沖縄・読谷村での終戦記念日
日替わりコメンテーターによる解説で、日々のニュースを掘り下げるブラッシュアップ。 月曜日は、法学者の谷口真由美さんです。谷口さん、おはようございます。
おはようございます。さてさて、今日はどんな話題になりますか。
はい、私今、沖縄の予備単村にいてるんですけれども、ちょうどホテルの窓の外がトリーステーションっていう米軍基地なんですね。
で、トリーって人の名前でもなんでもなくて、神社にあるトリーが米軍基地の入り口に大きくドーンと2つあるっていう。
ちょっとあの変わった構造というかですね。
トリーステーション、その前にいます。 実は、おととい8月15日の終戦記念日の日に予備単に入りました。
昨日実は沖縄県の主催で、沖縄県が子どもの権利条例を7月末に採択したので、その記念シンポジウムがあって。
で、私公演と、その後玉城デニー知事と予備単村の伊波篤市村長と、あと地元の子どもたちとかと一緒にシンポジウムをしたっていうので、それで招かれてきてるんですけども。
1581年の終戦記念日を予備単で迎えたっていうこともあって、ちょっと日本の平和というかですね、考えてみたいなと思って。
戦争の世から平和で豊かな世の中って、どういうふうにしていったらいいのかなっていうのをやっぱりちょっと考えたいなと思います。
チビチリガマとシマクガマの悲劇
少し重い話なんですけども、1945年の4月1日にアメリカ軍って実は沖縄本島では最初に予備単に上陸してるんですよね。
その翌日の4月2日に予備単村内で直線距離わずか1キロほど離れた2つの自然豪、ガマと言われるやつですね。
正反対の出来事がありました。
一つはチビチリガマというところで、約140人の住民が避難していて、ここは日本兵が中に入っていて、とにもかくその米兵というのは鬼畜だと。
人を殺す残虐な兵士で、女の人はレープをされた後に殺される。
だからそれだったらきれいな体のまま自決せよ、みたいなこと言われてたっていうのもあって、恐怖のあまりですね住民が。
まずその憎しん同士が殺し合うという、もう本当に悲惨な状況がありました。
一番最初にパニックになったのが18歳の女性だというふうに言われていて、その人が米軍が来る前にお母さん私をきれいな体のまま殺してくれということを言って、その後パニックが広がるという状況がありました。
でもやっぱりその中で、そのガマは実は女の人とか小さな子供がたくさんいたガマで、結局お母さんの中には殺すために子供を産んだんじゃないと。
だから自分は投降するというかですね、外に太陽の下で死にたいと言って出た人たちが助かってるんですね。
もう一つのガマは、1000人近くいらっしゃったんですけど、アメリカ帰りの男性がいらっしゃって、その方たちが通訳をして、アメリカ人は殺さないと。
ポロになったら殺さないから、とにかくそのみんなで生き延びようということで、日本兵が鬼畜が来たら自決せよって言ってるのを聞かずにですね、その通訳の人たちがリーダーになったっていうふうに言われてます。ハワイ帰りの方とかですね。
一方はほとんど亡くなって、一方はほとんど生き残ったっていうかですね、全員生き残ったっていう、もうすごく対比されるガマが2つあります。
だから昨日お目にかかった中でも、自分の両親はその助かった方のガマの出身で、だから自分が今ここに生まれてるんだっていうことを教えてくださる方とかもいてですね。
だからそれを聞いて、日本軍が入ったから助かったみたいなことを思いがちなんですけど、平和教育とかしててもですね、軍隊が自分を守ってくれたっていうことを思っている人も多いんですけど、そうじゃないことが沖縄で起きてたっていうことも、これ歴史のやっぱり事実として、ちゃんとしておかなきゃいけないことだなと思うんですね。
読谷村の歴史と米軍基地
そのユンタンザミュージアムっていう、ヨミタン山、ヨミタンの山のミュージアムってユンタンザって読むんですけども、そこがチビチリガマの内部を再現したりもしてるので、そこを館長さんにもご案内してもらったんですけども、
やっぱり犠牲者の日、それはチビチリガマにあるんですけど、使命が刻まれた日には一桁の年齢の子供の数がすごく多かったので、そういうので自分の子供を手にかけなきゃいけなかった人たちの気持ちを考えるとですね、もう何か重苦しい気持ちにしか当然ならないんですよね。
地元でもそうですけど、これ集団自決の場っていうふうに読んだりする人いるんですけど、地元では強制された集団死っていうふうにおっしゃいますね。
結局軍国主義教育で追い詰められた末の死であって、自らの意思で選び取った死ではないということなんですね。なのでやっぱり教育ってすごい大事だなっていうふうに思います。
だから助かった方のガマ、死無くガマって言いますけれども、こちらはアメリカにいた人たちが結果助けたっていう、本当に教育の話であり情報の話であり、子どもたちが生きる権利を考えるっていうのを考えた時にも、昨日の子どもの権利シンポジウムっていうのとすごく重なってですね、考えさせられることでしたね。
ヨミタンって実は村の土地の95%が米軍に接種されたところなんですね。
今私が言っている鳥居ステーションで鳥居通信基地っていうところと、カデナの弾薬庫がまだあって、カデナの弾薬庫は極東最大のアメリカ軍の通常弾薬庫があって、ヨミタン村だけで10.7平方キロメートルを占めてるっていうことがあります。
これ本当に知らない方多いんですけど、ヨミタン村って冷戦期に核弾頭が配備されてたんですね。核ミサイルが配備されてた場所で。
それが日本国内というか、当時はもちろん米軍かだけれども、核ミサイルがあったっていうことなんですよ。
ヨミタン村も実は世界遺産の世界遺産群の中に今入っているお城の跡があるんですけれども、そういった発掘作業も米軍があるのでできない部分もある。わからないところもある。
お城そのものも米軍が入ってこなかったらもっとわかることがあっただろうって言って、お城も石垣はわかるんだけれども、構造はわかるんだけれども、どんな建物建ってたか残ってないんですよ。
だから、例えば大阪城とかは建物が再現できる設計図っていうか、そういうのが残ってるから再現できたりするんですけども、それがないっていうのがあって、崎美城ですね。崎美城の跡、その世界遺産だけれども、どういう建物が建ってたかよくわからないっていうこともあります。
加害の歴史と向き合うことの重要性
なんかやっぱり、例えばプーチンさんが北方領土に入ってきたとか、高市さんのツイート占卜者の語りとかいろんなことありますけれども、反省っていう言葉が消えたっていうのね。今回の高市さんの言葉から消えたっていうのがありますけども、反省っていうのを消した政府が主権だけを強く語るっていうのはちょっとアンバランスだなと思うんで、
やっぱり自分たちがしてきたことと、加害の歴史っていうのに向き合わないと、加害の歴史ってものすごくしんどいんですよね、向き合うの。
だから私、沖縄来たらものすごく本土の人間っていう、沖縄の人たちに対して私はどういう立ち位置で物を喋ったらいいんだろうかっていうので、いつもしんどい重苦しい気持ちになるんですけれども、勇ましい言葉をいくら発しても、やっぱり我慢でなくなった人たちのことを考えると、その勇ましい言葉が人を殺したってことだと思うんですね。
文化と平和への希望
なので、ヨミタンが核ミサイルがあったり、村の土地の95%が摂取されたりしてますけども、今も弾薬庫が残る中、返還地に図書館とかユンラボって言われるすごい文化施設があるんですよ。
ここがものすごくたくさん人が集まるとこで、地元の人とかジャングリア越えって言ってるんですね。
それは入場者数が本当に多くて、ジャングリアよりも越えた日があるっていうこともあって、そんなふうにおっしゃったりします。
だから、その豊かな文化というものが悲しい歴史の上にあるけれども、文化を育てていくっていうヨミタンの姿勢っていうのは、私はとてもいいなと思って、注目これからもしていきたいなと思います。
やっぱり子どもたちに何よりも平和な世の中を残して、その中ですぐ育ってほしいっていうのを、子どもの権利シンポジウムとかやって、再度確認した次第です。
なるほど。今日はその沖縄のヨミタン村でのシンポジウムをきっかけに、平和について考えました。
谷口さんありがとうございました。
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