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オール5の子供の通知表を見て思うこと
2026-07-24 14:06

オール5の子供の通知表を見て思うこと


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サマリー

このエピソードでは、オール5の通知表を受け取った子供について、親としての複雑な心境が語られます。成績が良いことは素晴らしいとしつつも、それが子供の全てではないこと、そして「オール5」という評価が周囲から特別視され、子供自身も孤立感を感じる可能性があることが指摘されます。筆者は、人間の価値を絶対的な評価で測るのではなく、多様な個性や能力を認め合う社会の必要性を訴え、教育現場や家庭での意識改革を提唱しています。

子供の通知表と親の複雑な心境
はい、どうもこんにちは、たからんです。
今週末ですね、教育関係のイベントに参加しますという話をこの前したんですけれども、
小学校、それは小さな社会という映画の上映会と、それを見ているのですね、対話会というのがありまして、
そのイベントに参加していきます。
なので、何回か教育関係の話をしていこうかなと思っているところです。
今日は、夏休みに入ったじゃないですか。入ったんですよ。
子供がですね、息子が中学校、娘が今中高校生なんですけれども、両方とも2年生ですね。
通知表が返ってきましたと。
息子はですね、成績は5強化、違うな、9強化、要はオール5でしたね。
5段階評価のオール5でした。
前回も、前回もというかですね、ずっとオール5なんですね。
中学校1年生の時からずっとそうだし、小学校の時も5段階評価じゃないけれども、
丸とか二重丸とか三角とかというやつも、いつの頃からだったか二重丸ばかりみたいにはなっています。
娘も、娘高校の方はですね、オール5というわけではないんですけれども、
中学校の時は似たような感じでしたね。5段階評価のオール5みたいなことがよくありました。
でって話なんですけれども、それを見て聞いてですね、どう思うかというところなんですね。
「オール5」の意味合いと誤解
私がどう思うかというところです。
ちょっと複雑な気持ちがありまして。
まず5取れたと、確かに成績としても格評価よくできたってことだし、
あとは宿題やったりとかね、そういういろいろな生活面というか態度みたいなところも評価には含まれていると思いますので、
よく頑張ったんだろうなというふうに思うし、実際よく頑張っているんですね。
家でも勉強時間作って主的にちゃんとやってるし、宿も行って勉強してるしとかね、そういうのもあるんで、
できたことはできた。素晴らしいと思っていますと思います。
で、なんだけどね、えーと、なんだろうな、すごいことがあるんですけども、
あのね、まあまあそれだけなんですよねっていう言い方をするんですね。
それだけなんですよねってなんだって感じなんだけど、
学校の評価の評価を理解度とかテストとかがあるからね、そういうことの理解度とか論理的に答えるとかそういうことができた、できる。
そこが得意なんだね、こういうところが得意で、こうやって成績もそれぞれできるんだねっていうのがわかった。
ということです。
であって、うーん、なんていうのかな、なんていうのかな、えっとね、あの子超足早いよねとかね、
あの子めっちゃサッカー上手い、ドリブルとか上手いよねとかね、そういう話なんですよ。
そういう話の一つなだけなんですよ。
何でもできる子ではないんですね、オール語って。
っていうところを勘違いしてる人たちが多いんじゃないかなっていうのをすごく危惧してるんです、私は。
筆者自身の経験と特別視されることへの違和感
それは子供本人もそう思われるかもしれないし、
友達とか学校の先生とかも世間一般的にそんなにいないと思いますよ、オール語取るって。
で、なんで、それは珍しいというか比率的には少ないんですけれども、
でもやっぱりすっげえこの子サッカー上手いし、クラブチームも入ってるし、
なんか県の代表になったらしいよみたいなね、そういう話があったとして、
それだけで偉いかって言ったら別に偉いとかそういう話じゃないじゃないですか。
逆にそれで自分がサッカーができなくたって別にいいじゃないですか。
でも学校のテストの点数とかそういう評価で自分が低かったりすると、
なんかダメだと思っちゃう。子供とか親とか周りとか。
で、ダメだと思っちゃったりとか、それに対してオール語なんてやつがいると、
すげえできるやつっていうか、なんか特別扱いの視線で見てません?
見てません?そんなことないですかね。わからないですか。
私はね、それがわからないですよ。みんなどう見てるのかわからないんですよ。
なんでかって言うと、私もオール語だったからです。
子供の時に、9教科オール語はね、ほんとにたまにしか1回2回あったかなぐらいですね。
5教科はそういうのにオール語を取れたことがあったんだけど、
中学校の時は体育は病気してたのもあって体育ちゃんとやらなかったので、
ちゃんとというかできなかったので、そこは語にはならなかったし、
美術とかも苦手だったので、そこは語じゃない時があったんですけど。
でも、そこそこ学科、学教科で、特に5教科なんかは語っていうのは取れたんですよ。
それってやっぱりね、そういうとこが得意なんだねっていうか、センスの問題なんですよね。
サッカーの得意だとか、ボールを蹴ったらすごく遠くまで飛んでく、飛ばせる、センタリングとかに上げられるじゃないですか。
私はあれ全然できないんですよ。センタリング上げるとか、練習したことあるんだけど。
球を蹴っても上に浮かないんですね。上でそう遠くに飛んでくってことはできない。
それってセンスの問題だと思うんですよね。
だからそういうところに噛み合ったりとか、特に何の気持ちになくできる、そういうものがあるんですよね。
それが違うだけで得意なものがあるとか、そういう違いだけっていう、
そういう人や自分との違いがあることだけだよっていうのを感じるだけでいいんですけど、
それを人間の絶対評価のように考えるような風潮が学校というか、そういうところにあったりするんじゃないかなと思います。
私はオール5だったって言いましたけど、逆に他の友達とかそういう人から特別視をされてたっていう意識があります。
自分だけはそう感じてたかもしれないんですけど、でも実際そういう風に見られてたし、
ひがまれてなんか変な嫌がらせされたこともあるし、先生たちとかもなんか妙に褒め伝えてくるというか、
やっぱりすごいねみたいな感じで、別にっていう感じなんですよ。
逆に大人がそういう風な態度を取るから、
大人がそういう態度を取ってくるもんだから、私は気にしてないのにその周りが気にしてて、
そのせいで私が周りの子たちと自分とは違うっていう風に見られるっていう風になってて、
私それがすごく嫌だったんですね。
だから私は子どもたちがオール5とか取ってくると逆に心配になるところがあります。
多様性を認め合う社会と教育のあり方
他の子たちがそういう風になっているわけじゃない中で、
自分とは違うっていう風に阻害されることがないだろうかというところをちょっと気にしたりしますね。
どうだかわかんないんですけども。
なんかそういう大多数の中にいる自分とあの子は違うっていう風に見るような性質が日本人の中にありますよね。
そうじゃなくて、私不揃いなわっていう話をよく最近してますけど、もともと全員違うんだよ。
バラバラに違うんですよ。
だからそれはそういう成績っていうかね、まんべんなくいろんなことができるっていう人もいるだろうし、
だけどそれはその教科としての問題を解くとかそういうところに対しての得意なところであって、
別にすべて何でもオールマイティーなスーパーマンで褒めちぎるような存在ってわけでも別にないんですよ。
いろいろあるんですよ。苦手なところとか足りないところとかも。
そういうところで別に人と違うんだけど、違うことが当たり前で、
違いを持っているっていう点で、別にどの人とも同じなの。
どの人とも同じなの。なのに違う風に見るっていうのは、なんかちょっと違うなと思うんですよ。
で、そういう人の見方っていうのを、
人を何かの評価で、この人すごい人、自分とは違うすごい人っていう風に見るような風潮というか感覚を
学校の成績みたいなところっていうのは結構強く子ども時代に
人に植え付けてるものなんじゃないかなっていう気はちょっとしてます。
大人になっても同じような感じだと思う。
インフルエンサーがすごいとかみたいなやつも、そういうやつじゃないかなと思うんですよ。
私別にどんな有名人になろうと別にすごい。
すごいっていうのは、自分にとって自分よりできないことをやっている。
それは相対的に見てすごいな。相対的にですよ。
自分ができないことに対して相対的に見て相手はできるから、
それはすごいね、私から見たらすごいねなんだけど、別にそれは人間の絶対評価ではなくて、
だけどただの俺と同じ人だよねっていう風にしか思わないですね。
としか思わないというか、そこは別に何て言うんだろう、対等というか同じだよねっていう風に思うんですよ。
そんなところにいちいち上だとか下だとかっていうのはないし、
私には私にしかできないことがあって、それはその有名人だって絶対に分かってないことがあるっていう風に思っているし、
思っている事実が絶対あるんですよ、そういうもんですよっていう風に思っているから、
何も否定することとかないんですよね。
そういう感覚で人っていうのを見る、自分っていうのを見るっていう感覚を失わないと、
ちゃんとした健全な人間関係っていうのが築けないんじゃないかなという風に思う。
成績主義からの脱却と新しい教育への期待
だから、大学受験みたいなところをゴールにした成績主義っていうのかな、
そういうのって、それはただの何かしらの指標というか目安の数値が出てるだけであって、
人間評価ではないっていうところをもっとちゃんと意識した教育っていうんですかね、
意識の持ち方っていうのを、教育現場でもそうだし家庭でもそうだし、
社会として持たなきゃいけないんじゃないかなという風に思いますね。
だからちょっとね、
うーん、そんなところ気にしなくていいじゃんっていうところをもっと考えていきたいかな、
そういう風になっていくべきだなっていう風に思ったりしてます。
だからやっぱり勉強勉強、なんていうのかな、いわゆる教科を勉強してテストをして評価するっていうだけをやってたんじゃないかな、
ちょっと違うと思うんですよね。
もっといろんな体験があって、いろんな指標があって、
点数とかじゃ表せないかもしれないけど、
こいつはこういうことができる、すげえ、みたいなやつがいろんな形で見えるような形になるっていう、
そういう教育現場というか、
社会の仕組みみたいなのが欲しいなっていうふうにすごく思っています。
そういう学校っていうのを、ちょっと今週末に映画を観に行くんですけど、
今の日本の学校ってどういうものかっていうのをもう一回見て、
いいところを持ちつつ、
人間を見るっていうところを作っていく、
そういう教育現場を学校に変えていくっていうことができるかどうかっていうか、そういう風にしたいんですよね。
それにはどうしたらいいのかなっていうのもちょっと考えていきたいなという風に思っていて、
また週末の映画も楽しみにしていこうかなと思っています。
エンディング
ということで今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。
私の後ろには新しい実績が教えてくれるあなたのサウンドに感謝します。
皆さんにも素敵な気づきのある毎日となりますように。
タカランでした。それではまた会いましょう。
14:06

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