AIと再現性の問題
となとまコードバナシ。この番組は、異なる専門性を持つパーソナリティが、最新のコンピューター技術、教育、生活などについて語り合う番組です。
再現性というものが、なかなか難しくなっているというか、いろんな複雑な事情の中で、AIとかもそうだと思うんですけども、やっぱり動いているというところで、
再現性をどれだけ求めることに意義があるのかという、もとに意義はあるんですけども、それだけでは扱えないというものがあって、これはインタラクションがあるからなんですよね。
インプット、基本的に何かの再現性というのは、何かのインプットがあって、何かのアウトプットがあるという。このインプットとアウトプットの関係をもって評価するというのは、
特に工学系の研究における基本的な枠組みだと思うんですけども、そこに対して人間が入ってたりとかすると、ループが生まれるわけですよね。
この循環する中で、アウトプットの質がどうなのかということを議論し始めると、単純なインプットとアウトプットの関係ではなくて、いろいろやりとりした結果として何かが生まれているということに対しては、
これを実験が再現するのって非常に難しいっていうのが、私自身が博士課程の時には対話システムの研究をやってたので、そういう意味で評価が非常に難しいっていう問題に直面したってことを今でも覚えてますね。
なるほど。特にAIが入ってくると、AIの持ってるランダムネスっていうのがそこにさらに入ってきて。
でも、AIのランダムネスって逆に、例えば、戦争をしていた時代の日本国って、こんなふうな選択をしてても、こんなふうな選択をしてても、結局は負けてしまったんだろうみたいな本が確か最近紹介されたのを見たんですけど。
読んではないんですけどね。同じように、AIにいろいろ聞いてみて、こんなインプットの仕方をして、こんなことを言っても結局はこういう結論にAIのランダムネスを持ってもなっていくんだとか、
チャットGPTに聞いても、クロードに聞いても、ジェミナイに聞いても、こういう結論になっていくんだっていうところが、例えばあったりすると、それは結構一定の確かさを保証してくれるような気はするので。
今までのそういう再現性に加えて、AI的なそういう再現性というか、確からしいっていうことのやり方も加わってくるのかなっていう気はちょっとします。
スマートフォンの影響
その評価を自衛的な環境でするのっていうのが相当厳しくなっていて、本当にオンビネスの実際の実用のシステムで評価していくっていうことに必然的になりますよね。
そうですね。僕が結構最近、多くの人に紹介しているのが、アンデッシュハンセンという人が書いたスマホの本で、ものすごく多分具体的な数値は本の中に出てこなかった気がするんですけど、ものすごく威厄して言うと、僕らはスマホが胸ポケットに入ってたり、
そういうのを重さを感じたりするだけで、脳の25パーセントぐらいがそっちに意識が奪われて、本来意識の75パーセントぐらいしか活用できてないって確かそういう論士なんですよ。
確かにそれはそうだなと思うんだけど、確かその本の中でどうやってそれを証明してたかっていうと、やっぱりグループ分析というか実験をして、Aのグループにはスマホを持たせたまま試験を受けさせた。
Bのグループは隣の部屋にスマホを置いて試験を受けさせた。別の話だったかもしれないけど、Cのグループはスマホと同じ重さの大きさのものをポケットに入れて試験を受けさせた。
そうするとスマホを胸に入れているグループが一番悪くて、同じ大きさのものを持っているグループもちょっと悪くなって、隣の部屋に置いてこさせたグループが一番良くなったみたいなことがあったりするんですけど、これがやっぱり学生が例えば一人で自分の部屋で同じ試験を受けているのと、
グループでそれをやっていることっていうのも結構意味が違うなという気がするので、周りのスマホを持ってない人たちを見ながら自分も試験を受けると、それだけ集中力が得られたっていうことかもしれないし、
自分一人だった時に胸ポケットにスマホを入れているのと、机に出しているのと、隣の部屋に置いているのと実はそんなに変わらないかもしれないみたいなところがあるのかなと思うと、対象実験も意外と難しいなと思います。
人による実験ってなかなか難しいですよね。個体差もあるじゃないですか。なかなか何を持って確からしいっていう風に言うのって難しいですよね。
その実験に関しては言われているのはわかるな。
なんとなくね、実感としてはそうだなと思って。
確か僕はそれを読んでた時に、頭の中で繋げながら読んでたから直接書いてなかった気がするんだけど、
ヨバル・ノア・ハラリさんの書いたサピエンス全史と確か繋げながら僕は読んでて、
僕らは縄文時代ぐらいの人間から脳の構造は99.99%変わってないと。
そんな状態でスマホを今手にしてるから、スマホから受け取る情報が僕らの生死を分けるんだっていうのは結構如実に脳に効いてくるんだと。
だから25%ぐらい通知が来るたびに気を取られて奪われてしまってもおかしくないなと思いながら読んだのが、
どこまで本に直接書いてあったかわからないけど。
人の脳が大きくなったっていうのは、サピエンス全史で出てきた話でいうと、
人の数、集団の個体数が多くなればなるほど、その集団の中で生き残っていくためには、
ゴシップっていう世界の中で、自分自身の評価がどうなのか、相手の評価がどうなのかっていうことを非常に気にしないと生き残れないっていう中で、
それで100人の集団の関係を発揮するためには非常に大きな思考能力が求められるっていう話がありましたよね。
その限界が150人ぐらいっていう話をよく言われますけども。
デジタルコンテンツと所有感
そうですね。
友達だったか、友達じゃないか、自分の周りの知り合いとして認識できる人間の数も確か150ぐらい。
はい、はい、はい。
なるほどな。
スマホがコミュニケーションのデバイスとなって、コミュニケーション的な文脈でのあなたの一部っていう、
信じていくとその通知っていうのが、その人がそうやって社会生活を営んできたところから形成されている、
パイロットというところにダイレクトに出力が来るっていうことは当然あるんだと思います。
確かに。その人間の数というのと本棚、私たちのこの体というデバイスのサイズと本棚のサイズと認識できる本の数っていうのは似たような構造にあるような気がしてきました。
だから、Kindleの中に入っている本は持っているようで、あんまり持っている感覚がないのかな。
いまいち所有感薄いんですよね。
そうですね。
まあ、もしアカウントがバンされたら、その時点で読めなくなるっていうちょっと理不尽な仕組みで役をしているわけですけども。
サービス停止とかもそうですよね。
そうですね。
何冊か読めなくなっている本がありますよね、確か。
あります、あります。
そうなんですか。
それこそ、本ではあまり例が思い出せないですけど、Amazonプライムのビデオとかで購入したものは見れるのかな。
でも、魔薬を役者の一人がやっていてとか、何かで逮捕された人が出たからって言っても配信できなくなりましたっていうものはあったりしますよね。
現実的に、キングドームの中にある本は、これは彼氏への権利を教える権利ではなくて、利用許諾権っていうものなので、権利の性質が違うんですよね。
確かに。
だからそれがもう、頭で無意識のうちに理解してるってことなんですかね、この所有管の無さっていうのは。
所有管確かにないな。
サブスクリプションサービスに近いですよね。
一応、期限を定めない利用許諾っていう形になってはいるけども、それが永久に提供されるっていうことは保証されてないんですね。
本は物理的なものが存在し続けるときにずっと利用できるし、
それこそ本が、千年前の本が残ってたりするっていう、物理的にも寿命って非常に長いわけですけども、
電子的な媒体の寿命の短さといったら、
30年とかって動かすのって本当に大変ですよね。
確かに。
それこそVHSのビデオテープに貯めてるコンテンツとかって、もうちょっと再生するのがだんだん難しくなってますよね。
音だけはちゃんと聞こえるんですけどね。映像はもうほとんど再生できなくなってたりしますね。
そうですね。初期のCDとかも結構もう再生できなかったりするっていう話はしますよね。
プラスチックが冷化してしまうんですから。
確かに。
でもだからといって、アップルミュージックとかスポーティファイとか、
ああいったサブスクリプションサービスで聞こうとするのもやっぱり所有感がいまいち持てない。
結局は思い込みの問題だと思うので、
1回聞いたなら聞いた時点で同じことだとは思うんですけど、
それを自分が所有していて聞いてるのか、
それともたまたまそこにあるものを聞いてるのかっていう違いはある気がするな。
自分で所有してる以上、何かこう本当に貸し出すとかも含めて、
自分に権利が与えられているものだというふうな認識が物体としてではある。
例えばゲームとかにしても、昔はソフトを買って、
ハードとして入れて使ったものが今でダウンロードコンテンツがだいぶ増えてはきてますが、
やっぱ貸し出すっていう概念が本にしろゲームにしろ音楽にしろすごく減ったよなという感覚はあって、
シェアリングすることはできても、
誰かに自分が買ったものを渡すっていうのがなくなったっていうところで、
所有感がなくなってるっていうのは事実あるかなって思ってます。
確かに。
デジタルコンテンツと所有感
僕結構ゲームやるんですけど、
そこでもですね、ダウンロードして使うのかソフトとして買うのかっていうのは毎度毎度結構悩んではいまして、
物体として買う良さはパッケージとかが付いてくるわけですよね。
ソフト単体じゃなくて。
そこも含めて何か良さがある。
ただダウンロードしてしまうとそういうようなものをすっ飛ばして入れられてしまう。
だからその発売日の24時を回ったタイミングでやりたければダウンロードするしかない。
届くのも買いに行くのもないからっていうのでダウンロードすることもあるんですけど、
なるべくソフトもハードで買いたいなって思ってて、
究極売るっていうことができるのもダウンロードコンテンツじゃ無理なわけじゃないですか。
昔は。
ほんとだ。
そこら辺も含めてですね、
所有してる感は、
所有してる感というかもしかしたら思い込みでもないかもしれないなとは思っていて、
結構ダウンロードであったりサブスクリプション系であったりっていうものは
権利が違うっていうのは感じるなぁとは思っています。
なるほど。
5000円で買ったものを例えば1週間でやり終わったら、
たぶん4000円とか3500円で売れるわけですよね。
そうじゃなくて、ダウンロードコンテンツの場合は
終わったらそのダウンロードした権利というのを誰かに渡すっていうのは
もしかしたらあるかもしれませんけど、
少なくとも私はあんまり認識をしていないんですね。
やってる人たちも少ないと思いますし、
ダウンロードしたものをメルカリで売りますとかもできないと思いますしね。
技術所有という概念は減ってるよなっていう。
体験の変化
それがいいのか悪いのかは置いといてですね。
案外思い込みじゃないかもしれないなというふうに思いました。
実際に契約で多分そのアサルトの情報とかは禁じられてるケースが多い。
利用契約で多分そういうのは多いはずです。
DMM Booksで僕も漫画とかよく買ったりするんですけど、
アカウントのシェアリングとかも当然ですけどね。
確か禁じられてたはずなので。
読んでよ、この本。ほら。
これって渡せない。勝手にになる。
そうですね。コンテンツを入手すぎるときの
やっぱりiPenって結構私たちに影響を与えてるなっていうのがあって。
ゲームでダウンロードするのと
この本当の時代に、フォリコン時代ですけども
ドラクエ一本と、当時はカセットですよね。
もう泣きなしのお使いを入手して
大袈裟さんで買うっていう体験って
多分全然重さが違うっていうか
フォリコンっていうか思い出というレベルでやっぱり違うっていう
そこには大きな違いがありますね。
それこそ今の方が軽いんでしょうね。
当時は未だに覚えてますけど、ドラクエ3が発売されて
何人かの子が学校を休んで
それをおもちゃ屋さんに買いに行ってたから
後で先生に呼び出されて
何言われるかっていうと
学校は休むなっていうことをもちろん怒られるのとともに
絶対友達に貸したらあかんでって言うんですよ。
それは何なんだろうな。
何を禁じたかったのかわからないけど
何かの混乱を避けたかった。
しっかりといろんなトラブルがプラスのものを受けるっていうことを
多分先生は警戒しますよね。
そうですね。実際にカリパクみたいなことは未だに起きますもんね。
だからそういうのが一番注意されたところで
そういうトラブルが今はないんですよね。
娘の行っている幼稚園でも
電子図書館というのがありまして
今電子本を他の人が借りていない間借りることができるんですよ。
すごーい!
2日間とかで有効期限が確か切れるのかな。
その間読むことができるんだけど
すごいライトにいろんな本を読むことができて
で、あの本といって内容なんとなく覚えてたりはするんですけど
やっぱり紙の本を借りてくるよりも軽い。
それよりは重いんだけど
やっぱり軽いのは図書館に行っていろんな本を借りてきて
読んだ本っていうのは物体が残りにくいから
物体が残らないから
家にある本よりは薄い。
で、家にずっと
それこそ僕が子供の時に読んでいた本としてある絵本もあるし
ずっと残る本の方がさらに重くて
でも親戚の人とか友達の人からもらってきた絵本っていうのは
多分一定期間過ぎると
また次の子供に受け継がれて
消えていってしまうので
それは多分もうちょっと軽いのかなっていう気がしますね。
やっぱりそのコンテンツを入手するとき
出会いの体験っていうのが
ものすごく大事ですよね。
そこが薄くなっているのかな。
文脈とか風景とかを
媒介にしていろんなことを覚えていて
もしかしたらそのコンテンツの内容とかの
失われていく価値
私たちにとっての重さっていうか
それを大事に読むかどうかっていう
価値観というか価値の重さ、軽さっていうのも
実はそこが結構決めてる感じはありますね。
確かに。
違う角度の話になっちゃうかもしれないので
またどこかで取り扱わせていただきたい議題としてあるのが
効率化便利とかっていう言葉であったり
実際に行われることって
当然会社の中であったりビジネスの世界においては
プラスでしか捉えられないことが多いと思うんですけど
それによって欠落したものに対して目を向けるのは重要ではないか
効率化便利を追求するというのは
割と抽象化されたものなのではないかというところに関して
どこかで取り扱いさせていただきたいです。
今の話で通じるところがあるなと思っていて
どう考えても楽なんですよ。
僕もゲーム買うときに発売日の24時30秒とかに
入手してやり始めることができるなんてなんて素晴らしいんだと思う反面
きっといろいろと欠落しているものがある。
早く明日にならないかな8時からあのお店開くんだよな
開店で行ってゲーム買おう
でもデバイス持っていけるわけでもないから家に持って帰ってきて
ファミコンにガチャって刺してつけてからやっとやれるんだよなっていう
ここの体験が失われたことによる何かっていうものはあるはず。
きっとDSとかであったりが出て
持ち運べるようになったことによって
欠落したものもあると思ってるんですよ。
僕一番最初にやったゲームのデバイスがスーパーファミコンだったので
おじさんが置いてったやつですね。
おばあちゃん家に置いてったスーパーファミコンをやったのが一番最初で
あれが僕のゲーム人生のすべてのきっかけなわけでございますが
一応毎度ファミコンを引っ張り出してきて
黄色と白と赤色のコネクタをテレビにつないでつけて
音が鳴らなくて
白のやつを頑張ってつけ直して
音が鳴ってここからスタートみたいなワクワク感というか
早くやりたいっていうふうにじらされている感も
あの時楽しかったなって思っている感情には結びついている気がしていて
きっとそれってさっき話として出ていた音楽であったりとか
本であったりも同じことが言えると思っているんですね
本もあの本読みたいな読みたいなって思いながら
本屋に行く時であったり
またCDに関しても買った後に家に帰ってきてないし
車に乗って入れて初めて聞けるっていうところであったり
このタイムラグってもちろんスピードっていう概念で言うと
すぐに聞くことができないっていうところで
うわ不便だ今すぐ聞かせろって思う反面
実はその余白っていうものが
人に対して豊かさを与えていた可能性はあるのではないか
っていうのは結構思ってたりはしますね
ちょっといいですか Spotify で聞くんですけど
今聞きたい思いは
1月29日の金曜日でiPhoneの新機種の発売日なんですけど
私のタイムラインに何人かの人が
お店受け取りで予約して
今3時間前から並んでますって言って
開店前から並んでる方がいて
実はまた無駄なことしてるなっていうのが正直私の感想で
今はもう配達で今日中に受け取れるのにって思って
いるんだけど実はその人たちは
失ってないんだろうなっていうのが
今のお話を聞いてて思うところです
何か失ってしまったものを持ち続けてるから
それをやり続けてるんだろうな
悪い音声ですよ
確かに
一回言ってしまったら
拍手で迎えられて
メディアの取材を受けてみたいなのがあるらしいんですから
多分拝見が全然違うんでしょうけど
あとその体験がもし仮になかったとしても
3時間待って受け取れたものと
家に届いてセッティングをし始めるものって
大事にするのはどっちだと思うって言われたら
そりゃ並んでる方だと思いますっていうのは明確に言えそう
数値的な話じゃないですけど
そうですよね
あと全然どうでもいいところに多分反応するんですけど
世代間の所有感の差
鈴村さんがスーファミで赤と白と黄色のテーブルを接続して
っていうのを聞いてるときに多分僕と清田さんは
ファミコンをアンテナ線で変換をかませて
アンテナの代わりに信号を流すものを使って
接続するっていうのが頭に浮かんだんで
世代差があるなと思ってきました
RF信号を直接入れてたんですね
要するにテレビのVHSの周波数って大体100MHzですね
テレビで言うと昔のVHSの一丁目の
3丁目の間の辺なんですけども
300MHzくらいのRF信号をそのまま入れてたっていう
同軸ケーブルで入れてたっていう
スタイルでした
でもそこで
多分変わらない体験をしてるんだなと思うのは
スーファミにしてもファミコンにしてもカセットをガシャってさせて
たらもう変わらないソフトがずっとそこで動き続けて
ちなみにだからこそ裏技っていう言葉が当時出たんですよね
今と違ってインターネットを接続で
アップデートをダウンロードしてくるなんてことがありえないから
どうやったらこのバグがあるソフトを
悪い噂なしに遊んでくれるだろうって言ったときに
編み出されたのが裏技っていうことで
裏技って言っといたら
そのバグを楽しんでくれるだろうっていう
なるほど
ドラえもん4の8階に逃げるとか
8階に逃げるとか
ゲームの話をし始めると
ゲームの話だけになっちゃう
あのめっちゃ好きなんですよ
ちゃんと多分皆さんがやってるゲームやってる気がしてます僕
あの時に得たものって
ものすごく思い出として残っているので
それは
やっぱりカセットで担保されてたんだなっていう気が
すごく今していて
今の子たちはひょっとするとそれが薄いのかもしれない
あるいは薄いんだけど
僕らからすると薄いんだけども
それをちゃんと感じ取れる感じ性を別に備えているのかもしれない
とか思うと
さらに若い世代で言語化する能力を持っている人を交えてお話したいな
僕手遅れかもしれない
もうどうだろう
中学生とか小学生とかですかね
中学生小学生ででも言語化できる
変わった子は多分いるはずだから
そういう人たち交えてどう思うのっていうのが
なんかディスカッションできると面白いな
そういうのイベントできないですかね
一言議題所有とは何ですかって聞きたいです
所有っていう概念についてどう捉えてるか絶対世代として違いますね
今の子たちどういう概念なんだろう
確かにテレビも当時は
同じ番組を見るしか楽しめなかったから
カウントダウンTVをみんな高校生ぐらいの時は見てるとかがあって
だからこの曲知ってるよねっていうコンセンサスがありましたけど
今は何が当たり前に聞かれてる曲なのかっていうのは
多分ちょっと基準が違う気がするんですけど
そこちょっとだけ若い世代の気持ちがわかるかもやってないですけど
TikTokだったりYouTubeのショートの
くっついてる音楽っていうのが多分共通の認識になってますね
TikTokって言われてるよねこの音楽っていう風に言われるんですよ
そうなんだ
だいぶカルチャーショックを受けていて
私が結構ショックを受けたのは
例えば10年前のアニメのオープニングで使われてる音楽とかが
例えばTikTokとかYouTubeショートのバックミュージックとしての音楽として
使われてることがあったりするわけですよ
その音楽を冗談かどうかわかんないですけど
TikTokの音楽だって言われるわけです
違うんだ10年前のあのアニメのオープニングなんですよ
みたいな気持ちが出てきて
これはもしかしたら老害ムーブなのかどうなんだろうか
みたいなことは思わされてましたね
結構カルチャーショック受けてます
フォクトの件の漫画版を見たおじさんが
パチンコのやつが漫画になったのかって
言った話を聞いたことあるけど
同じような衝撃があるな
オリジナルが認識が違うんですね
彼らはきっとTikTokをやってる子たち
みんな本当に入れてたりしてるらしいんですけど
特に中学校高校生になったらですかね
僕のあくまで家庭ではございますが
見てないと置いてかれるから
頑張って見てる子たちも一定数いると思います
だとすると新しい音楽を出していくっていうのも
結構ミュージシャンは長いスパンで見ないといけないわけですよね
今売れるというのは一部の現象に過ぎなくて