記号と象徴の違いに気づいた件。コテンラジオの最澄と空海シリーズで、漢字以前の日本語では同じ音の言葉は同じ意味グループとして扱われていたという説を聞いておもしろかったこと。トランプとタロット、五行思想、百人一首の掛詞など、象徴的なものの扱い方の可能性について話しました。
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サマリー
このエピソードでは、記号と象徴の違いについて掘り下げ、特に日本語の単語が本来象徴的であった可能性を探求しています。コテンラジオで聞いた最澄と空海のシリーズで、漢字以前の日本語では同じ音を持つ言葉が同じ意味グループとして扱われていたという説に触発され、この考えが現代の日本語や文化理解にどう繋がるかを考察します。 記号が一対一対応であるのに対し、象徴は多様な意味を持つという違いを説明し、トランプとタロットカード、五行思想、百人一首の掛詞などを例に、象徴的なものの扱い方の豊かさや、現代社会で失われつつある象徴的思考の重要性を論じています。特に、日本語の同音異義語の多さが、単語を記号ではなく象徴として扱っていた名残ではないかという仮説を提示し、それが和歌文化や言葉の曖昧さ、さらには現代社会が抱える問題解決への新たなアプローチに繋がる可能性を示唆しています。
記号と象徴の違いへの気づき
最近、ここしばらく、コテンラジオを聞いていまして、ポッドキャスト番組で、結構ポッドキャスト界では人気がある番組だと思います。
身近な人に聞くと、「ああ、知ってる知ってる。」っていう人がすごく少ないので、まあ、あの、そんなに広く行き渡ってるのではないのかもしれないですけど、
ポッドキャスト界では有名な番組だと思うんですけれども、
このコテンラジオの今、最長と空海のシリーズを聞いてて、すごい面白い日本語の話で、すごく面白い話があって、
漢字とか文字、書き文字が登場する前、輸入される前の、声、音だけで日本語を使ってた頃の日本語の話、
言霊だとか、そういうことも含めて、昔日本語がどういうものだったかという話で面白かったんですけれども、
ちょっと後でどういう話かというのは詳しく説明することにして、
その話と何が繋がったかというと、最近よく考えてる記号と象徴という話と繋がってきて、
記号と象徴ということを考えるにあたって、よりちょっと違う目線で考えられるようになるんじゃないかなと思って、すごい面白かったという話をしておきたいなと思いました。
例によってというか、直感的に面白いなと感じたっていう話なので、
今、今日話すことがどこに向かっていくのか、今の時点では全然分かってないですし、
もしかしてツラツラ喋ってみて、大して何もなかったということになるのかもしれないですけど、
多分これは放っていくと面白いところに行き当たるんだろうなという直感だけが来てるというような状態ですね。
で、最近ちょっと考え始めているのが半年ぐらい前からだと思うんですけど、考えてるのが記号と象徴のことなんですね。
記号と象徴ってなんとなく似たようなもんだとぼやっと思ってたんですけど、少し前に言うと全然違うもんなんやなということに気づいて、
それ以来ずっと考えてるわけじゃないですけど、折に触れて思い出して考えてるんです。
記号と象徴の共通点って、別のもの、別の実体があって、それを何か別の形で表現しているという意味では共通だと思うんですよね。
地図記号とかの温泉記号とかになると温泉という実体があって、それを丸とにょろにょろみたいなやつで温泉記号があって、
その温泉記号を見たら実際の温泉があるってことがわかるという意味で、実体と別の形をしたもので表現するっていう意味では記号もそうだと思いますし、
何とかは何とかの象徴であるみたいな。
象徴の場合で言うと、例えば、鳩は平和の象徴であるみたいに、平和というものを象徴というものに、
あ、象徴じゃねえや。平和というものを鳩というものに置き換えて表現する。
別のものを別のものに置き換えて表現するという意味では記号と象徴ってよく似てると、
なんとなくぼやと思ってたんですけれども、記号と象徴が決定的に何が違うかということを考えたときに、
記号っていうのは基本的には一対一対応であるということですね。
例えば数学記号って言ったときに、イコールっていうのはイコールということを意味していて、他のことは意味しないっていうのがイコールという記号。
足し算のプラスっていう記号も同じですよね。プラスということを意味していて、それ以外のことを意味しないっていうのが記号と言っていいと思います。
一方で象徴っていうのは、あるものに象徴されたときに、その象徴が意味するものっていうのは複数に渡る、
いろんな具体的な形をとるっていう特徴があるというふうに理解してます。
例えばですけども、光っていうのは真理の象徴であるって言ったときに、光と真理っていうのを真理の象徴光というふうに表現したときに、
希望の象徴は光であったり、知性の象徴が光だったり、救いの象徴が光だったり、光っていうものはいろんなものを象徴することができる。
象徴的なイメージの光って言ったときには、そこには真理も含まれるかもしれない、希望も含まれるかもしれない、知性が膨らまれるかもしれない、救いが含まれるかもしれないというふうに
一体Nの関係にあるっていうのが象徴っていうものの特徴だというふうに言えると思うんですよね。
記号と象徴ってざっくり似たものだと思ってたんですけど、意外と違うということに気がついて、なんでこれがもしかして面白いかもしれないなと思ったのは
現代社会、現代はそういう傾向があるのか、自分がどちらかというと理科系のバックグラウンドを持っているので
特にそういう方向だと傾向が強いのかもしれないですけれども、記号を扱うことはすごく多い。記号っていうのは扱い慣れてると思うんですけれども
象徴って扱い慣れてないなというふうに思ったんですよね。記号が扱い慣れてるっていうのは、もちろん数学記号とか方程式とか
あれは全部というかほぼ記号の集まりですから、プラスも微分記号も積分記号もたち算記号も資則演算記号も何にしろ記号の塊なので
すごく記号は扱い慣れている。あるいはプログラム言語っていうのもコードとかいうのも基本的には記号の集まりなので
すごく記号とはよく接している。一方で象徴を扱うことってあんまり日常的にはなくて
むしろ古いもの、全近代というのは言い方が悪いですね。今は失われたようなものを扱ってる時に象徴を操作する
象徴を扱う。あるものとかある概念に複数の意味合いを持たせて操作するとか扱うってことは
昔のものをやってる時の方が多いんじゃないかなっていう気がしてたんですよね。特にすごいちゃんとやっているわけじゃないので偉そうな方は言えないんですけど
茶の湯なんかはいろんな道具が出てきますけれども道具ってやっぱりすごい多義的というかいろんな意味を持っていることが多いと思うんですね
例えば自分が好きなものでいくと秘釈、水をすくう竹でできた秘釈という道具ですけれども
あれはもちろん水をすくうための道具ではあるんですけれども、あれは自分の心を映す鏡と思いましょうというようなことを先生によく教わったりしました
自分とか、自分の象徴であったりするわけですね。あるいは茶食は定主の心配の象徴であったり
茶道の世界に入っていると、茶の湯の世界に入っていると記号ではない象徴的なものっていうのにたくさん取り囲まれているなと
一つのものが一つのことを意味するんじゃなくて、一つのこと、ものがN個のものを意味するという
すごい多義性と言えばいいんだろうか、象徴的なものに取り囲まれているという感覚があるなというのは思ったりしていました
あとは半年ぐらい前からですかね、すごい面白いなと思っているのはトランプとタロットカードの違いで
トランプっていうのはすごく記号的なカードだと思うんですけれども、タロットっていうのはすごく象徴的なカードだと思ったんですよね、見た時に
トランプは基本的にACE123Cとか、そのカードは何を意味するっていうのは1対1対応になっている
スーツと番号っていうんだろうか、キングとかもありますけど、スーツと順番という数列ということを1対1で対応して表しているわけですけれども
タロット勉強し始めて理解したのは、タロットも一応番号はついてるんですけど、例えばダイアルカナを考えても0から21までの番号はついてるんですけれども
その1対1対応をさせたいということじゃなくて、例えばダイアルカナの5っていうのにはすごく複数の意味があると
複数の意味を象徴的に取りまとめたものが一つのカードみたいな、タロットカードと他の意味とか暗示するものっていうのが1対Nの関係になってるっていうのは
タロットカードとトランプが根本的に違うところだなというふうに理解したわけですね
タロットカードを勉強したりしてるうちに、前も喋ってきはするんですけど
タロットカードで占いをしてみたいみたいな気持ちは全くなくて
タロットカードが想定しているような世界観っていうのが何なのか理解したいとか
そこで表現されているものをもっと上手く使えるようにならないものかなという好奇心があって
勉強したり触ったりしていたわけですね
というのも今の世の中というのはすごく記号的なものに囲まれていて
象徴的なものにあんまり取り囲まれてはいるんでしょうけど
それをうまく扱うっていう技術についてあんまり自覚的じゃないんじゃないかなという気がしていて
タロットカードっていうのは象徴をうまく扱うためのノウハウとか技法がそこにはすごく込められているわけなので
例えばタロットを勉強することによって象徴を扱う、操作する扱うっていうのは
どういうやり方があるんだろうなということを研究できるんじゃないかなと思ったということがあります
昔、いわゆるナチュラルサイエンス、自然科学ではないような世界観では
世界の技術方法ということについて象徴的なやり方を取ることが結構多かったんじゃないかなという気がするんですよね
例えば五代とか五行とかあるいは京都に住んでいるのでどうしても自覚的になりますけれども
四神双王ですかねみたいなものっていうのはすごく象徴的に世界を構築する
世界の成り立ちを構築する方法だと思うんですよね
五行か五代かどっちかいつもわかんなくなっちゃうんですけど
もっかど渾水とかそういう五つの構成要素で世の中はできてるっていう考え方が
昔はというか今もあるのかな
一つの世界観としてはありましたよね
もっかど渾水に月と太陽をくっつけて月火水木金土日にしているので
現代でももっかど渾水を使ってないわけじゃないんですけれども
今月火水木金土日の使い方っていうのはすごい記号的にしか使っていなくて
この曜日は月曜日は月曜日を意味するのであって
一対一の基本的には一対一の記号的関係として使ってると思うんですよね
でももっかど渾水は五行の方でしたね
五行の火は何を象徴するかというと
例えばちょっと今調べてみたんですけど
方角であれば南季節であれば夏色であれば赤
感情であれば喜びとか味であれば苦いとか
あるいは生命力とか活力みたいなものとか
情熱とか欲望みたいなことであったり
知恵とか文明だったり再生だったり
そういう火はいろんな意味合いを持っていて
そういういろんな意味合いを持っているもっかど渾水の五つによって
世界は構成されていると
それぞれ火は水に弱いとか火は木に強いとか
そういう関係性があって
それぞれのものが影響し合うと
力関係を持ち合いながら世界を構築するという考えになってるわけですね
でもそういうふうな
象徴的に世界構築する方法のメリットっていうのは
結構少ない要素で世界が記述できる
例えば五行だったら世界がもっかど渾水でできてるっていうふうなことなんで
何が現れてもどれに当てはまるっていうふうに考えて
その当てはめたものがちゃんと成立してるかっていうことを検証していけば
五つで世界が説明できてしまうという意味での魅力はすごいあるわけですね
うまくこれが扱えるようになれば世界理解がすごく単純に
そんなに単純ではないんでしょうけれども
ある程度すごい少ない要素で説明できるというところはあるはずだと思うんですよね
自分が勉強してないから想像で喋るんですけれども
東洋医学とか漢方的なものっていうのは
多分こういう引用とか五行とか五代とか
そういう象徴的な操作を体系的に組み上げて
世界も説明するし病気にも対応するし
健康増進にも役立てるというような体系が
おそらく我々が考えている以上に合理的で論理的で
体系的な世界を記述できてたんじゃないかなと想像するわけです
その一定以上を合理的で説明しやすい
象徴という象徴の操作方法とか扱い方っていうのがあったはずなんですけど
今はそういうのは基本的には非合理的だということで
あまり使われなくなってすごく記号的に扱う方が良いというふうにされている
と理解しているわけですけれども
記号的に扱うということが
何でもそうですけどある方法が万能であるっていうことは多分あまりなくて
特定の状況ではすごく役に立つということはあったとしても
そうじゃない状況では役に立たないということは
それはどんな手法、どんな技術、どんな体系でもあり得ることだと思うんですけれども
記号操作だけでは限界に来ることがあるんじゃないかと
そういうところに関して象徴をうまく操作するっていうことによって
うまく対応できるっていう可能性っていうのは常にあるんじゃないかなと思って
欠落していた、みんなが欠落してたかということでなくて
自分の中ではすごく欠落していた
象徴を体系的に扱って世界にアプローチするっていう方法が
本当はあるんじゃないか
それをうまく適材適所で使えることによって
いろんな物事を前進させたり問題解決するっていうことに
役立つんじゃないかなという直感があるということを
ここしばらく思ってたということです
日本語の単語は象徴的だった?
希望と象徴に注目してたっていう話で
20分ぐらい過ぎてしまったんですけれども
コテンラジオで言っていてすごい面白いなと思ったのは
昔の日本語
漢字とかが来て発音してる音で出してる言葉に文字を当てはめるっていうことを
する前の日本語の話ですね
の話をされていて
日本語ってよく言葉
それは割といろんなとこで言葉思想と言われたりしてると思うんですけれども
今日コテンラジオで聞いててこれすごい面白いなと思ったのは
日本語って同音単語っていうんですかね
発音が一緒で意味が違う言葉ってすごく多いじゃないですか
パソコンとかでも日本語変換してるときに一番苦しむのは
同音単語だと思うんですけれども
多分昔聞いて何とかどうかわかんないですけど
言葉の中では
言語の中では同音単語が結構多い方の言語だという風に
昔聞いたような気がします
だいぶ昔聞いたので嘘かもしれないんですけれども
例えば雲と雲
空に浮かんでる雲と動物、虫の雲とかあります
コテンラジオで挙げられてたのは松
植物、木の松っていうのと
Waiting forの松ですね、待っている
あれなんかも松という木と松という行為
が同音単語だと同じこと
同じ音で違うものを意味する言葉だと思います
コテンラジオで誰かの説として紹介していて
すごく面白いなと思ったのは
昔の日本語は松の松と植物の松の方は音が同じなので
同じグループの事柄だというふうに認識されてたんじゃないか
という説を言ってる方がいるという話をされていました
例えば今の松の例でいくと植物の木の松っていうのは
上を降りてくるのを待っているから松だとか
角松っていうのは角に松を立ててるもんに松を立ててる
ということに加えて
そこで神様がやってくるのを待っているんだ松だとかですね
なので今の我々の感覚でいくと
全然松は別のものとグループ分けしてるわけですけれども
漢字とか当てはめる前の音だけで扱っていた頃の日本語っていうのは
同じ音であるものは同じ意味グループ
仲間のグループというふうに認識していたんじゃないかと
いう話をされていたんですよね
これってまさに言葉とか単語っていうのを
記号として扱っているのではなくて
象徴として扱っている例だなぁと思いまして
もともと日本語っていうのは
言葉単語っていうものを
象徴的に扱おうとする傾向がすごく根強くあるのかなと思ったりしたわけです
よくなんか日本語は曖昧だとかロジカルじゃないとか言われたり
すること多いと思います
そう言われてはいろいろ個人的な意見としてはそんなことはなくて
扱い方の問題であって
日本語自体がロジカルにではないとか
ロジカルなことを扱えない言語だというふうには
思ってなかったしそうは考えないっていうスタンスで
日本語というものを理解してきたんですけれども
もしかして単語レベルで本来的には
多義的に一つの単語がN個のものを意味するっていうことを
強要するあるいはそれが自然なものであるっていう風な
言語体系でもともとあったとするならば
そうだとすれば
同じように言葉を並べていても
一つ一つの単語にN個の意味があるわけですから
単語三つ並べるだけでも
一対一対一で意味してるわけじゃなくて
単語三つ並んでたら
N×N×Nの意味合いが可能性があるということで
単語三つ並べるにしても
複数のすごくいろんな意味が表現できると
表現できる可能性があると
確かにそういう言語であったと
だから論理的に説明ができない
論理的に説明するのがあまり得意じゃない言語っていう風にも
言えたりするのかなと思って
それはそれで面白い解釈だなと思ったりしたわけです
もちろん想像されると思うんですけど
和歌とか昔の
歌系のやつが
いつの時代でどういう形式でどれが和歌とか単歌とか俳句とか
ちゃんと細かい分類がよくわかってませんけれども
少なくとも百人一首みたいな
あるいは和歌でいいんですかね
和歌を見てると
一つの歌が書いてありますけど
この単語はこうも取れるし
こうも取れるみたいな話を
めっちゃ聞きますよね
なんかまた一例ですけども
百人一首で代表的なやつね
有原の成平
あそんかな
のちは破る
かみをも聞かず
竜田川
から紅に水くくるとは
という一首がありますけれども
例えば最後のこの
から紅に水くくるとはの
くくるは
水をもみじで絞り染めにするという意味と
もみじの下を水がくぐって流れるという
くくるは
カッコでくくるとかのくくると
下をくぐるのくぐると
両方の意味がかけられているということだそうで
こんな風に
多義的な意味合いを持つ表現っていうのが
百人一首でも結構多いと思うんですよね
百人一首を勉強させられてた頃
これはああいう意味もあるし
こういう意味もあるっていう風に教わって
どないやねんって思いながら
教わってた記憶がありますけれども
なんかこれもそういう目で
日本語っていうのは
もともと多義的な
一個の単語に対して
多義的な意味を持たせている
象徴的な単語の
扱ってたという風なもので
見直すと
百人一首っていうのは
そういう
百人一首ができてきた頃っていうのは
漢字も使うようになっていて
ひらがなも使うようになっていて
文字文化になっていた頃なわけですけれども
文字文化によって
多義的な意味合いっていうのが
だんだん失われていって
要は漢字を使い分けることによって
違う意味は
違う表現になるっていう風な
時代になっていて
もともとの日本語は
そうじゃなかったんだよ
もともとの日本語っていうのは
複数の意味を含意する
それがデフォルトだったんだよ
っていうことをちゃんと
残そうと思って
こういう和歌文化みたいなのが
発達したんじゃなかろうかと
完全に想像ですけど
そういうこともあるんじゃないかなと思って
ちなみにこれは一回
勉強というか調べたので間違いないんですけれども
百人一首とか
なんとか古今和歌集とか
あれってどういう時に現れるかというと
ある文化が
時代の変化によって
なくなりそうになった時に
前の文化をきちんと保存しておこうっていう
モチベーションが働いて
すごく体系的にまとめて記録されるということが
歴史上そういうことって
何度も起きてると思うんですけれども
それの一環で
それぞれの和歌集が
何が破壊されようとしたから
歌集を作ったのかはすっかり忘れちゃったんですけれども
そういう観点でいくと
一つの単語が複数の意味を持つ
という習慣とか
考え方っていうのが
失われそうだという危機感を持ったからこそ
そういう多義的な
多層的な意味を持つ
歌をあえて集めておいたということも
あったりするのかなと
想像した次第です
全然専門的な研究とかに基づいてない
推測なので全然違うかもしれないんですけど
あり得ないことでもないかなというふうに思ったりします
この日本語の単語レベルで
記号的ではなくて
象徴的だったのではないかということが
実際にどういうふうに使えるのかっていうのは
よくまだわかんないんですけど
今でも同音卓語がたくさんあるので
これらを実は同じグループのことを意味してたんだ
っていうふうに捉えてみると
なんかちょっと見えてくるのがあるのかなと思ったりしてみて
象徴的思考の現代的意義と今後の展望
例えば先生という言葉ですけど
ティーチャーの先生という意味もありますし
先生君主みたいな先生という意味もありますし
先に攻撃する先生攻撃の先生もありますし
先回言い切るを先生って言ったりするかな
それはちょっと造語っぽいですかね
他にも先生術の先生もありますし
先主先生の先生もありますし
今漢字変換しようと思ったら
セミの声っていうのも先生っていうみたいですね
っていうふうに先生意という単語も
こういう複数の意味があって
もし仮にこれらが本当は同じ意味グループとして
理解できるんだと捉えられるんだというふうにしたときに
確かにティーチャーの先生は
先生君主みたいになってること多いんで
言葉が実態を縛ってるみたいな側面があるのかなというふうに
思ってみたりですね
そういうふうに日常的な言葉を丁寧に見ることによって
違った見方で世界を見れるんじゃないかなと思ったりしているとこです
ただ漢字ができて漢字の組み合わせによって
言葉ができてるっていう要素がすごく大きいので
あんまり単純に単語を象徴的に
シンボリズム的に捉えるっていうのが
そんなにうまくできないのかなという気もしてみたり
いやいやあるいは
そういうふうな漢字の並びとか音の並びを日本人として選んで
それが自然だと感じている以上は
なんか無意識のレベルでは
同じグループの概念だというふうに捉えたり
あるいは逆に言葉が先に規定されることによって
他のものが他のものに影響される
つまり学校の先生が先生君主の先生という
同じ音が選ばれてるから
ティーチャーの先生の方が先生君主的な振る舞いをするというようなことが
実は無意識のレイヤーでは起きたりしていたりするかもしれないなとか
なんかそのふうに
いろいろ想像して考えてみるのも
面白いんじゃないかなと思ったりしているということです
そんなわけで今日は
記号と象徴
サインとシンボルというのの違いに
ちょっと前に気づいたという話と
日本語という言葉がもともとはすごくこう
日本語の単語というものが
昔々は記号的ではなく
象徴的なものであったのではないかということを
今日聞いてめっちゃ面白いなと思ったという話でした
これが実際的にどういうふうに使えるかっていうのは
全然想像がついていなくて
なんかこれは面白そうだななんかに使いそうだなっていうレベルなんですけれども
やっぱり現在社会というか
いろんな意味で行き詰まってたり
うまく解けない問題があったり
っていうことがいろいろあると思うんですけれども
なんかいろんな解けない問題が出てくるっていうのは
今扱っている
今想定している体系とかシステムとか技術っていうのの
視覚?盲点?
今の技術体系とか思考体系では解けない問題が残っているという可能性もあると思っていて
だとすれば別の思考体系とか技術体系っていうのを持ち込むことによって
意外とあっさりと解けるというような
問題解決の方法もあるんじゃないかなというふうには思っていましてですね
そういう今までとは違ったアプローチの開発という意味で
ちょっと記号と象徴というところをもう少し考えてみたいなと最近思っているところです
足元で日々日々使っている
日本語の単語というものの中に
結構もしかしてヒントがあるんちゃうんという可能性を見つけたと
毎日毎日すごい文字数を打って漢字化な変換をして
語変換に悩まされている
日本人全員悩まされているわけなんですけれども
変換リストの中にもしかして
世の中の諸問題を解決するヒントが眠っているのかもしれないという発見があったという話でした
自分としては相当面白い発見だったんですけど
発見というか話だったんですけど
日本語の単語が多義的であるということがすごい発見
めっちゃおもろいやんと思ったんですけど
このめっちゃおもろいやんって思った漢字が上手いこと伝えられたでしょうか
この考えがどこに向かって進んでいくのか
自分でもよくわかりませんけれども
また発見があったら改めて話をしたりしたいなと思ってます
今日は以上ですありがとうございました
35:40
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