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サマリー
このエピソードでは、「歴史とは何か」という問いを哲学的に掘り下げています。歴史の見方には常に書き手の主観や現代の視点が入り込むため、絶対的な「事実」を捉えることは極めて困難であることが議論されます。スティーブン・カーの著書『歴史とは何か』を参考に、歴史解釈における主観性や、時代ごとの解釈の変遷、さらには考古学や他の学問分野との連携の重要性が語られます。 また、歴史小説家の司馬遼太郎のように、物語として歴史を楽しむことの意義や、一方で厳密な事実を求める姿勢についても触れられます。最終的には、絶対的な真実を求めることは難しいものの、その探求のプロセス自体が哲学であり、現代と過去との対話を通じて歴史を理解しようとする営みが重要であると結論づけられています。さらに、現代のポッドキャストが未来の資料となりうる可能性や、記録媒体の永続性についても考察が及びました。
歴史と哲学の交差点
歴史の哲学、テツセカ。
この番組は、哲学を知りたい3人が知らない中でも知ろうとは書く番組でございます。
Misoです。
Moです。
トモキです。
いやいやいや、いやもう、2本ね、撮ってね。
うん。
前回、結構重い話を真面目に話してね。
ね。
なんかもう、脳みそが焼き切れそうですよ、今。
うん。
頭がバグってますけども。
ですね。
はい。
今日は何の話をしてくれるんですか。
いやー、そんななんか、ちゃんと考えてはないんですけど。
まあ、あの、なんかこう、民生科の中で、ちらっと話はしてたんですけど。
はいはい。
その、なんか哲学の歴史についてずっと興味があって、こういろいろ調べたりとか。
うんうん。
してたけど。
はい。
歴史も哲学なんだな、みたいなのが、なんか改めて思ったみたいな話で。
その、あの、なんつーのかな。
えーっと、なんだっけ、スティーブン・カーか。
うん。
スティーブン・カーって人の歴史とは何かっていう本があって。
はい。
なんかね、昔それ読んだことあったんですけど。
うん。
まあ正直あんま分かんなくて。
うん。
なんかちんぷんかんぷんだったんですけど。
はいはい。
で、なんか最近改めて読んでみたんですよ。
うん。
しかもめちゃくちゃ面白くて。
へー。
なんかその人が書いてることが、すげー面白かったなーみたいな話なんですけど。
はい。
まあ要は、まあその人はこう、歴史とは哲学なんだ的なことをね、言ってたりもするわけですけど。
うん。
まあその前回の話とかもそうですけど、みんな結局いろんな主観で見たいものを見て、フィルターバブルに閉じこもり、SNSの中でそれだけが世界だみたいなふうに思ってしまうみたいなことがあるけど、
歴史に対する見方とかも、まさに結局はそういう感じだよね、みたいな話とかもしているわけですよ。結局こう主観が入っちゃうよね、とか。
見たいものっていうか、まあ想像してしまうとかさ。
うんうん。
まあその話してるときってなんかあれだよね、ネロの話のときの話だもんね。
あーそうだね。そうそうそうそう。
まあローマ史なんて結構そういうこう、極筆的なものめちゃくちゃ多いもん。
そうですね。
書きながら。
そうですね、そうですね。まあこう書き手が、書き手次第でこういろいろ変わってしまって、しかもそのローマ史ってこう、現代だとこうなんていうのかな、ローマ史を本当に全部書いている古代の人なんていう人はいないので、書き継いできてるみたいな感じなので、
それぞれの時代によってやっぱりその人の特徴みたいなのが入ってしまってるみたいなのがめちゃくちゃあるっていう。
そうだよね。
いやまあ、中国史とかなんてそれこそ、なんだ、ちゃんとそういう歴史書を書くっていうような感じで、王朝が責任を持って全王朝の歴史を書くみたいな話あるけどもさ。
うん。
でもあれもやっぱり当然その全王朝っていうところに関してはさ、自分の王朝が乗っ取ったわけだから、それの正当性を担保するためにさ、前の王朝はこんな悪かったんだよみたいなことを書くわけですよね。
うんうんうん。
なんかやっぱりそういう曲筆からは逃れられないよね。
逃れられない。まあそれはいつの時代もそうだろうし、それは仕方がないことだし、かといってそれがなんか全部フィクションでそれが主観だから意味がないことなのかっていうと、まあ別にそんなことはないわけで。
その中でいろいろ探っていくしかないよね。
ただ探っていくみたいなところがやっぱり哲学的な要素が歴史の中にもあって、歴史について哲学をしなきゃいけないよねみたいな話を変わって人はしてたりするっていうような話なんですけど。
歴史解釈の難しさと多角的な視点
歴史について哲学する?
要はいろいろ考えなきゃいけないよねみたいな簡単に言うとね。
まあきっとこれも主観も入ってるだろうけども、なんかそのいろいろこう時代が進めば考古学的な資料とかも出てくるわけじゃないですか。
まあそういうのも使いながらも、かといって考古学的なすごい理系的なこれがもう絶対的なものなんだっていうふうにしちゃうと、それはそれでまたなんか違くねみたいな話とかもしてて。
歴史ってそういうもんじゃないっていうか、結局現代と過去との対話であって、現代の目からしか結局過去は見れないので、それは絶対的に多分そうなんだと思うんですよね。
なんかそれを現代の僕が読んで感じ取る以上は、現代の目でしか見れないので、過去の人がどういうふうに書いてたとしても。
これを勝手に審査区してこっちが受け取っちゃうっていうのはなんかそれは仕方がなくて、それはもう僕とその著者との対話になっているんだけど、
そこにはいろんな誤解があったりとか、勝手な思い込みが双方にね双方に入り込んでしまう。その時代背景というバックボーンがあってそういうふうにしか書けなかったとかっていう意味と、
現代の僕らが何か背負っている背景みたいなのが融合してそういう解釈になっちゃうみたいなのがなんかめちゃくちゃあるよなみたいなことを書いてたりもするし。
それさ、だからさ、あんまり勉強とかしてこなかったんだけど、何が嫌だって、誰もわかんねーよねって。どうしてそんなにみんなそうだったとか知ってんの?みたいな感じがあって。
誰が見たの?それみたいな。
そう、はーって思ったけどもちろんまあいろいろ勉強していけばこういうことがあるから、今は機械もあってその炭素の数えられるから何年前だっていうのもすごい的確に昔よりもわかるよなってとかそういうのがわかればさ、大体合ってるんだろうなみたいな。それでもなんか大体だよねと思ってて。
だからやっぱりどの先生が書いたものとか、どの先生が言ってることかっていうのってめちゃ大事だよねとか思ってたのね。
なんかね、それで、それででもほらお二人とかがすごい歴史がさ、好きだからさ、私も別に嫌いじゃないんだけど、なんで読む気にならないかっていうと、いやわかんねーよねって思ってたからなの。
はっきり言うね。だけどやっぱりわかってる先生たちはやっぱりこう、メイクセンスすることをいっぱい読んでるから、私の知らないところをいっぱい知ってるからそういうわけじゃない?だからそれを、きちんと全然何もわかってないんだから、受け入れるべきだってやっとわかってきて。
大先生たちがやってることとか。でもやっぱりこういう大人になってから読むと、この人言ってること、なんか適当に言ってねえか?みたいに思ったりとかして、どうしてもやっぱりちゃんとこの人の言うことしか聞けないみたいなのがまだあって、勉強してて。
わかるかな、わかるかな。
直感的にね。
直感的に。
ありますよね。
それでね、なんかやっとね、なんかね、思ったのが、あ、歴史だけ知ってる人ダメなんだなと思って。話入ってこないんだなと思って。
そしたらこれ、なんかさ、最近さ、なんか知識学とか人類学とか気候学とか遺伝子学っていうのかな、遺伝学とか、全部ちゃんと、あ、経済学とか、全部専門にやった先生が書いた本なんだよ、これ。大人類史って言うんだけど。
めちゃくちゃ切り落としてて、いろんな先生のこと、こんなこと書いてる人いるけど、これ全然僕そうに思えませんとか言って、多分違うとか言って、結構そういうのが出てきたりとかして、なんかおっちゃんが、その辺のめっちゃ見物知りのおっちゃんが、めちゃくちゃ詳しくいろんなことを教えてくれるっていう感じなんだけど、そういう目線ですごくやっぱりむずいよね、その目線で見れるのって、全部専門家になってからだからさ。
そういう見方っていうのとかも、歴史を哲学するみたいなことになるのかな。
そうかもね、確かにね。
そう思うね。戦争が起こるとか、王朝が滅びるとか、そういうような話って、我々というか、僕が大学とか高校の頃に読んだ本とかだと、やっぱり政治が腐敗して汚職にまみれてとか、社会不安があったおかげで民衆が暴動を起こして、みたいなさ、そういうような感じで、単純化ではないんだけれども、そういうような感じで語られてたっていうのがあるけど。
ここ10年、20年ぐらいの話の中だとさ、言われたりするのって、戦乱の時代っていうのは確かにそういう要素はあるけれども、プラスアルファでやっぱりその時代が商標書きみたいな感じになっていたとかさ。
なんか、気候的な問題みたいな話とか、これも昔から言われてるけれど、どっかの玉突き的な感じで民族が移動してさ、みたいな話とかっていうのもあるわけじゃないですか。
そういうのとかって、やっぱりなんかただ文献読んでるだけではわからないみたいなところとかっていうのがあったりするわけで、なんかやっぱりそういうのっていうのも、毛さんが言うところのさ、いろんなところに精通してる人たちっていうのが出てきてるっていうところの部分もあるのかな、みたいな感じは思うし。
そういういろんな視点を持って答えを探すみたいなのっていうのが、歴史の哲学だよなっていうふうにも思いましたね。
確かにな。それを言うと一方で、確かに哲学だけやってる人もつまんねえなとも思うし、例えばアリストテレスの話とかだってさ、古代のアピアノスとかディオドロスという著者がいたりするんですけど、その人たちは明らかに持って書いてるんですよ。
持って書いてるっていうのが、今の歴史学的にはわかっているんだけど、それはやっぱ物語としてすごく面白いので、やっぱりアリストテレスとアレクサンドロスの関係とか、ああいうのを丁寧に描きたくなるっていうか、物語として。
だけどその哲学とかその歴史実証主義みたいな感じになると、そこはあんまり実証はされてませんみたいな、本当はあんまり関係ないかもしれませんね、ぐらいで終わっちゃうっていうところとか。
なんか、ああそうっすかみたいな、ちょっともったいない部分もあるし、どっちも知ってるっていうのは大事かもしれないけど、物語として、ああそういう妄想もできるよねとかはあるのかもしれないしね。
だからその辺はね、いろんな視点があったほうがいい、面白くなるのかもなって気はするよね。
そこもだから哲学だよね。物語として書くみたいな、小説家の先生とかもいらっしゃるわけですよね、歴史小説家の人たちね。
たしかに。
いるわけだけれども、でもまあそういうね、たとえば縛り太郎とかなんてさ、歴史学者からしたらさ、あんな嘘ばっかり公然と並べ立てやがってふざけんじゃねえよみたいな感じで言ってる先生めっちゃいっぱいいるわけでさ。
そういう感じの話もあるわけで、でもまあそれはそれを別に否定をオープラにしてるんだけれども、否定をする権利もあるとは僕は思わないしさ。
別にそれぞれが、それぞれの信じる道を行けばいいだけの話で、それが哲学なんじゃねえのと思うし。僕は別に縛り太郎を尊敬してますから。
そうだよね。縛り太郎からしか得られないものが絶対あったはずで。
めっちゃあると思う。
そこからロマンを感じて、思いを馳せるっていう部分が、縛り太郎っていうフィルターを通して妄想が広がっていくわけじゃないですか。世界が広がっていくっていうところがあったはずだし。
歴史の面白いっていうか、楽しみ方の違いはね、私別に楽しみたいわけじゃなくて、本当のことが知りたいのよ。
なるほど。
お二人の話聞いてるとちょっとやっぱ違うのは、ただ本当のことが知りたい。
その話もミニセカの中で川が言ってるみたいな話があってね。事実を求めることはなんとかではないみたいな。その話しなかったっけ。
そんな話してたっけな。わかんない。ちょっとその文脈忘れたけど。
でもとはいえやっぱりさ、そうだよね。前回の話もそうだけどさ、結局事実とかファクトみたいなものって、いやむずいじゃん。
むずいよね。
結局さっき言ってた通り、いろんな主観が入ってきたりとか、現代的な目があって、読み手側と書き手側の対話の中で捉えられたものだけしか捉えられない。それしかファクトと、それが何の角かな。
そうだね。ファクトというものはなんかあるのかもしれないけど、なかなか捉えるのはむずいよねみたいな話。
なんか僕は歴史学科で、一応歴史学科というところで勉強大学してましたっていう感じなんですけど、
資料じゃなくて論文とか書く上で、その資料を参考にするみたいなのっていうのは当然必ずやんなきゃいけないわけなんですけど、
その資料の中でもやっぱり価値のある資料と価値のない資料みたいなのがあるんだよね。
一番価値のある資料っていうのは日記なんですよね。
で、そこからその時代に書かれていた文献、後の時代に書かれた文献、現代に書かれた文献みたいな感じでどんどん価値が下がっていくわけだけど、
でもその日記って事実かって言ったら、事実かどうかわかんなくねえと思うわ。
そうだよね、確かにね。
めっちゃ持って書いてるやつとかいると思うし、明治時代とか日記とかに至ってはさ、
ぶっちゃけ後世に見られるっていうのをわかって意識して書いてるみたいなところっていうのはめちゃくちゃあるから。
なるほどね、確かに。
そうなんだ。
だからそこも果たしてそれが事実と言えるのかどうかみたいなのっていうのは正直わからなくて。
そうだよね。
その人が見られるかもしれないと思って書いた言葉という事実ぐらいの感じになっちゃう。
そうだね、そうですね。
そうなんですよね。
ほんとすごい面白い、この話。
ほんと私は事実が知りたいだけなのだけど、事実ってファクトってね、
私もようこそファクトへ読んじゃってから、もうね、なんかね、この瞬間はファクトかもしれないけど、もう次の瞬間、物事って変わってるからね。
いや、ほんとそうだよ。
で、そういうこと考えたら、なんかやっぱりもう何も言えなくなるっていう感じで。
いや、わかるわかるわかる。
だから、もうすごい面白い、今。もうなんかこの話できてよかった。
いや、よかったよかった。
歴史解釈における人物の影響と筆の止まる瞬間
いや、だからなんかそれこそ、カーの歴史とは何かの中に、なんか僕はちょっと象徴的というか、やっぱおもろいなと思ったのが、ローマの歴史を書いてる人、テオドール・モムゼンっていう人がいて、この人は激烈カエサル推しの人なんですけど、
このモムゼンがめちゃくちゃ推したから、歴史学的にやっぱカエサルすげえみたいな感じになってったみたいな流れ。
その前からもちろんシェイクスピアとかもあったし、偉大とはされてたと思うんですけど、
改めて近代の人なんですけど、ビスマルクぐらいの人なんですけど、その人がちゃんと近代歴史学としてすげえみたいな感じで言ったからすげえみたいな感じになってたりとか。
そうなんだ。
っていうふうに僕は捉えてるんですけど、その中でモムゼンっていう人は、すごい当時のドイツというかプロ遺鮮の、なんていうか、すごいサハの人だったんですよ。
サハの人でビスマルクとめちゃくちゃ対立してて、政治もやってて、バチバチに議会でも争うみたいな人だったんですけど。
ずっとローマの歴史を書きながら、カエサルすげえよ、こんな時代に、モムゼン的にはプロ遺鮮の政治状況とか、
ドイツもまた一つにまとまらなきゃいけないんだよみたいな、あの時代感の中でカエサルに固くしながら、理想のリーダーとして見てたんだと思うんですよね。
カエサルすげえよってめちゃくちゃ書いてたんですけど、たぶんそのぐらいのタイミングで、ビスマルクが政権取るというか、本当にそれで、それによってドイツが統一されていくみたいな感じになっていっちゃうわけですよ、政的によって。
周囲を見てると、まるでビスマルクをカエサルのようにみんな見てるというような感じになってきて、そこでモムゼンの筆が止まるんですよね。
なるほど。 そっから先、絶対モムゼンその先の訂正のこととかも、知識としては絶対にあったはずだと。これカーが書いてるんですけど、知識としてもあったし、各モチベーションとかもあったはずなのに、ビスマルクが政権を取ってしまったことによって、あれなんか俺が思ってたのとちゃう感じになってきたみたいなので、
やっぱりその現実と今の時代との対話の中でカエサルを見ていたけど、あれ、なんかそうかみたいな。それで筆が止まるみたいなのが書いてあって、おもろいなみたいな。
おもろ。ベトベト、ベトベも似たような話あるよね。 ああそうなんですか。 ヤンヤンなんかナポレオンのために曲作ったんだけどもさ、ナポレオンが全然理想の君子じゃなかったからブチ切れてその曲なんてダサくないみたいな感じで言ったみたいな。
そうなんだ。 しかしいものがありますね。 しかしいものがあるし、やっぱり人間らしいよね、そういう話っていうのは。 それがどういうふうに、実際心理状況なのかっていうのは少しわからないけどさ。 わかんないですけどね。
でしょ?ほら、わかんないじゃん。 わかんない。カーの予想としてね、そういうふうに読んでるっていうだけで。それに対して僕はめちゃくちゃ面白いなって思ったっていうだけなんですけど。
いやそうよ、今二人がこうやって喋ってるのだって、私が二人はとても楽しそうに喋っていましたって書いちゃうかもしれないけど、二人は別に楽しくないもんって思ってるかもしれないじゃん。そんなのは全くわからないじゃない。
確かに。 だけど、歴史を見るときに私もやっぱりそういうの楽しいし、ミンセカとか聞かせていただいて本当に、本当はドラマ入ってるなとか思うんですけど、そんなこと言ってねえだろうとか思うんですけど。
だけど、そういうの楽しめるのがやっぱり人間のすごさだなとか思っちゃうんですよね、私はね。でも今お二人の話を聞いてて何度も言うようですけど、私は真実が知りたい。わからないとわかっていても、なるべく近いものを知りたいという欲望があります。
ありますよ。僕もありますよ、やっぱり。今回も本当はアウグスティヌスの続きをやりたかったけど、いろいろ調べてて、調べてた中では僕の中ではかなりメイクセンスして、このストーリーラインでいこうっていう感じで、バーって台本を書いてたんですけど。
昨日の夜、全然違う論文を読んだら、「そうじゃないっす。」みたいなことが普通に書いてあったので、「え、あれ?」みたいな。根本が揺るがされて、「あ、そうなんすか。」みたいな。
でもそうするとさ、その論文を書いた人がどうしてそういうふうにそこに行き着いたのかもわかんないとさ。
そうだよね。
今までさ、なんか書いてきた、読んできて説得力があったものが、論爆っていうの?されないわけじゃない?だから、両方言っちゃったら?
あたし達も。
たかし なるほど、うん。
たかし ダメなの。
なるほどね。
たかし わかんないけど。
それもありかもね。
たかし もしかいな。
たかし だってどっちラインに行くか決められなくない?今さら。
いや、そうね。
たかし わかんないけど。
諸説ありですからね、基本。
諸説ありですからねー。
たかし だからそれが、なんか性格的に受けつけないよね。なんかね、諸説ありとか。
やっぱり現代的な意味で、僕の癖なんでしょうね。読み取ろうとしちゃう癖があるんだと思うんですよね。
これって今のこれにも通じますよね、みたいなこと言いたくなっちゃうっていう。それあんまり良いことじゃないんでしょうけど。
なんで?
いや、わからない。ファクトを知りたい人にとっては、別にファクトと関係ないじゃないですか、情報としては。
それは良いんじゃないの?関心の矛先の違いというか。
アイグスティヌスとかの語りとかも、そういうふうな方向に持っていこうと、ある意味してたんだろうな、自分はっていう感じが。
改めて何かその論文を読んでして、ああ、モムゼンの筆が止まった気持ちはあるわ、みたいな。
止まったわーって。
えー、すごい。
すごいなあ。
いや、私、本当、ミンセが聞いてて、これはどういう文章をこういうふうに言ってるんだろうっていつも思っちゃって、
元に書かれてたものとかが、どういうふうにすると、こういうセリフになるんだろうとか、
めっちゃなんか面白い、そこが面白いって思います、いつも考えて。
知りたくなる、何をこういうふうに言ってるんだろう。
確かに、面白いかもしれないですね。
それこそノートの記事とかね、字の文はこれですみたいな。
あ、これをこういうふうにしてみましたみたいなのあったら、
え、やってやって、それすごい興味がある。
いいね。
ごめん、全然脱線しちゃったけど。
真実の探求とポッドキャストの記録
でも歴史の捉え方っていうのをそういうふうに考えるっていうことだよね、哲学するっていうこと。
対話する。
まあ、そうそうですね、対話する。
現代の僕たちが読んで、それの解釈しか究極に言うとないので、
それをどうするか、やっぱり考えなきゃダメだし、哲学しないとねっていう。
そうか、ということで、このなんかポッドキャストで私たちが残していることってすごい資料になると思わない?
未来の人たちにとってはさ。
なるほど。
民族誌とかさ。
2020年代のサピエンスは。
そうそう、2020年代のサピエンスはこういうふうに、なんかズームみたいなので、やってたらしいよみたいな。
確かに。
全部残るからね、結構。
まあわかんないんだけどね、デジタルがどうやって残っていくのかっていうのはね。
そうだよね。それちょっと問題になってますよね。
アナログのほうが残る説っていうのがあるよね、最近。
ありますよね。
なんかそれこそ、ネットの総名機のものがほぼ残ってなくなってきちゃってるとかね。
個人ブログがなくなってるとかね。
結局陶器しか残らないみたいなね。
他のものはみんななんか朽ちちゃうみたいな。
陶器は残りますよね、実際。
そういうのがあるか。
ダメか、じゃあ陶器作るしかないか、残すには。
陶器に何か文字掘って売りますか。
いやすごい嬉しい、こういう話できて。
これ誰にも言えない近所の人にはさ、この辺で言って、すごい陶器作って何か残しますかとか誘えないの。
刀片追放みたいな。
なんで、追放されたくない。
昔ね、中国で初めてできた名文法っていうのがあるんですけど、
それって鉄板かなんかに掘られたやつが最初らしいんですけど、
でも鉄とかなんて再利用仕様があるから、簡単にそんなもん溶かして再利用されちゃうから残る。
陶器、鉄は残るものではあるけれども、そんな再利用できちゃうから残んないけど、
陶器なんて割れてしまったらね、もうゴミにしかならないから、
ゴミとしてその辺に埋められるみたいなパターンがあるから残るっていうね。
価値がないから残るんでしょうね。
逆にね。
石でも大丈夫?
中国は石にいろいろ掘られててもあるじゃないですか。
石は結構削られるみたいなのもおいしいよね。
確かにね。小セブンさんのコロッセオの石とかも持ってかれるみたいな話とかね。
だからこそ、モウさんのいう潜在的ゴミは案外と価値があるのかもしれない。
そうか。本当だね。
でもプラスチック、ダメじゃないの?
プラスチックダメなのかな?プラスチックって残んないのかね、あれ。
プラスチック割と残んないんじゃないかな。
残んないのか。
だからじゃあ陶器作ろうよ、私たち。なんかそこに書き残したいことを残していく。
なるほど。
そこで真面目になるほどとか言わない。
来年の。
1000年後のあなたにつって。
1000年後のあなた、本当。1000年後のあなたへだね、本当に。
いいじゃないですか。
確かに。それは、うん。
なんだ。
そうだよね。そこに日記書けばいいんだ。
そうだけどコストがめっちゃ高いけど。
そうだね。
うまいことを、あれだ、なんだ、残したいことって言っても簡潔に残さないとダメだね。
まあいいや。とりあえず、何の話してたんだっけ。歴史対話ね。
そうそうそうそう。
対話しましょう。
対話しましょう。
歴史を哲学できたんですか、今日はこれで。
していきましょう、みたいなね。
その、歴史も哲学ですよねっていう。
歴史も哲学ですよねっていうことですね。
そうですね。そう思います。
哲学者の探求と司馬遼太郎
どうぞ。
はい、今日も最後までテツセカお聞きいただきありがとうございました。
Spotify、Apple Podcasts、Listenで配信しています。
番組を気に入っていただけましたら、お聞きのアプリで番組フォローや高評価ボタンを押していただけると嬉しいです。
感想、ファンレターお待ちしています。
いつも感想いただく皆様本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
もうさんのその事実を求めるみたいな思想、発想っていうのもわかるっていうかわからんでもないよな。
みんなわかりたいでしょ。
だけど無理じゃん。
だから、無理だけどやっぱり絶対信じて。
だからそれが哲学なんじゃないですか、きっと。
なんかさ、それっぽいこと言うけど全然わかんないの。
だから、そのわかんないけど追い求めるみたいなのが、哲学者はみんなやってきてるわけで。
そんなわかんないけど、わかろうと努めてるわけじゃないですか。
じゃあもう哲学者と呼んでくれ。
そう呼びます。
俺を哲学者と呼んでくれ。
哲学者もう。
もう哲学者。
でもなんかさ、やっぱさっき柴梁太郎の話が出たけどさ、その中学生とかさ、それぐらいの時ってさ、柴梁太郎を見た時にもうめちゃくちゃ感動したわけですよ。
でも本当もう毎週、毎週4,5冊ペースでさ、読み漁りまくったみたいな感じがあって、それぐらい面白かった衝撃的でさ。
中学時代とかでもさ、やっぱそれを勧めてくれたのは誰だったか忘れたけど、まあその柴梁太郎ってめちゃくちゃこう本1冊書くのにも人望帳の古本屋から全部資料買ってそれを読み込んで書いてるから、めちゃくちゃ詳しく書いてあるんだぜみたいな感じのことを聞いてさ、
やっぱなんか柴梁太郎の語ってることっていうのは真実なんだみたいな感じでさ、結構ずっと思っていたわけだし、なんか批判をするみたい、いやまあそれ学者とかが批判をしてるのを見るとさ、
おめーらよりよっぽど調べてると思うぞ柴梁太郎はみたいな感じで結構反発をしてたみたいなのがあるんだけどさ、なんかこうよりいろんな本とかそういうのを読んでいくに従ってさ、
まあね、当然人のバイアスはめちゃくちゃかかるし、まあそもそも大衆娯楽小説だからさ、面白く書くみたいな感じになってるっていうのはさ、やっぱり理解をしていくわけでさ、だんだんそういう
柴梁太郎が全て正しいっていうか、そういう柴士官っていうのがね、いいものだみたいなのはさ、当然思わなくはどんどんなっていったんだけれどもさ、
まあなんかでもそうすると、それまで持っていた自分にとっての事実、真実っていうのは柴梁太郎だったんだけどさ、真実は薄れていったわけですよね。
で、結局もうさんの言うところのさ、「じゃあ何が言いたいの?」みたいな感じで今陥ってるっていうのも、そういうプロセスを経ての話で。
なんかね、真実というものっていうのを自分の中で思い描いていた時っていうのが、それが幸せだったの。幸せだったのかってさ、幸せだったと思うんですけど、
それが果たして真実、事実だったのか。本当の真実、事実だったのかってさ、違うと思う。
なんかそこも結局人間の内面の世界の話だよなーみたいな感じでね、ちょっと思ったっていうところでしょうか。
いや本当だよね。まさしくファクトとはっていう。
はい。すいません。よくわかんない話をまず最後にしましたけど。そんな感じです。
いやー、なるほど。ちょっと無限に語れちゃうけど。
そうだよね。そんな感じですね。じゃあ今日のところはこれで終わりにしようかね。
はい。じゃあそんな感じで終わりにします。はいどうもありがとうございます。
ありがとうございます。
34:41
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