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2025-11-25 16:03

92 カラヴァッジオ「聖マタイの召命」

92 カラヴァッジオ「聖マタイの召命」:光と影の革命、日常に降り立った神の啓示

サマリー

ポッドキャストでは、カラヴァッジオの名画「聖マタイの召命」を詳しく分析し、その作品の重要な意義やリアリズムの革新性を探ります。この絵は、17世紀初頭のローマで描かれ、光と影の劇的な使い方で聖書の出来事を生々しく表現しています。カラヴァッジオの「聖マタイの召命」は、信仰心を高めるために情熱的でドラマチックな芸術を求めていたカトリック教会のニーズに応え、リアリズムと感情表現を組み合わせた革新的なスタイルを示しています。このエピソードでは、彼の影響や作品に込められた深い宗教的意図について探ります。

カラヴァッジオの作品分析
さて、今日は一枚の非常に力強い絵画、カラヴァッジオの聖マタイの召命について、深く見ていきたいと思います。
おお、カラヴァッジオいいですね。
17世紀初頭のローマが舞台で、薄暗い場所ですよね。そこで一人の男の人生がガラッと変わる、その瞬間を描いています。
あなたからいただいた資料を元に、この絵がただの名画というだけじゃなくて、なぜこれほどまでに衝撃を与えて、後の芸術家にも影響を与えたのか、そのあたりを探っていきましょう。
資料には構図とか色彩、時代背景、作者の意図まで、かなり詳しく書かれていますね。
そうですね、この作品は美術史を語る上では外せない、ある種のターニングポイントになった絵ですからね。資料からもその重要性がすごく伝わってきます。
単に技術がすごいとか、美しいとか、そういうレベルじゃなくて、絵画の表現自体に革命を起こしたというか。
革命ですか。特に光と影の劇的な使い方、それと何よりも聖書の出来事を当時の生々しい現実の中にそのまま描き出したリアリズム、ここがすごい。
リアリズム?
ここに注目すると、カラバッチオの新しさ、革新性というのが見えてくると思います。
なるほど、ではまず基本的な情報からいきましょうか。絵がいたのはミケランジェロ・メリージダ・カラバッチオ。
17世紀の初め、ちょうど1600年頃の作品ですね。
そうですね。
主題は新約聖書のマタイによる福音書。イエス・キリストが元々超税人だったマタイを私の弟子になりなさいと招き入れる、まさにその瞬間。
その通りです。これがまた重要なんですけど、この絵って1枚だけでポンとあるんじゃなくて、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会。
教会にあるんですね。
そうなんです。そこのコントレーリ・ハイハイ堂というところに、他のマタイ伝の絵と一緒に飾られてるんですよ、連作として。
連作?
今もそこに行けば見られるんです。つまり特定の場所、信仰の場で鑑賞されるっていうことを最初から考えて作られてる。
なるほど。
その点を頭に入れておくと、この絵が持ってる意味、特にあの光の演出とかがまた違って見えてくるかもしれないですね。
確かに美術館で白い壁で見るのとは全然体験が違いそうですね。
全く違うと思います。
では絵そのものに焦点を当てていきましょう。この絵でまずも見た瞬間に視線を奪われるのってやっぱりあの光じゃないですか。
あの光ですね。画面の右側から斜めに差し込んでる強い光、あれは一体何なんでしょう。
まさにこの絵の一番大事な部分かもしれないですね。あれは単に部屋の明かりとかじゃないんですよ。
そうなんですか。
よく見るとどこから光が来ているのかはっきり描かれてないでしょ。
確かに窓とかランプとかそういうのは。
ないですよね。だからこれは一般的に神の光、つまり啓示とか神聖な介入、そういうものを象徴している光だと考えられてるんです。
神の光。
薄暗くてちょっとぞっくっとい現実の空間、朝禅書みたいなところに突然超自然的な光が差し込んで、ある特定の人物を照らし出す。
この光によって日常がバサッと断ち切られて何か特別なことが起こるんだっていうのをすごくドラマチックに見せているわけです。
その光の中に立っているのがイエス。右手をスーッと伸ばしてテーブルに座っている男を指差している。
このイエスの手のポーズ、資料にもちょっと書いてありましたけど、なんだか見覚えがあるような。
おお、鋭いですね。
ミケランジロがシスティーナ礼拝堂に描いたアダムの想像。
あの神様がアダムに指を伸ばす場面、あれに似てませんか?
ええ、非常によく指摘される点です。
美術師家の間でもこれはカラバッジョが意図的に引用したんじゃないかってよく議論になりますね。
やっぱり。
神様がアダムを想像したように、イエスが魔体をいわば霊的に生まれ変わらせる、新しい人生へと呼び出すっていう、そういうアナロジーになっているのかもしれない。
なるほど、深いですね。
いずれにしてもすごく力強くて、象徴的なジェスチャーですよね。
そして、その指さされた魔体とされる人物、彼の反応もまたすごくドラマチックですね。
そうなんですよ。
なんか驚いてちょっと戸惑ってるような表情で、自分の胸あたりを指さしてる。
え、私のことですか?って言ってるみたいに見えます。
えー、まさに。この魔体の表情と仕草が、この絵のなんていうか、心理的な中心になってますよね。
彼の周りには他の仲間もいますけど、反応は全然違いますよね。
違いますね。テーブルの一番左にいる若い男なんて、もうお金数えるのに夢中で、イエスの方を見てすらいない。
そうそう。その隣のちょっと年目の男性も、眼鏡かけて、コインをじーっと見てる。
あー、いますね。
彼らはまだこの異常事態に気づいてないのか、あるいはまあ関心がないのか。
日常業務の真っ只中って感じがしますね。
でもその一方で、魔体の隣にいる羽飾りのついた帽子かぶった若者とか、その隣の人物は明らかにイエスの方に体を向けて何事かと注目してる。
そうなんです。この対比が面白い。
日常にどっぷり浸っている人たちと異変を気づき始めている人たち、そして直接呼びかけられている春元人の魔体。
その対比か。
ええ。日常つまり徴税の仕事とお金っていう世界に突如として割り込んできた非日常、つまりキリストの出現と証明、その衝突の瞬間が見事に捉えられていると思います。
服装も面白いって話がありましたね。
あ、そうそう。服装も興味深い点です。魔体とその仲間たちは17世紀初頭のローマで、多分流行ってたんでしょうね。ちょっと派手めで、いかにも当時の格好をしてるんです。
つまり聖書の物語のはずなのに、描かれているのはその当時のローマのリアルな風俗ということですか?
そういうことになりますね。それに対してイエスとそのすぐ後ろにいるもう一人の人物、まあ伝統的にはペテロとされることが多いですけど。
資料では特定はしてなかったですね。
ええ。彼らはもっと疾走で時代がいつなのかわからないような服装をしている。しかも裸足です。
裸足だ。本当ですね。この違いは一体?
この服装の対比は聖なる世界と俗なる世界、その境界線というか出会いを目で見てわかるように強調しているんだと思います。
なるほど。
当時の現実的な服装の魔体たちと、時代を越えたような姿のイエス。裸足っていうのも結構重要で、図像学的には神聖さとか謙遜さ、あるいは地上に直接降りてきて人々と関わろうとしている姿勢、そういうのを示すことがあるんです。
時代背景と芸術の革新
裸足にも意味が。
ええ。カラバジオはこういう細かいところを通じて、聖なるものが俗なる世界に入ってくる瞬間をリアルに、でも象徴的に描いているんですね。
なるほどな。構図、光、人物の反応、服装、もう全部が照明っていう一点のドラマを際立たせるためにすごく計算されている感じがしますね。
まさに。
それをさらにグッと強めているのが色彩と明暗の使い方。全体的に暗い画面ですけど、その暗さが光の効果をものすごく劇的にしてますよね。
ええ。まさにカラバジオの神骨賞、キアロスクーロ、明暗法ですね。彼はこの技法を徹底的に使って、人物とかものに強い立体感と存在感を与えました。
キアロスクーロ。
特にこの作品なんかでは、キアロスクーロをさらに極端にしたテネブリズムっていう手法が使われてるって言われますね。
テネブリズム、初めて聞きました。
そうですか。これは背景を意図的にものすごく深い闇に沈めちゃうんです。それで、前景の主要な人物とかモチーフだけをまるでスポットライトを当てるみたいに、強い光でこうグワッと浮かび上がらせる。
へー、テネブリズム、暗闇主義みたいな感じですかね。確かに背景の壁とか、ほとんど真っ暗で何があるのかもよくわからない。
そうでしょ。
そのおかげで、光を浴びてるイエスの手とか顔、あとマタイたちの驚きの表情が、暗闇の中からものすごい迫力で浮かび上がって見えます。
そうなんです。この暗闇は単に画面を引き締めるだけじゃなくて、場面の緊張感とか神秘性、それから登場人物たちの心理的な動き、特にマタイの驚きとか戸惑いを見る人により強く感じさせる効果があるんです。
なるほど。
色彩自体は茶色とか暗い緑、赤なんかが中心で、当時の現実的な雰囲気を出してるんですけど、光が当たってる部分はすごく鮮やかに輝いて、ドラマ性を高めてますね。
まさに光と影の魔術師ですね。
本当にそう思います。
さて、ちょっと引いた視点で、時代背景と作者の意図について考えてみたいんですが、
はい。
カラバチ王が生きた17世紀初頭っていうのは、バロック芸術の時代ですよね。
バロックの幕開けの頃ですね。
彼は聖書の物語を当時のごく普通の人々の姿で描いた。資料にもありましたけど、これって当時としてはかなり画期的だったんですよね。
非常に画期的でした。
それまでの特にルネサンス期の宗教画っていうのは、聖人とか聖家族を理想化して美しく草原に描くのが普通だったんです。
でもカラバチ王は、聖書の世界をまるで当時のローマの裏通りとか、酒場で起こってる出来事みたいに生身の人間の姿で描いた。
生々しいですね。
この聖マタイの照明でも、朝聖人たちは別に英雄でもなんでもなく、ごく普通の、もしかしたらちょっとうさんくさい仕事をしてる男たちとして描かれてますよね。
確かに、聖人というよりは普通の人っぽい聖なる物語を、そんな俗っぽい現実に引きずり下ろすような描き方って、それはなんていうか、教会関係者とか当時の一般の人々から反発もあったんじゃないですか。不敬だとか言われたり。
カラヴァッジオの革新的スタイル
まさにその通りです。彼のリアリズムは時に過激すぎて、例えば聖人をただの労働者みたいに描いたり、時には病気のように描いたりしたために、注文書から作品の受け取りを拒否されることも結構あったんです。
ああ、やっぱり。
でも同時に、その過激性、なんていうか、見る人の感情に直接強く訴えかける力は多くの人々を引きつけた。
特に当時のカトリック教会っていうのは、プロテスタントに対抗する、いわゆる対抗宗教改革の中で、信者の信仰心を高めるために、より感情的でドラマチックな芸術を求めていたという側面もあるんです。
なるほど。
カラバッジオの聖なる出来事をまるで自分の身に起こったことのように感じさせるリアリズムは、ある意味その目的にも合っていたと言えるかもしれませんね。
単なる写実主義、リアルに描くだけじゃなくて、もっと深い宗教的な意図とか、時代の養成とか、そういう複雑な背景があったんですね。
そうですね。彼が意図したのは、多分神聖な出来事っていうのは、遠い過去のお話の中だけのことじゃなくて、今ここで私たちの日常の中で起こり得るんだということ。
日常の中で。
ええ、信仰っていうのは特別な場所とか儀式の中だけにあるんじゃなくて、誇りっぽい日常の中にある日突然やってくる可能性があるんだと、その衝撃と現実感を見る人に突きつけたかったんじゃないでしょうか。
その革新的なスタイルは、当然後の時代にも大きな影響を与えたわけですよね。資料にもレンブラントとかベラスケスとか巨匠たちの名前が挙がってました。
はい、その影響はもう計り知れないですね。聖馬隊の照明を含むサン・ルイジ・デ・フランチェージ教会の連作は、カラバッジオの名声を一気に高めました。
そして彼のスタイル、つまりこの劇的な光と影、テネブリズムですよね。それから徹底したリアリズム、人物の心理描写、これはカラバッジズムとしてイタリア国内はもちろんスペイン、フランス、オランダとかヨーロッパ中にも熱狂的なファンというか追随者を生み出したんです。
聖マタイの心理劇の解釈
カラバッジズム。
ええ、カラバジエスキーと呼ばれる画家たちが彼のスタイルを広めて、バロック絵画全体の流れにものすごく大きな影響を与えたんです。
言われてみれば、レンブラントの初期の作品のあの強い光と影の使い方とか、ベラスケスが描いた厨房の場面とか庶民の日常風景とかにも確かにカラバッジオの影響を感じますね。
そうですね。彼の作品が持っている見る人の感情を直接揺さぶって、物語の革新あるいは人間の内面に迫る力、それは単なる技術的な模倣を超えて多くの芸術家たちを刺激し続けたんだと思います。
この星間帯の照明が持つ緊迫感、人生が変わる瞬間のドラマっていうのは400年以上経った今でも私たちに強く訴えかけてきますよね。
さて、今回のカラバッジオ、星間帯の照明、深く見てきましたがいかがでしたでしょうか。
一枚の映画の中に光と影の劇的な演出、当時の風俗を映し出す生々しいリアリズム、そして日常に突如として訪れる神聖な照明の瞬間、そういったものが見事に描き出されていました。
そしてそれが単なる映画表現にとどまらず、当時の宗教的な背景とか、後世への大きな影響力を持っていたことが資料から深く読み取れましたね。
カラバッジオが遠い聖書の物語を、いかに同時代の、まあ我々にとってもですけど、切実な自分たちの物語として感じさせようとしたか、その革新的な試みがこの作品を本当に特別なものにしているんだなと感じます。
異想化された言え言えとかじゃなくて、私たちと同じような欠点も多分抱えているであろう、生身の人間が突然人生を変えるような呼びかけを受ける、その瞬間の衝撃と人間の内面の揺らぎみたいなものを捉えた力強さ、それを感じますね。
最後にですね、あなたに一つ考えてみてほしい問いがあるんです。
はい、何でしょう。
今回の資料では指さされたマタイが驚いて自分の胸を刺しているというのが、まあ最も一般的で有力な解釈として紹介されていました。
ええ、そうでしたね。
でも美術史の中にはもう一つ別の面白い解釈もあって、それはマタイは自分じゃなくて隣に座って、まだお金を数え続けている若い男、彼を刺して、え、私じゃなくて彼のことですかって言ってるんじゃないかっていう説もあるそうなんです。
その解釈はそれはまたこの場面の心理劇をぐっと複雑にしますね。
ですよね。
もしそうだとすれば、マタイはまだ自分が呼ばれていることに気づいてないのか、あるいは戸惑いのあまり隣の若者にこう責任転嫁しようとしているのかもしれない。
うーん。
そうなるとイエスの指差しとマタイの指差し、それから周りの人たちのあの様々な反応が織りなす物語っていうのが一層深みを増してきますね。
そうなんです。
一つのこれが正解だっていうのがあるわけじゃなくて、いろいろな読み方ができる、そこがまたこの絵の深さなんでしょうね。
まさに、映画っていうのは時に言葉以上に多くのことを語って、私たちに多様な解釈を許してくれる。
あなたはこの劇的な場面を、そしてマタイの指差しをどう読み解きますか?
資料にあった様々な情報も踏まえつつ、ぜひもう一度この正マタイの証明とじっくり向き合ってみてください。
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