じゃあまず、畑川さんから、この滝の川旧中仙堂沿線についてお話ししていただきます。
ありがとうございます。私の拠点がまず、 旧中仙堂沿線にあるというところから始まるんですけれども、
北区の滝の川67丁目あたり、 北区から、本当に端っこのまさに境目のところっていうところがあるんですけれども、
もともと旧中仙堂沿線なので、人が行き勝っていたんだろうな、 なんて思いながら、私はここの場所で日々過ごしているんですけれども、
最近、ちょっと面白い、素敵なお店が増えてきたなって思っていたりですとか、
あとは、古い素敵な仙堂があって、 梶谷さんですね。
で、カフェで人がゆるりと集まっていたりですとか、
あとは、もともとフランス学校があったりですとか、 あとは板橋駅の真ん前には日本語学校さんもあったりとか、
最近、すごくいろんな町の方の顔ぶれが変わってきて、
知らない人ばかりというよりは、 緩やかな会話が進んでいくような、
そんな町になってきたような気がしているという意味も込めて、 今日はちょっと紹介させていただきました。
さっき畑川さん、北区の恥って言われたけど、 滝の川の人たち絶対恥だと思ってないよね。
そもそも、本当に五海道の一つで、
メインストリート、江戸時代のメインストリートの 一つということになるわけだから、
そういう中で、割と17号線という大きな広い道があるんですけど、
そこから一本大きなりに向かって、 左側のところに道筋があって、
そこはもうちょっとね、もどかな、 レトロ感のある町になっている。
結構北区語るときに、赤羽とか大地とか、 大きい町の話をされる方が多いような気もするんですけれど、
滝の川でちょっとそこの雰囲気とは違って、 面白さが最近まさに増しているのかなという思いも込めています。
そうですね。
それと畑川さんはさ、しょっちゅう いろんなご自身の授業をやるときに、
実は北区にこだわらないで、 サンシャインの皆さんと連携されたりとか、
そういうのもされているしね。
そういう意味では、この旧中仙堂って、
菅野の五次堂さんの辺りからずっとまっすぐに 旧堂を歩いていくと、
なかなかそれぞれ、菅野界隈、 それから大正大学の界隈、
それから滝の川のところに、 少し風景も変わってきて、面白いですよね。
面白いですね。
で、線路を渡ると板橋地区が盛り上がってくる っていう、その街の変わっていく様子も。
だから、五次堂さんにお参りしてから、 ちょっとぶらぶらぶらっと歩いていく、
すごくいいところですよね。
そうですね。
どうですか。
ここをすすめっていう、 今いろんな全体のお話がありましたけど、
今、畑川さんがここをすすめですよって言ってます。
ちょっと個人のお店を言ってしまって いいのかしらと思うんですけども、
板橋駅の歩いて2分ぐらいのところ、 矢波田小学校っていう小学校の
大中のところに、若い女性が、 顧民家をそれこそ改装して、
滝の川フレームスさんと 言うんですけれども、
今、コーヒースタンドと言って、 車庫を開放して、
いつも彼女が立ってる、 彼女以外の方もいらっしゃるんですけど、
若い方から、学生さんからご年配の方まで みんなそこで座って、
コーヒーを飲んでるっていう風景が、 すごくいい雰囲気ですね。
それは僕も全然知らなかったな。
結構、お稲荷屋さんができたりですとか、
やっぱり古いものを活用して、 新しいお店を作っていくという方が、
何件か生まれたことによって、
本当に人が立ち止まって会話をしているっていう姿が、
街の中でできてきたっていうのが、 沿線のところが、
すごく素敵になった、 魅力になった一つなのかなと思っている。
それでは次です。 山田さん、もう一回出してください。
飛鳥山ハワイフェスティバル。
こちらもまだご存知の方も いらっしゃらないと思いますので、
概要から説明します。
飛鳥山ハワイフェスティバルは、 今年度、2026年度で第5回目を迎えるというところで、
これが渋沢栄一王の大河ドラマの 晴天をつけがありました。
大河ドラマ館の時に始まった活動で、
これは渋沢栄一王が華濃、 ハワイの王様の唐川をお招きになった。
そのお招きになって、飛鳥山公園、 飛鳥山の邸宅にお招きになって、
ハワイの蔵を初めて日本で捧げたと言われている、 という歴史に紐づいたヘルスになっていて。
1878年だったですかね。
それぐらいですね。
明治11年ぐらいですよね、確かね。
私が140年前だったので、まさにそれぐらい。
そうですよね。
いわゆる日本で2番目の国賓という位置づけで、 当時ハワイは独立国でしたからね。
そこの王様として唐川王が見えた。
そこで渋沢さんのお宅は本当にくつろいで、 楽しい一時を過ごした。
日本で初めてハワイ王様で揺らされた。
その本当に歴史的な事実を発掘して、 始めたフェスティバル。
そうなんです。
今どういう盛り上がりになっているんですか。
今、こんなに続いていただけるとは 思わなかったぐらい。
踊り手の皆さん、踊り手の団体。
フラウされる皆さんですね。
ハーラウと言いますけども、 その団体が100を超えるエントリーが来るようになっていて。
2日間にわたって5万人を超える。 6万人という公式の数字も確か出てたような。
100を超えるってことは、大体僕も会場に行って、 大体踊っている人20人ぐらいずついますから。
踊り手だけで2、3000人来ているということですね。
その他にお客様も含めて5万、6万という人が来ている。
踊りも大体15分一コマみたいな感じなので、 そのお目当たりに来る人たちがどんどん入れ替わるんですよね。
踊り手さんも入れ替わって、お客さんもどんどん入れ替わって。
フラの格好をした皆さんが、 その方々が歩くこと自体がハワイを演出するというか。
会場もね、大人がい飛鳥山公園の渋沢さんのお屋敷の 青煙文庫の前の芝生の会場と。
それから一番大地駅寄りの能舞台のところとね。
2カ所あるんで。見る人も行ったり来たりして。
最近は渋沢ハットエリアの芝生エリアの、 あの辺もウクレレを弾いていただく第三会場みたいな感じで。
そこでもちょっと楽しんでいただけるような仕掛けに。
もう飛鳥山全体をハワイにしちゃおうと。 こういうような取り組みがどんどん広がっていく。
能舞台のある方もね、いろんなキッチン感も出て。
あとはもうそのお洋服とか、ハワイのね。
ハワイ独特のお洋服とか、礼も売ってたりとか。
だから会場で踊った人が、踊り手であった人たちが、 終わるとお客さんになって、
そのままの格好で動いておられるんで。 またこれが雰囲気を申し出す。
ハワイのハーラーの踊り手の皆さん、すごく礼儀が正しいというか。
先生を頂点に、戦闘に、皆さんピシッと、 規律正しく動かれるんですよね。
なので、そういうあたりもこのイベントの規律というか、 ピシッとした感じを。
だけどそれでいて、ハワイの柔らかさみたいなものは、 その会場そこかしこにあふれていて。
そういう人と人とのつながりの気持ちよさみたいなのも、 ハワイの会場では味わうことができるかなと思います。
ハワイにはメリー・モナークという 有名なフラの祭典があるんですけども。
飛鳥山のハワイフェスティバルが、 いつかメリー・モナークに適するような。
絶対そうです。
いいですよね。
歴史のバックボーンがあるっていうのは、 僕はすごい大きいと思っていて。
実は、僕は2年前ですかね、 ハワイに行って、
ハワイのビショップ博物館とか、
それからカラカン・ワオの最後のいわゆる皇居なんかも ずっと見学したんですけれども。
やっぱりああいうところに行ってきて、
その時代のアメリカにね、
あえて少しきつい言い方をすれば侵略されて、 併合されてしまうわけですけれども。
その間の、ちょうどカラカン・ワオが日本に来たところから、
そこに至るまでの歴史がそこにあるわけですよ。
その時に我が国がどういう振る舞いをしてたのかとか。
そういうのも、次のステップとして楽しいハワイのお祭りの中に、
その歴史をまた子供たちが学んでくれたりとかね。
そういうのがあると、今を見るっていうことにも すごくつながるんじゃないかなと思いますよね。
そういうツアーもさ、
ハワイまで行くってなかなか結構値段もかかる試合なんだけどさ、
それはそれで企画があっても面白いかもしれないね。
そうですね。
10月にいきなりパッとやって、あれは十分盛り上がってるんだけどさ、
もう少しそれを5月ぐらいにやってとか、冬晩にやってとか、
1年中で盛り上げるみたいなさ、
そういう仕掛けもあったら、もっと大きないいお祭りになるかもしれない。
そうですね、まさに。
さて、柴田さんに答えていただけますでしょうか。
今、渋沢さんのお屋敷の話がありましたけれども、
柴田さんは、渋沢マインドが根付く街。
はい。
これはどういう。
そうですね、なんかお話をかぶっちゃうみたいな、あれですけれども、
私がこの王子の街でビジネスを始めたというか、
お店を始めたのが9年前になるんですけれども、
9年前っていうと、まだ渋沢栄一郎が1万円札になる、
肖像になりますよとかタイがなりますよっていうことの前の話なんですよ。
その時って私も含めてですけど、
この街に渋沢栄一郎が床にもある人だっていうことを知ってるっていうのが、
それほどは実はそういなかったんです。
ただ、私が店を始めるってなった時にですね、
渋沢栄一郎の考えというか、
私の街にはこんな偉人がいたんですよってアピールされてるですね、
老舗のグループ、良い店老舗の会っていうのがありましてですね、
そこの人に何でかは本当にわからないんですけれども、
面倒を見ていただいたというか、仲良くしていただいたんですよ。
キターシティのキリュウさんとか。
本当に熱心に取り組んでいただいて。
そうなんですよ。
それってやっぱり渋沢栄一郎、
先週の話の中で寒大な街ですよみたいなのあったんですけど、
それって結局渋沢さんの自分だけが儲かってもダメですよね。
やっぱりみんなが幸せになることが商売するものとっての結局一番の利益になりますし、
街として一番価値がつくことですよっていうのを体現されてるんだなと思ってますし、
その考えがあったからこそ、今私もこの街でビジネスができてるのかなとは思っています。
そんな感じですね。
だから街の中でもしかしたら緑色の渋沢栄一郎のシルエット見かけたこと多分ある人はあると思うんですけれども、
あれがまさにそうで、あれは本当にもう、
私がこのお家の街に来る10年以上前から街にこういう人はいたんですよって言ってアピールされてたんです。
その人たちが秋にはあすかいも公園にあります渋沢資料館のところと一緒になってクイズを秋にクイズラリーして、
街中にいろんなところにクイズを出して渋沢栄一郎に関するクイズを出して、
小学校のみんなに回ってもらうとか、街の人に回ってもらって知ってもらおうという活動をされてたっていうのがずっとやってる。
20年とかやってるっていうのはすごいなと思ってやってますね。
なるほど。
先週ね、地方の都市との連携っていう話のときに畑川さんからやっぱり清水町、清水町は渋沢さんが開拓団を派遣して、
その開拓団の人たちの末裔が作った村であり町であるということで、帰宅とも連携を結んでいるところですけれども、
僕があそこの清水町に行ったときにですね、ものすごく渋沢さんに関してのいい展示があるんですよ。
それはもちろん清水町との関係もあるんですけど、北海道の開拓史っていうものにもちゃんとコミットしていくようなんで、
僕はね、清水の物産っていうか、清水の食材を使った何かそういうフェスティバルみたいなものを、
会社さんのところでやっていただくのもいいし、クワードみたいなところでやるのもいいし、
それでホクトピアにね、清水町の渋沢さんに関する展示みたいなのをね、ちょっとお借りしてきてみたいなことをやったらいいなっていうのをずっと温めてて、
ちょいちょいとお話したりしてるんですけど、なかなか実現できないんですけど、
これからの1年くらいの中で何かやりたいなっていうふうに思っているところなんですけどね。
さて、渋沢マインドっていうことで言うと、やっぱりこれ公民連携のこともやっぱり渋沢マインドだと思うんですよ。
その視点からのどうですか、山田さん。
公民連携推進条例も全文に渋沢さんのお名前が出てくるんですよね。
帰宅としてはどんな、まあ苦調じゃありませんから代表していっていただければと思いますけど、
山田さんの個人的なお話としてどんな捉え方で渋沢さんを捉えているんでしょうか。
そうですね。公と民を一揆したという歴史がある渋沢さんもまさに一人公民連携、一人というか先駆けも先駆けだと思います。
はみ出しの元祖かもしれないですね。
はみ出してますよね、まさに。
私はこの話が公民を辞めることになっちゃうとあれなんですけど。
でも、相互の文化を行き来するっていうことはすごく大事だと思っていて。
さっきの前回ですかね、公の人も民の人もお互いの対岸の痛いと気持ちいいと痒いが分かることみたいなのは公民連携の第一歩かなと思っていて。
なので、それを知るためにはやっぱり自分のところに留まるというよりは相手のところにちょっとだけはみ出して飛び込んでみるっていうことがすごく大事なのかなと思っていて。
公民連携の一歩はまず相手を知ることからっていうふうに、そういうふうに自分の第一歩として考えています。
なるほどね。やっぱりそれは渋沢さんのいろんな相話を伺うについて、やっぱり渋沢さんのキャラクターの中からも伝わってくる話ですよね。
畑川さん、今日の今回の締めにですね、畑川さんとしての渋沢はいつ?
難しいのかな。私、独り勝ちしないかな。
なんでしょう、ベストじゃなくて2番目を選ぶっていうじゃないですけれども、四方容姿っていうんですかね。
皆さんがいいようにうまくアレンジしていくって言ったら変なんですけれども、自分だけじゃないものをうまく立てながらという言い方は変かもしれないですけど、
それで好教育っていうんですか、高めていくようなものは、我々が本当に取り込んでいく必要があるのかなって思いますね。
それはすごくある意味渋沢さんを語るときに、本当に四方容姿とかね、そういうのを語られるってなかなか聞かない話で、やっぱり実践されている畑川さんならではの視点じゃないかなと思いましたよね。
頑張ります。
はい、次回もう最終話になるんですが、次回はこの原稿によると、4人で適当に話せばいいというようなリラックスして話を聞いていきたいと思います。
来週もよろしくお願いいたします。