、クリエイター側の。
それを見てていい気分になると、 現実の問題が隠されちゃうわけですよね。
それを、そのせいで実際にどうなっているのか よく分からないという状況になるわけです。
くどいようですけど、いかに自分の言葉で 説明できるかっていうのがすごく重要になるはずです。
二次情報、三次情報だけをたらふく摂取して いい気分になって、
世の中の物事を全て知ったような気分になるのは すごく危険で、というのもやっぱりそれをすればするほど、
一次情報、現実の情報、生の情報が 見えなくなっちゃうんですよね。
そうすると、内外の現実を見てそれを捉えるっていう仕事、 問題解決、課題設定の重要な仕事の力逆転が削れて、
削れてなくなっちゃうっていうことになります。 だから程度問題でもなくて、
これはそこを外すと永遠に話が始まらないという 状況になるわけですよ。
時間の無駄って感じがしませんかね。
だから分かっているつもりと分かっているのが 違いだというふうに説明してもいいと思います。
分かったつもり、分かっている、分かった気分っていうのは 比較的容易に達成できてしまうんですけど、
実際に分かっているかもっと言うと、 分かった上でそれを技能として紹介して、
ちゃんと自分で披露できるかっていうのは 本当に点とちょうどの差がありますから、
それはそこにものすごくギャップがあるっていうのは 理解したほうがいいはずです。
それを確かめるためには自分の言葉で説明する、 自分でやってみる、
現実をちゃんと把握するっていうのが 本当に大事になると思います。