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2025-08-24 17:51

20. ポール・ゴーガン「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」

20 ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか」深掘り:人生と死生観を問う壮大な傑作.mp3

サマリー

ポール・ゴーガンの絵画「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」が作品の背景や象徴的な意味を探求しています。この大作は、生命の起源、自己の存在、死への問いを描き、ゴーガンの独自の色彩が強烈な印象を与えます。彼は人生の根源的な問いに全身全霊で向き合っています。美術史において重要視されるこの作品は、普遍的なテーマと問いかけの力で、時代を超えて見る者を引きつけ続けています。

大作の紹介
ディープダイブです。今回は、あなたから共有いただいた資料をもとに、一枚の絵画の世界、その奥深くへと分け入っていこうと思います。
取り上げるのは、ポール・ゴーガン、彼の美術史に残る大作、
「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」、これですね。
はい、大作ですね、これは。
手元には、この作品をいろんな角度から読み解くための解説、研究の断片があります。
私たちの狙いはですね、この本当に巨大なカンバスに織り込まれた象徴、その意味、そして加賀自身の人生とか哲学を一緒にひも解いて、その核心にあるものをあなたと共有することなんです。
ぜひ。
まずは、基本的な情報からいきましょうか。
1897年、ポール・ゴーギャン作の油彩画。
はい。
スタイルはポスト印象派に分類されますね。
そうですね。
で、驚くのはサイズ。高さが139センチ、幅がなんと374.5センチもある。
大きいですよね。
横長で本当に壁画みたいなスケール感ですよね。
美術館に見ると圧倒されます。
現在はボストン美術館に所蔵されています。
一般的にはゴーギャンの画業における頂点というか、他市での経験とか、策がきゅーっと詰まった、異書にも例えられるような、そういう作品とされていますね。
まさに彼の代表作であり、それからポスト印象派という流れを考える上でも、これはもう欠かせない一枚と言えますね。
作品のテーマ
ポスト印象派ですか?
ここでちょっとだけポスト印象派について触れておくと、印象派っていうのは光の変化とか、見たままの瞬間的な印象を捉えようとしたんですね。
はいはい、モーネとかそういう。
それに対してゴーギャンとかゴッコとかセザンヌとかを含むポスト印象派の画家たちは、もっと個人の内面ですね。
感情とか思想とか、そういうものを目に見える形を超えて、もっと大胆な彩りとか形で表現しようとした。
なるほど、内面を。
この作品はまさにその典型と言えるでしょうね。
それとゴーギャンがこれを他市で描いたその背景ですね。
彼は当時の欧州の物質文明みたいなものにすごく違和感を感じていた。
もっと根源的で精神的なものを求めて南洋の島、他市へ渡ったわけです。
資料にもありますけど、この絵の制作時期、1897年から98年頃っていうのは経済的にもすごく困窮していて、病気もあって、さらに本国に残した娘さんが亡くなるという知らせも受けて。
うわー。
孔子共に非常に厳しい状況だったんですね。
そうだったんですね。
この大作を描き上げた直後に自殺を図って未遂に終わるんですけれども、その事実はこの絵が決して穏やかな気持ちだけで描かれたものじゃない。
むしろ彼の人生観とか姿勢観、そして画家としての存在証明そのものをかけた切実な問いかけだったということを強く物語っていると思います。
なるほど、画家の極限状態と結びついていると、そういうことなんですね。
ええ。
ではその巨大なカンバス、一緒にこうじっくりと見ていきましょうか。
資料を読んでて面白いなと思ったのは、この絵、右から左へと読むのが一般的だと。
そうなんです。
西洋映画なのに日本の絵巻物みたいな視線の動きがあるっていうのは興味深いですよね。
ええ、普通西洋の絵画鑑賞って左から右へっていうのが多いですからね。
ゴーキャンが意図的にそうしたのかはっきりとは分からないんですが、結果的にこの右から始まる構成が人生の時間の流れとか、あるいは我々が問いかけるその問いの順序となんか自然に合ってる感じがするんですね。
へえ。
資料が示すように右端が誕生とか起源の世界、真ん中が現在を生きる我々の姿、そして左端が老い年、そして未来への問いへとつながっていく、なんか壮大な人生のパノラマというか人類の偶和が展開されているみたいですよね。
うーん、確かに。
ではその右端から、資料によると地面に赤ん坊が横たわっていると、これが全ての始まりになるわけですか。周りには女性たちもいるようですけど。
はい、まさに我々はどこから来たのかという最初の問いかけに対応する部分ですね。
ああ、なるほど。
生まれたばかりの、まだ無垢な存在としての赤ん坊。これは生命の起源、あるいは我々のルーツ、そういったものを象徴していると考えられます。
周りに描かれている女性たちは、まあ母親なのか、あるいは共同体、村の人々なのかもしれませんね。静かに見守るような、あるいはどこか儀式的な雰囲気も感じさせます。
儀式的ですか。
ええ、生命の神秘とか、人が社会の中で生まれて育まれていく、その様子を示唆しているのかなと。
あとゴーキャン自身が西洋文明から離れて、他地の文化の中に何か起源に近いものを探そうとしていたということも、この部分の解釈に深みを与えているように思いますね。
起源を見つめる女性たち、なるほど。では視線を中央に移しましょうか。
ここはかなり賑やかというか、人物が多いですね。
資料によれば、中心の辺りに果物を摂ろうとしている人物がいると。この辺りが、我々は何者なのかという問いの中心になりそうですね。
そうですね、中央部分はまさに人生の最盛期、現在進行形の性を表していると言えますね。
我々は何者なのかという自己存在とか、日々の営みについての問いがテーマになってきます。
ご指摘の通り、手を伸ばして高い枝から果実をもぎ取ろうとしている人物がすごく印象的です。
目立ちますね。
これは生命力とか成長、豊かさの象徴ともとれますし、一方で資料によっては、エデンの縁のアダムとイブ、つまり知恵の実と結びつけてですね。
禁断の果実。
そうです。知識の探求とか選択、あるいは労働といった人間が何者であるかを形作る、そういう要素を暗示しているんじゃないかとも言われていますね。
なるほど。単なる日常風景じゃない、もっと深い意味がありそうですね。他にもいろんな人物がいますよね。座ってこう考え込んでいるような女性もいるとか。
そうなんです。活発に動いている人物だけじゃなくて、静かに座って物思いにふける人物とか、あるいは2人の人物がなんか親密そうに語り合っているような様子も見えます。
これは人間の性っていうのが単純なものじゃなくて、活動と静かな施策、それから社会的な関わりと内面的な探求みたいに多様な側面から成り立っているということを示しているのかもしれません。
資料にはヤギとか猫みたいな動物も描かれているとありますけど、これらは自然との共生とか、あるいは人間の本能的な部分を象徴している可能性もありますね。
立っている人、座る人、語らう人、悩む人、いろんな姿を通して、我々は何者なのかという問いがいかに複雑で多面的なものなのかをゴーギャンは視覚的に見せてくれている。まさに人生の蓄図みたいですよね。
活動的な部分と内静的な部分、その両方があってこその我々だと、なんか考えさせられますね。そして物語は左端へと。資料によるとここには老いた女性が描かれていると。これが最後の問いに関わる部分ですね。
ゴーギャンの色彩表現
画面の左端にはですね、背中を丸めてまるで運命を受け入れるようにというか、あるいは深い憂いを帯びて顔を手で覆っている農女の姿があります。
これが我々はどこへ行くのかという人生の終着点、つまり死とその先にあるかもしれないものへの問いを象徴しているんですね。
若々しい中央の部分とは対照的に、ここでは死影尺とか終焉の気配が漂っています。
資料にはこの老女の近くになんか奇妙な白い鳥がいるとも書かれてますね。これは何か意味があるんでしょうか。
ああ、その白い鳥ですね。これについては資料によっても解釈が少し分かれるところなんですけど。
はい。
一説には無駄な言葉とか虚無さを象徴するなんて言われたりもします。
ええ。
あるいは魂とか来世への案内人みたいな存在と見ることもできるかもしれません。
なるほど。
いずれにしても老女のこう空き缶したような姿と相まって、死のこう避けられない感じ、そしてその先の世界に対する人間の探求心とか不安とか、そういったものを暗示しているのかなと考えられますね。
人生の終わりとは何か、その先には何が待っているのか、ゴーギャンははっきりした答えを描いているわけじゃない。むしろこの問いそのものの重さ、深遠さを見る者に突きつけているような、そんな感じがします。
人物の配置とか、象徴もさることながら、この絵はゴーギャン独特の色彩もすごく強烈な印象を与えますよね。手元の資料でもその大胆で鮮顔な色使いは繰り返し触れられてますね。
おっしゃる通りです。色彩はこの絵の本当に大きな魅力ですし、ポスト印象派としてのゴーギャンの特徴が一番よく現れている部分だと思います。
先ほど少し触れましたけど、ポスト印象派は見たままの色を再現するんじゃなくて、感情とか思想を表現する手段として色を使ったわけです。
この絵では、タヒチの人々の肌は南国の光を浴びたような温かみのある褐色とかオレンジがかった色で描かれていますね。
衣服には目に覚めるような鮮やかな青、赤、黄色といったほとんど原色に近い色が大胆に使われている。
確かにすごく鮮やかですよね。
特に中央付近の人物がまとっている青いパレを腰布ですね。
あれは画面全体の暖色系の色彩の中で強いアクセントになっていますよね。
背景の色使いも何か独特ですよね。空とか地面の色が現実とはちょっと違うような。
そうなんです。背景の描写も写実的とは言えないですね。
空は深い藍色、植物は濃い緑、地面は赤みがかったオレンジとか黄色で表現されていて、それぞれが明確な色の領域として配置されている感じ。
平面的というか。
そうですね。影による立体感の表現は意図的に抑えられていて、全体として平面的で装飾的な印象を与えます。
でもそれによって色彩そのものが持つ表現力が逆に最大化してくるんですね。
なるほど。
例えば背景のちょっと不穏なくらい深い青色は、楽園的な風景の中にどこかミステリー性とか、あるいはゴーギャン自身の内面にあった憂鬱さみたいなものを反映しているのかもしれない。
彼は色彩を通して目に見える現実の奥にある感情とか精神的な世界を表現しようとしたんですね。
この主観的で力強い色彩こそが、理屈を超えて私たちの心に直接響いて、この絵の持つ哲学的な問いかけをより一層深く印象付けていると言えるんじゃないでしょうか。
なるほど。色彩自体がメッセージを持っていると。
ゴーギャンの芸術と人生の到達点
では改めてなんですけど、なぜゴーギャンはこれほど普遍的でかつ重いテーマの絵画を西洋から遠く離れた大地で描こうとしたんでしょうか。
やはり資料が示すように、彼の個人的な状況と大地という土地が深く関係しているんですね。
その通りだと思います。1897年から98年にかけての大地での2度目の滞在期に描かれたこの作品は、ゴーギャンの芸術と人生におけるある種の到達点だったと言えますね。
到達点。
あるコンジムヨーロッパ社会の物質主義とか偽善性みたいなものにも嫌気がさしていた。
もっと純粋で人間本来の姿に近い生き方が残っている場所としてタヒッチに理想郷を求めたわけです。
理想郷。
原地の神話とか宗教観、自然と一体になった人々の暮らしに触れる中で、彼は西洋的な価値観とは違う美意識とか精神性を見出して、それを自分の芸術の核にしようとしたんですね。
なるほど。
ただ理想を求めたタヒッチの生活も、現実はやはり困窮と病、そして孤独との戦いだった。
先ほども触れましたが、娘のアリーヌさんの死という秘宝も彼を打ちのめます。
そうでしたね。
資料によれば、彼は友人への手紙の中で、この絵を死ぬ前に描きたかった大作であり、哲学的作品だと位置づけていて、自身の芸術的な遺言をするつもりだったことを示唆しているんです。
遺言。
つまり、タヒッチという彼にとっての根源に近い場所で、人生で最も困難な時期に、人間存在の最も根源的な問い、我々はどこから来て、何者でどこへ行くのかという問いに、
芸術家としても全身全霊で向き合って自分の答えを刻みつけようとした。それがこの作品なんだということですね。
個人の絶望的な状況が、逆に普遍的なテーマを探求するエネルギーへと転化した、そういう稀な例と言えるかもしれません。
普遍的なテーマの探求
自分らの死をも意識しながら、存在の根源を問い続けた。そう考えると、この絵の見え方がまたグッと変わってきますね。
ええ。
では、これらすべてが意味することは、結局のところ、この絵が美術史上でこれほどまでに重要視されて、多くの人を惹きつけ続けるのは、一体なぜなんでしょうか。
そうですね。いくつか理由が挙げられると思います。まず第一に、これがゴーギャンの画業におけるまさに最高傑作であって、彼の芸術思想が最も凝縮された形で表現されているという点ですね。集大成です。
はい、集大成。
第二にその革新性。印象派が切り開いた近代絵画の可能性をさらに押し進めて、感情とか思想を表現するために、主観的な色彩とフォルムを用いたそのスタイル。
これは20世紀初頭のフォービスムとかドイツ表現主義とかの後の多くの芸術運動に決定的な影響を与えました。ある意味で中小絵画への道を開いたとも言えるかもしれませんね。
後の世代への影響も大きかったんですね。
非常に大きかったですね。そして何より重要だと思うのは、この映画投げかけるテーマの普遍性、そしてその問いかけの力ですね。
問いかけの力。
人生の始まり、つまり誕生。そして営み、生ですね。そして終わり、死。これは誰もが経験するサイクルです。
そしてその中で絶えず自問する、自分とは何か、どこへ向かうのかという問い。
これらはゴーギャンの時代だけじゃなく、現代を生きる私たちにとっても最も根源的で避けては通れない問いです。
確かに。
この絵は明確な答えをくれるわけじゃない。むしろその問いそのものの深さ、重さを圧倒的な視覚体験として私たちの前に提示してくるんです。
だからこそ、時代とか文化を越えて見るもの一人一人が自分の人生と対話して深く考えさせられる。
そこにこの作品の普及の価値があるんだと思います。
単なる美術品というより、なんか哲学的な対話を促す装置みたいなものと言えるかもしれません。
ゴーギャンが多種の自然と、そして自らの内面のもっと奥深くへと分け入って、生と死、そして我々という存在の謎を壮大なスケールで描き出した旅路を私たちも一緒に辿ってきた感じですね。
誕生から死まで、そしてその間にある捉え所のない現在、それらすべてをくらぬく普遍的な問いかけですね。
そうですね。そしてこの絵の魅力はやっぱりその問いそのものにあると思うんです。
ゴーギャンは私たちに答えを教えようとはしない。
むしろその力強いイメージと色彩によって、さああなたはどう考える?と私たち自身の内柄にある答えを探す旅へと誘ってくれるような気がします。
この絵画は我々はどこへ行くのかと問いかけます。
ゴーギャン自身、差し迫る死を感じながらこの問いに向き合ったわけですけど、そこで最後にあなたにこんな問いを投げかけてみたいと思います。
あなたにとって終わり、つまり人生の有限性とか自らの死を意識すること、それは現在、すなわち我々は何者なのかをどう生きるかということに一体どんな光を当てるでしょうか。
ゴーギャンがこの大作に託した問いをぜひあなた自身の経験とか感覚に照らし合わせて少し立ち止まって考えてみるのも豊かな時間になるかもしれませんね。
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