たねと暮らす
昨年11月にね、NHKの取材があって、依頼の収録になりますけれども、今回はゲスト回になります。どういう方ですか?
ひらいりえさんというお友達で、山の上の本棚という本屋の活動、いろんなイベントとかに出展して、自分たちの選んだ素敵な本を販売したり、フル本も扱ってたりするんです。
今回のテーマとしては、うっちゃんが提案があって。
昨年、大阪のイクノ区で100年芸能祭というイベントが10月にあって、それに僕たち2人は遊びに行ったんですけれども、その時にひらいりえさんの山の上の本棚が出展されてて、本の販売をされてて。
その時にフェミニズムに関する本、それだけじゃないんだけどね、そういう本をひらいりえさんが販売されてたんですけども、少しだけフェミニズムの話はしたんですけど、改めてゆっくり話を聞けたらなと思って、今回はフェミニズムのことをちょっと伺いました。
ということで、では本編の方どうぞ。
だらだら始めましょうか。
ひらいりえさんが本の仕事、今も実際されてると思うんですけど、図書館の師匠されてたりっていう、本の仕事に携わるきっかけっていうか、どういうところからやったんですかね。
あんまり図書館で働きたいっていうのはすごい強かったわけではなくて、たまたまというか、試験にいろいろ、公務員試験を受けて、一番でもやっぱり本が好きだっていうのはあって、図書館に行けたらいいなっていうのはあったので、結果的にあそこだけ受け入れてくれたというか、
取ったので働いたのがきっかけです。
なるほど。やっぱり昔から本は好きだったんですか。
そうです。ただいわゆるなんか、すごい本のムシとかそういうの全然なくて、小中高はバスケットしかやってなかったし、
あ、部活。
バスケ、ほんと授業寝てばっかりでたんで、でもやっぱ大学になってから結構読む量が増えててっていうのは。
その時は主にどういうジャンルというか、例えば文芸小説なのか、それとももっと専門書的な、どうやったんですかね、興味として。
大学ですか。
そうですね。
大学生の時はちょうど村上春樹が私にとって出会いで、結構その時は好きって言っていいのかよくわかんないですけど、やっぱり読んでしまう感じで。
ただ周りの先生とか大人が、男性が多かったんですけど、村上春樹はなんて読むなんてみたいな、なんていうのかな。
ちょっと下に見てる感じの。
そうそう。なんでどこがいいのみたいな。あんなの文学じゃないとは言ってないんだけど、なんかそういうのがすごいあって。
へぇー。
だからね、なんかそれはすごく印象とか強くは残ってるんですけど、ほんと小説が多かったですね、その頃は。
でもそんな、それだってすごい読んでたかってわけじゃないし、その時でも図書館をよく使ってましたね、大学の。借りてました。
師匠の資格なんだって、そこで取ったってこと?
師匠の資格はなくて、職場の試験だけ受けたので。
そうなのか、意外。
持ってなくて。でも入ったらやっぱり本が好きな人も多いし、割と男女半々な職場なんですよ。上司も女性も多いし。
女の人の方が多いかなぐらいのイメージ。
そんなイメージがある図書館、図書室っていうのは。
確かに確かに。一般的な公共図書館とかだと女性の方が圧倒的に多分多いんだけど、うちの職場は帰って男性が多分多くて、図書館といっても結構企業みたいな、役場みたいな半分感じで。
えっと、それは国会図書館?
国会図書館。
あそこは研究機関を備えてるわけでもなくて、本当にもう書籍というか資料の保管というか管理みたいなところなのかな?
あ、そうですね。一応国内で出版された、出版・刊行されたものはすべて保存してっていう機関で、国会に属する機関なので、国会の立法に対しての資料を使ってもらったり、
議員の先生とか秘書から依頼があったら調査をしたりっていう、その意味での調査機関というのは持ってるんですけど、かつ国民の皆さんのための機関でもあって。
えっと、梨央さん自身はどういうお仕事をされたんですか?その時。
結構いろんなことをやらせてもらったんですけど、音楽映像資料室という専門資料室で秘書のようなことをやったりとか、あとは議員からの調査の簡単な調査に応えたりとか、
あとは、デジタル化を結構国会図書館は進めてるんですよね、蔵書の。デジタル化してネットで公開したりして広く使ってもらおうとしてるんですけど、
それのデジタルアーカイブのいろんな仕事の中の一つに関わったりとか、
あとは、全国の師匠さんたちのための研修イベントをやったりとか、データベース作ったりとか、いろいろやりましたね。
すごい。
何年ぐらい経たのかしら。
20年弱でした。
そうか。
大学卒業してからそこでずっとなのでね。
その中でなのか、もっと違うきっかけがあって、山の上の本棚さんっていうのができたのかしら。
そうですね。
南山城村に一時期住んだ時に、ちょうどその時は図書情報館にも2年間研修生として。
奈良県立図書情報館。
とてもいい国先だったんですけど、そこで自分としても、今までは図書館の中だけにこもってた気持ちがちょっと外に開かれたいなと思うようになって、
何かでやりたいなと思った時に、町ライブラリーの話を聞いたんですよ。図書情報館のイベントで。
2010年ぐらい。
いつぐらいなんだろうね。なんか突然町ライブラリーって聞くようになった時期がある気がする。
多分それぐらいなんだろうな。
私が聞いたのはもうちょっと後で。
サミットとかやるようになってた頃で。
町ライブラリーではないけど近いことができないかなと思って、自分の蔵書をギャラリーのアラボンさんというところを借りて、
そこで選書していたものを棚に置かせてもらって、図書室に近いことをやったんですよね。
山の上にギャラリーがあったんで、当選法定を。なので山の上の本棚っていうのを。
なるほど。そういうことだったんですね。
ちなみに町ライブラリーってどういう取り組みだったんですか。
町ライブラリーは今も続いている。
継続してやってるんですか。
何ていうのかな。組織。一応そういう組織体もあるんですけど。
特人局的な。大阪の、町ライブラリー自体はその町の中に小さな図書館、図書室的なライブラリーがいくつも点在していて、
そこに行けば本を借りられたり読めたりするっていう、個人がやるような仕組み。
で、その個人がやるんだけれど、町ライブラリーっていう仲間うちに登録をすると、
あそこのノウハウも教えてもらえたり、そういう、1年に1回だったかな。
当時はサミットっていうので、情報交換したり、交流できたりとか。
ワークショップとかね、トークイベントとかね、めっちゃいろいろあるっぽかった。
言ってなかったんだけど。
別にその組織自体が、例えば図書情報館が取り仕切ってたっていうことでもなく。
あってもなく。
でもなくってことか。
ブランタリーの感じだよね。
ただ関わってるだけっていう感じかな。大きな図書館として。
そうだね、図書情報館は本当に関わってはいなくて、
多分あそこで結構職員さんがある方が、町ライブラリーの監修者というか、
いろいろ陰で支えてる人がいたので、その人を通じていろいろ話を聞いて、
町にそういう仕組みがあって、しかも緩く連携できたら、すごい素敵やなと思ってました。
リエさんがアラボンさんに選称してたっていうのは、
選称してみたいなという意識ってどういう感じだったのかな。
やっぱりアラボンさん、僕ら実はアラボンさん行ったことがないんですけど。
今はね。
今は相手の中で行ったりして。
でも本として関わりたいなって感じだったんですか。
でもそんなに本として何かとか強いものが。
あるわけでもなく、誘われたってわけでもないですか。
誘われたわけではないです。
ただ、やってみたいなっていう思いがむくむくとあって、
それを野原さんに話したらいいよって。
いいよやってみたらって言ってくれたっていうのがすごく初めて。
なんかね、それは本当にとってもありがたかったですね。
心よく場所を貸してくれたっていう、
その思いがやっぱり結構後押しになりましたね。
どんな本を選んでいたの?
その時はね、なんかよくわからないから。
そうですね。
いろいろちょこちょこ、小説とか。
どういう思考があるかわからないもんね。
その時どういうものを選ぶんだろうね。
何もないところから本を選ぶってすごい難しそう。
アラボンさんをイメージして、あそこの本棚に置いたらいいなみたいな。
アラボンさんの器とか、そういう雰囲気を考えたりしたのかな。
あってもね、それはなくはなかったけど、
結構ヒマを退屈に。
文庫一郎さんの。
本当にいろいろ、哲学の本もいたり、詩集もいたり。
確かにアラボンっていう場所は考えたんですけど、
そんなに制約にはならず、
いろいろ、とりあえず自分が持っている本で売らず、
読んでもらって貸すだけだったので。
そこはね、もう本当に気分で。
何か反響とかあったんですか?その時は。
確かそうですね、最初は本当に最初はね、
山の日かなんかのイベントに限定で出したんですよ。
で、これ買えるんですか?って何かが聞かれて。
言われそう。
売りません。
レンタルです。
あーって言われた。
買いたいのか?ってなった。
でもわかるかな、それは。
持って帰っていいよみたいな。
本当にそんなに大きな反響というのは全然なかったけれど、
言ったら自分の本を置いているから半分恥ずかしいし、
でもドキドキだしというので、
そういう風にちらっと声をかけてくれてやりとりができたのはとても楽しかったですね。
じゃありーさんもそのイベントの日はそこにいて、
先生しましたよ、何かみたいな。
何かじゃなくて。
奥にいたの。奥っていうかなんか。
見守ってたの?
そう、後ろ。
何この時に。
あ、ちょっと頭の影から。
影ではなかったんだけど、
遠くにいて、誰かこう見てたら近づいていった感じで、
全然そんなに立ってはいなかった。
でもね、味をそれで占めて、
月1回くらいかな、お借りして何回かやりましたね。
山の上の本棚の生まれたきっかけを今教えてもらっているけど、
今どんな活動をしているのかなとか、
どんな思い出を持っているのかな、みたいなことを教えてください。
今は一時期は店舗も、
コジカブックスっていう仲間とやっていた本屋の店舗もあったんですけど、
今はそれも畳、
それぞれそこでやっていた仲間は独立してお店をやってたりするんですけど、
私たちに、佐々木さんと私のやっている山の上の本棚は、
今のところ店舗は持っておらず、
風船かずらっていう奈良町にある田永市の共同書店さんの一角をお借りして、
そこで常時販売しているほか、
最初は貸し出しを見てもらうっていう、
そういうコミュニケーションが中心の場所というか、
そういうことの活動だったんですけど、
今は販売の方を中心にやっていて、
あとは呼ばれたらイベントでも販売したりしていて、
それこそ洋さんとおっちゃんも来てくれたりしていて、
そこで会う。
ジャンルは結構いろいろなんですけど、
在庫はそんなに多くお店がないので抱えられないのもあって、
今は古書をメインにして、新刊はそんなには多くなくて、
それをセレクトして売っています。
うちの村にもね、
本都っていうイベントでね、来てくれて。
もう2回くらい開催したのかな?
2回開催したね。
ちえちゃんがね、頑張って企画して。
直売所を盛り上げるっていうのと、
それから本が好きな人が集まってくれたらっていうのが合わさって、
本に関わる何かっていう、
ぼんやりしたテーマなのになんかいいコミュニティだなって思いながら。
確かに。
うちの家でもお店をしてくれたんだっけ?
銀河マルシェかな?
そうね、一回で。
あれも3年前とかだいぶ前になるかな。
僕はちょっと参加できなかったんだよ。
そうだよね。朝だけやったんだよね。朝と夜だけ。
そうそう、あの日研修旅行が。
コンコーストは?
そう、そう。
勉強してたんだよね、あの頃ちゃんは。
その学校の研修旅行がちょうどかぶってしまってて。
そうでしたね。残念でしたね。
残念でした、本当に。
でも本当に素敵な選称っていうか、本を選ばれてるなって思ってて。
本当にとてもいい場所を用意してくれたっていうか、
そこに、本当にうちと外の中間みたいな場所ね。
でき!
だから本当になんかのんびり過ごせたし、
あそこにね、他に出展、出展っていうか、
ふみえさんとかちえちゃんとか、
その2人との関係性もすごくなんかいいなーっていうか、
100年前がアナキズムの盛り上がっていた時代だったと思うので、大正時代。
また今もアナキズムの視点が光が当たっていると思うので、
すごく神話性があるというか。
構造的にはそれを弾圧する側が強まると、
どっちが先か分からないけど、
そういう意味ではアナキズムがめちゃくちゃ弾圧された時代でもあると思うし、
今もヘイトがすごい上がって盛り下がっているところを、
やっぱり違うだろうという人たちが、
すごいちゃんと連帯するとか、
もっと大切にしないといけないものを考えさせられる時期に、
やっぱり盛り上がるのかなという気がする。
権力の強大化というかね、
ここ最近に特にやけどもね、
そういうところで抗うということは自然と発生しているのかもしれないなと思うし。
でもその風がね。
そうなんですよ、ここは風が。
風を感じる推しです。
あのイベント自体も、どうしても100年芸能祭の趣旨を言うと、
身構える感じで思ってしまう人いるかもしれない。
時代逆札とかできればね、
実際あっても、やっぱり今捉えきれないというか。
なんですけど、
お祭りで、やっぱりそういう権力者が一番嫌がるのが、
勝手に、なんていうのかな、やるっていうか、
踊ったり歌ったりも、
集って連帯してそういうことを、
やるっていうことも嫌うというか。
確かに連帯することってね、本気に嫌われるかもしれない。
そういう芸能を勝手にじゃあやっていこうっていう、
そういうのが結構、
祭りの中のいろんなプログラムに入っているから、
すごくなんか、こわだかに何かを叫ぶというわけでもなかったし、
とはいえ、それぞれの歌とかアイヌとか、
反権力が一応ベースにあるそれぞれの芸能があって、
最後、七尾さんの歌って、
なんていうか、緩やかさのところが良かったなというか。
確かに。
音楽もあったのがとても良かったなっていうのは。
確かにそうですね。
本当になんかその暴力的ではなく、
いかに歌いっていけるか、連帯していけるかって、
アイヌも韓国とかもマイノリティではあるし、日本の中ではね、
そういう人たちはもちろん、僕らもやけど繋がり合わんと、
生きていきづらい世の中かもしれないなとかってふと思ったりするし、
そういうこととやっぱり関東大震災のときの、
朝鮮人虐殺で本当に地続きなのかなとかってすごく思ったりもするしね。
だからあの祭り自体はすごくいろいろ考えさせられることがたくさんあったなと思って。
僕が今日リエさんとお話したいなと思ったのが、
そのときリエさんが出されてた本、
販売されてた本の中にフェミニズムの本が入ってた。
ちょうど僕も去年ぐらいからフェミニズムのことを自分なりに勉強したいなと思って、
書籍を読んだりメディアを聖書したりとかっていうことをしてて、
その中でリエさんこういう本取り扱ってるんだなって思った。
ね。
ぜひなんか、なかなかちょっとね、すごくセンシティブな話なので、
フェミニズムってなかなか話しづらい。
特に僕は男性だっていうところもあって、
そんな中でちょっとゆっくり話したいなっていうのが今日の趣旨なんですけど、
そもそもああいうフェミニズムの本とかを取り扱うきっかけっていうのは、
リエさんの中でどういうところがあったんですか。
そうですね。
多分うっちゃんがフェミニズムの本って言ってるのが、
エトセトラブックスさんの雑誌なんちゃうかな。
ね、あれ日本で初めてのフェミニズム雑誌ですよね。
ちょっと実は僕読んだことがなくて、
それぞれ責任編集って形で、編集者違うかったんやったっけ。
そうなんですよね。
なんですけど、あれ最初は扱ってなくて、
全部も私も読んでなくて気になる語だけ読んだり、
立読みだったり買ったりっていう間柄だったんですけど、
そういう意味で扱うきっかけっていうのが広くフェミニズムって言ったら、
今触れかえるとやっぱりノーブラジンが最初だったんです。
ノーブラジンっていうのは奈良に住んでる女性の方が出してるジンで、
基本フリーペーパーなんですけど、4号だけは販売していて、
その方がある暑い夏に、
もうブラジャーとかしてられんってなって、
ノーブラでやっていこうっていうそういうところから始まって、
そもそもブラジャーってなんだとか、
いろんなノーブラにするためのどういう方法があるかとかを、
結構淡々といろんなエピソードを交えて比較したりして製品を書いていて、
それが本当そんなに分量もちょうど良くて、
見た目もリソグラフを使って素敵なデザインなので、
っていうのがそれが初めて、
あんまり下着のこととかって女性同士でもそんなに話さないのが、
あれを前に出されると、そういえばねみたいなのが結構何人かとそういうことがあったので、
これもやっぱりフェミニズムだよなっていうのが振り返ると、
男性も結構買ってくれたのであったんですよね。
なるほど。確かにちょっと僕は下着のこともね。
なんかでもうちらめっちゃ流行った時期があって、下着が。
そうなの?村の中で?
ママの家でね。
あとポアムカルチャーの仲間たちにも一時期ノーブラーはあんまり話題にならなかった。
合うブラジャーってないなみたいなことはすごいあったし、
自分たちで作ろうとかもあったけど、
ノーパンみたいなのがすごい流行った時期があって、
締め付けない。
だから衣食中の衣って大事だよなみたいなのは結構ママの家ではだいぶあった昔から。
うさとの服とか。
ふんどしとかも。
ふんどしもめっちゃ流行った。
締め付けないから良かったね。
そういう下着を考えるみたいなすごいうねりがある時期があった。
めっちゃみんな下着について話してた。
いいね。
だけどなんとなくちょっと流行りで、
やっぱり体って本当に一人一人違うから、
どういうものが合うかっていうのもこの人がめっちゃ褒めてたとしても、
ふんどしやっぱり私はあんまり合わなかったなって自分には思って。
ちょっとめんどくさいっていうかね。
めんどくさい?
なんかこう、ふんどしもいろいろあるじゃん。
ふんぱんとか本当になんかこう引っ掛けるタイプとか。
まあなんかいろいろ試した結果、
いいかなみたいな感じだったっていうか。
ちょっとなんか、何の話ってなる?
でもやっぱなんかそこってすごい大きいはずなんだよね。
大きいはずだね。
一個同じものがみんなに当てはまるかっていうのはないんだが、
なんかみんなで話すことによってだいぶ楽になることとか、
そういうことをこの人は話せる間柄になれるっていうかね。
なんかそういう意味ではすごい面白い。
本当に切り口としても斬新だし、
やっぱあのノーブラジンのちっちゃさとなんかオシャレ感みたいな。
だけどそこになんか割と素朴っていうかさ。
そうだね。
そうそう、そうそうっていうのはすごい大切な感覚だなと思って面白い。
確かに。
本当はなんかフェミニズムってそういうところからなんだなっていう気もして、
すごい難しいことを言ってるとか、
すごい攻撃する女の人のイメージとかさ。
男性と女性が並んでた男性側にしか話しないっていうのは、
たまにね、ありますね。
ありかもしれないですね。
どうしても男、男性っていうのは、
男らしさの中で生きてしまう。
それも無意識だと思うし、
そういうふうに教えられたり、
社会がそういう空気だったりするっていうのでね、
それをマンボックスっていう言葉で出てたりするんですけど、
男とある、
例えば弱音吐かないとか、
お金稼ぐとか、
女性を守るみたいな、
ヒロイズムみたいな感じ。
今なんか例えばコミュニケーション能力が高くとかさ、
多分いろんなものがすごく…
大変だなぁ。
男性だから大変なことをちょっと聞きたいけど。
それは、でも男性が作り上げた世界の中でそうしてるっていう感覚はやっぱりあって、
その下に女性がいるような感覚なのかなとかね、あったり。
それではやっぱりそれは生きづらいよねっていうのはすごく感じる?
そうですね。
本当ね。
女性を下に見るとか、
本当に、
さっきも言ったように多分本当に意識せず、
ところなのかなっていうのはあって。
僕がこのフェミニズムってものに興味を持ったのは、
前の仕事、職場が、
すごく僕職人、植木職人をやってるんですけども、
植木職人の修行を10年間したんですけどね。
職人の世界なんだろうか、すごくマッチョな世界ではあったんですね。
本当に、親方っていう大先生がおって、その下に弟子たちがいる。
全員男なんですけどね。
で、
往々にして男っていうのは雑に扱ってもみたいなところがあったり、
強くあれとか、
強くて若くて仕事ができてみたいな。
本当にそういう世界で。
10年経ったので辞めて村に引っ越してきたんですけども、
その後なんだか僕の中での好意衝みたいなのがずっとあったんですね。
実は辞めた。
辞める前もすごいしんどかった。
ただ、それはなぜか、やっぱりそんな世界で
封建的なところでいたら、
パワハラ、モラハラみたいなのが当たり前だったんですね。
今では多分ブラック企業みたいなもんです。
どんだけプレッシャーかけたりとか、
仕事を働かせるとか、
あと人格否定みたいなのとか。
職人というものとして、
技術を学ぶことは確かに大変なことではあるって分かるんだけども、
でもそれプラス人権みたいなものがないがしろにされてきてた。
それは辞めてから気づいたんですね。
また辞めて1,2年くらい実はあんまりよく分かってなかったんですけど、
1年半くらい経ったときに、
僕が辞めた後、僕のポジションに就いた後輩がいたんですけど、
その子と再会したときに、
彼が結構精神的に参ってた状態で、
リーダー的なところということで、
多分すごくプレッシャーをかけられたりとか、
同じようにハラスメントを多分ずっと受け続けてるっていうところだと思うんですけど、
僕それを見て、
こういう世界におったのかって初めて分かったんですね。
そのとき実は分かってなかったんやけど、
後輩を通して自分を見た感じ。
すごく被害者やと思ったんですけど、
でもよくよく考えたら僕も加害者やったんですね。
親方が僕らにしてきたこと。
直接的な暴力はないけど、言葉の暴力みたいな。
それを僕は違う後輩にしてきた。
その後輩も多分含まれてるんですけど、
そういうふうにハラスメントが再生産してるっていうのはやっと気づいたんですね。
彼が心を1年半ぶりに再開した彼が、
心を病んでしまってるっていうのは、
半分は僕の責任やと思ってた。
これって本当にやっぱり過不調性っていうものと、
さっき言ってた男らしさの枠組みの中で、
生まれてきたすごく暴力的なことなんだなって。
それがフェミニズムを考えようと思ったきっかけ。
だから被害者であり加害者であるっていうことを、
受け止めづらくて、それも。
こういうことを自然に今までやってきたんだろうなっていうのは、
これはちょっと男っていうものは、
本当によく考えなきゃなと思ったのかな。
うっちゃんが修行してたらしんどかったけど、
その時は言語化というか、振り返れなかったのか、
その後輩と話して、
あああれはしんどかった、こういうわけでしんどかったんだっていうのも、
同じように思えたってこと。
その時おった時は、それが当たり前っていうか、
それを乗り越えて一人前の職人とか。
そういうふうに逆に言ったら、
例えば修行とか伝統みたいなもので美化されてきた。
お前らは修行のミヤ人からな、
こんなことも耐えてやっていけよくらいの、
そういう、部下意図が特殊だったりもしたんで、
なかなかこれは一般的じゃないかもしれへんけど。
本体的だよね。
聞いてるとやっぱり締め付けたり、
自分はそれを乗り越えたから今この地にある。
お前たちも良くなりたいんだったらこうせいみたいな。
だから本当権力の勾配っていうのものがある。
それって多分今までのジャニーズの問題とか、
フジテレビもそうやけども、
お前らをトップのアイドルにしてあげるから成果外みたいな、
それと全く同じ構造やなって思ったし、
そこでハラスメントすることは、
逆に育ててあげてるんだとか、
なんかそういうことだったんだろうなって。
技術とか技とか作るものはものすごく素晴らしいのが分かるし、
すごく勉強になって、
今まで見ることができないような世界ではあったなって思うんだけれども、
組織とか空気とか見えないものによってね、人間って縛られてるんやってのは、
すくずかもしれないし。
一旦出ないとね。
見えないものがたくさんあったっていう。
なんか思ったというか、ちょっと思い出したんですけど、
クォーター制ってありますよね。
会長制とかマイノリティを何パーセントまで選挙とかで選ぶって決めて、
候補者を、それがやっぱり必要っていう一方で、意見で、
そういうことを知らせてくると、多分必ずなんだと思うんですけど反発が。
そうですね、バックラッシュがね。
言い分として、いい仕組みだけど、それで優秀な男性が選ばれないのはおかしい。
なんか一見、一見性というか、そこだけをとって、
例えば自分の友人が、今までだったら絶対選ばれてた。
その質だったら採用されてたはずなのに、
今年から女性枠ができたから、女性じゃなくてもいいんですけど人種枠ができたからといって、
外れざるを得なかったということになったら、
やっぱり友人としてはショックなんで、自分勝手になるだろうし、
多分それを聞いた私も、ああそれはなんかマヤマヤするねってなると思うんですけど、
だからそういう言い分は分かるんだけど、
でもなんかその、違和感はやっぱり結構あって、その意見については。
どうしてもその、近しい存在を想像するとそうなんだけど、
そもそもやっぱりそういう状態が、
いろんな属性の人がいる場所で初めて生きてくる意見とか、
伸び伸び発言できることとか、
実際その短い効率の基準だと、
誰か優秀な誰かが男性がとかの方がいい面もあるだろうけど、
いやいやその人では選べなかった何か、別の視点の何かが生きてきたりするかもしれないし、
別の誰かがいることでまたその場所が何というか、発言しやすい場所になったりとか、
女性が9-1-1だった時より、5-5の時のが自分だったとしても発言しやすくなるかもなというか、
実際別に性別じゃなくて、性格とか立場とかで決まるけど、
でもやっぱりあるだろうなと思っていて、
だから目先のことで優秀な人がとかではない次元の話なんだけど、
やっぱりそういう風になっちゃうなっていうのが。
よく聞く論というかね、そういうのってあったりするなと思うしね。
ただやっぱりマイノリティ、例えば女性にしても他のマイノリティの人も、
なんか入り込めないシステムにされてたっていう前例がやっぱりあると思うしね。
その中でも多様性を肛門じるためにクォーター制というよりも、
そういうシステムを作ろうっていうのも中やから、
男性自身の機会が減るっていうのは、
そもそも男性の機会しかなかったんじゃないかっていうのもあるから。
ある時は本当そういうことを言わなそうな友人が言われたので、