今日は絶対善の神様、 God is goodという意味、絶対善の神様について一緒にメッセージを分かち合いたいと思います。
皆さんもニュースを見られてよくわかっておられると思いますけど、先週このようにニュースがありました。
4月3日、イランの南部地域でアメリカの空軍機が撃墜されたのですが、
二人のパイロットの中で一人の方は早く救助され、一人が残されたんですね。
イランの地域、イランの敵の真ん中に。
その米軍は情報を担当しているものすごい何かアメリカの秘密的な情報を持っている方だと思っていますけど、
この米軍を見つけようとして、アメリカ側でも働かれるし、その話を聞いて、
イラン側は懸賞金をかけながら捕まえようとします。
アメリカ軍もイラン軍も。
その中で米軍が全力で救助作戦を開いて、結局救助されたと言います。
イラン軍とアメリカ軍はこの一人の人をどのように早く見つけて早く捕まえるか、
そのように頑張っている間に、米軍によって救助されよかったんですけど、
そこでアメリカの国防長官がこう言います。
彼は4月3日、正金曜日に洞窟に身を隠しておいて、4月4日土曜日は岩の隙に自分の体を隠しておいた。
そして4月5日日曜日に救助されたんですけど、これはまるで復活の日の朝、
イエス様が復活されたように一人のパイロットが死から新たに生まれたような状況だと。
これはアメリカの国防長官がこのような救助作業をキリスト教の復活に比べながら話をしたと言います。
これが先週イランで行ったことでした。
ここでこのパイロットが、アメリカ軍はこれをパイロット、情報担当、長居は良い人だそうです。
早く見つけようとしたら、この人に何か無線で連絡を取り合うんじゃないですか。
これをイラン側ではみんなそれをちょっと決意しようと今いろいろ情報制御を行っているところで、
彼が私は生きていますよということをどのように表現したのか。
ガード・イス・グッド、このような無線で発信した。
もちろんガード・イス・グッドって何の意味か、イラン軍は分からなかったと思いますけど、
もちろんアメリカ軍も分からなかったと思いますけど、
彼がこのような言葉を無線で発信した、この理由は何なのか。
本当にここに彼は自分の深い信仰者だと言われるんですけど、
私はこの話を聞きながら、私なりに解釈をしてみました。
ガード・イス・グッド、意味はどんな意味か。
神様は私を敵の陣営から救い出してくださることを信じます、という意味かなと。
もし私がイランの地域で死んでしまうなら、
私を天国に導いてくださることを信じます、これが信仰告白かなと。
また、この全てを合わせて神様が私に一番いいことを与えてくださる方だということを信じて、
彼はガード・イス・グッドと言ったのか。
とにかく無線で連絡を取り合いながら、自分の信仰告白を無線で送り出したということ。
これは本当にすごいなと思いました。
皆さん、ダビデが詩編で、詩編の23章の4節に、
死の影の谷に行く時も、私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいてくださるからだ。
ダビデはいつも自分と共におられる神様を考えながら、
死の影の谷を歩く時も、私は恐れがありませんという、
このことと似ているんじゃないかなと。
このベイクンのパイロットの信仰。
イスターを迎えたそのところで、イランの戦場で行った復活のドラマみたいなことではなかったのかを私は考えながら、
復活ということはものすごい大きな神様の御業なので、
今日は米軍兵士の信仰告白をきっかけとして、
今週も続けて復活の大事さを皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
さて、福音書を読んでいますと、福音書の最後の最後の部分。
弟子たちは当時イエス様が中時間にかけられ亡くなったことによって、
弟子たちは全てが終わったように気がしたんじゃないかと思います。
イエス様は何度も私は三日目によみがえられると弟子たちに言ったんですけど、
これは弟子たちの頭ではありえないことだから、聞いても残らない。
だから弟子たちは中時間の事件で亡くなられることを見てからは、
全てが終わったと思ったんでしょうか。
今日、教会学校のメッセージでも、
古里苑間王に下っていた二人の弟子の話、またこの後を見ていますと、
両氏であった弟子たちも全部神羅院に戻っていって、
海辺で寮をする場面が出てきます。
彼らがこのような話をする、ルカの24章21節ですけど、
私たちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。
しかも中時間の事件によって、
まあ中時間の事件があって、その中時間の事件から三日に経ったんだけど何もなかった。
その中ではイスラエル人たちの何か考え方があるように見えますね。
三日間に亡くなった方が生き返ることがあるんだということは何かあるんでしょうかね。
三日経ったのに何もなかった。
だから全てが終わったと思って、
苑間王の故郷に戻っていくことではなかったかなと思います。
とにかく弟子たちの間では、
イエス様が亡くなってからこれあと何か起こるとは全く思ってなかったということはわかります。
ところが宗教指導者たちは少し違ったんです。
復活の可能性を考えたような気がします。
マタイの28章12節13節を見ますと、
そこで最初たちは長老たちと集まって相談をした。
そして兵士たちに多額の金を与えて行った。
弟子たちが夜中にやってきて、
我らが寝ている間に死体を盗んでいたと言いなさい。
宗教指導者たちは何か復活したという場合は、
これは死体を盗んでいたと言ってくれと思いながら、
その人たちにたくさんのお金を与えたということもありますから、
弟子たちよりは宗教指導者たちが生き返る可能性を考えたのではないかと、
そのことがあったらいけないと思って、
彼らたちはそのことをあらかじめ防ぐようにお金を使ったということはここにあります。
とにかく当時の人々の中ではイエス・サムの復活はありえないと思ったと思います。
すべてが終わったと思ったそのところで、神様の働きが始まったんです。
神様は見言葉で言われた通り、イエス・サムを復活させられたということです。
皆さん復活の大事さ、その意味はご存知でしょうね。
復活はイエス・サムは神様だった。
罪がないお方だった。
死の地から悪魔のような存在が殺すことができない神様だったということがまず一つ。
ところがイエス・サムは罪がないのにわざわざ死んでくださった。
その意味はイエス・サムの死のことによって贖いの贖罪が行われた。
またイエス・サムの復活によってイエス・サムを信じてイエス・サムにつながっているすべての人たちも
イエス・サムが復活されたようにイエス・サムにつながっているすべての人も復活するんだということ、
これを示してくださるために復活されたということを理解していいでしょう。
ここで復活は何によってできるのか教えてくださる聖書がローマ書8章11節です。
もしイエスを死者の中から復活させられた方の霊があなたたちの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方はあなた方の内に宿っているその霊によって
あなた方の死ぬはずの体をも活かしてくださるでしょう。
聖霊様がおられるならその聖霊様は最後に私たちを必ず活かしてくださるんだ、復活させてくださるんだと。
結局復活の力は何なのかと言いますと聖霊様だということを私たちがこれから認識する必要があると思います。
とにかくイエス様の復活、十字架と復活によって全人類の救いの御業が完成されたんです。
じゃあ完成はされたんですけど、それを一人一人の人に伝えてその人がそれを信じて救われることはまた別のことですから。
これから私たちの役目、地の果てにまでこれを伝えて信じるようにしてその人も生かされて最後に天国に入るような救いの御業のことが私たちを通して全世界に広めていく、このような働きが私たちの中に働いています。
復活は第二の想像です。
神様が天地万物を作られるときに何にもなかったところから無から全ての世界が作られたんですけど、その御言葉によって作られたように見えます。
初めに光があれって光があったって言うんですけど、これは1章3節で光があれって言ったんですけど、1章2節に何て言うのか、全世界の上、全世界何にもなかったとき、その上に神の霊が動いていた、働いていた。
何にもなかったこの世界の上に神の霊が働いていた。そこで神様が光あれって言ったら光があった。
じゃあ御言葉がありました。そこに御言葉を持って働かれる方はどなたかと言いますと、精霊様だった。
ですから神の霊、精霊様がおられる人とおられない人は大きな差があります。
事実、洗霊式があって、もう何かやって私たちはみんなが私は救われたと言われるんですけど、その心の中に精霊様がおられるのかおられないか、これは本当に確かめなければいけません。
今救いに対して問題、救いのに対していろいろ問題があるのは、本当にこの方の中に精霊様がおられるなら、このことはやらないはずだ。
これは必ず御言葉通り生きるはずなのに、御言葉を聞いても何にも分かっていない知らんぶりにして、自分勝手に過ごしていることを見たら、
精霊様がおられる人ならこんなことがないでしょうという、いろいろ疑問が生じるような行動をキリスト者たちがたくさんやっています。
だからこれが赤ちゃんだから、赤ちゃんだから分からなくてこんなことをするのか、
信仰生活をしても同じようにいつも赤ちゃんみたいにやっているのなら、これはもし精霊様がおられないんじゃないかという、
この本当に霊的な分別力の中で精霊様がおられないことなのか、幼いことなのか、分からない状態で今私たちは救いのを言っているところで、いろいろ問題が起こっているのではないかと思います。
とにかく私たちの救われた人の中には精霊様がおられます。
精霊様がおられること、精霊様がおられたらこれから何かいろいろやるでしょうということは私たちはもうすでに分かっています。
とにかく今日申し上げたいのは、復活は精霊の働きだということです。
今日、聖書の中でイエス様の復活と復活される前、聖書には復活の記録がありました。
復活というよりは生き返られた記録がいろいろありました。
それを通して復活を今の時代、私たちはどのように復活の力によって生きることができるか、これを一緒に考えていきたいと思います。
まず紹介してもらいたいのは、ヨハネの中一章、心霊から四日に経ったラザロの生き返られた事件です。
ラザロの家族はラザロとマルダとマリア、三人家族です。両親がいません。
両親がいないところで、兄であるラザロ、二人妹、マリア、マルダが一緒に生活していたと思います。
その中で、お兄さんであるラザロが死にました。
ユダヤの社会では、女性だけは何もできません。
だから男性がいなければ、ユダヤ社会も同じ、イスラム社会も同じなんですけど、男性がいない女性だけの生活は、これは本当に差別され、無視され、難しい状況です。
その中で、兄が死んでしまったから、妹たちはもう亡くしかないですね。
周りの人たちも、亡くなってから、死んでから、もう四日目だったから、可能性が全くないと思って、泣き続けているということですね。
そこにイエス様が四日目に来られて、何というのか、ヨハネ中1章25節からです。
私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。
生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。このことを信じるかと言います。
誰も信じません。妹であるバルタも、その場で死んでしまった自分の兄が生き返ることは信じませんでした。
イエス様は誰も信じてくれないことを気の毒だと思いながら、自分は復活の力を持っている、復活の献身者だということを示してください。
これがヨハネ中1章39節40節です。
もし信じるなら、神の栄光を見られると言っておいたではないか。
こう言いながら、ラゼロ、出てきなさい。大声で叫ばれた。
すると、死んでいった人が手と足を布でまかれたまま出てきた。顔は大いに包まれていた。
イエス様は人々にほどいてやって、行かせなさいと言った。
死んでから4日に経ったら、誰も生き返ることができないと思っている。
そのところでイエス様が来られて、イエス様は命の力を持っている、見事ばの力を持っていることを示してください。
ラゼロ、出てきなさいと命じるから、死んだラゼロが体全体を包帯でくるくる巻いた状態で出てきた。
ここで皆さん、はじめに復活はどのように行われるのか。
復活の力を持っている、復活の命を持っている、イエス・キリストの皆によって行われたんです。
事実、これはイエス様がこの後、忠実家と復活の事件があるから、忠実家と復活の事件をある前、イエス様が行われたことなので、これは驚きなんです。
忠実家と復活のことを通して神様から全世界の主として認められて、これから力を発揮されるかなと思ったんですけど、
この前もイエス様は、すでに人を生かす、救う力の所有者、見事場の力の所有者ということを示してくださった。
これから忠実家と復活の後、弟子達にこう言われます。
これは大事な聖書です。
ヨハネ二十書、二十二節、二十三節。
こう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。
聖霊を受けなさい。
誰の罪もあなた方が許せば、その罪は許される。
誰の罪でもあなた方は許さなければ、許されないまま残る。
これはすごいですね。
人を、罪を許すか許せないか、その力はイエス様を持っていったんですけど、
それをイエス様が復活された後、弟子達にフーッとしながら、聖霊を受けなさい。
聖霊を受けるなら、これからあなた達は、
命を救う、死ぬことと生きることを何かできるような力を与えるような気がします。
これが弟子達のうちにおられる聖霊様によってこれができるということです。
これ一言で言えば、復活の命の力が、
私達の中にもあるような、弟子達の中にもあるような気がします。
復活の命の力を、イエス様は聖霊を受けなさいと言いながら、
フーッと吹き入れられたんですね。
それから、イエス様が弟子達に何と言われるのか、
マルコの中六書でこう言われます。
信じる者には次のような印が伴う。
彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で摘み、蛇を掴み、また毒を飲んでも決して甲斐を受けず、
病人に手を置けば治る。
これは、これは、イエス様を信じる人には、
聖霊様がその中にある人は、次のようなことが起こる。
事実、私は新学校の時に、この聖書は本当に正しいのか。
自由主義者が多い、ドイツの新学者達は、このような反応をすることを見ました。
皆さん、聖書の写本がいろいろあります。
写本の中で、ある写本はこれはある、書かれてある。
ある写本にはこれは書かれてない。
だからこれは、あと弟子達が書き加えた。
と思いながら、自由主義新学者達は、マルコ中六書、中七説、中八説を信じません。
私は、聖書に書かれてあるのを信じない人も、変だなと思いますけど、私は信じます。
誰でも、聖霊様がそのうちにいる人なら、
イエス・キリストの皆によって、いくらでも神の御業を行うことができることを、私は信じます。
なぜなら、私達が御言葉を語るんですけど、
これは神様が言われた御言葉であるなら、霊魔が大事。
御言葉であるなら、聖霊様がそれを持って働かれるからです。
結局、地区復活の力は聖霊様が持っておられるんだと。
これを皆さん、ぜひ理解してください。
もう一つ、皆さんに申し上げたいのは、
旧約時代にも、どうすれば復活ができるのかということに対して、
方法論を教えてくださった聖書があります。
これがエジケール37章に書かれた、枯れた骨の幻です。
ここで、どのように復活が行われるのか。
神様がエジケールを連れて、ある谷に行かれます。
これは死の谷ですけど、その中には非常に多くの骨がありました。
この骨は、イスラエル民を意味します。
しかし、この骨は、はなはたしく枯れたと言います。
これはもう、これ以上、この骨は生き返られる可能性が全くない、不可能だという意味で、
はなはたしく枯れたと表現を使っているでしょう。
ところが、神様は、この骨を生かしたいと思っておられます。
ですから、エジケールにこう言います。
人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。
神様がなぜエジケールに質問されるんですかね。
私は生かしたい。しかし、あなたは私に用いられるかということを聞かれたと思います。
皆さん、神様は私たちを生かしたいんです。
神様の身心をわかっている人は、神様が言われたらその通りやるでしょう。
ですから、神様がエジケールに、これからあなたはこう言いなさいと言います。
この骨に向かって、私の身言葉を宣言しなさい。
身言葉を伝えなさいと言います。
そしてエジケールは、この枯れた骨のところに、神の身言葉を伝えます。
皆さん、信仰がない人は、
はなはたしく枯れているこの骨のところで、神の身言葉を語りなさいと言ったら、語りますか。
この石だらけの荒野に行って、神の身言葉を伝えなさいと言ったら、伝えますか。
なぜなら、何が起こるんだろう。
ここで何にも可能性がないんじゃないか。
これから何にもないんじゃないか。
私が、ちいちい皆さんこれは申し訳ないんですけど、
日本に来て福音を伝える役目をしながら感じたことです。
この日本で福音を伝えるんだって、誰が聞いてくれるんだろうかという。
川口の駅前である黒人の方が、
イエス・キリスト、イエス・キリストと英語で何とかしゃべりました。
誰も知らんぷりして通り過ぎてしまいました。
誰が聞いてくれるんだろう。
同じです。
荒野で、今は死の谷のところで、
はなはたしく枯れているこの骨がいっぱいあるところで、
神の身言葉を語りなさいと言った時に、
エジケルはそれを語るのに本当に難しかったと思います。
しかし彼は従います。
従ったら、不思議に枯れた骨がカタカタカタと動き始めて、
骨が骨につき、その上に筋肉がつき、
骨に肉がつきて、これは立ってしまう。
すごい大きな群青になったんですけど、
その中に命はなかった。霊がなかった。
そのところで、エジケル37章9節10節に主は言われます。
主は私に言われた、霊に予言しなさい。
人の子よ、予言して霊に言いなさい。
主なる神はこう言われる。霊を死後から吹ききたれ、
霊をこれらの殺された者の上に吹きつけよう。
そうすれば彼は生き返る。
それでエジケルは、霊様来てください。
これを今の私たちの言葉で言えば、
祈りをもって霊様働きを求めたということでいいでしょう。
霊様来てください。来てくだられて、
この死んでいる、しかし体は何か立派になっている、
この死んだイスラル人の中で、
霊様働いてください。働いてください。
と祈ったということです。
そしたら彼たちは、生きて、動いて、
大きな手段、大きな軍隊になった。
これがエジケルの幻。
37章の素晴らしい幻。
これが皆さん、復活という言葉で、
当てはまるいい幻ではないかと思います。
ところが私がこれを皆さんに申し上げたいのは、
いつこのことが起こるか。
この幻のようなことが起こる。
事実、エジケルは旧約の終わりの時の
預言者だったんですけど、
パヴェロンからエルサレムに戻っていくところで、
大きな力を発揮されたと思いますけど、